えぞのあやめ

とりみ ししょう

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五の段  顔  あやめのいる家(一)

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 北の方さま―蠣崎慶広正室村上氏は、このころ、あやめのことを「堺」でも「納屋の御寮人」でもなく、名で呼ぶようになっていた。
「面倒じゃもの。」
と笑う。今日はどちらの顔でここに来ているのだ、といちいち確かめるのも、というのだ。
「堺の方」と呼ばれないのは、あやめは無条件でうれしい。「納屋の御寮人」と呼んでもらうのが、ひととの距離の取り方が苦手なあやめには、一番楽には思える。だが、あやめ、と呼び捨てるのは、北の方の親近感の現われなのだろう。有り難くそう呼んでもらうことにした。
(今井の家族と、十四郎さまと、おやかたさまだけであったな。わたくしを呼び捨てるのは。)
 名で呼び合うような親しい友人がいないから、そうなる。
 義母に疎んじられ、姉たちとの仲が悪かったあやめにとって、北の方は、はじめてやさしい女の家族ができたように思えるときがあった。
 あやめにだけではない。蝦夷島の武家では筋がましという家の出にすぎないというのに、どこか貴人めいて物やわらかな北の方は、あやめにも、もう二人いる側室にも、邪険な態度をとらない。津軽の方が産んだ男の子にも、その母として接している。
 あやめがひどい経験をするきっかけになってしまった、産褥での諍いはあったものの、それからも新三郎との仲もとてもよく、安定しているといってよかった。
 ただ、北の方は当然、この大舘の邸内で納屋の手代が殺される惨劇があったのを知っているから、あやめにまた済まないと思ってくれたようだ。
 口には出さないが、態度やいたわりを感じる。思い出させまいとするのが、必ずしもうまくいかないからこそ、あやめは言葉の端々にその配慮に気づいてしまうのだが、それがうれしいばかりだ。
 またあの夜以来、また、官位をあらぬところに持っていかれてしまう「失態」(とあやめは信じさせている)を犯して以来、どうも夫とこのあやめとの仲が変わってきたのにも、正室は感づいている。新三郎の詰問にあやめが大泣きに泣き、どうなることかと最初は心配していたのだが、
「どうも、むしろ不思議によい方に変わったようよの。」
と微笑んでいってくれた。

