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第四章 故郷 その四
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ふと気づくと、いつの間にか新三郎はうつむいて、震えながら何か口の中で呟き続けている。浜で網をみなで一緒に引いたのです、などと聞こえる。
(仲睦まじい家の思い出か。そんなものはみな嘘偽りでしかなかったぞ!)
「新三郎、鴆毒とはいかなる毒か?……知らぬか。当主にだけ伝わる秘薬であったな。……罌粟花から採るとは聞いたか?……違うようだな。」
新三郎がまるで応答できなくなった様子を見ると、左衛門尉は舌打ちする気分になった。
(なんと、心弱い……。見損なっていたか、この男を。)
(年若とはいえ、地獄を見るに遅くはない筈。……弱い。)
「新三郎、お前には、これを使わずに済むと思っていたが……。」
茶室の片隅から、小さな包みがいくつも入った木箱を取り出し、考えて、その包みのいくつかを掴んだ。
「やる。」
「……?」
「苦しいか、新三郎? 親が信じられぬのじゃから、つらいな。家中のたれかが鬼か修羅じゃ、故郷はわけのわからぬ地獄のような場所じゃった、自分は何をどうすればいいのか見当もつかぬ、自分は何者か、鬼の子か、夜叉の弟か……。苦しかろう。もう耐えられぬと思った時には、それを一粒、飲め。一時にたくさん飲んではならぬ。一粒で少し気が楽になろう。」
「西舘さま、この薬は……。」
「何もかも忘れられる。」
新三郎は目を見開いた。
(これは、あの、阿芙蓉ではないか?)
「飲まずにいられぬと思えば、飲め。飲み続けよ。そのうちに、それなしではいられなくなる。……無くなってしまったら、儂に言えば、またやろう。……やがて、飲んでいるうちだけは、悩みも飛ぶ。死も恐れぬようになる。何も怖くない。斬られてすら、痛みもない。ただ、薬を飲めぬだけが、恐ろしい。いたたまれなくなる。さようなれば、今度はいずれ我が先陣に立つがよい。立派に討たれるまで使ってやろう。」
新三郎は、全身が冷えるのを感じた。死をも恐れぬ西舘勢の勇猛の秘密の少なくとも一端が、ここにあるとわかった気がした。先頃の勝ち戦でも、先陣を務めた西舘の武者たちにはひどくたくさんの死人が出たのに思い当たった。死をも恐れず一歩も退かぬどころか、追いに追い、深追いを避けようともせず、好んで死地に飛びこむかのようであったからだ。
(西舘さまのお鍛えとご差配のためとばかり思っていたが、……)
将の非情に血が引く気がしたが、自分が経験した戦場の景色と、西舘の将兵の目の輝きが蘇ると、待て、と考えなおした。違うのではないか、と思った。そして、むしろそれにこそ、腹の底が重くなるような気分にあらためて襲われる。
(いや、いや!……あの方々は、全員が薬に酔っていたのではない。そのようには思えぬ。たとえ薬を飲まされた者がいたとて、戦場では酔ってはおれぬ。やはり我と我が家のため、お家のため、ご主君のため、……すぐれた将たる左衛門尉さまのために、怖れをねじ伏せて戦ったのじゃ。おれとて、そうではないか?)
喚きながら突貫する左衛門尉直属の士兵の一団に引かれるように、浪岡北畠すべての将兵が勇猛に戦ったのだ。戦場の昂奮を狂気や物狂いと呼ぶならば、それはあったろう。だが、そこに酩酊や自我の喪失などは乏しかった。むしろ、恐怖を抑える強い意志が感じられた。左衛門尉の戦略も作戦も、無理強いではない、理にかなったものだったではないか。
(それをこの方は、股肱の臣に毒薬まで与えて駆り立ててやったと、そのおつもりなのか?)
新三郎は、白皙の美貌の青年が急に不気味に思えてきた。かつての嫌悪とも、日ごろの畏怖とも、一時の嫉妬心とも違う、はじめての想いであり、疑いであった。
(狂っているのは、……薬か何かに酔い痴れているのは、……このおひとのほうではないか?)
「どうした、新三郎? とらぬか?」
とるがよい、いずれ飲まずにはいられまい、と左衛門尉は思った。
(ほどなく、地獄を見ることになるのじゃから。此度は、目の前で。)
命じられたままに包を袂に押し込むと、今度こそ、そそくさと辞去した。新三郎には、左衛門尉がこれまでになく、化け物に思えてならぬ。恐ろしいひとに自分は惹かれていたかもしれぬ、逃れねば、というなかば本能的な恐怖心が身を支配した。
だが、左衛門尉の言葉は、頭の中に強く刻みつけられていた。
(父上も、化け物ではないのか? 松前は、おれの故郷は、鬼の棲家、地獄じゃったのか?)
思わず、薬の小さな包みを袂の上から握りしめてしまう。
そしてたしかに、新三郎ら残った子たちに、家督の話はついぞ出されなくなった。蠣崎季広は明確には継嗣を定めぬまま、これより長きにわたり蝦夷代官職をつとめ、松前大舘では老いてなお「おやかたさま」であり続ける。あきれるほど膨大な年月が重なっていくことになった。
(仲睦まじい家の思い出か。そんなものはみな嘘偽りでしかなかったぞ!)
