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五の段 顔 短い秋(三)
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志州さまこと季広老人の箱館への逐電以来、あやめは箱館の話も避けるようになった。
松前の店にすらも、あまり戻らないようだ。見かねたのか、店から大舘に納屋の者がやってきたりする。
「おやかたさまがお引き留めになるからではございませんか。傍で聞いておりましたが、商売のこまごましたことを、大福帳まで持ってきて、聞かされていました。」
北の方が、これは別に嫉妬しているのではないらしく、心配してやって―新三郎にはこのあたりの女の付き合いがよくわからないのだが―注意したほどだったが、引き留めた覚えはない。
「納屋の御寮人にいろいろお命じなのでしょう。」
「そんなことはない。」
(あやめは、政事向きの話を、避けるようになった。上方で、官位の話がうまくすすまないからだろう。)
(おれもだ。あいつに、そんな話を持ちかけない。)
「あまり、……いいにくいですが、おいじめになってはなりませぬよ。」
「もう、いじめておらぬ。」
「もう?」
「……案ずるな。何もあれを責めることもない。」
(あやめが、大舘にいたがるのだ。)
と思うと、自足する気持ちが湧いてくる。鬱が少し晴れる気がする。
淫蕩な「堺の方」の伝説は、この頃のあやめからできたのかもしれない。
蝦夷代官を篭絡し、淫欲に耽らせ、閨から離さない女―というのであれば、表面ややそれに近い。
このところ、蝦夷代官は毎日のようにあやめを床に召した。たとえ別の女と会う宵があっても、その後、恋人が人目を忍ぶようにあやめの部屋に行く日すらあった。政務にそれで支障が生じたわけでもないし、新三郎の健康や体力に衰えが出たわけでもないのだが、ひとには目や耳とともに口がある。堺の方ご寵愛と、このところの松前・箱館の諍いをめぐる世情騒然とは、無責任な噂話のなかで、ごく自然に結びつけられた。
そうした噂はあやめにも伝わったが、おしゃべりの侍女の於うらなどが驚いたことに、体裁屋だったはずの納屋の御寮人が、もう恥じたり、気にする様子もなさげであった。
「寝ているときに急に来られるのを、眠いからとお帰りいただくわけにもいかぬだろう。……それに、近頃でも夜は冷える。別のお方のところで汗をかかれたあとだから、夜衾に入れてぬくめてさしあげないと、お風邪を召される。」
そんな風に平然といわれると、からかうようなこともいえぬ。
この宵の閨も、新三郎を迎えたあやめは、はにかみ、頬を染めながらも、最初から積極的だった。抱き締めると、たちまち匂いをあげて震え、甘えるようにしがみついてくる。もう躰が熱い。
(閨の悦びを急におぼえたわけでもないだろうに……)
新三郎は喜びながらも、驚き、やや不思議でもある。
近頃のあやめは、長く口を吸われるのを好むようだ。もとからそうだったのかは、襲うような荒い抱き方を専らとしてきた新三郎にはわからない。それがいまの新三郎には悔いでしかない。
無言でねだるような目つきに誘われるように、新三郎はあやめにのしかかるようにしながら、柔らかい唇を吸い続け、長い時間、あやめと舌をからめあった。あやめの指が男の背中を走る。あやめの息が苦しくなるのもわかるが、薄目を開けて顔をうかがうと、まつ毛を震わせながら固く目を閉じて夢中で味わっているから、やめてやらない。手はとうにあやめの柔らかい肌を撫で、固くなった乳房を掴み、尖りはじめた乳首を探り当てている。あやめの呻く声が、怯えるような色を帯びても、まだ続ける。やがてあやめは、追いつめられる叫びを口の中で漏らした。ようやく唇を離したとき、大きく息をついた女の顔はまったく上気して、すでに目が潤んでやや虚ろなほどだが、あきらかに一度、軽く高みを踏んだようだ。
「おやかたさま……?」
