えぞのあやめ

とりみ ししょう

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序の段 納屋御寮人の遭難  宗久の末娘(一)

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 乱世にあって、あやめは、娘の身で貿易商たろうと思いを決めた。異母兄弟姉妹に揶揄され、ついには心根を気味悪がられさえしながら、貿易港・堺で商売のありかたを少しずつ自得していこうと努めた。
 そんな妾腹の末娘を、家族では、主人たる父・宗久だけが邪険に扱わなかったのが幸いだった。

 宗久が末娘をまともに視界に入れたのは、幼女を引き取ってやってから随分たってからであった。あやめは五歳であったか。
「あれは、変わった子どもじゃ。店の隅でいつも遊んでおる。」
 姉どもはあれくらいのときにはお手玉や毬つきに夢中になっていたはずだし、宗久が商いの道理を叩きこみたい男子どもも、かえってあれほど店の中に始終はおらぬ。
 ただ、宗久の日々は忙しく、元の小間使いの産んだ娘に、この豪商が何を期待するでもない。
 あれの母親は、目鼻立ちがよく肌が透き通るほどなのでつい手をつけてみれば、労咳(肺結核)病みだった。里に下がり、あれを産むとほどなく死んでしまったそうだ。
それで身寄りもないらしいので、童のころに引き取ってやった。異母兄姉の多い宅に、新参者は居場所もないのであろう。
(とはいえ、他のきょうだいと同様に満足に食わせ、着せておる。これ以上、小さい娘に父親のできることなどない。)
 そう思うだけだった。
(いつの間にか店に住み着いた犬猫の子のような。)
 その日も土間の片隅に座って、子どもにも、忙しい店の誰にも相手にされず、あわただしい人の行き来を無表情に眺めている。母親に似た目を見開いて、一人黙りこくっている。そんな我が子を、はじめて哀れにおもった。
「算盤を教えてやれ。」
と、店の者に命じてみた。あやめは喜んで学んだという。ひどく聡い子であるらしい。
 天下人たる信長はじめ武将相手の賭博めいた商売に神経を削っていたから、こんな小さな子どもが、広い店の中や自邸内のどこにいるかすら普段は意識もしなかった。
 ただ、時折り目に入れば、声をかけてやることにした。港に南蛮船や明船が着けばお祭りのようになって見物人が集まるが、港を見下ろす大楼の座敷にともなって、あれこれ説明してやったこともある。小さな女子の反応の鋭さに内心で感じ入った。
(たしかに、この子は聡い。親の欲目ではなく、驚くべき賢さではないか。)
 多忙な宗久自身は忘れたが、あやめは今にいたるまで、あのときの感動を忘れない。
 眼下に広がっていた堺の街は、青ぐろい海、吹き付ける潮の匂い、彼方の「高麗隠し」「唐隠し」と人の呼ぶ淡路島の影、散らばる船影、港に寄せる巨大な船、風とともに吹き付ける潮の匂いと二重の環濠の水藻くさい匂い、行きかう群衆の喚声、板屋根の並び、瓦屋根の大きな建物……と、ありとあらゆるものが一度に押し寄せて、子どもを圧倒し、怯えさせさえした。
 ところが、偉大な父の言葉でそれらには全て名前が与えられ、脈絡をつけてあたかも並べ替えられた。
「あれは南蛮船。ルソンからやってきた、南蛮人が乗っている。堺の湊もそれほど深くないから、あれほど大船ならば、あんなに沖にいる。あそこまで、港から小船をだす。群がっておるのがみえるな。」
「あれは明の船。形が違おう? 明は唐くにといって、海の向こうなるが、南蛮より近い。だから、わしやお前と似た顔の者が乗っている。」
「あの島の向こうには西国があるが、その向こうにも別の海がある。それを渡れば、高麗や唐くにじゃ。別の海といっても、海は全てつながっておる。だから、どの国からもこの堺に来られる。」
「……いや、お濠は海ではない。だが、つながっておる。……お前のいうとおりじゃ。水はすべて、どこかでつながっておるのかもしれぬな。ここより東の京、その京のさらに東、大きなうみ(湖)のある国を近江と呼ぶが、その近江で降った雪や雨が、川になって、都を流れ、分かれてまたうみに落ち、そして、こちらまでくる。この海に流れ込む。」
 すべての事象が理にかなって綺麗に片づけられて、ことごとくが子どもの自分の腑に落ちたと思えた。

