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「いってらっしゃいませ旦那さま」
豊島数馬が自宅をあとにしようとしていたとき、背後から声をかけられた。
数馬が慌てて振り返ると、こちらへ駆け寄ってくる妻の姿が目に映った。
「見送りはよいと言ったはずだ」
妻の小雪に向かって、数馬は眉間に皺を寄せながら声をかけた。
「大事な身体なのだから、ゆっくり休んでいなさい。私のことなど気にかけなくてよいのだ」
「そういうわけにはいきません!」
数馬が咎めるように言うと、小雪は少し拗ねたような表情を見せた。彼女はどうやら数馬の態度がよほど気に入らなかったらしい。数馬にじとっとした視線を向けながら顔を近づけてきた。
小雪は評判の美女だ。その彼女の美しい顔が、数馬の目の前に迫っている。
いくら自分の妻とはいえ、至近距離から美女に睨みつけられて数馬は困惑してしまう。
「あ、あまり興奮するのはよくないのではないか? 早く中に戻りなさい」
「いいえ! 旦那さまがお勤めに向かうのですから、妻としてしっかりとお見送りさせていただきます」
数馬の困惑をよそに、小雪は責めるような強い口調で言った。
しかし、次の瞬間には今の今まで不機嫌そうにしていた姿はどこへいってしまったのか、小雪は穏やかに微笑みながらゆっくりと自身の腹を撫でる。
「……それに、この子だって。きっと父上のお見送りをしたいはずですから」
小雪の腹は誰が見てもひと目で妊娠をしているとわかるほど膨れ上がっている。
愛おしそうに腹を撫でている妻の姿を眺めながら、数馬はますます戸惑ってしまう。
こういうときにどう声をかけたものかと数馬が思案していると、遠くからドタバタと誰かがこちらに近づいてくる足音が聞こえた。
「まあまあ、どうなさったのですか。朝から騒がしいですよ」
廊下の奥から義母のおそのがやってきた。おそのは数馬の姿を見るなり顔を顰めると、大きくため息をついた。
「──まったく。婿殿はまだいらしたのですか?」
「申し訳ございません。小雪のことがどうにも心配でして」
「小雪のことは母である私がしっかりと見ております。どうか婿殿は安心してお勤めに向かってくださいませ!」
「……え、ええ。それではいってまいります」
おそのにぴしゃりと言われ、数馬は逃げるようにその場から離れた。
おそのは悪い人ではないが、どうにも義理の母だと思うと気が引けてしまう。数馬は逃げるよう足早に自宅を後にして勤め先に向かった。
数馬は今日から二十日間ほど、勤めの都合で自宅には戻れない。
予定通りに業務が終われば、数馬が自宅に帰る頃にはまだ子は小雪の腹の中だとおそのは断言していた。
だが、何事も予定通りにはいかないことを数馬は知っている。小雪は数馬が出かけた直後に産気づく可能性だって否定はできない。
小雪の腹の中にいる子が男児であれば、ゆくゆくは豊島家の家督をつぐ大切な跡取りだ。無事に誕生する瞬間をそばで祈っていたいという気持ちくらいはある。
しかしながら、数馬には父親になるという実感がなかった。
──いっそ勤めの方で問題が起きてしまえばな。予定通りに帰宅が叶わなくなれば、子の誕生に立ち会わなくて済む。
とんでもないことを考えてしまい、数馬はおもわずその場に立ち止まって大きく首を横に振る。
日に日に大きくなっていく小雪の腹を眺めながら、数馬の心の中では不安の感情が育っていった。その感情を取り除きたかったが、不安はますます膨れ上がるばかりだった。
このままでは子の誕生を祝える自信がない。親になるという心構えはどうやったらできるのだろうか。それがここ最近の数馬の大きな悩みであった。
「……そんなことよりも、いまは勤めに集中せねば。子のことは追々考えればよい」
ため息まじりに呟いたあと、数馬は再び勤め先に向かって歩き出した。