「新三郎、鴆毒とはいかなる毒か?……知らぬか。当主にだけ伝わる秘薬であったな。……罌粟花から採るとは聞いたか?……違うようだな。」
新三郎がまるで応答できなくなった様子を見ると、左衛門尉は舌打ちする気分になった。
(なんと、心弱い……。見損なっていたか、この男を。)
(年若とはいえ、地獄を見るに遅くはない筈。……弱い。)
「新三郎、お前には、これを使わずに済むと思っていたが……。」
茶室の片隅から、小さな包みがいくつも入った木箱を取り出し、考えて、その包みのいくつかを掴んだ。
「やる。」
「……?」
「苦しいか、新三郎? 親が信じられぬのじゃから、つらいな。家中のたれかが鬼か修羅じゃ、故郷はわけのわからぬ地獄のような場所じゃった、自分は何をどうすればいいのか見当もつかぬ、自分は何者か、鬼の子か、夜叉の弟か……。苦しかろう。もう耐えられぬと思った時には、それを一粒、飲め。一時にたくさん飲んではならぬ。一粒で少し気が楽になろう。」
「西舘さま、この薬は……。」
「何もかも忘れられる。」
新三郎は目を見開いた。
(これは、あの、阿芙蓉ではないか?)
「飲まずにいられぬと思えば、飲め。飲み続けよ。そのうちに、それなしではいられなくなる。……無くなってしまったら、儂に言えば、またやろう。……やがて、飲んでいるうちだけは、悩みも飛ぶ。死も恐れぬようになる。何も怖くない。斬られてすら、痛みもない。ただ、薬を飲めぬだけが、恐ろしい。いたたまれなくなる。さようなれば、今度はいずれ我が先陣に立つがよい。立派に討たれるまで使ってやろう。」
新三郎は、全身が冷えるのを感じた。死をも恐れぬ西舘勢の勇猛の秘密の少なくとも一端が、ここにあるとわかった気がした。先頃の勝ち戦でも、先陣を務めた西舘の武者たちにはひどくたくさんの死人が出たのに思い当たった。死をも恐れず一歩も退かぬどころか、追いに追い、深追いを避けようともせず、好んで死地に飛びこむかのようであったからだ。
(西舘さまのお鍛えとご差配のためとばかり思っていたが、……)
将の非情に血が引く気がしたが、自分が経験した戦場の景色と、西舘の将兵の目の輝きが蘇ると、待て、と考えなおした。違うのではないか、と思った。そして、むしろそれにこそ、腹の底が重くなるような気分にあらためて襲われる。
(いや、いや!……あの方々は、全員が薬に酔っていたのではない。そのようには思えぬ。たとえ薬を飲まされた者がいたとて、戦場では酔ってはおれぬ。やはり我と我が家のため、お家のため、ご主君のため、……すぐれた将たる左衛門尉さまのために、怖れをねじ伏せて戦ったのじゃ。おれとて、そうではないか?)
喚きながら突貫する左衛門尉直属の士兵の一団に引かれるように、浪岡北畠すべての将兵が勇猛に戦ったのだ。戦場の昂奮を狂気や物狂いと呼ぶならば、それはあったろう。だが、そこに酩酊や自我の喪失などは乏しかった。むしろ、恐怖を抑える強い意志が感じられた。左衛門尉の戦略も作戦も、無理強いではない、理にかなったものだったではないか。
(それをこの方は、股肱の臣に毒薬まで与えて駆り立ててやったと、そのおつもりなのか?)
新三郎は、白皙の美貌の青年が急に不気味に思えてきた。かつての嫌悪とも、日ごろの畏怖とも、一時の嫉妬心とも違う、はじめての想いであり、疑いであった。
(狂っているのは、……薬か何かに酔い痴れているのは、……このおひとのほうではないか?)
「どうした、新三郎? とらぬか?」
とるがよい、いずれ飲まずにはいられまい、と左衛門尉は思った。
(ほどなく、地獄を見ることになるのじゃから。此度は、目の前で。)
命じられたままに包を袂に押し込むと、今度こそ、そそくさと辞去した。新三郎には、左衛門尉がこれまでになく、化け物に思えてならぬ。恐ろしいひとに自分は惹かれていたかもしれぬ、逃れねば、というなかば本能的な恐怖心が身を支配した。
だが、左衛門尉の言葉は、頭の中に強く刻みつけられていた。
(父上も、化け物ではないのか? 松前は、おれの故郷は、鬼の棲家、地獄じゃったのか?)
思わず、薬の小さな包みを袂の上から握りしめてしまう。
そしてたしかに、新三郎ら残った子たちに、家督の話はついぞ出されなくなった。蠣崎季広は明確には継嗣を定めぬまま、これより長きにわたり蝦夷代官職をつとめ、松前大舘では老いてなお「おやかたさま」であり続ける。あきれるほど膨大な年月が重なっていくことになった。
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