えぞのあやめ

とりみ ししょう

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五の段 顔 短い秋(六)

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 新三郎は、あやめを手放したくない。
 生きていた十四郎との仲のことを思い、諦めたようなこともいったが、いま、張りつめた乳房を上下させて、昂揚が炸ぜたあとの続きをまださまよっている女の体温と甘い肌の匂いを感じたとき、この女から離れるなどとても考えられないと感じずにいられない。
 「あやめ、行くなよ。」
 つい、呟いてしまう。
 あやめは新三郎を見上げて目を合わせたが、まだ何もいえないらしい。躰は繋がったままで、新三郎が体重をうまく外してくれているが、組み敷かれた姿勢でまだ息が荒い。
「箱館にいって、どうする? なにがある?」
「……。」
「十四郎が蝦夷地から来るかもしれんな。」
「……。」
 あやめは汗の浮いた首を持ち上げて、不安げな表情で振る。

 その表情にたまらぬ愛おしさをおぼえた。
(おれが、してやれることは……。)
「いいのだ。また、会え。いずれ、どこかで会わせてやる。」
「……!」
「お前たちにも、きっと深い縁があった。あいつが、親父殿に……いや、与三郎にそそのかされて、蝦夷に持たせる鉄砲を貰いに納屋まで、ひとり、のこのこ出かけた。そんなところから、命懸け―といったな、お前は―命懸けの恋になったのだな? 縁があったのだろう。」
 新三郎はようやく、あやめの躰から離れた。あやめはその瞬間にも大きく息を吐いたが、次第に落ち着いてくる。

「おやかたさまは親孝行でいらっしゃる。お武家は必ずそうとも限らないのに。」
「?」
「今も言いよどまれた。ご隠居様……志州さまが、与三郎様をそそのかされたとは、あまりおっしゃりたくないのでございますね。」
「……父上は、斯様なお方なのだ。あの頃はまだお代官だったのに、名代で息子のおれを叱るのではなく、裏から手を廻された。いつも、……。いや、おれは十三になると津軽浪岡に猶子に出されていたから、なにか一皮薄いので、直接いわれないのだろう。……それが、ここまで来てしまった。」
「あなた様のせいでは、ございませぬよ。志州さまが、きっと影のお顔をお持ちなのです。」
「……永禄のころの話か。」
「……やはり、おやかたさまは、よくご存じだったのですね。」
「お前もよく、……ああ、憑りついておった物の怪から聞いたとでも?」
「そのようなものです。」
 新三郎は笑い、
「そのようなもの、だろうな。……なんと、つい十四郎の話をしてしまっていたな。ふん、恋敵が、生きていおって、いまいましい。」
 また笑った。
 あやめは起き上がり、衣を羽織るだけは羽織った。息を整えながら、うれしそうに微笑んでいる。
「あやめ、おかしいか。」
 新三郎は、またあやめを胸に抱きよせた。躰を倒されながら、あら、とあやめは明るい声を出し、
「わたくしは、おやかたさまをよく存じ上げておりませんでした。よくお笑いだったのですね。」
「お前とでは、前々からいつもこうだったぞ? 目も耳も閉ざしていたな?」
「もっと憎々しいお笑いで、笑われるたびに、なにをされるやらと手前は肚が凍る思いでした。いまのとは違います。」
「いいよる。」
 新三郎は苦笑いした。

 あやめを抱くようになる以前から、重臣たちが並ぶ書院での集まりですら、納屋の御寮人を笑わせようと、冗談をよくいっているつもりだった。
 ところが追従笑いするのは周囲の者だけで、肝心のあやめは、さほどおかしそうにもうれしそうにも見えなかったのを思い出す。周囲のお追従に加わるような真似が、この娘の潔癖なところに触れたのだろう。
 いま、心からの微笑みを浮かべているあやめの顔を眺めて、新三郎は後悔に胸を噛まれる。
(あやめは、おれの戯言などには、気づいておらんかったな。無理もない。この女は、いつも懸命なのだ。)

 あやめは少し真面目な顔になって、唐突に尋ねてきた。
「あやめが箱館に行かなければ、十四郎さまを松前におよび戻しいただけますか?」
「なんだそれは。」
「ご兄弟でまずお手を結ばれますれば、箱館と秋田で狭間のお悩みもようよう消えるかと存じます。」
「あやめは情人が二人か。二行(二股)とは、盛んじゃの。また堺の方さまの悪い噂が立つぞ。」
「おやかたさま。申し訳ありません。かるがるしくたわぶれを申し上げているのではござりませぬ。」
「お前のいっておることの意味が掴めぬ。十四郎と組めば、なぜ安東様との問題に片が付く?」
「片が付くとは申しません。」
 あやめの声に力がこもった。
「ただ、蠣崎のお家でまとまり、志摩守家として一致して安東さまからご自立ということで、まずはよいではございませぬか。十四郎さまをご赦免になれば、箱館の志州さまやそのお取り巻きに、ご和解の姿勢をみせることにもなる。ご家中の松前・箱館のお仲のこじれも心配がなくなる。……そうだ、いいことがある。御一緒に箱館に参りませぬか? いえ、失礼申しました。この納屋がお供仕ります。蠣崎志摩守家御嫡男は、順序からいけばもちろんおやかたさま。蠣崎家の御政事を、御老体の志州さまのご名代としてそばでおとりになられませ。十四郎さまは蝦夷地全体のお代官としてでもご重用に」
「あやめ、うれしい夢じゃな。そんな風に一家で仲睦まじく、志摩守家としてしっかりと固まってやっていければ、こんなにいいことはなかろう。そしてお前は、儂の子の生母か、あるいは十四郎の北の方か。」
「おやかたさま……」
「どちらでも構わぬな。十四郎からなら、また盗ってやる。」
「……。」
「たわぶれじゃ。……あやめもいる、われら蠣崎の家中(家族)か。よいのう。」
「ようございましょう?」
 あやめの声が震えた。
(ああ、わたくしは初めて、いいたくてたまらぬことを口に出せている。……おやかたさま、後生にございます、頷いて! あやめの言うとおりにしよう、と仰って!)