小さな声で呼ぶ。はにかむように微笑んで、すまなさげに、
「わたくしばかり、よくなって……?」
いや、と新三郎は首を軽く振った。健気な様子に、いとおしさがつきあがるようだ。
「あやめ。」
「はい?」
「……おれは、お前を快くしてやりたい。それだけだ。」
「そんな、……勿体ない。」
あやめは恥じらうように顔を伏せたが、そのうなじに唇をあてると、たちまちおののき慄えた。
……
あやめの両足が新三郎の腰を巻き、より強く押しつけよとうながすように動いた。あやめのいかにも苦し気に眉を寄せた顔を新三郎は手で挟み、荒い息を吐き続ける唇にかぶりついた。あやめが何かを口の中で叫ぶ。
「あやめ?」
息を弾ませながら、あやめは潤みきった声で懇願するように、
「……お願い。いま、お子種を……」
(孕みたい。この男の、子が欲しい……)
あやめは白く濁った頭の中で、それだけを思っていた。それが、言葉になって、声に出た。
新三郎は、およそはじめて聴いたあやめの言葉に、驚喜する。動きに力と激しさが増す。あやめの全身がおののき慄えるのがわかった。
あやめの躰に注ぎ込むとき、いとおしさが高まって、抱え込む力が強くなりすぎる。それに息が詰まりながら、あやめもまた狂った。
途切れ途切れに漏らしていた悲鳴が、唐突に止まった。驚いたように頭を振り、硬直する。
新三郎の肉が離れたとき、まだ荒い息遣いによる胸の上下と、小さな、自然に漏れる呻きがとまっていない。目も固く閉じられている。しかし、無意識のうちに、こぼすまいとする。その仕草に、新三郎は感動としかいいようのないものをおぼえていた。下半身をよじらせてそのようにしているあやめはまだ、覚めきっていないようだ。
「あやめ……よくやった。」
「……なにが、でございます?」
あやめはようやく薄く目を開く。まだ空気を欲しがって開きがちな唇から、かろうじて言葉を出した。汗まみれの顔がおさなくみえたので、新三郎は奇妙な背徳感をおぼえた。さきほども、つい子どもの弓の稽古を褒めるような口調になっていたのは、張りつめた女の躰ではなく、小さな黒い髪の頭をみていたからだろう。
「……いや、おかしなことをいったな。そんな風に思ったまでだが、……」
ふと目をやると、あやめの手はまだ、叢から滴り落ちそうな液体を集めて、戻そうとしているようだ。
(それほどまでに……? あれほど厭がっておったものを。)
「あやめ、お前は変わったな。」
「そんなことは、ございますまい。」
(そうだ、わたくしはへんになった。新三郎の種を、本気で受けたがった。できるものなら、この男の赤子が欲しいと、まことに思った。あのさいちゅうの惑乱から醒めたいまですら、そう感じているではないか。)
(なぜだよ……なぜだよ、あやめ?)
「変わった。おれも、お前へのいとおしさが、変わったようだ。」
「どういうことでございましょうか?」
「どうもうまく、いえぬな。」
そういいながら、新三郎はあやめの肌に近づいたが、
「あ、……いけませぬ。もう少し、お腹を落ち着けてからでないと、またこぼれてしまいまする。」
あやめは本気でおそれ、制止した。もしも孕んだら、どうするつもりなのか、考えもできない自分がいる。
「お前……?」
「まずは少しだけ、お話しを下さい。そのあとで、……あっ?」
あやめは、ねだっていることになるのに気づき、顔を赤らめた。横をむいてしまう。
「うむ、物語りをしよう。すこし、休め。」
新三郎はあやめの裸の肩に褥をかけてやり、自分もその横に臥した。半身を起こしたあやめが汗を拭いてくれるのが快い。おれも拭いてやろう、とばかりに布をとろうとするが、あやめは笑って断る。
(ああ、笑顔だ。この女の笑みが、おれはみたくてたまらないのだ。)
「先ほどの、儂の言葉……」
「よくやった、と?」
「あれはあれだけの意味だ。お前がなにかひどく懸命にいたしておるので、健気にみえて、つい子どもを褒めるようないい方になってしまった。お前とは十五ほどちがうのか。娘のようなものであるな。」
