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三の段 なやみ ふたたび、松前(二)
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(蝦夷島が、こわいのか。)
そうであろう。あやめはこの二回目の蝦夷入りの先が、おそろしくてならない。
蠣崎新三郎のもとで、また「堺の方」として振る舞わされる。あの男に、また躰を貪られる。汚らしい真似をされる。
(十四郎さまとは、できなかったのに……。)
あやめは本能的に、十四郎とは全うできなかった行為が、新三郎との間では問題なくやれてしまうのだろうとわかり、覚悟していた。
(この口惜しさを思えば、何も恐れることはないはずなのに……。)
あやめは、自分の「図」を恐れていた。蠣崎新三郎を除き、十四郎を蝦夷島のよき支配者にしようという自分の計画が実現したとき、どれほどの血が流れているのかを想像しただけで、体が冷える。
(わたくしは頭がおかしいのではないか? 血に飢えているのか? 何の必要があって?)
上方での日々を平穏に過ごしたため、あやめの新三郎や蠣崎家への激しい復讐心はたしかになまっていた。蝦夷島の人びとへの同情や義侠心が、あやめの「正義」のモトだとすれば、それすらも堺納屋の「末の御寮人」としての生活の中で、薄れていたのである。
(十四郎さま、十四郎さま、十四郎さま……!)
だからあやめは、仏を念ずるように、十四郎に呼びかけるしかなかった。十四郎が誓ってくれた。もちかけた自分が、それを裏切るわけにはいかない。
十四郎の覇権のために道を作ってやりたい、というよりも、あの日の十四郎の誓いこそがふたりの確固とした絆であり、それを壊したくないという気持ちだけが強かった。ただそれだけが、あやめの行動を支えていたといってよい。
(しかし、なんという血なまぐさい誓いなのだ……。)
(どうしてそうなってしまったのだ?)
(わたくしは十四郎さまと夫婦になりたかった。そればかりのはずだったのに……?)
あやめのからだは、船の揺れとは違うものでぐらぐらと揺さぶられた。
春の海が、まだ冷たい色をたたえて、近い。生臭い潮の匂いがあらためて強く感じられた。
(ここで、この海に飛び込んでしまえば、わたくしも楽になるし、多くの人が死ななくて済むのか?)
「思い出すがよい、たわけが。」
女の声がした。
(えっ?)
周囲に女などいない。船尾に突っ立っているのは、自分だけだ。
(コハルのいたずらか? いや、あの声は……?)
「蠣崎の家の者が、お前になにをしたのか。考えよ。これからも飽かず何をされるのか。そして、思え。いまあの家を滅ぼさねば、お前のような目に遭う者はこれからも数知れぬ。」
(あの怨霊……?)
「あなた様は、大舘におられるのではないのですね。」
あやめは呟いた。
「お前のいるところに、わらわはいる。お前に憑いてやったのだからな。」
「やれやれ、ますますあなた様はわたくしの気の迷いが産んだものらしい。」
あやめは苦笑いした。朝の船上だからか、恐怖心というものが、あまり起こらない。ただ、先ほどまでもちろん絶えることのなかった波の音、風をはらんだ帆の音、水主たちの声がかき消され、しんと静まっているのは不気味に感じた。
「どうとでもいえ。同じことじゃ。頭がおかしくなったから空耳が聞こえると思おうが、わらわが憑いたと信じようが、かわりはない。」
「御意にございますな。」ふん、まるでわたくしのように理屈っぽい女だ、とあやめはまた苦笑いしかない。「……しかし、十四郎さまは、あなた様は成仏されているはずだとおっしゃった。わたくしは十四郎さまのお言葉を信じる女でございます。」
「あの子供に何がわかるか。あれはわらわの顔も知らぬ。すこしでも覚えているのは、新三郎くらいまでよ。奴とて、あのときは津軽などに居った。わらわのことは何も知らぬであろう。」
「あのとき……。要するに、あなた様は、お祀りあったくらいでは怨みが晴れぬ、さほどに並みはずれて、ご執念深い。」
「控えよ。」
「は。」
「しかし、その通りじゃ。そのわらわがお前に憑りついてやっている以上、お前は蠣崎家に仇なさずにはいられぬと知れ。厭でも、わらわが許してやらぬわ。わらわが祟るを、手助けさせてやろうぞ。」
「……つまり、何が起ころうと、何を起こそうと、悪いのはわたくしではなく、あなた様というわけか。ははは、おそれながら、なんとも、都合のよい夢じゃ。」
「夢と思うなら、それでよいぞ。わらわは、おぬしをずっと見ておいてやる。必ず、わが祟りを蠣崎家にもたらすように」
「御寮人さまっ!」
立ったまま体をぐらぐらと揺らせて、いまにも海に落ちんばかりのあやめをみつけ、コハルが駆け寄った。倒れたところを、危うく抱きとめる。
「お気を確かに……!」
「……うむ、立ったまま寝ておった。旅の疲れが出たのかな。」
