えぞのあやめ

とりみ ししょう

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二の段 蠣崎家のほうへ  誓い(七)

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 もとより、十四郎は新三郎が嫌いではなかった。
 齢も親子ほど違う「お偉い方」である新三郎兄上との接触は薄かったが、津軽で長く暮らし、その後も出羽など奥州との行き来が続いていた若い嫡男の兄は、幼い十四郎に意地悪ではなかった。甘くはなかったが、決して冷たくもむごくもなかった。
 大人だから当然ともいえたが、顔のことをからかったりしない。母が卑しいと蔑んだ素振りもなかった。ときに遊び半分で、手をとって剣を教えてくれたことすらある。学問がいるといって、自分の本をくれたこともある。暇にまかせて、碁の手ほどきまでしてくれた。
 兄が海を渡って奥州に出掛けてしまえばそれきりであったから、長続きもしないものだったが、剣も学問も碁も、新三郎がまず教えてくれたものは、病弱な少年のからだに染みついた。
 若い惣領の自覚から、自分のような、見るからに家中ではみ出した子どもにすら冷淡ではなかっただけなのだろうが、それはそれで立派だとすら、十四郎は思っていた。
 長じてからは、まず諱の一字を出羽の檜山屋形から貰ってきてくれたのが、この兄だった。兄弟の誰も貰っていない「愛」の字を、おそろしいという噂の檜山屋形さまに頼んで、いただいてくれたのだという。
 別に出たくもない大舘の書院の間での儀礼的な席に、必ず十四郎を加えたのも、父ではなく、若い名代だと聞いた。それを教えてくれたのは、やさしい与三郎兄だった。あれは元服したてで、ああした席は苦手のようですが、というと、新三郎はいったのだという。
「億劫に思ってはならぬ、と諭しておけ。あいつもおれの下で働く者ではないか。年寄りどもではなく、お前たち弟がおれの家人だ。あいつなども、いまからマツリゴトの匂いを嗅いでおくといいのだ。」
(あの方は、おれのような顔かたちの者も、弟で、家の者だと思ってくれている。)
 十四郎は感激した。与三郎もにこにこして、ご名代にご恩返しできるようにせよ、といった。