「……安東様との間も、それで済めば越したことがない。だが、儂が箱館に入るなど、納屋の御寮人にも似合わぬ、夢のような……。いや、あやめ、後々のためにいってやるが、そこがお前のひとの良いところ、つまり、商人として足らぬところじゃ。」
(夢じゃと? あっ、むかし、同じようなことがあった……)
「教えてくれぬか。そこで儂は、どのような政事をおこなうのかな? 蝦夷代官としてはじめた知行地による厳しい行治(管理)が許されるのかな? 天下の北に穴をあけてはならん、とて蝦夷商人の自由往来の交易を押しとどめてよいのかな? 蝦夷商人どもを潰し、不埒な和人商人の立ち入りを厳しくして、蝦夷には蝦夷らしいもとの暮らしを与える、と儂がいうて通るかの? 父上がもしもみまかられたあと、儂に跡目が転がり込んできたとして、そこでいま箱館で欲をかいている弟ども……はいいとして、蠣崎十四郎愛広は、儂の政事に従えるか?」
「安東さまからのご自立だけはまず果たせましょう。御政道の違いは、どうかお話合いで……」
「それで済むならば、なぜこんな世に、儂やお前は生きておる? この乱世というのはどこから来た?」
「……。」
「……蠣崎の自立についてはお前のいうとおりにみえる。だがお前は、安東侍従さまという人を知らぬ。海路はるばるの秋田からの派兵が絶対にないといえるのは、あちらの一族ご騒動が続いている間だけじゃ。志州さまたちには何の兵もない。儂が戦わねばならぬ。そして、どうあっても蠣崎の兵力では、最後は勝てぬのだ。情けないが、いまの儂の力ではまだ足りぬ。ましてや、もし秋田に津軽勢とでも組まれてみろ、ひとたまりもない。」
「十四郎さまは……」
「十四郎が何十、いや何百率いてくるのかはわからんが、アイノの兵では、結句、松前も落せぬ。儂の兵に勝てぬようで、安東さまの大軍に勝てるか?」
 あやめは頭を抱えるように、顔を男の胸に寄せ、縮こもってしまった。
(いえぬ……さすがにいえぬ……勝てるかもしれぬ。少なくとも、あなたさまの兵には勝つつもりでいるなどとは!)
(そこまでは十四郎さまを裏切れぬ!)
(躰はとうに、そしていまは心まで二つに割れて、もう半分は裏切ってしまったのに、……)
(わが『図』の全てをあきらかに、いま、このひとに示すことまでは、できないっ。)

「……あやめ、つい激してしまった。顔を見せてくれ。」
「ご和睦は、……十四郎さまのことはともかく、……箱館とのご和睦は、どうしてもいけませぬか。」
「和睦も何も、戦などしておらん。」
「安東さまから、たとえば、箱館にいる弟君たちを安東家の逆臣として討てとのご命令が蝦夷代官に出るのでは……」
「左様なところだろうな。だが、そうなれば、蝦夷代官として、簡単にやつらを平らげる。面白くもおかしくもないが、それだけだ。箱館の志州さまは、官位をお持ちのまま、ご隠居に戻られるであろう。」
「そんな……!」
「安堵せよ。箱館の新しい町が焼けてしまうほどの戦にならん。やつらでは相手にならんからだ。」
「そんなことを申しているのでは」
「檜山屋形に助命は必ず乞うが、……血はまた流れる。やむをえない。……そうよ、十四郎はな、じゃから、本当は箱館などに来ぬ方がよい。もしも父や兄にそそのかされて戦ごっこにつきあいでもすれば、今度こそ死なねばならぬ。箱館であいつに、さにいうてやれぬかな、あやめ?」
(このひとは、前々から十四郎さまを殺したいのではなかったのか?)
 あやめは混乱した。
(わたくしはなにか、最初から大きな勘違いをしていたのでは?)
 しかし、いまはそのことではない。
「……そうなりますと、安東さまご被官の蠣崎さまが、代官として蝦夷島を治められる、で元の鞘におさまる。」
「そういうことだな。」
「それでよろしいのでございますか? 蠣崎のお家のご自立を真っ先にお考えになり、蝦夷島の真の主として御政道をとられようとしたおやかたさまが、それで?」
「よい。」
「え…?」
「あやめ、儂はもう、疲れた。」


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