えぞのあやめ

とりみ ししょう

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二の段 蠣崎家のほうへ 小さな琥珀の玉(一) 

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 一刻も早く、と湊をトクが納屋の店まで走っている。
 雑然としたつくりの松前の町だが―最近人口が増え、さらに無秩序になってきた―、納屋のように船を廻す商家は湊のそばに店を構えている。少年の足とはいえ歩いても大差はないが、トクは船着き場で聞いた話を、すぐにお店に伝えたい。今日は、御寮人さまがお帰りでいらっしゃる。すぐにお耳に入れることができるだろう。
 トクは丁稚頭になっている。前の頭の少年は、何人かの店の者とともに上方に引き上げてしまった。女主人が、引き上げさせていたのだ。

「皆も存じている通り、この身は、蠣崎のおやかたさまの御恩をこうむることになった。」
 昨年の秋、大舘に側室として召されてしまったあやめは、店の者を集めて告げた。
 前もって番頭から話を聞かされていたとはいえ、皆が驚き、そして十四郎との仲をよく知る者ばかりではなく、皆が嘆いた。
 あやめは平静を装っていたが、この土地の権力が仮借なく牙をむいて若い女主人の身を襲っていることに誰もが気づいた。昨夜、店は侍に取り囲まれ、倉が開けられる騒ぎであったのだ。
「店は守る。船も廻す。蝦夷商いは、これまで以上に盛んにしていきたい。だが、わたくしの身がこうなってしまうようでは、この松前での先行きに不安もあろう。上方より来た者が戻るは勝手とする。夏の戻り船を待て。松前納屋をここまで支えてくれて有り難かった。上方では堺のお店、京の出店のために変わらず精出して働いてくれ。安土の出店は無事ではなかろうが、いずれは次の天下様のお城下にも店ができようから、そちらに人が要る。皆が“出戻り”を気にすることはないぞ。ははは。」
 あやめは笑ったが、誰も笑えない。下を向いて、鼻をすする者もいる。
「……わたくしども、どこにいても、同じく大旦那様の家の者に変わりはない。これからも納屋今井のために、励めや。……松前雇いの者も遠慮するな。できるだけ働き口もさがしてやろう。……さて、残ろうという者がいれば、有り難い。わたくしの前では決めかねようから、皆で相談なさい。」
 そういって奥に戻るあやめの背中は、とまらない涙にぼやけたトクやミツたちなど子どもの目にも、さすがに今までになく頼りなさげであった。
 いろいろなことが急に起こりすぎ、あやめ自身、どう振る舞うべきかがわからなくなるときがある。唐突に側女にされた翌日にあたるこの日、身も心も疲れ切っていた。今の願いはといえば、好きでもない男の唾液がまだ匂うかもしれぬこの肌をもう一度念入りに洗い清め、その後、慣れた夜具に入り、その一部のようになって眠りたいというだけであった。
 しばらくすると、番頭以下、ほとんどの上方者が残るといってくれた。思い返せばこのころ天正十年秋には、羽柴秀吉は覇権からなお遠く、織田政権の相続争いで上方もまた再び戦乱の地になるやもしれなかったからでもある。あやめに忠義立てしてくれるつもりの者も、むろん少なくないのであろう。トクなどがその筆頭であったのはいうまでもない。
 上方の情勢が急速に落ち着くことがわかると、それでも何人かが戻りたいといいだした。上方(羽柴)と北陸(柴田)の緊張にそなえて夏の戻りの船が遅れてしまったため、考える時間ができたせいでもある。
 主だった手代が二人抜け、丁稚頭の少年なども戻りたいといいだした。物珍しいのもこの二年で十分だ、摂津の村には親兄弟もいるから、堺か京で働きたいというのである。
 
 かれは弟分のトクと、親しんだミツも連れて帰りたがったが、トクは言下に断った。ミツも故郷の岸和田あたりにまた近づくのは、気が進まないらしい。
「お前ら、生まれ在所でいろいろあるのう。」
 丁稚頭は同情するような、感心するような声を出した。目の前にいる年下のふたりが、自分よりもおとなにみえてきた。しかし、いってやらねばならぬ。
「ええか、ここにおったら蠣崎様に皆殺しにされるかもしれへん。」
「なんでお代官様がうちらを殺しにくるねんな。」
ミツが意外なことを言われたような顔をした。
「そうじゃて、お前。……そうじゃがな。御寮人さまがなんで大舘にあがらなあかんねん。だいたい、御曹司さまとはどないなってん?」
「なんでなんですか。」
 トクが怒ったようにいう。
 丁稚頭は声を潜めた。また手代の与平に聞きつけられて、叱られるのが厭なのだろう。
「蠣崎のお代官さまは、人の皮をかぶった、けだものじゃな。」
 こっそり、しかし、決然とした口調でいった。この少年にも、怒りがある。お前らは、そんな侍のいるところでいつまで暮らすつもりだ、と訊いた。小さな者たちは、黙り込んでしまう。
「御寮人さまがここにおいでなら、儂はおります。」
 少し考えた末に、トクが晴れ晴れとした表情になった、簡単なことだ、といいたい。年かさの丁稚頭と、ミツはつりこまれて笑顔になる。
「お前ら、もし生きて上方に戻れたら、堺のお店で会おうや、きっとミツは嫁にしてやるで。」
 真顔でいった。
「いや、にいさんが松前納屋の手代になって戻ってきてください。」
「あほう、ここはうちが返事をするところじゃ。子どもじゃ、トクは。」
 
 そのトクが丁稚頭にされ、松前で雇い入れた子たちに商家の言葉から覚えさせることになった。
「トクどん、子どもに教えたるのはええが、どうもお前のンは、向かいの両岸はん(琵琶湖周辺から渡ってきた商人の総称)のところの言葉遣いぞ。」
 前の丁稚頭も怖がっていた、手代の与平が注意した。かれもまた、残った一人である。
(儂くらいが残ってやらんと、このお店はどうにもならん。)
 と思っている。
「へえ、両岸はんと同じ近江者ですさかいに。」
「あの子ぉら、どっちの店のもんやらわからんようになるで。」
「ほやで、あいつらにはトクが気いつけさせます。」
「その、ほやで、が、いかんわ。」

(すぐにコハルはんにお伝えする。ほやで、走らなならん。)
 トクは店の土間に駆けこんだ。どないしたんじゃ、という大人たちの声を無視して、コハルの姿を奥に探す。これは何があっても真っ先に自分に知らせよ、といわれている。コハルが古参の店員という以上の存在であるのを、子どもたちですら知っていたから、あとで表の大人たちから叱られても平気だろうと思っている。
「コハルはん。」
「声を小さくせよ、トクどん。……御曹司さまのことか。」
「蝦夷船がお店を探していました。少し待て、といって急いで戻りました。ミヨマツ(新しく雇った丁稚小僧)に相手をさせています。あいつは蝦夷言葉ができます。ミヨマツにいろいろ聞かせました。」
「御曹司さまがお戻りじゃな?」
「なんでおわかりでしたん?」
「お前の様子でわかった。いいかトクどん、喜怒色に出さず、を覚えるんやで、これからは。……今はええ。うれしい顔をしているのはええ。……うれしいんやな?」
「へえ。」
「案内せい。その蝦夷船のところじゃ。」

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