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四の段 地獄の花 絆(四)
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「あやめ?」
新三郎は、なかば喪神したらしい女の腹の上にいる。
「あやめ、聞こえぬか。」
「……。」
聞こえぬでいい、と新三郎は、まだ戻ってこないかにみえる女に話しかけた。
「儂は、今日、お前と話せた。やっと、お前に大切なことがいえた。お前の思いもきけて、なにか満足した。」
「……も……ったいのう、……ございます。」
あやめは、細い笛の音のような声を途切れ途切れに出した。まだ、目が開けられない。
新三郎も荒い息のまま、あやめの躰から離れた。
あやめはまだしばらく動けなかったが、新三郎が心配げな声をかけると、もう平気にございます、と呟き、のろのろと背中を向けて、丸まった。躰が内から痺れたようになって、腰から下が重い。息も切れた。汗の光る裸の背中がまだ上下している。
新三郎は、そこにあやめの寝衣を投げてやった。
(こんなに汗をかきよって……)
自分も汗まみれだが、新三郎はあやめが一所懸命に睦あいに打ち込んだかの様子に、褒めてやりたいような妙な気持ちに襲われる。
(褒美でもやりたいが、おれにはまだ、なにも、やれぬな。)
そう思うと歯がゆかったが、ふと考えついた。
「あやめ、頼みがある。お前の頼みをきくから、儂の頼みも聞け。」
「……たのみ?」
あやめはまだこちらを向かない、声も、まだ絞り出すようだ。
「あやめの頼みは、十四郎を殺さぬことであろう? わかった、蝦夷地でやつを追い立てることはすまい。罪人としてひっとらえさせたりもせぬ。」
「ああ、ありがとうござりまする。」
あやめは、重そうにこちらに頭を向けた。汗まみれの顔を輝かせていた。まことの感情であった。
ゆっくりと起き上がって、思わず手を合わせる。新三郎は微笑んだ。
「どこかで、野盗としてその場で討ちとられてしまうのは、知らぬぞ。」
「……そんなことはない、とわたくしは信じておりまする。」
「盗賊とは信じぬか。それとも、下っ端の侍に負けはせぬと信じるか。……よい。知行地を襲ったという不埒な振る舞いは許せぬが、死罪にまではせぬ。目こぼしできるかぎりはしてやろう。」
「では、松前に……?」
「……それは無理だ。赦免あるは期待するな。これからもできぬ。」
「ああ……」
肩が落ちた。もうこれで、自分の選び得る道はひとつになってしまったのかと思った。
「理由はわかろうな。」
「はい。」
(ご家中に再び迎え入れるわけにはいかないのだ。自分の政道の邪魔になりかねぬ。)
「わかるのだな。」
新三郎はひどくうれしげに頬をほころばせた。
(……新三郎はこんな顔をしたか。)
(待て。もしかすると松前に戻せぬのは、十四郎さまを、わたくしに近づけたくないからだ、とでもいうのか……?)
(そんなことで……?)
「そこで、儂の頼みじゃ。」
「はい、なんでもお聞きいたします。あのこと、」官位、とは裸のままでいいかねて、「上方にも急がせまする。」
「違うのだ。」
「はい?」
「弟のことを、忘れよ。いますぐにとはいわぬ。あれから三年か、まだ忘れられぬらしいな。無理はいわぬ。……だが、こうして儂らが睦みあう日が続くうちに、少しずつ、忘れて行け。」
「弟……。御曹子さまのことを……。」
あやめがなにかいおうとして口をひらきかけるのを、新三郎は目で制して、続けた。
「先ほどもいうた。儂は、おぬしの全てを我が物にしたい。」
「……身に余るお言葉にて。しかし、わたくしは」
「あいつとの縁も含めて、自分だといいたかろう。わかっている。だが、それまでは欲しくない。それだけは、どうしても要らんのだ。いや、お前に持ちつづけて欲しうないのだ。」
「もとより、昔のことでございますから。」
それは嘘なのであろう、と新三郎の目がいったが、あやめは構わずつづける。
「女というものは、そうは昔の男のことばかり、おぼえてはおりませんものですよ。殿方にはごあいにくさまかもしれませぬが、そこは、あっさりしたものでございます。」
「知っておるわ。ならばこそ、あれはまだお前にとって昔の男ではないのがわかるのだ。」
「……。」
「頼みをいった。すぐに聞け、というのではない。ただ、知っておけ。」
「おやかたさま。……」
「お前の頼みはたしかにうけた。安心せよ。」
新三郎は、寝衣をはおり、堺の方にあてがわれた、あまり上等ともいえぬ寝具に横たわった。
「今宵はここで眠る。おまえも疲れたであろう。待たずともよい。寝よ。」
あやめは、黙って躰を拭い、衣服を直すと、新三郎と同じ寝具に入った。新三郎の首のまわりの汗を拭ってやると、その躰に寄り添って臥せた。新三郎は驚いた顔になったが、あやめの肩を柔らかく抱く。
