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一の段 あやめも知らぬ 庫裏のふたり(一)
しおりを挟む法源寺の庫裏の奥まった場所にある壺屋(倉庫)が、十四郎に年の離れた兄が与えてくれた居場所であった。
この住持もまた、家督争いに跳ね飛ばされた者だったといえる。父季広に、頭を丸めさせられたのだ。すぐ上の三男が主家の猶子より戻ることが決まっている以上、無用の争いは避けたかったのであろう。
蠣崎家の家督争いは、そのころにすら既に一度、暗殺と刑殺という凄惨な結末を迎えている。その後も、相続争いめいたことは残った三男以下のなかで起きてしまった。新三郎の出仕していた津軽北畠家が急に衰えた一方、主家安東家には五男正広が出仕していたことが、事態をこじらせ続けた。結局のところ新三郎が選ばれた形にはなったが、まだ正式に老父のあとを継ぐに至っていない。当の季広は家内の相克を繰り返したくはなかったはずだろうが、そうこうするうちに、今度は八男が腹を切った。
「考えてみるまでもなく。拙者も親不孝。」
十四郎は埃くさい倉の板の間に座って、自嘲する笑いをみせた。
あやめだけが正対して、それを聞いている。袴に置いた手を握りしめていた。緊張している。
「拙者などが生まれる前に、いちばん上の兄たちが姉によって毒を盛られた話は、いたしましたな。」
あやめは黙って頷く。
「姉はもちろん、誅され……」十四郎は言葉に詰まったが、「しかし、おやかたは娘を憐れんで、長泉寺に新たに寺領をつけ、葬ってやった。ところが困ったことに、新寺領の川にはそれ以来、鮭がのぼらなくなってしまったというのだ。とすると、この十四郎がいくところ、いくところの川にも、鮭がのぼってこなくなるかな。これは困った。アイノたちも気の毒な。」
笑ったが、あやめが少しも笑わないのをみて、気まずそうに黙った。
気まずいといえば、この昼下がり、突然、市女笠の納屋の御寮人がひとり寺を尋ね、女は入れぬはずの禅寺なのに、なにを誰にどう言いくるめたものか、この倉にまでやってきたときから、気まずいのである。
倉の戸口にあやめは立っていて、止めるのも聞かずあがりこんできた。そして、型通りの兄への悔やみを述べると、あまり何もいわずに座っているだけだ。
「いや、納屋の御寮人殿にお越しいただくような場所ではない。お許し下され。しかし、包み隠さずいえば、うれしい。またお目にかかれるとは思わなかった。再会のご約定が果たせましたな。」
あやめが黙って顔を伏せた。
「で、あらためてお尋ねするが、何でございますかな、ご用件は?」
「お願いが……」
あやめはようやく口を開いた。声が震えている。
「お願いがあって、参りました。」
「は。」
「納屋のような、いつもやかましき者が急にお邪魔をいたし、さぞやお驚きと存じます。」
「驚きましたぞ。……今日は少しもやかましくないが。いや、いつもうるさいと申すのではござらぬよ。」
あやめは笑わず、宙に視線をあげて、口上を述べるかのように、つづける。
「御曹司さまは、おやさしく、ものまめやか(誠実)にて、此度のことも、その御心のまことゆえのご災難かと存じます。」
「……かたじけない。」
「聞けば、この蝦夷島のさらに北にご巡察の旅に出られるとのことですが、アイノの者ども……方々とも、きっと誼みを深められましょう。」
「いや、わたくしは、そのような、……兄とは」違うのだ、といいかけたが、あやめがこう続けたので苦笑いする。
「あるいは、かの地にて、二世のご縁(夫婦の縁)もあらんかと。」
「これは、これは。」
十四郎は笑った。いつもの冗談めいたやりとりかと、あやめの顔をみなおし、はっとした。
あやめは上気して、震えている。泣かんばかりだ。
「……しかしながら、納屋は、勇を鼓して申し上げます。」
「……」
「厭なのでございます。」
あやめは叫んだ。
「十四郎さまが、行ってしまわれるのは……!遠くに、離れてしまうのは……」
あやめの目からぼろぼろと涙が落ちた。
「泣き虫ではないと、御寮人殿はいわれた筈。」
「御曹司さま、あやめは肝を据えて、お願い申し上げます。」
「それをお聞かせあれ。ほれ、涙を拭いて。」
「拭きませぬ。」
座ったまま背を伸ばし、顔をあげた。大粒の涙が次から次へと落ちる。
「泣いておりませぬ。」
「泣いておられる。大人のくせに、泣かれるな。」
「あやめは人前では決して泣かぬのです。……涙、など……」
「拭かぬか。」
十四郎は布を目で探したが、仕方がない、とあやめの着物の袖を持ち上げて、むりやりに顔に当てた。女は袂で涙を拭うのだろう、という思い込みからきた奇妙な所作だ。
「あっ。」
あやめは息を引いた。かすれたような声が出た。十四郎が、自分に触っている。手が、自分の顔のそばにある。男の躰がこんなに近づいている。あやめの躰が凝固した。
十四郎の無意識だった所作がとまった。手が離れた、あやめの着物の袂が落ちる。
ふたりの目が合った。あやめは目をそらす。
十四郎のなかで、何者かがそれを命じた。両手が、あやめの肩に回る。あやめが息を詰めて、ひとつ震えたのがわかる。
(細い……?)
