えぞのあやめ

とりみ ししょう

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序の段 納屋御寮人の遭難  大館の湯殿(一)

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 近世に入るまで、蝦夷島(蝦夷大島。私たちの地図でいう北海道)は、「天下」の外にあるとされていた。したがって、それ以前の文書記録は極端に乏しく、数少ない説話のたぐいも大半が空想的である。
 最も有名なのは、『今昔物語集』巻第三十一第十一話にある、陸奥の安倍頼時の逸話とされる説話であろう。
 頼時一行が「海ノ北ニ幽カニ被見渡ル地」に渡り、大河を上っていくと、大陸から渡ってきたと思しき胡人の騎兵千騎に出会い、ついに逃げ帰ったという。
 説話末尾の一文からは、ある時期まで蝦夷島は唐国より遠い胡国(大陸の北方異民族の地)と地続きではないかと考えられていたのがわかる。
 この誤解は後代に長く続く。
 蝦夷島の、大陸との海を越えた往来の頻繁さは、「天下」の人びとの想像を超えていたのである。
 室町期には、源義経を主人公とする有名な御伽草子「御曹司様島渡」がある。兵法の極意書を求めて御曹司(義経)が北方の島々に渡り、大王の娘の天女と契ってそれを手に入れ、首尾よく逃れるが、恋情に禁を破った娘のほうは父王に惨殺されたという物語である。
 やや下った時期の草子に収められた、偽古典的な説話もあった。
 実際の「蝦夷(アイノ)」にはありえない鋼色の瞳と金色の髪をもつ「夷俘の長」が、上洛のさいに都の公家の美しい娘に惚れこみ、半年ものあいだ求婚を続けた末に、「関白殿」の許しでようやく娘を得たというものだ。
 ここでは、『今昔』の「鬼」と「蝦夷」とがほぼ変わらない。当の女の気持ちは、というのが話者の眼中にないのも―異伝もあるが―時代的な制約だが、さらに今日では地域・民族差別的な偏見がもちろん気にかかり、読みづらい。

                            *


大舘の湯殿 1

 それが女の身に起きたのは、天正十年夏である。

 この年、この地方には雨が多かったといわれる。その日も、厚い雲の向こうに隠れて、この土地らしい透き通ったような空の青は見られなかった。
 丘をのぼったところで振り返って町を見下ろすと、眼下に帯のように広がる海も、やや強い風のなか、暗い色であった。

 とくに必要もないのにいっておけば、天正十年は、後代のわたしたちの知るところであれば、西暦一五八二年にあたる。
 この年、去る六月には京・本能寺で、当時「前(さきの)右大臣」と呼ばれていた織田信長が討たれた。天下統一の事業の、突然の挫折である。
 のちにいう「本能寺の変」の報は、当時としてはかなりの速さで、「天下」すなわちこの列島の津々浦々に広まっている。
 「天下」といえば、室町期以前には地理的観念としてほぼ畿内―すなわち都とその周辺を意味する言葉だったが、戦国乱世の収束が見え出したこの時には、意味ははっきりと変わり、「全国」の意味に固まりつつあった。
 「天下人」の強力な中央政権が姿を現しはじめたことが、全国六十余州を一つのまとまりとして、人びとにあらたに意識させつつある。
 列島の東北部、奥州一円においても、またそうであった。京・上方からすれば遠く北の果てとされていたこの土地も、「天下」のうちに入る。(たとえば、これより数年後に伊達政宗と名乗る、奥州・出羽米沢領主の跡継ぎである少年の頭のなかでは、すでにそのようであったであろう。)
 しかし、さらにその果て、奥州の最北端である津軽国と海峡を隔てた、蝦夷島(蝦夷本島)は、「天下」のうちといえたか。
 ……いえまい。二年前にここにやってきた女も、自然にそう思っている。