 その父ですら、あやめが南蛮渡りの、曲がった釘のような奇妙な数字を切支丹の宣教師に学び、およそ本邦の商家に見たことのない奇妙な算用帳のつけかたも真似しはじめたのは、理解できなかったようだった。
 堺の街でも異彩をはなつ南蛮寺では、宣教師たちが「ヴェネチア式」と呼ぶ、原始的な複式簿記で帳簿をつけ始めている。世界戦略をもつイエズス会の極東という最前線の支部では、その必要があったからであろう。
 宣教師の一人が、少女がイマイの子だと聞くと、小さな商人には役に立つだろうと、戯れにそれを見せてくれた。
 あやめが伸びあがって机の上を眺めると、そこにある文字には堺の今井の子だから見おぼえがかすかにあったが、釘を曲げたような数字はただ奇怪だった。
 南蛮寺に通ううちに、あやめはそれらが読めるようになった。だが、店にあって使用人にせがめば見ることのできる、そして店の若い者なら何かの駄賃でこっそりつけ方を教えてもくれた、当たり前の大福帳とは、見た目からして飛びぬけて異なった。
 あやめはその名までは記憶しなかったが、一四九四年つまり明応三年にイタリアの商人出身の数学者ルカ・パチョーリが『スムマ』こと『算術・幾何・比及び比例全書』、つまり、名高い、世界で最初の複式簿記の理論的解説書を著していた。その一冊を、東洋のイエズス会士のひとりが堺まで持ち込んでいる。ちなみに明応三年というのは、美濃の国守となった斎藤道三(二代目のほう)が生まれたとされる年である。
 さすがにあやめがその本を読解し、身に着けられたわけではない。
 ただ、つきつめていえば金の出入りを記録しておくだけの単式簿記から飛躍した、会計法の合理的な思想は、孤独な少女のなみはずれて聡明な頭の中に流れこんだ。
 ひとりの南蛮人の素人講釈と、印度の陽に灼け、海風にさらされて折れ曲がった『スムマ』のほんの一部分と、面白半分に南蛮僧が見せてくれることもある教会の帳簿。これだけのことが、幼女からすらりと首の伸びた少女の体になり、やがて大人になっていったあやめの中で化学反応をおこして、飛びぬけて合理的な商いの骨法という宝となった。
(自分には、他の者がみえない商いの行く末が、手に取るようにわかる。場数やカンなどに頼らずとも、理がそれを教えてくれる。)
 あやめは自信をもったが、そのことを誰にも伝えることはできないようだった。次の当主たる長兄たちには相手にされず、姉たちに喋れば、わけのわからない自慢をしおるといわれて、諍いの種になるだけであった。ひどいときは手まで出されて、コハルがそれを止めに来てくれたほどである。
 長じて他人にみせる機会もできた、あやめの商売上の先読みのきいた判断は、この時代のこの国では突出した高度な会計術を踏まえてはいた。
 ただ、それも自我流であって、継承性は徹底的に欠いた。誰かに教えてやろうにも、理解できる者がいないのは、やむを得ないことだった。(現に途絶えた。後世にはほぼ伝わっていない。)
 ほんの小さな小商いで今の人の世に卓越した力を発揮しても、たいして目を留めてくれる者はいなかった。
 納屋の本店では、新興とはいえ、やはり大店の格式が重んじられた。そもそも十代の小娘に、納屋今井の仕事がまともにあてがわれるわけがなかった。
 織田信長のもとで堺を支配する立場を固めている今井家からすれば、血縁の娘は、政略結婚の具として如何ようでも使い出があるはずだった。姉たちにとって、それがうれしい縁談ということであった。
 ただ、たしかにあやめだけは扱いが違った。いくつかの縁談がもってこられ、あやめがにべもなく断ってしまうと、いっさい話はなくなった。父宗久の考えであるらしかった。
「見てみよ、我が儘をするから。」
「お父上はお怒りなのじゃろうて。」
 先に片付いた姉たちには陰で嘲笑う者もいたが、そうではない。
 宗久には、別の考えがあった。というよりも、考えがつかぬという当惑を抱え込んでしまっていた。
 この娘だけは、宗久のような春秋を経た人間ですら、その利発に相応しい何ものかを与えてやろうにも、見当がつかない。
 あやめもまた、何もいってこなかった。日常の倉の整理の帳面付けや、たまに任された小商いを、文句もいわず、ときには嬉々としてこなしているようだった。
 母譲りの痩身で、たいして強い躰ともみえないのに、堺にじっとしているよりも、商いの使いを任されるのを好んでいるようだった。
 京や安土の出店に喜んで出かけていく。道中のご危険も顧みられず、とコハルなどははらはらしていた。
「なにか、欲しいものはないのか。」
 宗久は思い出すことがあれば、たまたま目にとまった末娘に聞いてやることが何度もあったが、あやめはいつも少し考え、どこかさびしげに笑って頸をふるだけであった。
「婿はいらぬのか。」
「いりませぬ。結構にございます。」
と、このときは即答された。
 あやめは店の土間にいすぎたのかもしれない。子どものときから、若い店の者たちの性的に野卑な言動を小耳にはさむのが多く、男女の仲への自然な興味とは裏腹に、妙に潔癖な異性への忌避感ももってしまったようにもみえた。
 それに、女の肉親に恵まれなかったのも、逆に男というものへの偏見や距離も育てたらしかった。幼くして切支丹の寺に出入りしたのも、この時代には珍しい、性的なものへの嫌悪感の種をまいたのかもしれなかった。
(じゃが、あれは、なんの望みもないでよいというのか?)

 それが、天正八年の春にかわった。
「高麗隠し」「唐隠し」と堺の人びとが貿易都市民の誇りを込めて呼ぶ淡路島の島影を、港の春霞がぼうっと曇らせているのがみえる。宗久がみずからその湊に、京からの客を案内しているとき、あやめのほうから話があるとそっと近づき、囁いたのである。
「今晩、大旦那様はお屋敷にお帰りになりますか。」
「……そうしよう。」
礼をいって、傘の下にいる客人に遠慮してあやめは立ち去ろうとするのを、宗久は呼び止めた。話があるのか、と聞くと、
「はい。蝦夷地のお話を申し上げたく存じます。」
「エゾ地?」
すぐる天正元年に朝倉氏を打倒した信長は、本拠地とする近江・琵琶湖を介して京につながる貿易港三国湊のある越前の支配者に、丹羽長秀をあてていた。丹羽と今井との縁は薄いが、敦賀は三国湊を最大の拠点とする蝦夷地との交易のごく細い糸が、この十年近く、宗久の手にある。
それをいま、思い出した。納屋にとっては、その程度の、忘れてしまっていいほどの商いではある。
「父上は、あやめによく、欲しいものはないかとお尋ねくださいました。」
「そうであったかな。」
「ようやく、欲しいものが見つかりそうでございます。」
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