「なにか、けしからぬことをいわれておいででは……?」
「そんなことはないわ。お前がかわいかった、といっているまでよ。……お前をいとおしく思う気持ちが、変わってきたといったな。」
「勿体ないけれども、面映ゆい。はずかしい。もう、ご勘弁ください。」
あやめは褥を頭からかぶってしまう。
(なにをいうてるんだ、なにをいうてるんだ、この男は……)
(ばかだ、この男も、わたくしも、この部屋にいるのは、阿房ばかりだ。)
「勘弁せぬ。いっておきたい。……お前を最初にみたときから、気にいった。この世にはこんな女がいるのか、と驚いた。一度抱いてみたい、と思うた。」
あやめは褥から顔を出し、はにかんだ笑みまじりで軽く睨んでみせる。
「お初にお目にかかったのは、ご書院ではございませぬか。」
あれはお仕事の場だったのでは、というのである。本気ではないが、からかってみたい。
新三郎は苦笑した。
「……悪いが、男はすぐにそうしたことを思う生き物じゃ。……そのうちに、欲が膨らんだ。一度だけではない、抱きつぶすくらいに抱いてやりたい。おれ無しではならぬ躰にしたい。できれば、心をおれに傾けさせたい、お前の持っているなにもかも奪って、お前をおれのものにしたい。ただそれだけだった。……あやめ、いまの儂の言葉―上方もののお前に聞き取れたか?」
「わかりましてございます。されど、もうおやめくださいませ。」
「むごいことをいうておるからな。聞きたくないか。」
「恥ずかしいのでございます。」
「ならば、いわせよ。今は違ってきたのだ。お前を欲しいという気持ちは変わらぬ。おれのあやめでいてほしい。おれだけのものであればいいと思っている。だが、それだけではなくなってきた。」
(お前のためになにかしてやりたい。お前に喜んでほしい。)
「そうだな。……お前のために、死んでやれたらどんなにいいか。」
「おやかたさまっ?」
「……そう驚くな。思うだけだ。死ぬか生きるかのときに、どう振る舞えるかは、わからん。命は惜しい。だが、もしもお前のためだというのなら、……」
喋りすぎていると思う新三郎は言葉を飲み込んだが、胸の中の言葉は、あやめをいとおしげに眺める表情で伝わったのだろう。
(お前のためなら、命もさほど惜しくはない気がしている。その代りにお前が生きてくれるとでもいうのなら。生き残って幸せになってくれるとでもいうのなら。)
「おやかたさま。」
「また、泣くか。話だけのことじゃ。……柄にもなくこんなことを喋ったが、ほんとうはいざとなればお前など盾にして、逃げ出す男かもしれぬ。」
あやめは目を潤ませながら、首を振りつづける。
(あなたは、お父上とは違う。)
「お前も男運の悪い女よ。」
新三郎は、なにか本当にすまなげな笑みをみせた。いいえ、とあやめは笑って首を振る。
「あやめは、蓋し(たぶん)、いま、おやかたさまのお側にいて、幸せなのでございますよ。」
(こんなことを、わたくしは前にもいった。十四郎さまにいった。なんて女……)
「けだし……? たぶん、か。」
新三郎はまた笑う。
「そうかの。堺は今井宗久殿の娘、納屋の御寮人が、こんな田舎で、大名になり損ねた、無位無官の平人に抱かれておる。」
「おやかたさまらしくもない、おっしゃりようと存じます。」
「そうだな。儂らしくもない。……うむ、つまり、それほどに、儂の躰はよかったか。みたところ、どうもそうだったの。ならば幸せでよいのか?」
あやめは真っ赤になり、新三郎の広い胸にのしかかった。乳のあたりの肉にそっと歯をたててみせる。新三郎は笑った。笑うとあやめは上下に揺れる。その様がおかしくて、新三郎はさらに笑った。あやめも笑い、新三郎の乳の毛を指で巻いて、弄ぶ。
「躰はおさまったか。……子種は落ち着いたのか。」
「はい。わたくしにはわかりませぬが、そうかとも存じます。」
(……そうであればよいと、まだわたくしは思っているっ?)
