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補遺 やつらの足音がきこえる (九)

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 川原御所に妙な動きがある。
 西舘の近習を離れた新三郎が、御文庫で書類の山を運ぶ仕事についた頃、それに背を向けて一心に筆を走らせている体の安岡右衛門には、小さな知らせが入り始めていた。
(解せぬ。いかにも解せぬ。)
 安岡がもしも内面を深く蔵して表には決して出さない訓練を受けていなければ、図書頭や新三郎の前ですら、焦燥の色を隠せなかっただろう。頭を掻きたいほどの気持であった。
(川腹が謀叛できるはずがないのじゃ。)
 いくら同等を気取ってみせても、浪岡御所の浪岡宗家と川原御所では、兵数からして格が違う。城内の北畠氏の兵を集めなくても、浪岡宗家の手持ちの備(部隊)だけで、一日もかけずに圧倒してしまえるだろう。
(謀叛人など、気がおかしくなっておる。数もわきまえず、先の見通しも立たぬのに、ただ決起の一事に酔うてしまうこともあろう。あるいは、相手への怨恨に突き動かされ、わが身を滅ぼしてもとの決意もありえよう。……じゃが、川原御所さまにはどれも当てはまらぬ。)
 川原具信は、愚人ではない。たしかに若年時に相続争いに敗れて分家の当主に下ったが、その後は川原御所の復興に励んだ。もともと自分が出た浪岡宗家との仲も悪くはないのである。なにかと権高い城内の別の北畠氏の舘の主たちとは一線を画し、むしろ宗家の身内として振る舞っていた。
 先の戦の論功行賞でこそ少し揉めはしたが、面目も何も喪ったわけではない。個人的な諍いも見当たらない。
(じゃのに、あきらかに細々と兵を川原御所に集めようとしておる。……とても御所の備にも敵いそうにない数の兵を?)
 もはや挙兵の考えが川原にあるのは疑いなかった。であれば、安岡が考えるべきは、
(たれに向けるつもりか?)
 それが、わからない。
(御所でなければ、あるいは西舘か? まさか、御所さまと西舘さまの会話でだけ出た、未然に川原を討ってしまえという暴論が、耳に入りでもしたか?)

「違いない。」
と、「伊勢の者」の宿老、平山藤五郎などは言うのである。
「西舘さまを、おそれてのことでしょう。逆に、機先を制すつもりなのでは。」
(ありえぬだろう。あのお二人の口から、外に漏れるはずがない。漏れたとすれば、川原御所は黙ってはいない。理非が立たぬと、まず城内で訴えでもするだろう。……それに、如何に不意討ちをかけても、西舘さまの率いる浪岡北畠氏の本軍に木っ端微塵にされる。)
 それを平山に伝えると納得はしたようだが、当然考えられることを言ってきた。
「他の北畠さまと通じていれば、兵力の多寡は埋められる。新舘や東舘に動きがあれば、……。いや、城外。たとえば、南の吉内、北の金木、原子、……?」
(それが、ないから弱っておる。)
 浪岡宗家の潜在的な競合者であるはずの北畠氏一門や、家臣に下った各地の舘の主たちに、積極的な動きは出てこないのだ。
(つまり、まともな挙兵をするつもりはない。できぬから……。)
 とすると、考えられるのは、暗殺であった。御所さまか、あるいは西舘さまかを殺害し、その混乱に乗じて川原御所の動員できる少数でも挙兵し、内館を奪ってしまう手がある。
(これも、正気では到底やれぬのじゃが……。)
 もしも一気に浪岡宗家を根こそぎにしてしまえたとしても―とても考えられぬが―、川原御所の仕業と知れれば、たちまち他の北畠氏一門が四方八方から謀反人の川原御所を囲み、袋叩きにするだけである。一体何の得になると言うのか。
(毒殺だの、闇討ちだのは、我々が止められる。……つまり、川原御所さまは何もできぬ。)
 それなのに、この動きは何か。そして、安岡にはこの稼業の者に特有の胸騒ぎがしてならないのだ。
「要は、川原さまが狂する恐れあり、とのことでござるかな?」
 平山にすらわからないらしいが、そのように考えるよりないようだ。
「いっそ、狂を発するように仕向けますか?」
 平山が言った。暴発するなら、させてしまえばよい、それによって、川原御所を潰せるだろう。
(それは、西舘さまの考えそのものじゃな。)
「いたずらに城内に乱を呼ぶは、面白からず。……が、御所さまのお考えじゃ。」
 安岡は、「声」に告げさせた。御所さまの名が出れば、「伊勢の者」たちは一言もない。
 幹部の集まりでは、結局は他の舘も含めて、見張りを強化すべし、というつまらない結論しかでなかった。

 (しかし、なにか、間違っておる。ひどい見落としを、わしらはしておる。)
 安岡はさまざまな計算を目まぐるしい勢いでおこなった。どこの舘の主と組んでも、浪岡宗家の本隊には及ばない。阿芙蓉のもたらした富も惜しみなく投じて西舘の左衛門尉が行った兵事の改革は、浪岡宗家を軍事的に肥大させていた。
(修理の言うとおりかもしれぬ。いっそ、川原御所にこのまま兵を挙げさせてしまえば、全て丸く収まる。)
 その時、安岡は自分が何かの答えに近づいているのがわかった。
(すべて? 全て、はこの世にありえぬ。……たれにとって?)
 西舘さま……の名と顔が思い浮かんだ。
(川原御所が暴挙に出れば、これを討つべしと御所さまに献言した左衛門尉さまの思った通りとなる。西舘さまが裏で、川原御所を挑発しているのでは?)
 
「たしかに、西舘さまの手の者が、川原御所に出入りしているようです。」
「何を川原御所に吹き込んでいる?」
「……それが。」
 調べた者は、言い淀んでいる。
 聞いて、安岡は少し落胆した。「手の者」と言っても、ごくつまらない連中が、川原御所の下人あたりに、風説を流そうとしているだけだ。西舘さまが、川原御所を攻めようとされているらしいぜ、と言うようなことを、出入りの職人の風体を取った、実際に職人の片手間にそうした仕事をしているらしい者が、下人に吹聴していると言う。
 西舘が、自分のやや卑しい身分にある母の故郷であった検校舘に巣くうあやしげな者たちを、あたかも「伊勢の者」のように使いだしたのは、当然知っていた。安岡たちからすれば、失笑するしかない役立たずどもばかりである。
「川原御所さまの耳に吹き込む、など、とても、とても……。」
「おらぬのか。もっと、上の方に同じ噂を吹き込めるような奴は、入っておらぬのか。」
「おりませぬな。西舘の上のほうのお方で、川原御所さまと直接やりとりがあるような方は、どうも……。」
(西舘さまは、どうもその手のことがお得意ではないようじゃな。)
 安岡は苦笑いした。しかし、だとすると、西舘からの挑発への対応でも、ない?
「ただ、西舘さまご本人が、一度、川原御所に忍ばれたことがありました。」
「声」が一拍置いて、叱声をあげた。
「何故、まずそれを言わぬ!」
「いえ、その……まったくのお忍びで。」
「ならば!」
「相手は、女……川原御所の若奥方で。」
 安岡はあっけにとられた。
「若奥方は、若様と不仲にあられまして、ご寝所も離れておられる。そこに、忍ばれました。後朝のお別れにもどうやらご交歓を尽くされたようですが、朝ぼらけの頃に、西舘にお帰りで。」
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