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補遺 やつらの足音がきこえる(三)
しおりを挟む「ちんどく……鴆毒だと?」
姉がついにすべてを自白し、血判まで押したという口上書の写しが、ほどなく雪の中の浪岡に届いた。まだ交通は雪に遮られていると言うのに、それ自体が驚くべきことだった。この稼業の者の能力は、当たり前の武家などには計り知れない。
「よくやってくれた。」
新三郎は、深夜、ひとりの床の上で、感嘆のあまり思わずまず礼を口にした。また見えぬところに潜んでいるりくは、何も言えない。
(たしかに、ご存知にならぬ方がよかったかもしれぬ。……じゃが、あらかじめおわかりではあったはず。あたしたちは、その証を持ってきてしもうただけじゃ。)
小さな灯りにかざして写しに目を落とした新三郎の表情が、変わったらしい。床下の陸にはそれは見えないが、板越しですら、気配は伝わる。体重の移動、細かい震え、息遣いの小さな変化で、それがわかるのだ。
「ご猶子さま、鴆毒とは何でございましょうか?」
こぶえがまた、じつは隣室の木戸にぴたりと張り付いたような形で潜みながら、あたかも天から降ってくるかのような声をだした。その部屋では、幼い千尋丸が寝息を立てている。
「渡来物の珍しい猛毒とは存じております。……うかがいたきは、何故、“ちんどく”と亡き姉君が書き添えられたと思し召しか、と。」
南条広嗣室は、自白書に血判を押す際に、「どく」とあるのをとくに「ちんどく」と指の血文字で書き添えたのだと言う。写しでそれがわかるわけではないが、整えて書かれた写しの墨の色から、その四文字だけが赤く浮かび上がってくるように、新三郎には見えた。
りくが引き取った。新三郎は、鴆毒と呟くや、写しの紙を音を立てて震わせるほどに、衝撃をあらわにしている。
「……言いとうない。」
(若旦那!)
りくは、ほぼすべてを察した。真相を確信してしまった新三郎が、憐れであった。これで帰ってやろうか、などと、一瞬だがあらぬことを思う。だが、そういうわけにもいかない。
「さには参らぬ。われらは、主さまの命で動いております。教えるべきはお教えくだされ。」
こぶえが当然のことを言った。
(愚図愚図言われるなら、口を開かせる手はある。)
そう思っている。こぶえにしてみれば、りくの態度が妙に手ぬるいのが、やや腹立たしくなってきている。
「……。」
新三郎は頭を抱えた。考えに沈んでいく様子がわかる。
(まだるっこしい。)
横で寝ている、この子供を使ってもいいのだ。この子の喉を掻っ切るぞ、と言えば喋ってくれそうでもある。
(手荒はよせ、こぶえ。)
「我らが主さまは、ご猶子さまにとっても、御あるじに当たられる尊いお方なり。」
りくが声を発した。妹分の性分は手に取るようにわかるから、制しておかねばならぬ。
そして、忠義や主従といった武家の道徳がからむと妙に弱い―ように、りくなどの稼業の者は感じるのだが―新三郎の性分も知っていた。
「その命に背かれますか?」
新三郎は伏せていた顔をあげたらしい。
「御所さま直々の命か?」
「それは答えられぬ。お察しあれ。」
(りくさま、それではお答えと一緒じゃよ?)
こぶえは、身元を明かすようなことを伝えてもいいのかと慌てた。また、嘘ではないが、やや強引な形式論でもある。何も御所さまがこんなことを直接にお命じになったわけでもない。あとで組の頭を通じて、大元締めあたりからご報告かどうかも、その顔もろくに見たことがない自分たち末端にわかるものではない。
が、新三郎にはそれが効いたらしい。
「……我が家の恥なれど、では、申しあげよう。」
居住まいを正した。御所さまに報告するようなつもりなのだろう。声が震えているのが、りくにはつらい。
「鴆毒……。いかなる種類の毒かは、この新三郎などは存じぬ。蠣崎家の当主のみがそれを知る。南条の姉上……南条家に嫁した姉の口上は、吟味役の作ったものにすぎぬ。型どおり、通り一遍のものであった。その内容も、あまりに図外れ(突飛)で、……信じるに足りぬ。じゃが、それに姉は肯った。血判まで押したと……いったい、どんな心持で!」
新三郎は絶句した。こぶえは容赦がないから、説明してやる。
「無実を訴え続けられ、最後には石を抱かされても、決してお認めにならなかったとのことです。男でも悲鳴を上げるような目に遭わされたのに、身に覚えのないものはない、と歯を食いしばって耐え、毅然とした態度を貫いておられた。これは牢役人も感心するしかなかったとか。」
(馬鹿、こぶえ、さようなこと、お伝えせぬでよい!)