新三郎は体の上にあやめを持ち上げ、下から抱き締めた。
「お前がいま、儂の子を欲しいというてくれて、まことにうれしかった。もし子を産んでくれれば、儂は心置きなく、お前のために死ねる。」
「また、お亡くなりになるお話ですか。おやめくださいませ。」
「礼をいいたいのじゃ。儂が死んでも、子がいれば、忘れ去られることもない。そう、安心できる。」
「おやめくださいませ。御礼など。……忘れるなど。」
(わたくしがこの男の赤子を欲しいと思ってしまったのも、それか……? 討ち滅ぼしても、おぼえていたいとでもいうのか?)
「儂がお前にそうせよ、といったな。十四郎を忘れていけ、と。あれもむごかったな。殴るよりもむごかったかもしれぬ。許せよ。」
「……おやかたさま。」
「だが、今でも、それはそうしてほしい。十四郎を忘れてほしい。だが、忘れまい?」
「……」
「忘れさせるにはどうしたらよいか、考えあぐねておる。」
「おやかたさまらしいと存じます。」
ふたりは笑い、目があって、自然に唇を重ね、吸いあった。離れると、新三郎は首を曲げて、あやめの白く伸びた首筋にきつく印を押すように唇を当てた。あやめは切なさに息を大きく漏らす。
(欲しい……。また、欲しくなってしまった。また柔らかく、重みをかけて欲しい。この大きな躰にしがみつきたい。息が詰まるくらいに固く抱きあいたい。痛いほどに。そして躰を開いて、入ってきて貰いたくて、仕方がない。)
新三郎はあやめの肌を撫で、細いながらも豊かな腰の張りを確かめながら、ふと不思議に思った。
「あやめ、しかし、もう何年もお前に子種を与えてきたが、いっこうに孕まぬな。」
「あ、ああっ、申し訳ございませぬ!」
「お前を責めているのではない。こればかりはどうにもならぬ。無念じゃが、儂とお前は前世の縁が薄いのだろう。……いいたかったのは、な。だから、無理に子を宿そうなどと思い詰めるなよ。お前は躰が強くもないようだから……」
「縁? 縁でございますか?」
「子をなせるかどうかは、縁であろう。」
「縁というならば、おやかたさまとわたくしとのあいだにはきっと宿縁がございましょう?」
あやめの中で、鋭く突きあがるものがあった。
松前の店にすらも、あまり戻らないようだ。見かねたのか、店から大舘に納屋の者がやってきたりする。
「おやかたさまがお引き留めになるからではございませんか。傍で聞いておりましたが、商売のこまごましたことを、大福帳まで持ってきて、聞かされていました。」
北の方が、これは別に嫉妬しているのではないらしく、心配してやって―新三郎にはこのあたりの女の付き合いがよくわからないのだが―注意したほどだったが、引き留めた覚えはない。
「納屋の御寮人にいろいろお命じなのでしょう。」
「そんなことはない。」
(あやめは、政事向きの話を、避けるようになった。上方で、官位の話がうまくすすまないからだろう。)
(おれもだ。あいつに、そんな話を持ちかけない。)
「あまり、……いいにくいですが、おいじめになってはなりませぬよ。」
「もう、いじめておらぬ。」
「もう?」
「……案ずるな。何もあれを責めることもない。」
(あやめが、大舘にいたがるのだ。)
と思うと、自足する気持ちが湧いてくる。鬱が少し晴れる気がする。
淫蕩な「堺の方」の伝説は、この頃のあやめからできたのかもしれない。
蝦夷代官を篭絡し、淫欲に耽らせ、閨から離さない女―というのであれば、表面ややそれに近い。
このところ、蝦夷代官は毎日のようにあやめを床に召した。たとえ別の女と会う宵があっても、その後、恋人が人目を忍ぶようにあやめの部屋に行く日すらあった。政務にそれで支障が生じたわけでもないし、新三郎の健康や体力に衰えが出たわけでもないのだが、ひとには目や耳とともに口がある。堺の方ご寵愛と、このところの松前・箱館の諍いをめぐる世情騒然とは、無責任な噂話のなかで、ごく自然に結びつけられた。
そうした噂はあやめにも伝わったが、おしゃべりの侍女の於うらなどが驚いたことに、体裁屋だったはずの納屋の御寮人が、もう恥じたり、気にする様子もなさげであった。
「寝ているときに急に来られるのを、眠いからとお帰りいただくわけにもいかぬだろう。……それに、近頃でも夜は冷える。別のお方のところで汗をかかれたあとだから、夜衾に入れてぬくめてさしあげないと、お風邪を召される。」
