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第2章 ときめきの瞬間
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それからというもの、前にも増して世良さんからのお誘いが増えた。
でも大丈夫なのだろうか。忙しい世良さんだから、わたしとの時間を作るために無理をしているに違いない。
わたしと会う時間があるのなら、できれば自宅で身体を休めてほしい。だけどそう思う反面、誘いを断ることで世良さんに嫌な思いをさせたくないと思ってしまい、こうして会いにきてしまう。
「プラネタリウム建設のお仕事は順調ですか?」
日曜日の今日はドライブをしようということになった。お天気はいいとは言えないけれど、雨はなんとかまぬがれそうだ。
「順調だよ、完成が楽しみだよね。春山社長のライティングデザインも素晴らしいから、きっと話題になるよ」
「ちゃらんぽらんな感じの人なのに繊細な世界を生み出せるんですよね。なんだか信じられません」
「亜矢ちゃん、毒舌だなあ。でもライティングデザイン会社として経営できる人はほんのひと握りなんだ。春山社長はすごい人だよ」
就職するまで知らなかったのだが、春山社長は業界ではかなり有名な人。いくつかのコンテストで賞をもらっているし、テレビや雑誌の取材依頼もたまにある。
少し前までは新聞にコラムを寄稿していて、その新聞社の子会社である出版社からはムックの出版打診もあるみたい。今は仕事が忙しいので見送っているらしいけれど、そうなったらわたしもうれしい。
わたしは光に魅了された人々の笑顔に触れて、仕事の楽しさを知った。直接的にかかわっているわけではないけれど、誇りに思える。行き先を見失っていたわたしを導いてくれたのも、光の輝きだった。
ドライブの目的地はベイエリアにあるアウトレットモール。どこに行きたいかとたずねられて思いついたのがそこだった。
実はそのアウトレットモールは、うちの事務所でイルミネーションの仕事をさせてもらったところ。担当はうちの事務所のなかでもひと際感性豊かな若い男性社員。春山社長も彼の才能に惚れ込んでいて、一度見ておくといいと夜に連れてきてもらったことがある。
そんなワケで夜に見学に来たことはあったのだけれど、ショッピングをしたことがなかった。
アウトレットモールは夜とは違う雰囲気。異国を思わせるオシャレな外観は心をウキウキさせる。世良さんも職業柄、興味津々に建物を見渡していて、楽しそうに目を輝かせていた。
その後、ショッピングとなったのだけれど。
「今度はどうですか? わたしは気に入ったんですけど」
わたしは世良さんの着せ替え人形になっていた。
アパレルショップに入るたびに試着させられている。いったい、これで何着目だろう。
「うーん。それだと丈が長すぎる」
無難に涼しげな白のマキシ丈ワンピースを選んだのに、世良さんは腕組しながら渋い顔をしている。
だけど文句は言えない。誕生日に婚約指輪を受け取らなかったわたしへの誕生日プレゼントということで、決定権は世良さんにあるのだ。
「あまり露出が多いのは困ります」
「だめだよ、もうすぐ夏なんだから。ということで、マキシ丈は却下」
これもかなり夏っぽいと思うんだけどなあ。実際、色もデザインも夏用だ。
「人様に見せるほどではない脚なので、できるだけ隠させてください」
「きれいだから、もっと見せてよ。その代わり、僕と一緒のときだけだよ」
今日買ってもらう予定の服は、世良さんと会うとき限定に着るものらしい。ニコニコ顔して独占欲は忘れない。
「わかりました、ひざ丈までなら妥協します。それ以上短いのは断固お断りですからね」
わたしはもう一度フィッティングルームに戻るとワンピースを脱いだ。するとコンコンとドアをノックする音が聞こえてきた。
「亜矢ちゃん、これなんてどう?」
世良さんの声に、自分の服を着てドアを静かに開ける。彼の手にはネイビーのワンピースがあった。
「サイズはさっきのと同じだから大丈夫だと思う」
「いい感じですね、着てみますね」
あの口ぶりから、露出高めのものかと思いきや、意外にも清楚系。パフスリーブで、ひざ丈のワンピースのウエスト部分に革製の白い紐ベルトがついていて、上品で涼しげなデザインだった。
世良さんってこういうのが趣味なのか。
鏡の前で全身チェックを終え、ちょっとだけ恥ずかしさが芽生えた。
似合うかな? そう思いながら恐る恐るフィッティングルームのドアを開けた。
「どうでしょう?」
すると世良さんは、わたしを見るなり満面の笑みを浮かべた。
「思った通りだ、よく似合うよ」
「本当ですか?」
「うん、色っぽい」
「え、色っぽい?」
「亜矢ちゃん、結構スタイルいいんだね」
今着ているワンピースは、スカートはフレアラインで胸もとには控えめにドレープが入っている。けれど、さっきのよりも生地がやわらかい素材だから身体のラインが強調されてしまう。
