えぞのあやめ

とりみ ししょう

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一の段 あやめも知らぬ   春を待つ(一)

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 それからのあやめの日々は、あとから振り返っても、人生でいちばん輝いていたものではないか。なんの混じりけもない、金無垢のような喜びをあやめは大事に抱いていた。

 コハルにだけは、あの夜の喜びをさっそく報告した。
(存外に早い……?)
 コハルにも意外だったが、十四郎が考えてそうしようというのなら、悪いことはない。女の躰欲しさの、その場のおためごかしを疑うべきだったが、どうも違うようだった。
 寺男に仕立てている者も、そこは抜かりなく十四郎の存念を調べてくれている。
「あの夜、御寮人さまおかえりのあと、蝦夷島の奥のあれやこれやの村長どもへの手紙を、反故にされましたぜ。書きかけのものも全部だ。」
「それは、おぬしがいるのをご存知だからではなかったか。」
 みえすいた芝居ではないか、というのだ。
「いや、一晩寝て、思い返して、どうしても要りそうなものは書き直された。」
「ほう、かえってまことらしい。まあ、そのほうがよいな。大舘の目もあるのでな。」
(あのおひとも、若い男でしかないか。それでよかったことだ。)
 うきうきとした様子がどこか抑えきれぬ風のあやめには、いい含めておいた。
「御寮人さま、まことにおめでとうございます。そのうえで申し上げますが、十四郎さまをつかまえた以上、堺に連れ帰るまで、ご油断は召されるな。」
「つかまえた、とは何ぞ。……油断のう、か? 存じております。大舘の方々には、春まで決して気取られぬ。万が一のときにはお店も守れるよう、実は箱館に……」
「そのことではございませぬ。御心変わりがあらば、全てが水の泡です。」
「十四郎さまは、決して御心変わりなど、されぬ。絶対に、そんなことは。」
「恋に、“決して”も“絶対”もござりませぬ。そういうお歌もございましたでしょう。」
「ほう、どのような?」
「……コハルは覚えておりませぬが。」
「……知らんのかえ。」
「御寮人さま次第なのでございますよ。」
「それは、……十四郎さまとわたくしとは、……」あやめは赤くなって、もじもじとうつむく。「もう夫婦も同然。」
「御座候。」
 コハルはつくづく馬鹿らしくなってきたが、言葉を継いだ。
「まことに結構なことでございますが、夫婦すら別れることがございますな。ご縁というのは、はかないところもございますよ。」
 あやめは息を小さく飲み、やや不安げな表情になる。
「コハル、コハル、どうせよというのか。」
「狎れぬように。それでいて、親しく、もう離れられぬように。」
「……わからぬなあ。いや、意味はわかるが、つまりは、どうすればいいのじゃ。」
「男の心をつかんで離さぬ術は、このコハルにお任せあれ。」
 あやめはコハルの巨体をしげしげと眺めたが、まあそうかもしれぬ、と思った。
「では、教えてくりょう。」
「なに、いまと同じでよろしいのです。」
「なんだ。」
「いまが、きっと、ちょうどよろしい。ご不便ですが。」
「ならば、脅かすでない。」
「いや、お心がけは大事でございます。狎れぬように、それでいて親しく、もう離れられぬように。」
「わたくしの方は、もう離れられぬが……」
「御寮人さま、だからコハルなどがご心配申し上げるのだ。色恋沙汰にも勝ち負けや生き死にがございますぞ。」
 コハルはいい捨ててその場を離れてしまう。御寮人さまは、わたくしはもう死んでもかまわぬ、などといいそうであったからである。