そんな風に平然といわれると、からかうようなこともいえぬ。
この宵の閨も、新三郎を迎えたあやめは、はにかみ、頬を染めながらも、最初から積極的だった。抱き締めると、たちまち匂いをあげて震え、甘えるようにしがみついてくる。もう躰が熱い。
(閨の悦びを急におぼえたわけでもないだろうに……)
新三郎は喜びながらも、驚き、やや不思議でもある。
近頃のあやめは、長く口を吸われるのを好むようだ。もとからそうだったのかは、襲うような荒い抱き方を専らとしてきた新三郎にはわからない。それがいまの新三郎には悔いでしかない。
無言でねだるような目つきに誘われるように、新三郎はあやめにのしかかるようにしながら、柔らかい唇を吸い続け、長い時間、あやめと舌をからめあった。あやめの指が男の背中を走る。あやめの息が苦しくなるのもわかるが、薄目を開けて顔をうかがうと、まつ毛を震わせながら固く目を閉じて夢中で味わっているから、やめてやらない。手はとうにあやめの柔らかい肌を撫で、固くなった乳房を掴み、尖りはじめた乳首を探り当てている。あやめの呻く声が、怯えるような色を帯びても、まだ続ける。やがてあやめは、追いつめられる叫びを口の中で漏らした。ようやく唇を離したとき、大きく息をついた女の顔はまったく上気して、すでに目が潤んでやや虚ろなほどだが、あきらかに一度、軽く高みを踏んだようだ。
「おやかたさま……?」
小さな声で呼ぶ。はにかむように微笑んで、すまなさげに、
「わたくしばかり、よくなって……?」
いや、と新三郎は首を軽く振った。健気な様子に、いとおしさがつきあがるようだ。
「あやめ。」
「はい?」
「……おれは、お前を快くしてやりたい。それだけだ。」
「そんな、……勿体ない。」
あやめは恥じらうように顔を伏せたが、そのうなじに唇をあてると、たちまちおののき慄えた。
……
あやめの両足が新三郎の腰を巻き、より強く押しつけよとうながすように動いた。あやめのいかにも苦し気に眉を寄せた顔を新三郎は手で挟み、荒い息を吐き続ける唇にかぶりついた。あやめが何かを口の中で叫ぶ。
「あやめ?」
息を弾ませながら、あやめは潤みきった声で懇願するように、
「……お願い。いま、お子種を……」
(孕みたい。この男の、子が欲しい……)
あやめは白く濁った頭の中で、それだけを思っていた。それが、言葉になって、声に出た。
新三郎は、およそはじめて聴いたあやめの言葉に、驚喜する。動きに力と激しさが増す。あやめの全身がおののき慄えるのがわかった。
あやめの躰に注ぎ込むとき、いとおしさが高まって、抱え込む力が強くなりすぎる。それに息が詰まりながら、あやめもまた狂った。
途切れ途切れに漏らしていた悲鳴が、唐突に止まった。驚いたように頭を振り、硬直する。
新三郎の肉が離れたとき、まだ荒い息遣いによる胸の上下と、小さな、自然に漏れる呻きがとまっていない。目も固く閉じられている。しかし、無意識のうちに、こぼすまいとする。その仕草に、新三郎は感動としかいいようのないものをおぼえていた。下半身をよじらせてそのようにしているあやめはまだ、覚めきっていないようだ。
「あやめ……よくやった。」
「……なにが、でございます?」
あやめはようやく薄く目を開く。まだ空気を欲しがって開きがちな唇から、かろうじて言葉を出した。汗まみれの顔がおさなくみえたので、新三郎は奇妙な背徳感をおぼえた。さきほども、つい子どもの弓の稽古を褒めるような口調になっていたのは、張りつめた女の躰ではなく、小さな黒い髪の頭をみていたからだろう。
「……いや、おかしなことをいったな。そんな風に思ったまでだが、……」
ふと目をやると、あやめの手はまだ、叢から滴り落ちそうな液体を集めて、戻そうとしているようだ。
(それほどまでに……? あれほど厭がっておったものを。)
「あやめ、お前は変わったな。」
「そんなことは、ございますまい。」
(そうだ、わたくしはへんになった。新三郎の種を、本気で受けたがった。できるものなら、この男の赤子が欲しいと、まことに思った。あのさいちゅうの惑乱から醒めたいまですら、そう感じているではないか。)
(なぜだよ……なぜだよ、あやめ?)