「なにか、夢をご覧でしたでしょう。ぶつぶつと呟いておられた。」
「笑っておったろう?」
「左様でございましたか? なにか、お苦し気な……」
「いや、苦しくはなかった。苦しい気分は、むしろ、晴れたよ。」
「……? それならよろしうございますが?」
「やはり寝ておいたほうがよさそうじゃ。堺で鈍ってしまったかな。」
「お休みなされ。松前に着けば、御曹司さまのお手紙がお待ちですよ、きっと。」
それを聞いて、あやめは青ざめた顔で、にこりと笑った。
松前での荷揚げのころには、あやめは、すっかり納屋の御寮人らしくなっていた。出迎えの手代たちをねぎらって喜ばせつつ、きびきびと指図をし、運上金を取り立てにきた役人も愛想よくいなしてしまう。コハルの目からみても、から元気や無理というものではないようだ。
(喜んでいいのやら。)
「コハルさん、御寮人さまはすっかりお元気にお戻りのようで、結構でございます。お船ではずっとお疲れのご様子でしたが。」
仕事の合間を縫って走り寄ってきたトクがうれしげにいったので、コハルも、まあそうだろうと曖昧に頷く。ずいぶん大きくなったが、子どもにはわかるまい。
(松前についてしまえば、腹を括られたというわけか。)
船着きの祝いの振る舞い酒を港で済ませてしまうと、倉を荷でいっぱいにし、早速あれこれの商談が始まったところであとは手代たちに任せ、ようやく店屋敷に入った。
待っていた手代の与平の話を、番頭とともに聴く。変わったことはないようだった。
「このたびのお商い、当地の景気もよいようですから、首尾よくお船が増やせるほどの儲けになりましょうな。」
「景気はよいのかえ。」
「兵糧が要りますので、お米が高く売れます。」
「大舘が兵を出されるのだな。」
出立の前に新三郎が漏らした言葉があるし、出兵の話は、敦賀から堺にも届いていた。だから途中に立ち寄った湊でも、米をいつも以上に積んだ。松前湊の運上所が把握しても不思議がらない程度の鉄砲も、表向きにも運んでいる。これは蠣崎新三郎に思い切ってくれてやるくらいのつもりだ。
「ところで、あちらのほうはどうや。」
持ってこられた大福帳を閉じて、聞いた。
「箱館、……ウシュケシですか、あのお倉は、まだ空にしております。」
与平がやや声を潜めた。おや、店の中でもか、とあやめは、さあらぬ体でありながらも、気になる。
「左様であろう。まだ箱舘にはさしたる商いもない。今度船を増やせれば、あらためて大舘のお許しをいただかねばならぬな。」
あやめは誰かに聞かせるように、当たり障りなさげなことを喋る。
湊でさっそく開いている市の具合を別の手代から聞いて、満足した。こちらで別の店から引き抜いて雇っていた、若い手代だ。トクの新しい兄貴分、といった齢回りでしかない。アイノの血が入っていそうな顔だ。
店の上方者は、少しずつ減っていき、その分かどうか、若者が増える。
ようやく湯を使い、長い航海で躰にしみついた潮気を落とす。
「お疲れでございました。」
ミツが着替えを持ってくる。
「ミツや、久しいの。上方で少しのんびりさせてもろうたよ。お前は夏の戻りの船に乗るのかえ?」
「ミツは岸和田に戻ってもなんもあらへんですので。ずうっと、松前におります。」
「では、こちらで休みを貰って、どこかに遊びにいくがええ。ああ、お前に会いたがっていたぞ、あの、前の丁稚頭の」
全部聞く前に、嬌声のような悲鳴のようなものをあげて、ミツは立ち去ってしまう。
どうも、うちの店は子どもばかりじゃなあと、あやめは嘆息した。
「松前は堺のお店にくらべて、子どもばかりおるような気がする。」
軽い夜食をとりながら、コハルにいった。
「ご主人が、かくもお若いですからな。」
「わたくしのせいではないぞ。」
「御寮人さまも、失礼ながら、ミツあたりと大して変わらぬお齢まわりにみえるときがございますよ。」
「なに無礼を申すか。」
「どうでしょうか。……さて、こちらを。」
コハルは、小さな行李を開いた。書状の束である。
「お待ちかねでございましょう。」
たちまちあやめが可愛らしい嬌声を上げるかと思っていたコハルはにこにこしたが、気づいて、いぶかしい顔になる。
そうであろう。あやめはこの二回目の蝦夷入りの先が、おそろしくてならない。
蠣崎新三郎のもとで、また「堺の方」として振る舞わされる。あの男に、また躰を貪られる。汚らしい真似をされる。
(十四郎さまとは、できなかったのに……。)
あやめは本能的に、十四郎とは全うできなかった行為が、新三郎との間では問題なくやれてしまうのだろうとわかり、覚悟していた。
(この口惜しさを思えば、何も恐れることはないはずなのに……。)
あやめは、自分の「図」を恐れていた。蠣崎新三郎を除き、十四郎を蝦夷島のよき支配者にしようという自分の計画が実現したとき、どれほどの血が流れているのかを想像しただけで、体が冷える。
(わたくしは頭がおかしいのではないか? 血に飢えているのか? 何の必要があって?)