豊島数馬が自宅をあとにしようとしていたとき、背後から声をかけられた。
数馬が慌てて振り返ると、こちらへ駆け寄ってくる妻の姿が目に映った。
「見送りはよいと言ったはずだ」
妻の小雪に向かって、数馬は眉間に皺を寄せながら声をかけた。
「大事な身体なのだから、ゆっくり休んでいなさい。私のことなど気にかけなくてよいのだ」
「そういうわけにはいきません!」
数馬が咎めるように言うと、小雪は少し拗ねたような表情を見せた。彼女はどうやら数馬の態度がよほど気に入らなかったらしい。数馬にじとっとした視線を向けながら顔を近づけてきた。
小雪は評判の美女だ。その彼女の美しい顔が、数馬の目の前に迫っている。
いくら自分の妻とはいえ、至近距離から美女に睨みつけられて数馬は困惑してしまう。
「あ、あまり興奮するのはよくないのではないか? 早く中に戻りなさい」
「いいえ! 旦那さまがお勤めに向かうのですから、妻としてしっかりとお見送りさせていただきます」
数馬の困惑をよそに、小雪は責めるような強い口調で言った。
しかし、次の瞬間には今の今まで不機嫌そうにしていた姿はどこへいってしまったのか、小雪は穏やかに微笑みながらゆっくりと自身の腹を撫でる。
「……それに、この子だって。きっと父上のお見送りをしたいはずですから」
小雪の腹は誰が見てもひと目で妊娠をしているとわかるほど膨れ上がっている。
愛おしそうに腹を撫でている妻の姿を眺めながら、数馬はますます戸惑ってしまう。
こういうときにどう声をかけたものかと数馬が思案していると、遠くからドタバタと誰かがこちらに近づいてくる足音が聞こえた。
「まあまあ、どうなさったのですか。朝から騒がしいですよ」
廊下の奥から義母のおそのがやってきた。おそのは数馬の姿を見るなり顔を顰めると、大きくため息をついた。
「──まったく。婿殿はまだいらしたのですか?」
「申し訳ございません。小雪のことがどうにも心配でして」
「小雪のことは母である私がしっかりと見ております。どうか婿殿は安心してお勤めに向かってくださいませ!」
「……え、ええ。それではいってまいります」
おそのにぴしゃりと言われ、数馬は逃げるようにその場から離れた。
おそのは悪い人ではないが、どうにも義理の母だと思うと気が引けてしまう。数馬は逃げるよう足早に自宅を後にして勤め先に向かった。
数馬は今日から二十日間ほど、勤めの都合で自宅には戻れない。
予定通りに業務が終われば、数馬が自宅に帰る頃にはまだ子は小雪の腹の中だとおそのは断言していた。
だが、何事も予定通りにはいかないことを数馬は知っている。小雪は数馬が出かけた直後に産気づく可能性だって否定はできない。
小雪の腹の中にいる子が男児であれば、ゆくゆくは豊島家の家督をつぐ大切な跡取りだ。無事に誕生する瞬間をそばで祈っていたいという気持ちくらいはある。
しかしながら、数馬には父親になるという実感がなかった。
──いっそ勤めの方で問題が起きてしまえばな。予定通りに帰宅が叶わなくなれば、子の誕生に立ち会わなくて済む。
とんでもないことを考えてしまい、数馬はおもわずその場に立ち止まって大きく首を横に振る。
日に日に大きくなっていく小雪の腹を眺めながら、数馬の心の中では不安の感情が育っていった。その感情を取り除きたかったが、不安はますます膨れ上がるばかりだった。
このままでは子の誕生を祝える自信がない。親になるという心構えはどうやったらできるのだろうか。それがここ最近の数馬の大きな悩みであった。
「……そんなことよりも、いまは勤めに集中せねば。子のことは追々考えればよい」
ため息まじりに呟いたあと、数馬は再び勤め先に向かって歩き出した。
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