 しかし、それからもあやめは、指先からも光が滴るかとみえるほどに希望に満ちている。
「御寮人さまは一層、お美しくなられた。」
「お顔つきがお変わりよ。なによりお肌が輝いておられるわ。」
と、店の女たちが言い交しているのを、手代たちが何度注意せねばならなかったか。
 その手代たちですら、ときに女どもに混じって、
「あのご様子は、よき御縁談でもあったのじゃろうか。」
などと噂している。
「この前のお船入で、お店の儲けはえらく大きかったが、そんなことではないじゃろうな。」
「この今井のお家の方が、一度や二度の儲けで、ああもお心弾む様子になられるはずもないわ。」
「蝦夷地のいちばんひどい季節も近いというのに、ああ嬉し気とは。」
 男であろうな、というのが、手代たちの結論であった。
「あの方も、女子でござったかの。」
「それにしても、相手は、どこのお大尽か。」
「よほどの方でなければなりますまい。」
と、若い与平が妙に固い表情でいった。
「ならぬことはないじゃろう?」といった年嵩の手代が、ほう、という顔になる。何事かを察したらしく、与平を慰めるようにいった。
「男と女のことじゃ。理も何もないのよ。」
 与平は黙ってうつむいたが、何の気もないはずの手代の言葉を、内心で反芻している。
 店の子どもたちですら、落ち着かないのであった。
「お前などは知るまいがな、あのお方は、ああみえて、もともとは、お怖いんやぞ。」
 堺から連れてこられた兄貴分の丁稚頭がいうが、トクにはわからない。天女のように美しく、やさしいばかりではないか。
「それが近頃はな、なんとのう、変わってこられた。」
「はあ、左様で。」
「叱るにしてもな、昔はこう、口はやさしうても、根はお厳しかった。儂らで考えてわかるまでは、放ったらかしや。今は、逆。口うるさいように見えて、えらい丁寧に教えてくださる。」
「それも相変わらずではあらへんですか。」
「相変わらず、とはいわんなあ。」若い小女が寄ってくる。ミツだ。「お変わりなく、といわんかいな、トク。」
「コハルはんから、なんか聞いたか? ミツぅ?」
店に少なくなってきた上方者どうしで、この少年少女たちは互いに気安い。
「なあにも聞いてへん。聞くわけ、あらへんがな。あのお人は、口が固いんじゃ。」
「御寮人さまの一の子分は、あの人やよってな。」
「むかしは乳母さまじゃったとも聞いたで。」
「親も同然やな。」
「そやったら、番頭はんより、偉いん?」
「御寮人さまのお話でした?」
 トクは、いまはコハルはんには興味がない。
「そや、トク。今日お店で貰うた、あのお餅をお出し。また、直に食べんと置いてるんやろ?」
「ほやかて、なんで。」
「あんたにだけ、教えたるよって。御寮人さまのお話や。こっそり教えたる。」
「あげます。」
「わしにも教えろや。明日、なんか、やるよって。」
「あんたの明日ぁは、あてになるかいな。晦日は今日や。」
「お姐さん、もう夏です。」
「あほう、取り立ては今日中かぎりや、いうてん。」
ト クが躊躇なく袂から餅菓子の包みを出すと、小女は手招きして、自分より随分小さな少年を近づけた。耳打ちする。
「教せちゃるわ。あのな、御曹司さまやて。……何が、って、あほうかい。御寮人さまの、ええおひとや。」
「トク、あとで教えろや。」
「ヤスどんになんか教えたら、あかんでえ。明日、あんたもなんか持ってきぃ。それで教えたるよって。」
「ほんまですか。誰から聞きはったん?」
「トク、なんやあんた、泣いてんのか? あんたの泣き顔なんか、はじめてみたわ。まさか、御寮人さまを盗られて、口惜しいんか?」
「ちがいます。これはうれし涙や。そうか、やっぱりそうか。ええことじゃ。ええことじゃ。ほやでな、うれし涙が出ましてん。」
 飢えと孤独から突然救ってくれた天女とも菩薩とも思える御寮人さまと、やさしく強く物知りの御曹司さまの両方が、まだ幼いともいえる少年は大好きなのだ。
 お仲良しとはわかっていたが、そのお二人が夫婦になられるのは、少年の考えるこの世の秩序の完成であった、
(近江では厭なことばかりで死にかけたが、この松前に来てから、世はよいことばかりではないかいな。)
 そう思って、少年は頬を紅潮させ、目を潤ませているのだ。
「トク、あんたは、ほんまに御寮人さまが好きなんやねえ。」
「なんのことじゃ。ミツ、お前、トクに何をいうた。盗られて、って誰が盗ったんや?」
「盗ったのとちがいます。おふたりには、きっと最初からご縁がおありでした。」
「……わかってきたで。お前にもう教えて貰わんで、もうええわ。御曹司さまか。そうじゃろ?」
「いえへんで。」
「あほう。それでわかってしもうたわ。ほお、御曹司さまか。お似合いかもしれんなあ、たしかに。」
 十四郎は店の下の者にも人気があった。
「あんなお綺麗なご夫婦があるんねえ。」
「御曹司さまは、変なお顔じゃが。」
「変とちがいます。」
「しかしな、商人の御寮人さまと添われるということは、お武家をお辞めか、御曹司さま?」
「御寮人さまがお姫様におなりと違うん?」
「そないなことあるかいな。お前、もの知らずやな。」
「堺では上のほうの御寮人さまで、そないな方がおられたで。御輿入れの前に、いっぺんどこぞのお公家の家に御養女にお入りになったん。」
「それがあったな。けどな、……だいたい、お似合いとはいうたが、いま、御曹司さまは……」
「それくらいにしとかぬかい。」
 大人の声が降ってきた。
「お前ら、何を油売っとるんじゃ。トクはこれからお掃除じゃったの。ミツ、お前は台所にいかぬかいな。」
手代の与平であった。
「えらいすみまへん。トク、いこら。」
 二人を追い払うと、ヤスどん、お前はちょっと残れ、と丁稚頭を残し、頭を叩いた。
「子どもになにをいいおる。ここは堺じゃったか? 平野か? 蝦夷島の松前よの? ……誰から聞いたかは知らんが、迂闊なことを聞かせるでないわ。トクなんかがどっかで喋って、それがお侍方の耳にでも入ってみい。お咎めは、あいつらだけで済むかい。わしらの首も簡単に飛ぶで。」
「すいまへん。御曹司さまはいまお寺じゃ、といおうとしただけでした。」店のおとなは大抵ご存じのことではないか、といいたい。
「それがあかんというておろうが。なんで、と訊かれたらどない答える?」
「へえ。……でも、一体、なんでなんです?」
「ほら、そうなるじゃろう? ヤスどんも、わしも、店の誰も、知らんでええことよ。ここは松前や。お武家と張り合って生きていける場所とは違うで。」
(御寮人さまも、もう一つそれがおわかりでない。蠣崎のお侍の揉め事にああ近寄っては、あやうし、あやうし……。)
 与平は、うすら寒く感じる蝦夷島の晩夏の風の中で足踏みした。

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