えぞのあやめ

とりみ ししょう

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五の段 顔  病臥(二)

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 なにか重たいものを抱えた気分で、新三郎のお召しもないだろう夜を、そのまま大舘の部屋で過ごしてしまった。
 新三郎の姿を自然に思い起こし、閨の表情まで浮かんでしまう。ときに慌てて、十四郎との楽しい記憶を掘り起こす。そんなことを続けた。

 次の日、お方さまの部屋で津軽の方に会うと、もう百年の知己のように親しく話しかけてきたが、とりとめもない赤ん坊の話ばかりである。それも、もうすぐに堺殿もお子を授かるだろうという前提で無邪気に話されるものだから、万が一にもそのようなことになればどうするかなどと考えた分、あやめは疲れた気分になってしまう。
(頭が痛い。)
 今宵もお召しはないのだが、なぜか店に戻る気が起きぬままに、やや重たさが取れぬ頭を抱えて、ひとりぼんやりと過ごしている。
(もとは交易の運上金あってのこととはいえ、その金をどう使えるかは、また別の器量が要る。誰もが、版図を簡単に広げられるものではない。)
(蠣崎新三郎慶広の器量は、なかなかのものなのじゃろう。もしも上方にでも生まれていれば、この程度では済まなかったであろう。)
 また、新三郎のことを考えていた。
(いや、上方の妖怪じみた策謀家どもに立ち混じっては、やはり単に武勇のひとにおわるか。といって文の嗜みは相当にあるらしいから、もしも生まれさえよければ、公方様のお役人でも勤まりそうじゃな。ごつい役人じゃが、今どきの上方侍は、そうあらねばならぬ。)
 いや、やはり似合わぬな、と一人笑った。能吏たる、一種の陰険さが足りぬ、やはり、一軍の将らしい。
(いっそ西国か、九州にでも生まれておれば、一国か二国を切り取る身にはなれたかもしれぬ。)
 ぼんやりと空想した。なにか頭が重く、まともな考えが何も起こらない。
(そういう新三郎ならば、わたくしは出会うこともなかったな。)
(もっとも、堺の今井としてやはり鉄砲を売っておったか。わたくしが、小西のご長男様(行長)のように、西国あたりの町に出店でも任されていたら、そんなあやつに会えたかもしれぬ。)
(ならば、よしんばひょんな拍子で男女になってしまっても、もっと楽しく、うれしかったかの?)
 