 長じてから親しさは増していた気がする。
 あまり物怖じしない十四郎は、忙しいご名代に気軽に話しかけることすら少なくなかった。他の兄弟は新三郎の機嫌を損ねるのを恐れる節も大いにあるので、ある頃までは新三郎と一番親しく言葉を交わせるのは、ほかならぬ十四郎だけであったといっていい。十四郎が家中で最も取るに足らぬ存在だからでもあったが、かれ自身はそれが気楽でいいと思っていた。
「あの堺から来た女商人は面白いですね。」
「ああ、堺というのは変わった町らしいな。あんな女がいる。」
「あの御仁がとくに変わり者なんですよ。納屋の店の者もそういっております。」
「なんだお前、納屋に出入りしているのか。」
 そういったときに新三郎兄が少し羨ましいような口調になったので、十四郎は内心でおかしかった。このひとはこう見えて歌なども上手で、上方への憧れも強いからな、と思った。
「納屋に、なんの用があるのだ。」
「蝦夷地の土産をもっていくと、色々美味い物を食わせて貰えるんです。」
 アイノに渡してやる鉄砲を工面できないか、尋ねに行けと与三郎兄にいわれまして、……とはさすがにこの若者もいわない方がいいと思ったのだが、実際のところ、この会話のころには十四郎が足繁く納屋に通うのは、あやめの顔をみるためだけだった。鉄砲など匂いもかげない。だから、さほど嘘をついているつもりはなかった。
(思えば、自分は何と無邪気すぎたか。)
 政事の厳しさやむごさに、少年期を抜けたばかりの十四郎は、なにも気づかなかった。いま少し自分に知恵があれば、大ごとにしない道はあった。与三郎が腹を切るまでもなく、新三郎兄にあらかじめ釈明しておけたはずだと、蝦夷地に流された今になって後悔している。
「それにしてもお前はすっかり、蝦夷地ばかりになったな。天下は広い。お前なども、与三郎にくっついて蝦夷地ばかり、ではなく、せめて出羽くらい見ておけ。それこそ、納屋の船にでも乗せて貰うがよい。」
「ご名代様こそ。蝦夷代官をお継ぎになられるのですから、お治めになる蝦夷地ももう少しご覧あった方が……」
「……そんなことをおれにいえるのはお前だけだな、十四郎。」
「あっ、ご無礼申し上げました。」
「与三郎の口真似だろう、いまのは?」
「いえ、そうはございませぬ!」
 十四郎は震えあがった。与三郎兄に迷惑をかけてしまってはならない。
 新三郎は、ふふ、と笑い捨てると、
「ならばよいが、いまお前は、迂闊にマツリゴトを語ったのだぞ。気をつけろ。武家が政事を語るときは、いつでも腹を切れる覚悟でせよ。」
「……はい、肝に銘じます。」
「それでよい。……十四郎、お前、ほんとうに上方でもみて参ったらどうだ。家中に上方かぜを吹かす奴がひとりではうるさいが、お前も吹かしてくれると、かえって助かる。」
 十四郎は笑った。なにかといえば近江で前右大臣に謁見したのが自慢の定広のことをいっているのだろう。
 新三郎も笑っている。あの兄が上方に行けたのは、誰あろう新三郎兄が、秋田安東家の上洛につき従う者としてかれを推挙してやったたからだった。家臣として蠣崎家から一人を出すのなら、定広が適任だと父の季広に告げた。
「新三郎、それでよいのか。」
 父季広は訝しく思ったらしい。
 五男は正室の子ではなくとも、継嗣に擬される節も当時はあった。そこをさらに主家に随行ともなれば、定広の地位は一層上がるではないか。
 もともと三男でしかなかった新三郎は、津軽中央部三郡を統治していた浪岡北畠氏に長く預けられていた。季広は、主家とその対抗者である南部家とを秤にかけ、南部家が客将として保護してきた南北朝以来の名族北畠氏の宗家に、まだ幼いといってよかった息子の一人を送りこんだのである。新三郎は「浪岡御所」こと浪岡北畠氏の猶子として元服させて貰ったが、そのまま浪岡家の一族に準じる待遇を受け、北畠侍として出仕を続けるはずだった。
 ところが、家督を譲られるはずの長男と次男の怪死で、新三郎は蠣崎家の長子の地位には自動的に着いた。だが、家督相続に時間がかかったのは、この南部氏の影響下にあった名家への出仕という経歴を、ほんらいの主家である秋田安東家の前で憚るところができてしまったからである。ならばいっそ後ろ盾になってくれるはずの浪岡家は、先年、内紛のために急速に家運傾き、ついには津軽大浦氏の攻撃で滅亡してしまった。新三郎の家督相続は容易なことではかったのだった。
「はい。いまの拙者は、この松前で父上―おやかたさまのお仕事を見習うが先。」
 なるほど、代を継ぐべきはあくまで自分という自信があるか、と父は内心で舌を巻いた。
 それにしても、いわば自分の代りだと送り出してやるのは、腹違いの弟の上洛への憧れをかなえてやろうというのに違いなかった。
(新三郎兄のおこころは広い。この方がお世継ぎ、ご名代になられてよかった。)
 新三郎は妙に、この異相の末の弟に、天下を見せたがった。
「お前なら、一年や二年、ここにいなくてもいいではないか。」
「拙者も蠣崎の侍でござる。それほど暇ではない。」
 十四郎はやや憤慨する気持ちになったが、つづく兄の言葉には同情した。継嗣というのはやはり大変なものだと、背筋を伸ばす思いだった。
「おれも、堺とやらに一度は行ってみたいものだが……」

 その後、あの事件で自分を松前から追放したのも新三郎だったが、厳しすぎる、御沙汰の判断が誤っているとは思っても、新三郎兄の肉を喰らいたいとまで憎む気持ちからは遠かった。
 これは部屋住みの厄介者の根性といえばそれまでだが、生来、ひとを憎む心に乏しいのかもしれない。憎悪は覇気の点火剤でもあろうし、もしも十四郎がのちの世でいう革命家でもあれば、人の形をとったこの世の不正を激しく憎悪する能力の乏しさは、致命的であるにちがいない。
 現に与三郎が自害に追い込まれた時も、それ自体は無性に悲しくあったが、その仇をとりたいとも思えなかった。最初から、新三郎への謀反の気持ちもなく、かれこそが仇だとも、なぜか思えなかったのである。自分の命は助けられたので、有り難いとすら思えた。自分を矢でねらわせたのも、新三郎ではないと確信していた。
 寺に送られただけではなく、追放と決まれば、それは愕然とはした。だが、すぐにあやめとの恋に落ちてしまったので、大舘の中にいる新三郎兄への感情など、世話になっていた寺の住侍である次兄(四男)がいぶかしがるほどに、きれいに忘れてしまったといってよかった。
 