 蝦夷島にはたしかに古くから本土の住民が渡り、「隣人」を意味するシサムと呼ばれていた。それに現地民が合流し、しきりに対岸との交易に従事する「渡党」が形成される。
 かれらはのちにいう中世・室町のころには「舘」と呼ばれる小さな城を、南部の半島各地の海岸線に構える。
 すでに後代でいう「和人」意識を備え、自分たちは「蝦夷」ではないとする。その言葉も文化も風俗も、「天下」の人たちのそれを共有していた。
 しかし、この南端の半島の半ば以上も、これより北にはるかに展開する巨大な山塊と広闊な土地も、かれら「渡党」とその末裔の治めるところではない。(後者の北の広大な地を区別して、とくに「蝦夷地」とも呼んでいた。)
 もしも、この列島にも中国大陸並みの「華夷」の秩序を機械的に働かせれば、この蝦夷島が「天下」に含まれてはなるまい。華夷秩序という言葉がある。この列島にもまた、小さな規模でそれがあった。あるべきだとされた。中央の「華」にとって、「夷」は存在しなければならないのである。
 逆に、ひとくくりに「蝦夷」と呼ばれたその住人たちが、我とわが土地は「天下」に属するとも、その周縁にのみあると感じる機会も、まずなかったであろう。蝦夷地の住人は、かならずしも南ばかりを向いていない。今日でいうユーラシア大陸北部とのつながりも、濃くあった。
 この物語に登場する人物の一人の言葉をここで先取りすれば、「天下」には北に向かって風穴があいていた、のである。

 さて、それぞれの「舘」は、その膝下に町と呼べるものをもっていた。
 松前はその一つであり、のちにいわれる戦国末期のこの当時、蝦夷島南部の半島で最大のものであった。蝦夷地に中世以来の権限を自認する秋田・安東家によって代官を任じられた蠣崎家が、「大舘」を構える本拠地だからである。
 これ以外に存在した多くの舘は、この天正十年から遡って三十年も前まで続いたアイノとの戦いで落城し、実態上はアイノの有力部族の地となっている。名目上は蝦夷代官が管轄するはずの沿岸部の舘は、なお完全には復旧されぬままであり、それが常態となっていた。
 したがって、蝦夷代官である蠣崎家の抑える土地は、ごく狭い。半島のつま先だけであったともいえる。
 眼前に海が開けるほかは、東西に細く海岸に沿った細い道をもつばかりの松前は、外敵の侵入からは守りやすく、絶え間なかった先住民との戦いに備えて「舘」を構えるには適した土地である。
 小高い丘の上にある大舘の下に、湊まで、大小の屋根がやや無秩序に並んでいる。

 その大舘のなかに新築された湯殿は、町の噂に聞くよりも大きかった。板張りの屋根や壁も真新しく、近づくと、この北の土地のものらしい白木を削った匂いがした。
 この家の使用人にかしづかれて中に案内されてきた女は、まだ若い。上方の町家風の着こなしが凛としている。固く痩せてみえる。やや薄暗いなかに、白粉を塗った顔が浮かび上がり、よい形をした目が明るく開いている。
 名は、あやめ、である。もし姓を添える場合は、今井あやめということになる。
 ただ、他人に名で呼ばれることなど、姓を持つような上層に属する人びとには滅多にない。商人とはいえ、天下に隠れもない有徳人(富貴な者)の家族であるこの女性は、「納屋の御寮人」がここでの通り名である。(中世以来貴人の女性への尊称だった「御寮人」が、このころから、大商家の若い娘や主婦の呼び方として使われつつあった。)
 さらにいえば、女には公式に名が残らないのが普通であった。よほどの貴人でなければ、遺されるのは、法名、戒名くらいである。
 この娘の名も、記録には確たる形では残っていない。系図上は、まず「女」である。その後、もし他家に嫁すれば、そこではまずは単に「今井家女」となったはずであろう。
 そこにいささかの哀惜をもって、私たちはこの女性を、「あやめ」という、彼女の本来与えられていた名で、呼び続けることにしたい。
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