「変わった。おれも、お前へのいとおしさが、変わったようだ。」
「どういうことでございましょうか?」
「どうもうまく、いえぬな。」
そういいながら、新三郎はあやめの肌に近づいたが、
「あ、……いけませぬ。もう少し、お腹を落ち着けてからでないと、またこぼれてしまいまする。」
あやめは本気でおそれ、制止した。もしも孕んだら、どうするつもりなのか、考えもできない自分がいる。
「お前……?」
「まずは少しだけ、お話しを下さい。そのあとで、……あっ?」
あやめは、ねだっていることになるのに気づき、顔を赤らめた。横をむいてしまう。
「うむ、物語りをしよう。すこし、休め。」
新三郎はあやめの裸の肩に褥をかけてやり、自分もその横に臥した。半身を起こしたあやめが汗を拭いてくれるのが快い。おれも拭いてやろう、とばかりに布をとろうとするが、あやめは笑って断る。
(ああ、笑顔だ。この女の笑みが、おれはみたくてたまらないのだ。)
「先ほどの、儂の言葉……」
「よくやった、と?」
「あれはあれだけの意味だ。お前がなにかひどく懸命にいたしておるので、健気にみえて、つい子どもを褒めるようないい方になってしまった。お前とは十五ほどちがうのか。娘のようなものであるな。」
「なにか、けしからぬことをいわれておいででは……?」
「そんなことはないわ。お前がかわいかった、といっているまでよ。……お前をいとおしく思う気持ちが、変わってきたといったな。」
「勿体ないけれども、面映ゆい。はずかしい。もう、ご勘弁ください。」
あやめは褥を頭からかぶってしまう。
(なにをいうてるんだ、なにをいうてるんだ、この男は……)
(ばかだ、この男も、わたくしも、この部屋にいるのは、阿房ばかりだ。)
「勘弁せぬ。いっておきたい。……お前を最初にみたときから、気にいった。この世にはこんな女がいるのか、と驚いた。一度抱いてみたい、と思うた。」
あやめは褥から顔を出し、はにかんだ笑みまじりで軽く睨んでみせる。
「お初にお目にかかったのは、ご書院ではございませぬか。」
あれはお仕事の場だったのでは、というのである。本気ではないが、からかってみたい。
新三郎は苦笑した。
「……悪いが、男はすぐにそうしたことを思う生き物じゃ。……そのうちに、欲が膨らんだ。一度だけではない、抱きつぶすくらいに抱いてやりたい。おれ無しではならぬ躰にしたい。できれば、心をおれに傾けさせたい、お前の持っているなにもかも奪って、お前をおれのものにしたい。ただそれだけだった。……あやめ、いまの儂の言葉―上方もののお前に聞き取れたか?」
「わかりましてございます。されど、もうおやめくださいませ。」
「むごいことをいうておるからな。聞きたくないか。」
「恥ずかしいのでございます。」
「ならば、いわせよ。今は違ってきたのだ。お前を欲しいという気持ちは変わらぬ。おれのあやめでいてほしい。おれだけのものであればいいと思っている。だが、それだけではなくなってきた。」
(お前のためになにかしてやりたい。お前に喜んでほしい。)
「そうだな。……お前のために、死んでやれたらどんなにいいか。」
「おやかたさまっ?」
「……そう驚くな。思うだけだ。死ぬか生きるかのときに、どう振る舞えるかは、わからん。命は惜しい。だが、もしもお前のためだというのなら、……」
喋りすぎていると思う新三郎は言葉を飲み込んだが、胸の中の言葉は、あやめをいとおしげに眺める表情で伝わったのだろう。
(お前のためなら、命もさほど惜しくはない気がしている。その代りにお前が生きてくれるとでもいうのなら。生き残って幸せになってくれるとでもいうのなら。)
「おやかたさま。」
