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六の段 わかれ 箱館(三)
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「これはコハルの考えが足りませぬでした。……会えない、とおっしゃった。会われたいのでございますよね?」
「あたりまえだ。お会いしたい。何であってもお目にかかりたい。お顔をみたい。お話したい。シノリまで馬を飛ばさせようかと思って、どれほど悩んだことか。たとえおやかたさま……お代官さまとのことで、責められてもよい。」
「まさか、文にでも書かれたのか?」
「……そこまでは、まだ……。ただ、わたくしの心を、あの方に隠し通せるものではない。それは覚悟しているし、よいのだ。だが、……会えない。会ってお話をすれば、……わたくしは、あの方に、十四郎さまに、どうか戦をやめてくださいと頼んでしまう。わたくしの『図』を破ってください、といってしまう。もうひとが死ぬのをみるのも、自分の手がまたべったりと血に染まるのも、厭でございますといってしまう。……お代官様は、わたくしの頼みを一顧だにされなかった。だが、十四郎様は、ひょっとしたら、わたくしの願いを聞かれてしまうかもしれぬ。そうなったら、どうすればいい?」
「ここまできて、そんなことはありますまい。無用のご心配。」
「そうだ。たぶん、もう聞かれはしない。あのお方は、幾千のひとびとを背負っておられるから、そんなことはできまい。断られる。叱られるかもしれぬ。やさしくなだめられるかもしれぬ。……そうなったとき、わたくしたちの絆は形だけのものになって、壊れてしまうのだ。それが怖い。おそろしい。」
「御寮人さま。わけのわからぬことをおっしゃる。」
意を十分に汲んで、胸がつまりつつも、コハルはいった。
「わからぬ、わからぬ。十四郎さまとあやめさまの絆は、そんなものではございませぬ。戦なんかがどうあろうと、お二人の絆は固く、壊れも消えもせぬ。」
「コハル、でもわたくしたちは……」
「ヨイチでのお誓いも絆でしょう。でも、最初から存じあげているコハルが申すのです。若いお二人が仲睦まじく並んでいるお背中を、儂はみた。心より楽しくお笑いのところに、お付き合いできた宵もござった。うれしい夢を二人で描かれた。その夢はいったん潰えたが、その悲しみも、おふたりだけのものでございましょう。儂は、あやめさまのお涙を、何度も何度もみた。十四郎様とて、泣かれた、苦しまれた。そして、お二人しか知らぬお肌の温もりがあるではないか。……ほら、いまも泣かれている。泣き虫の御寮人さま!」
「泣いておらぬ。」
「きっと十四郎さまも、落胆されるだろう。なぜ会えぬ、と悔しいであろう。泣かれるかもしれぬ。……それが絆でございます。」
あやめは顔を伏せて、踵を返した。
「御寮人さま!? 船をお戻ししますよ。」
「ならぬ。……ありがとう、コハル。礼をいいます。……だが会えぬ。どうしても、会えぬ。許してくれ。すべてのことが終わるまで、わたくしは、十四郎さまに会えぬ。」
「御寮人さま、難しくお考えすぎなのです。この世は、御寮人さまが思うほどきれいにはなりえぬ。いくらお心清らかな御寮人さまとて、それはもうご存知のはず。」
「……ああ。さんざ汚らしい真似をされてきたし、してきたのでな。代官様とだけではなく、十四郎様ともな。あんなことが胸弾んで待ち遠しく、うれしく、気持ちよく、なにやら尊くありがたいようにすら思えるのは、なんでじゃろうな? 躰のなかでいちばん汚い箇所をわざわざみせつけあって、汗まみれ涎まみれで大息ついて唸りながら絡み合い、臭い汁を絞り合ってな! あんな真似をせねば、子どもすら生めぬとは、人間というのは、けものなのだろう。それがまた、けものでは考えもせぬような、無駄な遊びを思いついては、気が遠くなるまで、夢中になってやるのだからな。救えぬわ。」
「そんなことをいっているのではございませぬよ。何をいわれるやら……」
「……コハル、わたくしはおかしくなってしまっているのじゃ。勘弁してくれ。いま、十四郎さまにお目にかかったら、ほんとうに狂ってしまいそうなのじゃ。考えが頭からはみ出してしまう。頭のなかの帳簿も書き込みすぎて真っ黒になって、それでも閉じられない。……おかしくなってしまう。せめて、ことがすべて終わってからでないと、とてもお会いする勇気がない。」
「……ことがおわれば、お会いになってください。お約束ですよ。」
「無論よ。お会いしたいのだ。ことが終われば、必ず……なにが起きようと……」
あやめは顔を両手で覆った。
「こんなになってしまう前に、どうにかしても、お会いしておけばよかった……。」
コハルはあやめを抱き寄せた。背中をやさしく叩く。
やや近くにいた水主のひとりがそれをみて、たじろいでしまうが、コハルがきつい目で睨むと、あわてて船首の方に走った。
「御寮人さま。……ヨイチまで参りましょう。儂は御寮人さまの家の者だ。もうくどくどはご意見いたしませぬ。ただ、最後に一つだけ申し上げます。」
「ああ。」
「こんなことになってしまったのは、どなたのせいかを思い出されよ。それなくば、たとえ、ことが全てなっても、あなた様はそれこそ救われぬ。」
「コハル。あの方のことは、いまは考えたくない。」
「いまはよろしいでしょう。……しかし、必ず思い出されよ。あの方に、どんな目にあわされたのか。どこから全ておかしくなってしまったのか。」
「どこからだというのだ。もとのもとはといえば、永禄の昔、志州さまがご長男を……」
「大舘の湯殿ではございませぬか?」
あやめの肩が凍りついた。