納屋の御寮人は日ごろ姉が弟に対するような高々とした物言いすらあるほどなのに、この女の肩はなんと細いのだろう、と十四郎は思った。自分の手が、骨を砕いてしまいそうだ。
十四郎は、女の顔を間近にみた。目を閉じている。まつ毛が震えている。
(目を閉じると、あどけないように見える。ああ、きれいな顔だ。柔らかそうな唇だ……。)
十四郎の唇が、自然にあやめのそれと重なった。
すぐに離れた。あやめは目を伏せる。頬が熱い。合わせた唇の甘さに驚いていた。
「御寮人殿は、得難い友達(ともどち)と思っておりましたが……」
「……?」
「友達では、いられなくなり申したの。」
(何をおっしゃるのか。それでようございます。)
あやめの心の声は、はにかんだ笑みになる。
十四郎の唇が、あやめの額に触れた。また目を閉じて、あやめはそれを受ける。表情が自然にほころんだ。
(ああ、きれいだ。なんてかわいいひとだ。)
十四郎の手は、あやめの背中に回った。やや力を入れて、抱きしめた。
(あ、痛い。それよりも、もう一度、口を吸って……)
あやめの願い通り、十四郎の顔が下りてくる。今度は強く吸った。吸いあった。
あやめはおずおずと舌を差し入れた。男が驚く気配がする。が、十四郎もそれに応じた。
(こうすればいいと聞いていたが、……)
あやめは堺の、悪い使用人たちから聞き覚えた知識をはじめて実践している。
不器用に舌が探り合い、やがてからみあう。十四郎の手があがって、あやめの頭をしっかりと押さえた。放してくれない。唇が互いを求めあった。
(あっ、気持ちがよいっ。)
あやめは息が苦しくなりながらも、懸命に舌で相手の口腔をさぐっているうちに、頭の芯がとろけるような快感をおぼえて、また驚いた。唇が温かく、甘い。そんなはずはないのに、蜜よりも甘い。
最初は痛かった男の羽交いも、快いものにかわる。座った姿勢が不自由で、それだけが足の痛みとして感じられたが、十四郎の与えてくれる快感にあやめは酔っている。躰が熱い。
口が離れた。二人で同じように息をつき、きっと同じように顔を熱く赤らめている。そう思うと、いたたまれない羞恥があやめを襲った。
「帰りまする。」
つい、いってしまう。
ひとつには、これ以上進むことへの本能的な恐れもあった。
「お願いがおありだ、と。」
「それは……」
「お聞かせください。聞きたい。」
「……」
さあ、あやめよ、いえばいいではないか、とおのれを叱りながら、あやめは突然のように生じた事態に、用意したつもりの口上が出てこないのだ。
「お帰りあるな。」
十四郎は、羽交いを強くした。あやめもそれにこたえ、手を男の厚い背中にまわす。
(ああ、なんて気持ちがよい。ぽかぽかとする。)
ずっとこうしていたいと思ったあやめだったが、十四郎の中ではさらに前へ進めと叱咤がかかっている。
(このひとは、おれを好きなのだ。許される。)
敷物の上に、あやめの躰をゆっくり倒した。
「ああっ?」
あやめは目を見開いたまま、十四郎の口吸いを受けた。すぐに目を閉じる。
(うれしい……。十四郎さまがここにいる。)
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