えぞのあやめ

とりみ ししょう

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二の段 蠣崎家のほうへ  誓い(三)

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 あやめと十四郎は、固く抱き合っていた。
 手燭をもって狭い小屋に入り、灯りをつくったところで、無言で抱き合った。板の間に座り、ひたすらに抱きしめ合う。
「待っていた……待っていたのだ。」
 十四郎がやがて呟いた。
 あやめは満ち足りていた。十四郎の懐かしい匂いと体温に包まれ、心の底からの笑みが浮かんで、消えない。
「十四郎さまがいる。……十四郎さまがいらっしゃる。」
 うわごとのようにつぶやいた。
(もう、何もいらない。こうしているだけでよい。)
「どういたしましょう。こうしていると、心がしずまって(落ち着いて)しまって、いけませぬ。」
「いけないことはあるまい。」
 十四郎は感に堪えたような息を漏らして、あやめの肩を抱きなおした。
「十四郎さま……かたじけのうございます。お会いできました。」
「なぜ、礼など。」
「わたくしとのご約定をお守りくださいました。こうして、生きてお会いくださっております。」
「それだけは守れ申した。それだけしか……いや、そもそも、わたしは……」
「いいえ。……どんなにかおつらい日々だったか、伺っております。そして、遠い旅。よくぞご無事にお帰りくださった。よくぞあやめとの約束をお忘れになられなかった。それが、ありがたく、うれしうございます。」
「忘れるものか。」
「いまは、もう、こうしていらっしゃる。それだけでもう、……それだけでもう、わたくしは、いま、羽化登仙の想いでございますよ。」
「それはまた。」
 十四郎はようやく笑った。
「まことでございます。」
 あやめは微笑む。
「まことに、そうなのでございます。」
 十四郎の胸に頬を寄せた。
「あやめ。」
 「……ああ、その呼び方。うれしい。」
十四郎はあやめの躰を起こして、顔を引き寄せた。目を閉じた顔が近づくと、なにかおずおずと唇を額に当てていく。そのまま頬に移す。待っているあやめの唇に、ようやく押し当てた。柔らかい感触を確かめると、力を込めた。
 喜びに小さく身をよじったあやめの袂から、重いものが落ちた。

 短刀である。
(ああ……!)
 あやめは凍りついた。本当にすべてを忘れていた。忘れることができていた。
 十四郎もまた話すべきことを忘れていて、しかし同じように一瞬でこの国光の短刀の意味するところを思い出したらしい。手を伸ばして、拾い上げる。
「……あやめ殿。覚えておる。考える、答えをいうと申したな。」
「十四郎さま!」
 あやめは叫んだ。
「その前に、わたくしは、……申し上げなければなりません。お伝えすることがございます。」
 あやめの顔から血が引いている。ああ、ひとはなんて簡単に極楽から地獄に落ちてしまうのだろう、と思った。
「何でござるか。申されよ。」
 あやめの口があわあわと開いた。声が出てこない。
「どうされた? ご様子が変だ。……やはり、拙者から」
「いいえ、結構に存じます。申し上げます。」
 あやめは後じさりした。そして、
「まずすべきことを、失念申しておりました。」
と低く叫ぶと、平伏の姿勢をとった。床に額をぶつけんばかりの勢いで低頭する。
「……?!」
「お詫び申し上げまする。わたくしは操をうしないました。まことにあい済みませぬ。」
 十四郎は絶句しているらしい。
「……お聞き、くださいますでしょうか。」
 あやめは青ざめた顔をあげた。あやめの目に映る十四郎の驚いた顔が、浮かび上がった悔し涙にぼやける。十四郎は、わけもわからぬまま頷いたようだ。
「昨年の七月、蠣崎新三郎さまに犯されました。大舘の湯殿にて、無理無体のまぐわいでございました。」
「ご名代が?」
「申し訳もございませぬ。抗えませず、ご名代さまにやすやすと弄ばれました。」
「まさか……」
 十四郎は目を見開いている、その視線を避けたい。あやめは下を向いて、裏返りそうになる声を抑えながら、つづけた。涙が一滴、床に落ちた。
「その後、大舘にあがらされております。」
「なんだと?」
「堺の方、などと呼ばれておりまする。ご当主たる新三郎さまの側妾として、昨年の秋よりこの方、ことあるごとに召され、辱められておりまする。」
「……」
「申し上げるは、これまででございます。」
「待て。お待ちあれ。……どういう、どういうことなのだ。信じられぬ。ご名代……新三郎兄が?」
「……申し上げた通り、いまのわたくしは、新三郎さまに無理無体に手籠めにされ続けて、……大舘に、通いの遊女のように、……むごい、むごい目に、いつも……」
あやめの頬を涙が流れた。
「……!」
 十四郎が叫んだ。その言葉はまた、あやめにはわからない。語調からして、痛憤か罵倒の言葉であろう。ただ、あやめに対してではないのはたしかだ。目が中空をさまよっている。十四郎は真っ青になっている。

「お詫びの言葉がございませぬ。十四郎さま。」
 あやめはまた低頭した。十四郎の呻くような荒い息遣いを聞きながら、しばらくしゃくりあげるのを抑えられない。
「……どうか、」と顔をあげたのは、自分もまた声が出せるようになり、十四郎の息遣いもやや収まったようだからだ。まだいうべきことがあった。「この場で御成敗くださいませ。」
「せいばい?」
「手前は操を守れなかった。身を穢されました。一度は二世を誓い、あなたさまのものになった、この身を乱離(めちゃくちゃ)にされた。心まで辱められた。薬など盛られ、嘲られ、……心妻と呼んでくださっていた、あなたさまの……今日、お約束をお守りくださった、あなたさまだけの……もので、ございますのに。……手前は不貞を働きましたも同然。お許しいただくことはできない。どうか、この場で御成敗くださればと存じます。」
「……あやめ。」
 声でわかる。十四郎は頸を振ったようだ。
「いえ、ここで十四郎さまに斬っていただければ、むしろ、あやめは幸せ。」
あやめは心からいった。涙はまだとまらないが、笑みが浮かぶ。
 十四郎が激昂のあまり不義不貞の女を斬ってしまうのであれば、あやめの「図」などはもちろんそこで崩れるが、ならば、それはそれだけのことだとあやめは考えてきた。十四郎のためになるとは思えないが、それで構わない。そして、この時期のあやめには、ことあるごとに死への誘惑が噴き上がるようになっていた。
(あのソヒィアという女のように斬られてしまえば、このお方からは生涯忘れ去られまい。このお方の心に、いくばくかの傷として、わたくしも残ろう。それで幸せではないか。)

 
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