 あやめのことですら、恋人を暴力で奪われた怒りがすぐに炸裂したわけではない。正直いえば、まずはとても現実のこととは信じられなかった。敬慕していた新三郎の行動が意外でしかなく、驚く気持ちばかりが強い。

 十四郎には、あやめにもいっていないことがある。
 寺に押し込められてから、大舘に上がれたのは出発前の最後に一度きりだったが、そこでの新三郎は、ふたりの仲をどうやら知っていて、それでいて、また以前のように、表面はぶっきらぼうでいて、やさしかったのである。
父である代官の部屋で辞去したとき、名代は廊下に自分を追ってきて、驚いている自分に、こっそりと囁いた。
「納屋の御寮人が、お前によくしてくれているな?」
 なんとも答えかねて黙っていると、新三郎は奇妙に厳しい表情でいった。
「お前は母の村に行こうとしているが、道中、よくよく考えよ。」
「ご名代様は、なにをいわれようとしているのです?」
「無礼者。問い返すでないわ。……愚か者が。……よいか、考えよ。先に、重い約定があろう。決してひとのまごころを裏切ってはならぬぞ。」
(お見通しか!)
 十四郎は息を呑んだものである。新三郎はそのまま自分を追い抜くように去った。
 出発の日すら、思い返せば、あれはたしかに兄弟でただ一人だけ、見送りに来てくれたのだ。おれのいったことを思いだせ、というのであったのではないか。
(お前は何も悪くないとでもいうのか、と叱られたな。……その通りだ。おれは身勝手にも、あやめを裏切った。だが、今からでも考え直せるのだぞ、と兄は諭してくれていたのだ。)
 自分はその忠言に従わなかった。

(だから、あやめはこんな目にあったのだ……。)
 あやめの真心は現に自分だけに向けられているという自信があるためか、想い女を奪われたという怒りすら、あやめが思うほどでもなく、まずは薄かった。(あやめが、もしそれを知ったら嘆いただろう。)
 ただ心身ともに痛めつけられたあやめが可哀相でたまらないという思いや、あやめの災難の元をつくった自分への罪の意識だけが、まず十四郎を襲っていた。新三郎ではなく、思うのは、あやめのことばかりであった。
 だが、目の前で震えて泣いている女をみたとき、戦火の村を思い出した。無駄に殺されてしまった子どもたちの姿が、形のいい女の裸の背中に重なった。
(あやめ。すまぬ。哀れな、あやめ……)
(なぜ、そなたがこんなに目にあわねばならぬ?)
(すまぬ。すべて、おれのせいだ。おれは、なんという過ちを犯したか。)
(どうか許してくれ。あやめ……)
 十四郎は、歔欷に動いている、女の白い背中の線と浮きだした肩の骨をみて、不思議な気持ちに打たれていた。不幸な女の躰が、しかし、なんと美しいのだろう。
(こんなに美しいひとが、なぜ悲嘆にくれて、身を縮こまらせていねばならぬか。)
(あやめ。そなたは名前のとおり、花のようだ。とてもいえぬことだが、泣いている、泣き喚いている顔ですら、見とれるほどに綺麗だ。)
(その花を……!)
(ご名代が、あの兄上が、こんな風に……!)

 十四郎には、あの絶望的な戦いのなかで噴き上がった怒りが蘇っていた。強い怒りがたぎるとき、十四郎は一個の戦闘者として、味方をも怯ませるほど凄まじい。現に、自分の命に背き、頑是ない子どもたちに命を捨てさせた同胞を、とても許せず、瞬時に斬り伏せた。自分は誰でも斬れる。
 非道の兄など迷いなく斬り殺せるだろうし、そうしなければならないと思った。
「……堺のあやめの花を踏みつけ、枯らせようとする者どもに、誅をくわえる。」
 十四郎の胸の中で、あやめは悲鳴のような狂喜の叫びをあげた。
「まことにござりますか!」
「まことじゃ。非道を許してはならぬ。蠣崎慶広がもしそれならば、除かねばならぬ。討たねばならぬのだろう。」
「……十四郎さま。わたくしは、あなた様がこの蝦夷島にいらっしゃるかぎり、もう堺の者ではございませぬ。蝦夷島のあやめにございますよ。」
「そうだな。おれは、蝦夷のあやめを守る。」
十四郎はさらに固く、あやめを抱いた。
 あやめは、絶望の底から自分の身が浮上していくのを感じている。
(いってくださった。ついに、ご決意くださった。……このお方のおかげで、わたくしは生きていける!)
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