 と、新三郎が突然ひとりで入ってきた。ぎくりとした、という表現があたろう。
(まさか、またこの日のまだ高いうちに抱こうというのか。いや、それ以外に用はなかろう。この好色漢めが……!)
 あやめは身を固くしたが、新三郎はそれには気づかぬふりで、上方の事情について、確かめたかった名前を女に訊ねた。
 ひとり、心覚えをつけていて、空白が気になった。また、それはやはりあやめの顔を見たかった。
 あやめは逆にあてが外れたような気分になったが、思い出した固有名詞を教えてやる。
 新三郎は用を済ますと立ち去ろうとしたが、あやめが声をかける。なぜか、新三郎が去るのが惜しい気が、不意にしている。
「お手伝いできることがございましたら……。」
 今はない。新三郎は残念な気がしたが、そう告げると、同じく残念気にみえるあやめは重ねて、
「では、大舘のご帳簿を拝見いたしましょうか? 手前、いささかの心覚えがござりまして、お役にたてるやもしりませぬ。」
「それは心覚えあろうが……? 役にもたとうが……?」新三郎は驚いて、笑った。「噂に聞く、納屋の御寮人の南蛮渡りの不思議な大福帳に書き換えてくれるのか?」
「不思議ではござりませぬし、すべて今から書き換えは無理にございますけれど……」
(蠣崎家の役にたってくれようというのか。十四郎のためではなく、まずはおれのためだな、これは?)
そう思うと新三郎はほのぼのとうれしく思えたが、
「有り難いかもしれぬが、まずはやめておこう。大舘のあれやこれやの金の出し入れを納屋今井にすべて掴ませてしまってはならぬわ。大舘ごと乗っ取られてしまう。」
 大笑したが、それを聞いたあやめの顔色が冷えたのが気になった。
「たわぶれじゃ。気に掛けるでない。いずれ、ともに手の空いたときに、是非頼もう。」
「……」
 あやめの顔色が戻らない。ぐらり、と頭が揺れた。頭を落したまま、荒い息をついた。すぐに起き直ろうとして、躰が大きくかしぐ。
(なんだこやつ、様子がおかしい?)
「あやめ?」
 近寄ってみると、高い熱があるようだった。額に手を当ててやると、はにかむように微笑んで、
「ああ、ご無礼いたしました。申し訳ございませぬ。きっと風邪にござりましょう。少しだけ、休ませてくださりませ。」
「うむ、店の者を呼ばせよう。」
「……」
 あやめは少し考えて、頷いてみせた。その様子をみて、新三郎は思い直す。
「いや、やはり動かぬほうがよい。しばらくここで寝ておれ。納屋に戻って臥せっておっては、主人たるものの示しがつくまい。体を満足に起こせるようになってから、戻れ。」
(お袋様の知るおやかたさまとは、こうなのであろうな。)
 あやめは急に意識した熱っぽさと疲労感に戸惑いながら、わかった気がした。
 自分などにはみせなかった、新三郎の根のやさしいところというのは、たしかにあるのだ。あやめの立場を知って、考えてくれる。同じ、ひとの上に立つ者としてわかり、気を廻してくれるのだ。
 礼をいうと、新三郎が侍女に手早く命じ、病床を作らせる。
「いま、医者を呼ぶ。」
「それには及びませぬ。寝ておれば治りまする。」
「風邪をあなどるな。熱が高いが気になる。咳は出ぬか。胸が苦しうはないか。」
「はい。それは……。」
「とにかく、寝ておれ。医者が来る。」
「おやかたさまが……」あやめはつい、笑った。思い出してみると、もう熱にうなされたようなところが、このときあった。「堺の身をさほどにもお案じくださるとは。」
「当たり前であろう。」
「いつもは、さでもござりませぬようでしたが……?」
 新三郎は、押し黙った。
(あっ、わたくしは、なにを……。)
 あやめは硬直してしまう。なんと厭なことをいってしまったか。
(だが、そうであろう。新三郎はこれまで、何度もわたくしを傷つけた。それこそ、医師にかからねばならぬほどの目にたびたび遭わせた。なにをいまさら、心配めかして、風邪などに慌ててくれようか?)
(だが、だからといって、いまそれを皮肉って、何になる? 憂さ晴らしにでもなるか? なりはせぬ。何の得にもならぬ。こやつがまた怒れば、この熱っぽい頬でも一つ二つ張られるだけ。『図』のためにも、憎まれ、疑われてはならぬ。)
(それを、なぜ、わたくしは、軽口を叩いた?)
(軽口。そうだ、軽口を叩ける相手のように、新三郎をつい誤解した。お方さまや津軽殿の『おやかたさま』だと思ってしまって……。わたくしには、違うのに!)
 新三郎は、黙ってさびしげな目をこちらに向けた。
「も、申し訳」
「さような口を叩きおる元気があれば、まずは安心か。」
 新三郎は、平伏しようとするのを止めるように、あやめの頬にゆっくりと手をやり、撫ぜた。
「薬は、飲ませてやらぬぞ。熱冷ましの薬などは、わしとて知らぬし、作れぬ。」
 苦い笑いを浮かべて、悪い冗談をいう。
 あやめはその言葉に怯えたり、腹がたつという気持ちから遠い。自分が悪いことをいってしまった、という後悔がある。
「床ができたようじゃ。はやく横になって、医師を待て。」
「つい、ご無礼を申してしまいました。」
「熱ゆえの、うわ言……にしては、正鵠を射ておったわ。医師に診せてやるのは、これがはじめてであったな。」
 新三郎は先ほどよりは明るい口調で小さく笑うと、そんなつもりではございませんでした、と抗弁し、謝罪するのを無視して、あやめの躰を持ち上げた。そして、二、三歩のことだが、床まで抱いて運び、大事そうに下ろし、寝かせた。あやめは驚いて声も出ない。
「軽すぎる。だからどこかで風邪など貰う。もう少し、食べるがよいぞ。」
はい、と子どものようにあやめは床から頷いた。茫然としている。
「目を閉じよ。しっかりと寝ておれ。」

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