上方での日々を平穏に過ごしたため、あやめの新三郎や蠣崎家への激しい復讐心はたしかになまっていた。蝦夷島の人びとへの同情や義侠心が、あやめの「正義」のモトだとすれば、それすらも堺納屋の「末の御寮人」としての生活の中で、薄れていたのである。
(十四郎さま、十四郎さま、十四郎さま……!)
だからあやめは、仏を念ずるように、十四郎に呼びかけるしかなかった。十四郎が誓ってくれた。もちかけた自分が、それを裏切るわけにはいかない。
十四郎の覇権のために道を作ってやりたい、というよりも、あの日の十四郎の誓いこそがふたりの確固とした絆であり、それを壊したくないという気持ちだけが強かった。ただそれだけが、あやめの行動を支えていたといってよい。
(しかし、なんという血なまぐさい誓いなのだ……。)
(どうしてそうなってしまったのだ?)
(わたくしは十四郎さまと夫婦になりたかった。そればかりのはずだったのに……?)
あやめのからだは、船の揺れとは違うものでぐらぐらと揺さぶられた。
春の海が、まだ冷たい色をたたえて、近い。生臭い潮の匂いがあらためて強く感じられた。
(ここで、この海に飛び込んでしまえば、わたくしも楽になるし、多くの人が死ななくて済むのか?)
「思い出すがよい、たわけが。」
女の声がした。
(えっ?)
周囲に女などいない。船尾に突っ立っているのは、自分だけだ。
(コハルのいたずらか? いや、あの声は……?)
「蠣崎の家の者が、お前になにをしたのか。考えよ。これからも飽かず何をされるのか。そして、思え。いまあの家を滅ぼさねば、お前のような目に遭う者はこれからも数知れぬ。」
(あの怨霊……?)
「あなた様は、大舘におられるのではないのですね。」
あやめは呟いた。
「お前のいるところに、わらわはいる。お前に憑いてやったのだからな。」
「やれやれ、ますますあなた様はわたくしの気の迷いが産んだものらしい。」
あやめは苦笑いした。朝の船上だからか、恐怖心というものが、あまり起こらない。ただ、先ほどまでもちろん絶えることのなかった波の音、風をはらんだ帆の音、水主たちの声がかき消され、しんと静まっているのは不気味に感じた。
「どうとでもいえ。同じことじゃ。頭がおかしくなったから空耳が聞こえると思おうが、わらわが憑いたと信じようが、かわりはない。」
「御意にございますな。」ふん、まるでわたくしのように理屈っぽい女だ、とあやめはまた苦笑いしかない。「……しかし、十四郎さまは、あなた様は成仏されているはずだとおっしゃった。わたくしは十四郎さまのお言葉を信じる女でございます。」
「あの子供に何がわかるか。あれはわらわの顔も知らぬ。すこしでも覚えているのは、新三郎くらいまでよ。奴とて、あのときは津軽などに居った。わらわのことは何も知らぬであろう。」
「あのとき……。要するに、あなた様は、お祀りあったくらいでは怨みが晴れぬ、さほどに並みはずれて、ご執念深い。」
「控えよ。」
「は。」
「しかし、その通りじゃ。そのわらわがお前に憑りついてやっている以上、お前は蠣崎家に仇なさずにはいられぬと知れ。厭でも、わらわが許してやらぬわ。わらわが祟るを、手助けさせてやろうぞ。」
「……つまり、何が起ころうと、何を起こそうと、悪いのはわたくしではなく、あなた様というわけか。ははは、おそれながら、なんとも、都合のよい夢じゃ。」
「夢と思うなら、それでよいぞ。わらわは、おぬしをずっと見ておいてやる。必ず、わが祟りを蠣崎家にもたらすように」
「御寮人さまっ!」
立ったまま体をぐらぐらと揺らせて、いまにも海に落ちんばかりのあやめをみつけ、コハルが駆け寄った。倒れたところを、危うく抱きとめる。
「お気を確かに……!」
「……うむ、立ったまま寝ておった。旅の疲れが出たのかな。」
「なにか、夢をご覧でしたでしょう。ぶつぶつと呟いておられた。」
「笑っておったろう?」
「左様でございましたか? なにか、お苦し気な……」
「いや、苦しくはなかった。苦しい気分は、むしろ、晴れたよ。」