「また、泣くか。話だけのことじゃ。……柄にもなくこんなことを喋ったが、ほんとうはいざとなればお前など盾にして、逃げ出す男かもしれぬ。」
あやめは目を潤ませながら、首を振りつづける。
(あなたは、お父上とは違う。)
「お前も男運の悪い女よ。」
新三郎は、なにか本当にすまなげな笑みをみせた。いいえ、とあやめは笑って首を振る。
「あやめは、蓋し(たぶん)、いま、おやかたさまのお側にいて、幸せなのでございますよ。」
(こんなことを、わたくしは前にもいった。十四郎さまにいった。なんて女……)
「けだし……? たぶん、か。」
新三郎はまた笑う。
「そうかの。堺は今井宗久殿の娘、納屋の御寮人が、こんな田舎で、大名になり損ねた、無位無官の平人に抱かれておる。」
「おやかたさまらしくもない、おっしゃりようと存じます。」
「そうだな。儂らしくもない。……うむ、つまり、それほどに、儂の躰はよかったか。みたところ、どうもそうだったの。ならば幸せでよいのか?」
あやめは真っ赤になり、新三郎の広い胸にのしかかった。乳のあたりの肉にそっと歯をたててみせる。新三郎は笑った。笑うとあやめは上下に揺れる。その様がおかしくて、新三郎はさらに笑った。あやめも笑い、新三郎の乳の毛を指で巻いて、弄ぶ。
「躰はおさまったか。……子種は落ち着いたのか。」
「はい。わたくしにはわかりませぬが、そうかとも存じます。」
(……そうであればよいと、まだわたくしは思っているっ?)
新三郎は体の上にあやめを持ち上げ、下から抱き締めた。
「お前がいま、儂の子を欲しいというてくれて、まことにうれしかった。もし子を産んでくれれば、儂は心置きなく、お前のために死ねる。」
「また、お亡くなりになるお話ですか。おやめくださいませ。」
「礼をいいたいのじゃ。儂が死んでも、子がいれば、忘れ去られることもない。そう、安心できる。」
「おやめくださいませ。御礼など。……忘れるなど。」
(わたくしがこの男の赤子を欲しいと思ってしまったのも、それか……? 討ち滅ぼしても、おぼえていたいとでもいうのか?)
「儂がお前にそうせよ、といったな。十四郎を忘れていけ、と。あれもむごかったな。殴るよりもむごかったかもしれぬ。許せよ。」
「……おやかたさま。」
「だが、今でも、それはそうしてほしい。十四郎を忘れてほしい。だが、忘れまい?」
「……」
「忘れさせるにはどうしたらよいか、考えあぐねておる。」
「おやかたさまらしいと存じます。」
ふたりは笑い、目があって、自然に唇を重ね、吸いあった。離れると、新三郎は首を曲げて、あやめの白く伸びた首筋にきつく印を押すように唇を当てた。あやめは切なさに息を大きく漏らす。
(欲しい……。また、欲しくなってしまった。また柔らかく、重みをかけて欲しい。この大きな躰にしがみつきたい。息が詰まるくらいに固く抱きあいたい。痛いほどに。そして躰を開いて、入ってきて貰いたくて、仕方がない。)
新三郎はあやめの肌を撫で、細いながらも豊かな腰の張りを確かめながら、ふと不思議に思った。
「あやめ、しかし、もう何年もお前に子種を与えてきたが、いっこうに孕まぬな。」
「あ、ああっ、申し訳ございませぬ!」
「お前を責めているのではない。こればかりはどうにもならぬ。無念じゃが、儂とお前は前世の縁が薄いのだろう。……いいたかったのは、な。だから、無理に子を宿そうなどと思い詰めるなよ。お前は躰が強くもないようだから……」
「縁? 縁でございますか?」
「子をなせるかどうかは、縁であろう。」
「縁というならば、おやかたさまとわたくしとのあいだにはきっと宿縁がございましょう?」
あやめの中で、鋭く突きあがるものがあった。
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