「おやかたさま……申し訳ございませぬ。」
「なにを謝る。何度もいわせるな。いますぐとはいわぬ。」
「はい。ありがたく、承っております。おおきにありがたく存じまする、おやかたさま。」
「礼などいらぬ。」
「……おやかたさま。さきほどのおやかたさまのお志、はじめてうかがい、まことに感服いたしました。」
「そうか。」
「アイノ……蝦夷地の人たちへの考え、天下と山丹、唐との間にある蝦夷島のありかた、……手前には、まだまだ思慮が足りませぬでした。」
「よく聞いていたものだな。」あの有様になって、と新三郎は笑った。
「……!」
あやめが黙ってしまったので新三郎は少し慌てたが、顔をみると、怒ったわけでもなさそうで、なにやら可愛い表情になっている。
(いまさらに、顔を赤くしおるか。)
「……やむをえぬ。お前は、五年前にはじめて蝦夷島に来たのだ。おれは奥州からもこの地を、絶えず見ていた。」
「……見ていらしたのですね。」
「当たり前だろう。おれは蠣崎の者だ。上方生まれのお前たちとは違う。」
「でございますが、……おそれながら、……よろしうございますでしょうか。……理屈を申しまして?」
「うむ。」
「……そもそも商いとは……そもそもひとの世になくてはならぬもので、……決して騙しとったり、奪い掠めるだけのものでは……ございませぬ。……お米を食べなくても生きていけましょうが、……民が豊かに暮らすには、……おやかたさまも……」
黙って聴いてやろうとしていた新三郎は、あやめが途切れ途切れに語るうちに、黙ってしまったのを訝しく思った。そして、
(あやめ、こいつ……?)
腕の中の女が、安らかな寝息をたてはじめているのに気づいた。いったい何に安堵したものか、かすかに微笑むようにして寝入っている。
(なんだ? 十四郎を狩りたてはせぬ、殺さぬ、と言ったとたんに、安心しおったか。子供のような女じゃな。)
新三郎は苦笑するような気になったが、女の寝顔は、どこまでも見飽きない。
(やっとひとつ、あやめを喜ばせてやれたというわけか?)
蠣崎新三郎にとって、ようやく恋が成就したと思えた一瞬であった。
新三郎は、なかば喪神したらしい女の腹の上にいる。
「あやめ、聞こえぬか。」
「……。」
聞こえぬでいい、と新三郎は、まだ戻ってこないかにみえる女に話しかけた。
「儂は、今日、お前と話せた。やっと、お前に大切なことがいえた。お前の思いもきけて、なにか満足した。」
「……も……ったいのう、……ございます。」
あやめは、細い笛の音のような声を途切れ途切れに出した。まだ、目が開けられない。
新三郎も荒い息のまま、あやめの躰から離れた。
あやめはまだしばらく動けなかったが、新三郎が心配げな声をかけると、もう平気にございます、と呟き、のろのろと背中を向けて、丸まった。躰が内から痺れたようになって、腰から下が重い。息も切れた。汗の光る裸の背中がまだ上下している。
新三郎は、そこにあやめの寝衣を投げてやった。
(こんなに汗をかきよって……)
自分も汗まみれだが、新三郎はあやめが一所懸命に睦あいに打ち込んだかの様子に、褒めてやりたいような妙な気持ちに襲われる。
(褒美でもやりたいが、おれにはまだ、なにも、やれぬな。)
そう思うと歯がゆかったが、ふと考えついた。
「あやめ、頼みがある。お前の頼みをきくから、儂の頼みも聞け。」
「……たのみ?」
あやめはまだこちらを向かない、声も、まだ絞り出すようだ。
「あやめの頼みは、十四郎を殺さぬことであろう? わかった、蝦夷地でやつを追い立てることはすまい。罪人としてひっとらえさせたりもせぬ。」
「ああ、ありがとうござりまする。」
あやめは、重そうにこちらに頭を向けた。汗まみれの顔を輝かせていた。まことの感情であった。
ゆっくりと起き上がって、思わず手を合わせる。新三郎は微笑んだ。
「どこかで、野盗としてその場で討ちとられてしまうのは、知らぬぞ。」
「……そんなことはない、とわたくしは信じておりまする。」
「盗賊とは信じぬか。それとも、下っ端の侍に負けはせぬと信じるか。……よい。知行地を襲ったという不埒な振る舞いは許せぬが、死罪にまではせぬ。目こぼしできるかぎりはしてやろう。」
「では、松前に……?」
「……それは無理だ。赦免あるは期待するな。これからもできぬ。」
「ああ……」
肩が落ちた。もうこれで、自分の選び得る道はひとつになってしまったのかと思った。
「理由はわかろうな。」
「はい。」
(ご家中に再び迎え入れるわけにはいかないのだ。自分の政道の邪魔になりかねぬ。)
「わかるのだな。」
新三郎はひどくうれしげに頬をほころばせた。
(……新三郎はこんな顔をしたか。)
(待て。もしかすると松前に戻せぬのは、十四郎さまを、わたくしに近づけたくないからだ、とでもいうのか……?)