(よい方に?)
 おかしいな、と武家育ちではない女のあやめなどは思うのだ。夫と妾の仲がこじれてしまったくらいのほうが、正妻にはそれこそ「よい」のではないか。別に毎夜毎夜臥所をともにしたいとも思うまいが、夫が自分以外の女を子づくりの義務感ばかりではなく抱いているとしたら、厭ではないのか。
 そう尋ねるわけにもいかず、ただ曖昧に礼をいったきり黙っていると、お方さまは感づいたらしく、真面目な顔をした。
 内心で、この娘は面白い、と思っている。
(すぐ顔に出おる。子どものようじゃ。)
「わらわの言葉が不審に思えたか?」
「いえ、……おそれいりまする。」
「あやめ、そちもようよう、武士の家の者になってくれたようだから、いっておく。お家のために、よいことなのじゃ。お家大事は、商家も変わるまいから、わかろうな。」
「はい。左様にはございますが……ただ、ご無礼申し上げますが、おやかたさま、お方さまはまことにお仲睦まじくいらっしゃいます。立派なお子をなされ、たがいに羨ましいほどにお信じあいになられている。とは申しましても、……いえっ」あやめは口ごもる。
「なんじゃ?」
「お忘れください。」
「申してみよ。」
「その、そんなふうでも、おふたりは、……なんと申されましても、お子をおなしというのは、つまり、……」
 「わかった、わかった。男と女、と申すか?」
 お方さまは笑ってしまう。汗をかいたあやめは少し安心して、
「不躾なお尋ねお許しください。身分もなにも違いますからでございましょうが、おやかたさまのただおひとりのご正室であられるお方さまが、なぜ手前や他の方がたにもこれほど御海容なのか、不思議に存じるくらいでございます。お家のため、というのはわかりますが、手前のようにいつまでたってもお子を産めぬ者は、それにもあたりますまい。それでございますのに、先年は手前の身を案じて下さった。いまはそれどころか、手前がおやかたさまのご恩にようやく気づき、それで、よくしていただけているのを、よかったといって下さいました。」
「不埒な。ここに参った最初に左様いうたであろう? おやかたさまのご恩に気付くに、何年かかったのか。」
 あやめが畏れ入って激しい勢いで平伏すると、お方さまはくすりと笑った。
「そちは、冗談でもなんでも真面目にとりよるなあ。……あの頃は、仕方なかったではないか。そちは、むごい目にあっていた。おやかたさまも、恨まれても文句はおありでない。わらわも、それこそ最初は、そちにきつくあたった。悪かったの。」
「勿体ないお言葉にございまする。」
「ずいぶん、昔のようじゃ。そのあとか、身ごもったのは。」
「……まことに残念な。」
「あの折り、飛んだ側杖をくらわせてしもうたな。済まなく思っておる。……あっ、思いださせてしもうたな。」
「いえ、いえっ。もしお武家の女に手前がなれるものでしたら、ことごとしく気に病んではならぬことでございます。それに、あれは、……手前こそが、店の者ともども、お舘のうちで不始末をいたしましたのを、お詫び申し上げまする。」
 いいながら、あやめはまだ口の中のあの感触と血の味、匂いを想ってしまう。だが、お方さまの気遣いを壊してはならぬから、さあらぬ態をとった。お方さまは痛ましげにあやめをみていたが、ふと表情を崩して、
「……のう、聞いておったな。そちらがおやかたさまに寵されて、わらわは妻のくせに、どうとも思わぬのか、と。」
「そんな意味では。」
「答えが難しいから、逆に尋ねよう。そちはどうなのじゃ? わらわがおやかたさまに……うん、お子を頂戴するのをどう思える?」
「えっ、……考えたこともございませぬ。お方さまと手前では、ご身分もお立場もまるで違いますれば。」
「わらわも、半分の答えはそれでいい。だが、ならば問うが、津軽(お袋様こと、いまひとりの側室)や、あの新しく召されたおセンとかいうのであらば、どうか。そちは如何に思う? あれらがおやかたさまのお床に入るのを。」
 あやめは考え込んでしまった。

 あやめもこの時代の人間だから、男女関係については一夫多妻的な規範を受け入れている。現に自分も今井宗久のお手付きの小間使いの子であり、蠣崎新三郎の側妾であるわけだ。武家の、といい足すだけで、答えはさらにたやすい。
 だがその模範解答を、ここで、いうものなのか。
「武家の女なら、などと考えず、有体に答えてみよ。遠慮はいらぬ。」
 先ほどから、寝てしまった武蔵丸は乳母に連れて行かれて、お方さまおつきの老女も席を外させたから、二人だけの場であった。
「お袋様……いえ、津軽の方さまは、……よろしいのでございます。」豊満で背の低い、松前の出で、快活で人懐こい若い女の気遣いの言葉を思い出して、あやめは正直にいう。「お子もなされ、なにか、お家のお方そのものかと。かえってご無礼かとも存じますが、おやかたさまの可愛がられるのを思っても、何も胸痛むものがござりませぬ。」
「うん。……が、……?」
 お方さまはにやりとする。あまり見たことのない顔だ。
「おセン殿は、手前より後でお召しになられたせいか、年回りも同じくらいのせいか、まだお子をなされていないせいか、お台所で働いておられたと聞くが、洗われてみれば目の覚めるほどのお美しさのせいか、……」
 お方さまは声をたてて笑った。
「心穏やかならず、か。そうであろうな。」
「お恥ずかしい次第でございます。」

(もしあの美しい田舎女に、おやかたさまの心が全部奪われてしまったら、わたくしはいったいどうすればいいのか?)
(すきとで(すっきりして)よい、というものか? でも、わたくしのほうがもう、……)
(「図」はどうする。十四郎さまにどの顔を下げて会えばいい。)
(まるでわからぬ。おそろしい。)
(だから、あの女がおそろしい。)
(こんな思いをさせる、あやつが、憎らしくてならぬ。)

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