新三郎の目に涙が浮かんだが、
「姉上は、……お強い。おれたちきょうだいの、たれよりも、お強かった。さもあらん。」
「最後は、南条越中どのの無実を証し、幼なごのお命とお家の存続のために、と説得されたと聞きます。南条越中どののお命はともあれ、その名を救わねばならぬ、と決意されたとのことで。すべてを自分一人の罪、女だてらの風雲の思い(野望)ゆえの浅知恵から、ご長兄とご次兄に毒を盛った……左様するがよい、と言われたとのこと。」
「丸山という家臣が、私怨から同心したと言うのじゃが?」
「それは知らぬ、丸山は関係なかろうと最後までおっしゃったのですが、すでに丸山某は一家もろともに斬刑に処されたと聞くや、なんと酷いことを、とそのとき初めて泣かれたと。」
新三郎は唇の端を、切れるほどに噛んだ。
「そして、かくの如き非情残酷、その誹りを蠣崎のお家が背負うべきではないな、と申された。」
「それゆえに、ご自分の科と認められたのか! 姉上! それほどの目に遭わされながら、最後までお家のために……?」
新三郎は顔を伏せた。涙がとめどなく流れ落ちる。
(おれは、……浪岡などで、何をしていた? 働いているつもりで、美しいこの城の美しい姫さまのおそばで、面白おかしく暮らしていただけじゃ! その間に、松前では、きょうだいが殺されていた……!)
「ご猶子さま、気をしたたにお持ちください。亡きごきょうだい方も、新三郎さまのさようのお姿、およろこびになりますまい。」
りくは声をかけた。新三郎の抑えた啜り泣きの声が頭の上から降ってきて、あろうことか、貰い泣きしそうになっている自分に戸惑う。泣き止んで貰わねば、自分がおかしくなりそうであった。
「……姫さまのようなことを言いおる。」
新三郎は顔を起こして、苦笑いしたようだ。苦笑いにせよ、笑われるがいい、とりくは一安心した。
こぶえは、少し焦れている。言いたいことはわかってきたから、それは済ませて置きたい。
「鴆毒とは、蠣崎のご当主のみが使われる毒。それを姉君は最後にとくに訴えられた、と。……つまり、……。」
「言わぬでよい!」
りくは思わず口にした。こぶえが驚いた様子が伝わる。
(りくさま、なにを?)
(……すまぬ。じゃが、……)
「……たれか知らぬが、礼を言う。」
新三郎は、りくの聞きなれた、柔らかい声を出した。そして、
「御所さまのお耳に入ることなら、蠣崎新三郎が言うべきであった。」
新三郎はまた姿勢を正して、声を張った。
「亡き姉の考えでは、長兄、次兄の毒殺には、蝦夷代官、蠣崎若州(若狭守)がからんでおる。いや、当主たる蠣崎若州こそが、毒を盛ったと言いたかったのじゃろう。」
「……。」
新三郎は息を吸った。
「もし御所さまのお耳に届くならば、新三郎の愚見も伝えよ。姉の考え、必ずしも外れていないと存する。ただ、当主が家の者を誅するは、ありうること。」
武家の主人の権利であり、ときに義務ですらあると言いたいのであろう。それは世の通念であった。
「ただ、……わが同胞に誅するべき点あらば、何故愚父は、堂々とそれを問い、罰するに至らなかったか、その不審は拭えぬ。それは御所さまのお耳に入れるに、恐懼、恥じ入らざるを得ぬところ。とはいえ、察するに家中、蝦夷領内に無用の混乱を避けたかった故であろうから、どうかご寛恕を下さりたい。……以上である。」
「以上でございますか?」
りくは、思わず反問してしまう。
「父上が、ごきょうだいを殺されたとおっしゃったのですな?」
新三郎は、無表情になっている。
「推察に過ぎぬ。仮に左様だとすれば、今のように申し上げるより他ない。」
「言うてはなりませぬ!」
(りくさま、さっきからおかしいよ?)
(……こぶえ、下がってよい。ここからは、あたしが話す。)
こぶえは、下がりはしなかったが、不承不承、黙ってりくに喋らせる。
「ご猶子さまのお考えは、お考えに過ぎぬ。たれにも申されてはなりませぬ。」
「しかし、……?」
「われらも、御所さまにまでは上げぬ。」
(えっ、りくさま?)
こぶえがまた驚いている。
「なんら確たる証左はございますまい。……そのようなこと、御所さまのお耳には入れられませぬ。……そしてご猶子さまも、軽々にさの如きを口に出されませぬよう。」
「おぬしらは、調べてきたのであろう? 如何に考える?」
「如何様にも考えませぬな。……確たることは何もない。何が起きたのやら、たれも知らぬ。もはや、知りようはない。」
「……じゃが、……おれの兄と姉が現に死んでおる! 殺されたのじゃ!」
「ご猶子さまは、生きておられます。これからを、お考えあそばさねばなりますまい。」
「これから、じゃと?」
父たる蠣崎若州の子殺しを暴き立てたところで、新三郎には何の得もない。いや、ひょっとすると、当主に背いたとして追放、あるいは誅殺すらありうるではないか、とりくは案じていた。
(松前とは、おそろしい地ではないか? たしかに、いま、渦に飲み込まれてはなりませぬぞ、若旦那!)
姫さまの案じられた通りだ、とりくは思っていた。
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