(そんなことで……?)
「そこで、儂の頼みじゃ。」
「はい、なんでもお聞きいたします。あのこと、」官位、とは裸のままでいいかねて、「上方にも急がせまする。」
「違うのだ。」
「はい?」
「弟のことを、忘れよ。いますぐにとはいわぬ。あれから三年か、まだ忘れられぬらしいな。無理はいわぬ。……だが、こうして儂らが睦みあう日が続くうちに、少しずつ、忘れて行け。」
「弟……。御曹子さまのことを……。」
あやめがなにかいおうとして口をひらきかけるのを、新三郎は目で制して、続けた。
「先ほどもいうた。儂は、おぬしの全てを我が物にしたい。」
「……身に余るお言葉にて。しかし、わたくしは」
「あいつとの縁も含めて、自分だといいたかろう。わかっている。だが、それまでは欲しくない。それだけは、どうしても要らんのだ。いや、お前に持ちつづけて欲しうないのだ。」
「もとより、昔のことでございますから。」
それは嘘なのであろう、と新三郎の目がいったが、あやめは構わずつづける。
「女というものは、そうは昔の男のことばかり、おぼえてはおりませんものですよ。殿方にはごあいにくさまかもしれませぬが、そこは、あっさりしたものでございます。」
「知っておるわ。ならばこそ、あれはまだお前にとって昔の男ではないのがわかるのだ。」
「……。」
「頼みをいった。すぐに聞け、というのではない。ただ、知っておけ。」
「おやかたさま。……」
「お前の頼みはたしかにうけた。安心せよ。」
新三郎は、寝衣をはおり、堺の方にあてがわれた、あまり上等ともいえぬ寝具に横たわった。
「今宵はここで眠る。おまえも疲れたであろう。待たずともよい。寝よ。」
あやめは、黙って躰を拭い、衣服を直すと、新三郎と同じ寝具に入った。新三郎の首のまわりの汗を拭ってやると、その躰に寄り添って臥せた。新三郎は驚いた顔になったが、あやめの肩を柔らかく抱く。
「おやかたさま……申し訳ございませぬ。」
「なにを謝る。何度もいわせるな。いますぐとはいわぬ。」
「はい。ありがたく、承っております。おおきにありがたく存じまする、おやかたさま。」
「礼などいらぬ。」
「……おやかたさま。さきほどのおやかたさまのお志、はじめてうかがい、まことに感服いたしました。」
「そうか。」
「アイノ……蝦夷地の人たちへの考え、天下と山丹、唐との間にある蝦夷島のありかた、……手前には、まだまだ思慮が足りませぬでした。」
「よく聞いていたものだな。」あの有様になって、と新三郎は笑った。
「……!」
あやめが黙ってしまったので新三郎は少し慌てたが、顔をみると、怒ったわけでもなさそうで、なにやら可愛い表情になっている。
(いまさらに、顔を赤くしおるか。)
「……やむをえぬ。お前は、五年前にはじめて蝦夷島に来たのだ。おれは奥州からもこの地を、絶えず見ていた。」
「……見ていらしたのですね。」
「当たり前だろう。おれは蠣崎の者だ。上方生まれのお前たちとは違う。」
「でございますが、……おそれながら、……よろしうございますでしょうか。……理屈を申しまして?」
「うむ。」
「……そもそも商いとは……そもそもひとの世になくてはならぬもので、……決して騙しとったり、奪い掠めるだけのものでは……ございませぬ。……お米を食べなくても生きていけましょうが、……民が豊かに暮らすには、……おやかたさまも……」
黙って聴いてやろうとしていた新三郎は、あやめが途切れ途切れに語るうちに、黙ってしまったのを訝しく思った。そして、
(あやめ、こいつ……?)
腕の中の女が、安らかな寝息をたてはじめているのに気づいた。いったい何に安堵したものか、かすかに微笑むようにして寝入っている。
(なんだ? 十四郎を狩りたてはせぬ、殺さぬ、と言ったとたんに、安心しおったか。子供のような女じゃな。)
新三郎は苦笑するような気になったが、女の寝顔は、どこまでも見飽きない。
(やっとひとつ、あやめを喜ばせてやれたというわけか?)
蠣崎新三郎にとって、ようやく恋が成就したと思えた一瞬であった。
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