「……忘れてはなりませぬよ。」
「コハル、むごい。お前がこんなにむごいとは……。」
コハルは無言のままでいる。
「あたりまえだ。お会いしたい。何であってもお目にかかりたい。お顔をみたい。お話したい。シノリまで馬を飛ばさせようかと思って、どれほど悩んだことか。たとえおやかたさま……お代官さまとのことで、責められてもよい。」
「まさか、文にでも書かれたのか?」
「……そこまでは、まだ……。ただ、わたくしの心を、あの方に隠し通せるものではない。それは覚悟しているし、よいのだ。だが、……会えない。会ってお話をすれば、……わたくしは、あの方に、十四郎さまに、どうか戦をやめてくださいと頼んでしまう。わたくしの『図』を破ってください、といってしまう。もうひとが死ぬのをみるのも、自分の手がまたべったりと血に染まるのも、厭でございますといってしまう。……お代官様は、わたくしの頼みを一顧だにされなかった。だが、十四郎様は、ひょっとしたら、わたくしの願いを聞かれてしまうかもしれぬ。そうなったら、どうすればいい?」
「ここまできて、そんなことはありますまい。無用のご心配。」
「そうだ。たぶん、もう聞かれはしない。あのお方は、幾千のひとびとを背負っておられるから、そんなことはできまい。断られる。叱られるかもしれぬ。やさしくなだめられるかもしれぬ。……そうなったとき、わたくしたちの絆は形だけのものになって、壊れてしまうのだ。それが怖い。おそろしい。」
「御寮人さま。わけのわからぬことをおっしゃる。」
意を十分に汲んで、胸がつまりつつも、コハルはいった。
「わからぬ、わからぬ。十四郎さまとあやめさまの絆は、そんなものではございませぬ。戦なんかがどうあろうと、お二人の絆は固く、壊れも消えもせぬ。」
「コハル、でもわたくしたちは……」
「ヨイチでのお誓いも絆でしょう。でも、最初から存じあげているコハルが申すのです。若いお二人が仲睦まじく並んでいるお背中を、儂はみた。心より楽しくお笑いのところに、お付き合いできた宵もござった。うれしい夢を二人で描かれた。その夢はいったん潰えたが、その悲しみも、おふたりだけのものでございましょう。儂は、あやめさまのお涙を、何度も何度もみた。十四郎様とて、泣かれた、苦しまれた。そして、お二人しか知らぬお肌の温もりがあるではないか。……ほら、いまも泣かれている。泣き虫の御寮人さま!」
「泣いておらぬ。」
「きっと十四郎さまも、落胆されるだろう。なぜ会えぬ、と悔しいであろう。泣かれるかもしれぬ。……それが絆でございます。」
あやめは顔を伏せて、踵を返した。
「御寮人さま!? 船をお戻ししますよ。」
「ならぬ。……ありがとう、コハル。礼をいいます。……だが会えぬ。どうしても、会えぬ。許してくれ。すべてのことが終わるまで、わたくしは、十四郎さまに会えぬ。」
「御寮人さま、難しくお考えすぎなのです。この世は、御寮人さまが思うほどきれいにはなりえぬ。いくらお心清らかな御寮人さまとて、それはもうご存知のはず。」
「……ああ。さんざ汚らしい真似をされてきたし、してきたのでな。代官様とだけではなく、十四郎様ともな。あんなことが胸弾んで待ち遠しく、うれしく、気持ちよく、なにやら尊くありがたいようにすら思えるのは、なんでじゃろうな? 躰のなかでいちばん汚い箇所をわざわざみせつけあって、汗まみれ涎まみれで大息ついて唸りながら絡み合い、臭い汁を絞り合ってな! あんな真似をせねば、子どもすら生めぬとは、人間というのは、けものなのだろう。それがまた、けものでは考えもせぬような、無駄な遊びを思いついては、気が遠くなるまで、夢中になってやるのだからな。救えぬわ。」
「そんなことをいっているのではございませぬよ。何をいわれるやら……」
「……コハル、わたくしはおかしくなってしまっているのじゃ。勘弁してくれ。いま、十四郎さまにお目にかかったら、ほんとうに狂ってしまいそうなのじゃ。考えが頭からはみ出してしまう。頭のなかの帳簿も書き込みすぎて真っ黒になって、それでも閉じられない。……おかしくなってしまう。せめて、ことがすべて終わってからでないと、とてもお会いする勇気がない。」
「……ことがおわれば、お会いになってください。お約束ですよ。」
「無論よ。お会いしたいのだ。ことが終われば、必ず……なにが起きようと……」
あやめは顔を両手で覆った。
「こんなになってしまう前に、どうにかしても、お会いしておけばよかった……。」
コハルはあやめを抱き寄せた。背中をやさしく叩く。
やや近くにいた水主のひとりがそれをみて、たじろいでしまうが、コハルがきつい目で睨むと、あわてて船首の方に走った。
「御寮人さま。……ヨイチまで参りましょう。儂は御寮人さまの家の者だ。もうくどくどはご意見いたしませぬ。ただ、最後に一つだけ申し上げます。」
「ああ。」
「こんなことになってしまったのは、どなたのせいかを思い出されよ。それなくば、たとえ、ことが全てなっても、あなた様はそれこそ救われぬ。」
「コハル。あの方のことは、いまは考えたくない。」
「いまはよろしいでしょう。……しかし、必ず思い出されよ。あの方に、どんな目にあわされたのか。どこから全ておかしくなってしまったのか。」
「どこからだというのだ。もとのもとはといえば、永禄の昔、志州さまがご長男を……」
「大舘の湯殿ではございませぬか?」
あやめの肩が凍りついた。
「……忘れてはなりませぬよ。」
「コハル、むごい。お前がこんなにむごいとは……。」
コハルは無言のままでいる。
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