えぞのあやめ

とりみ ししょう

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三の段  なやみ  故郷の日々(四)

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「あ、待て、……待って、コハル。」
 あやめは慌てて、半身を起こした。コハルの影が消えてしまう。立ち上がり、よろめきながら障子を開け放ったが、濡れ縁の端のどちら側にも姿はない。妙に明るいと思ったら、雪が薄く庭に降り積もっているが、その白くなった庭にもいない。あやめはまた夜具の上に座り込んだ。
(どうしよう……? コハルの手が借りられない。どころか、コハルのこと、もう松前納屋をどう引き揚げて、いきがけの駄賃に新三郎をどう殺してやろうかと考えはじめたに違いない。それでは、困る!)
「お困りでございますか、御寮人さま」
コハルはいつの間にか、襖の前に座っていた。
「コハル……おぬしっ?」
あやめは腹がたった。
「からかいよって!」
「見たところ、やはり今日は一日お休みなされ。躰がお疲れだと、悪いことばかりお考えになって、よくありませぬ。だいたい、御寮人さまは上方に戻られてから、すこしもじっとしておられぬ。それではお疲れも無理はない。せっかくの雪景色でも眺めながら、お休みになることじゃ。」
「うるさい! 雪などもう、少しも珍しくないわ。寒い。障子を閉めてくれ。……いや、いい! わたくしが閉める。だいたい、雪というのはこんなものではなかろう。これで積もったつもりかえっ?」
安心したやら腹立たしいやらで、あやめは支離滅裂なことをいう。コハルは声をたてて笑った。
「ははは、もう御寮人さまも蝦夷島のひとになられましたなあ。」
「……なにをどう繰り言しようと、松前に帰らぬではいられまい、といいたいのじゃな。」
「いえ、本当にコハルは、『図』など破っていただきたい。そうしてくださればどんなによかろうと存じておりますよ。」
「十四郎さまがいらっしゃるのだ。もう、そんなわけにいくか。」
「もう。……左様でございますな。……御寮人さまはそうやって、ますます深みにはまられていく。」
「そのとおりじゃ。」
あやめは怒りながらもコハルのいうことを聞いて、自分から夜具に戻る。コハルにそっぽを向いた形で、障子のほうを眺めて横になっている。
「まだ、引き返せまするよ。」
「引き返さぬ。」
「儂は、御寮人さまのかわいらしい、お綺麗な手が血で真っ赤に染まるのをみたくはないのじゃ。」
 あやめは夜着の下で凍りつく。いうべき言葉がみつからない。
(案ずるな、ともいえぬ。その通りなのだから。わたくしは手を血で汚そうとしている。そうしたがっている。)
「……しかしな、もしそうしなければ、わたくしは、わたくしは……」
「存じております。コハルは御寮人さまの『図』にお力添えする。それ以外は考えませぬ。もう、そう決めたのだ。ヨイチから帰って以来は……。」
(御寮人さまのお心は、もうそうでなければ繕えぬのではないか!)
「……やはり、寝てもいられないようじゃの。」
あやめはコハルに背中を向けたまま、起き上がった。ことさらに感情を入れない、気のなさげな声で、
「鍛冶屋町にいく。鉄砲鍛冶場で話をきく。」
「寝ておられよというに。」
「寝ている気にならぬ。町を歩いて頭を冷やしたい。」
「いけませぬ。蝦夷島で三年お暮しになった。ご無理も多すぎる。どうも、労咳が怖い。」
 あやめは内心でぎくりとした。労咳は母親の死んだ病気であると聞く。労咳もちの筋、というのは何度も姉たちにいわれて、幼い頃に心に張りついた不安だった。
 だが、立ち上がって着替えはじめてしまった以上、ばつが悪い。(あやめはコハルの前だと平気で裸になって着替えられる。)
「これは風邪じゃ。取越し苦労よ。」
「御曹司さまもそういわれていましたよ。」
「……十四郎さまが、なんと?」
 帯にかけた手を止めた。

「コハル殿。おぬしにだけは、御寮人殿も打ち明けるだろうから、まず拙者からいうておく。」
 ヨイチを去る早朝、船着き場に向かう道にあやめはまだ出てこない。十四郎はコハルに囁いた。
「すまぬ。わが兄新三郎の暴虐は、御寮人殿のお心も深く傷つけていた。……それはいうまでもない。じゃが、すこし違うのだ。……夜、拙者と御寮人殿は、満足に睦みあうことができなかった。あやめ殿の引きつけや震えがとまらぬ。どうしても、先に進めなかった。どうしても……あけすけなことを申しておるが、おぬしらならば、治す方法があるかもしれぬと思うてな。……そうか、やはり。……心気の病ばかりは、そうなのか。……では、頼まれてくれぬか。堺に戻ったら、あやめ殿はそこでゆっくり養生してもらいたいのだ。なんとか、蝦夷島に帰らずに済ますことはできぬか?」
「今いわれたとおりであれば、御寮人さまは決して堺にお戻りのままではありますまい。必ず、松前に来られまする。そしてここには、御曹司さまがおられる。」
「左様であろうな。……では、せめて松前戻りの船までは、上方の温かい秋冬、ゆっくりと身を休めてもらいたいのだ。拙者の仕事は、あやめ殿に誓った通り、必ず進める。できれば堺から見守っていてほしいが、……いや、それは無理なのか。」
「お伝えいたします。」
「松前は、労咳が多い。和人の暮らしぶりは、この土地の冬に合わぬのであろう。あやめ殿はああした、細く華奢なおつくり。」
「それは御曹司さまが一番ご存じ。」
「いやいや、……なにをいうか、お召し物の上からもわかるじゃろう?……心気が乱れておられる。労咳にだけは気をつけねば。堺で躰を労わり、ゆるりとされて欲しいのだ。」

「コハルは、また余計なことを。十四郎さままで、からかうとは。」
「とにかく、御曹司さまのお言葉ですぞ。」
「寝るとも。わたくしとて労咳は怖い。」
 あやめは寝返りをうって、コハルのほうをむく。笑っていた。
「ゆっくり養生して、二、三日もしたら起きだして、どこかでおいしいものでもいただこうか。供せぬか、コハル。」
「よろしうございますな。」
「そして、夏にならぬうちに、涼しい蝦夷島に戻ろう。……十四郎さまが待っていて下さる気がしてならぬ。松前にはいらっしゃらないとはいえ。」
「いや、いらっしゃるかもしれませぬよ。」
「え。」
「いや、さすがにそれは、いい過ぎました。申し訳ございませぬ。ただ、似たようなお喜びはおありです。」
「お文か!」
「左様に。いまここに一通ございますが、松前には春には山ほどのお手紙が、納屋のお店に届けられましょう。」
 夜具のなかで、あやめは喜びに足をばたばたさせたいほどだったが、
「なぜ、それを最初に出さぬ?」
 もしヨイチで託されたのなら、何か月おいておいたか。
「この一通だけは、陸を渡って堺に参りました。いささかの手間が要り申した。すぐにお見せしては、もったいない気がいたしましてな。」

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