えぞのあやめ

とりみ ししょう

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一の段 あやめも知らぬ  暗転 はじまりのおわり

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 あやめはふたたび希望に満ちた。
(帰ってこられる。今度こそ、必ずお迎えできる。)
 心傷ついて帰ってくるかもしれない十四郎を、この自分だけが羽交ってあげられるだろう。あやめは十四郎の傷心を案じながらも、遠からず来るだろうその日が待ち遠しくてならない。遅くとも来年の春から夏のうちには蝦夷地から、恋人の帰還の知らせを聞けるのではないだろうか。

 そして、松前納屋の女主人は多忙である。日々の仕事で倉を上方むけの荷で埋めていくのと並行して、二つの仕事で忙しい。
 ひとつは松前に出入りする全ての商人を組織することだった。
排他的な座―のちに株仲間や、あるいは泰西でギルドと呼ばれるようなものではない。多くは近江からやってきて当地に住み着いている松前商人、各地の舘の商人、対岸の津軽商人、安東家の息のかかった秋田商人などの和人商人、 それに蝦夷商人も含めて、自治的な組織をつくる。それは参入がある程度容易で、ルールをみずから制定し、なおかつ互いの不正を監視し、不正があればそれに懲罰を加え、その者の属する店や共同体を記録にとどめ続けることで、長い目で見れば誰も誰をもたばからぬ、公正な取引を実現するものであった。古来の語で、「講」とあやめは内心で名づけていた。
 また、その「講」は、商人を代表して代官に、さまざまに稟請する機関だ。松前ではあまりに運上金が細々と多すぎ、年々高くなる傾向にあった。代官とのなれ合いや癒着による抜け駆けではなく、全ての商人が組織を通じて堂々と代官と交渉しようというのであった。
 あやめには、織田信長の代官所ができる前の、今よりもきわめて自治的だったという堺の会合衆への憧れが強い。(元亀より前の会合衆での今井宗久の力はさほどでもなく、今井の勃興は信長とともにあったのは皮肉であった。)
 あやめは大まじめに蝦夷島に「堺」を作るつもりだ。大館と最も癒着していてもよさそうな松前納屋が旗を振るために、賛同者も少なくない。多角的な監視と懲罰の取り決めは、この秋にもできるのではないかと思われた。
 「講」があやめの構想通りにできれば、当然、いずれ松前の大舘との軋轢が予想される。当代はともかく、ご名代は交易のすべてを蠣崎家が束ねるべきだという考えが露わである。
 そこで、あやめがひそかに進めているのは、いまはおもにウシュケシと呼ばれている、先年のアイノとの戦以前は箱館のあった地への商業拠点の移動だった。松前は湊としては自然状況に恵まれないが、蠣崎氏の本拠であるがために栄えている。ここを離れ、いまはさびれた箱館の良港を復活させ、上記の商人組織ごと納屋もそこに移ってしまいたい。
 松前とは正面衝突になる可能性もあったが、そこで織田信長の奥州仕置があれば、納屋としては追い風になるだろう。

 その信長が突然死んだのは、この年、天正十年の六月二日であった。
 その日もあやめは、松前で大舘に癒着気味の近江出身の商人たちと会って、「講」の構想を説いて、なかば説得した。最後は少し、前右大臣家の天下政権に恩顧を受ける納屋今井の風をふかしたかと、反省したほどであった。
 「本能寺の変」の衝撃が伝わるには、松前まででそれから十日を要した。
 すでにヨイチにいる十四郎までは、もちろん、まだ何の報も届いていない。すでに海の彼方の故地に、心があった。蝦夷地・唐子から大陸に至る商圏のなかでの北上がはじまっている。
 松前納屋の動揺は著しい。コハルですらしばし茫然としていた。
 あやめは店の者を集めたが、いうべき言葉が見つからなかった。安心させるつもりが、店の者にも困惑を広げてしまったかもしれない。それでも、上りの船のための荷を集めることができたのは、幸いだった。当たり前の商売に精を出すことで、自分の混乱を鎮めたかったのかもしれない。

 そのあやめが、突然、蠣崎新三郎から凌辱をうけたのは、七月はじめのことであった。湯殿に誘い込まれ、身も心もしたたかに傷つけられた。そのさまは、すでに述べなければならなかったところである。
 くりかえすが、この卑劣な所業、いまわしい出来事が、史書に書かれるべき事態のはじまりなのであった。
そのはじまりの真のはじまりを、ここまでに述べた。

 それが、稚ないともいえる恋の物語でしかなかったのは、今はいかなる形でも伝わっていない。







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