「……? それならよろしうございますが?」
「やはり寝ておいたほうがよさそうじゃ。堺で鈍ってしまったかな。」
「お休みなされ。松前に着けば、御曹司さまのお手紙がお待ちですよ、きっと。」
それを聞いて、あやめは青ざめた顔で、にこりと笑った。
松前での荷揚げのころには、あやめは、すっかり納屋の御寮人らしくなっていた。出迎えの手代たちをねぎらって喜ばせつつ、きびきびと指図をし、運上金を取り立てにきた役人も愛想よくいなしてしまう。コハルの目からみても、から元気や無理というものではないようだ。
(喜んでいいのやら。)
「コハルさん、御寮人さまはすっかりお元気にお戻りのようで、結構でございます。お船ではずっとお疲れのご様子でしたが。」
仕事の合間を縫って走り寄ってきたトクがうれしげにいったので、コハルも、まあそうだろうと曖昧に頷く。ずいぶん大きくなったが、子どもにはわかるまい。
(松前についてしまえば、腹を括られたというわけか。)
船着きの祝いの振る舞い酒を港で済ませてしまうと、倉を荷でいっぱいにし、早速あれこれの商談が始まったところであとは手代たちに任せ、ようやく店屋敷に入った。
待っていた手代の与平の話を、番頭とともに聴く。変わったことはないようだった。
「このたびのお商い、当地の景気もよいようですから、首尾よくお船が増やせるほどの儲けになりましょうな。」
「景気はよいのかえ。」
「兵糧が要りますので、お米が高く売れます。」
「大舘が兵を出されるのだな。」
出立の前に新三郎が漏らした言葉があるし、出兵の話は、敦賀から堺にも届いていた。だから途中に立ち寄った湊でも、米をいつも以上に積んだ。松前湊の運上所が把握しても不思議がらない程度の鉄砲も、表向きにも運んでいる。これは蠣崎新三郎に思い切ってくれてやるくらいのつもりだ。
「ところで、あちらのほうはどうや。」
持ってこられた大福帳を閉じて、聞いた。
「箱館、……ウシュケシですか、あのお倉は、まだ空にしております。」
与平がやや声を潜めた。おや、店の中でもか、とあやめは、さあらぬ体でありながらも、気になる。
「左様であろう。まだ箱舘にはさしたる商いもない。今度船を増やせれば、あらためて大舘のお許しをいただかねばならぬな。」
あやめは誰かに聞かせるように、当たり障りなさげなことを喋る。
湊でさっそく開いている市の具合を別の手代から聞いて、満足した。こちらで別の店から引き抜いて雇っていた、若い手代だ。トクの新しい兄貴分、といった齢回りでしかない。アイノの血が入っていそうな顔だ。
店の上方者は、少しずつ減っていき、その分かどうか、若者が増える。
ようやく湯を使い、長い航海で躰にしみついた潮気を落とす。
「お疲れでございました。」
ミツが着替えを持ってくる。
「ミツや、久しいの。上方で少しのんびりさせてもろうたよ。お前は夏の戻りの船に乗るのかえ?」
「ミツは岸和田に戻ってもなんもあらへんですので。ずうっと、松前におります。」
「では、こちらで休みを貰って、どこかに遊びにいくがええ。ああ、お前に会いたがっていたぞ、あの、前の丁稚頭の」
全部聞く前に、嬌声のような悲鳴のようなものをあげて、ミツは立ち去ってしまう。
どうも、うちの店は子どもばかりじゃなあと、あやめは嘆息した。
「松前は堺のお店にくらべて、子どもばかりおるような気がする。」
軽い夜食をとりながら、コハルにいった。
「ご主人が、かくもお若いですからな。」
「わたくしのせいではないぞ。」
「御寮人さまも、失礼ながら、ミツあたりと大して変わらぬお齢まわりにみえるときがございますよ。」
「なに無礼を申すか。」
「どうでしょうか。……さて、こちらを。」
コハルは、小さな行李を開いた。書状の束である。
「お待ちかねでございましょう。」
たちまちあやめが可愛らしい嬌声を上げるかと思っていたコハルはにこにこしたが、気づいて、いぶかしい顔になる。
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