「み、見ないでください!」
思わず胸のあたりを両手で隠した。
「そういうつもりで言ったんじゃないよ」
「じゃあ、どういう意味ですか?」
「えっと……バランスがいいと言いたかったんだよ。ほどよい肉つきっていうか……」
たしかにわたしは細身ではない。
世良さんなりに言葉を選んでいるようだけれど。
「フォローになってません!」
「なんで? ほめてるつもりなんだけどなあ。でもごめんね」
世良さんはのんびりと言う。
どこまでもマイペースな世良さんを見ていると怒る気も失せるというもので、頭をポリポリかいている姿を前に、いつの間にか笑っているわたしがいた。
世良さんに対するイメージがどんどん変わっていく。以前は、紳士的で落ち着いた冷静な人という感じだったのに、最近は無邪気な面が多くなった。
「もういいです。悪気がないのはわかってますから」
「もちろん悪気なんてないよ。まあ、なにはともあれ、機嫌が直ってよかった。亜矢ちゃんの笑顔は僕のサプリメントだからね」
照れもせず、その声は甘い。
その声を聞いてしまうと、従順になってしまう。わたしも世良さんのやさしい声や笑顔に弱いかもしれない。
「プレゼントは、これをお願いします」
「いいの?」
「このワンピース、かわいいので」
「なら、今年の夏はそれを着てデートしようね」
こうして、ようやくワンピを一着買うことができた。世良さんの満足げな顔を横目に、もう少し痩せなきゃとプレッシャーを感じながらも、今はそれほど悪い気はしない。
昼食後はアウトレットモールの近くにある大型家具屋へ行った。
世良さんは店内を歩きながらキョロキョロしている。なにかをさがしているようだった。
「ほしいものがあるんですか?」
「まあね」
いったい、なにを買おうとしているのだろう。
すると目的のものを見つけたらしく、「こっちだよ」と声を弾ませ、わたしをうながす。
そのとき、わたしの手がなにかにふわっとおおわれた。それが世良さんの手だとわかったときは、すでにしっかりと握られていた。
世良さんはこういうのは慣れているのだろうか。
わたしだって男の人と手をつなぐことは初めてじゃない。けれど恋人でない男の人とは初めてで、どういうリアクションをしたらいいのか困ってしまう。
でもわたしの動揺をよそに、世良さんは特に意識していない様子で、いつも通りの澄ました顔だった。
そして寝具売り場まで来ると、まじめな顔でわたしにたずねた。
「どれがいいと思う? クイーン? それともキングサイズ? あっ、セミダブルをふたつ並べて使うのもいいよね」
目の前には大きなベッド。かなり本格的な家具選びにびっくり。
「わたし、インテリアに詳しくないんです」
「参考までに教えてよ。結婚したら買い替える予定だから、先に希望を聞いておきたいんだ」
世良さんは実にさらっと、とんでもない発言をする。
プロポーズも受け入れていないのに、もう新婚生活の話になっている。
「でもお部屋の雰囲気に合わせたほうがいいと思いますし……」
わたしもなにを言っているのだろう。恥ずかしくなって、まともにベッドを見られない。
「そっかあ、まずは新居選びが先か。なら、ベッドを決めるのは別の機会にしよう」
またもさらりと言ってくれるけれど、わたしは深い意味を考えてしまって、余計に顔を上げることができない。
だけど世良さんは相変わらず我が道を行く。
「でもさ、ベッドは大きめのほうがいいよね。子どもが小さいときは川の字で寝られるから」
世良さんの妄想は止まらない。いよいよ子育てにまで発展しているようだった。
「亜矢ちゃんは、子どもは何人ほしい?」
「わたしはまだそこまで考えたことがなくて……」
いつかはとは思うけれど、今は結婚すら夢見ることができずにいる。
「僕はいろいろ想像しちゃうんだ。亜矢ちゃんに似た女の子がいいなあとか。もちろん男の子もほしいんだけどね」
「世良さん似のほうが断然かわいいです」
「そんなことないよ! 亜矢ちゃんに似たほうがかわいいって!」
世良さんは興奮気味に話す。
彼は真剣なんだ。まじめにわたしとの将来を考えてくれている。
世良さんには不思議な魅力がある。いきなり子どもの話をされると引いてしまうと思うのに、世良さんだと思わない。
その魅力でどれだけの人を虜にしてきたのだろう。世良さんに恋した女の子たちの気持ちが少しだけわかるような気がした。
この日はベッド以外にも、ダイニングセットやカーペット、それから食器棚まで見てまわった。
つながれた手はそのまま。歩いている途中でそのことを言ったら、「これくらい許してよ」とにっこり笑っていた。
拒む気なんて吹き飛んでしまった。この手は男の人らしく大きいけれど、意外にしなやかで心地いい。
「世良さんの手、やわらかいですね」
「亜矢ちゃんの手のほうがやわらかいよ。女の子って感じ。悔しいから言わなかったけど、これでもかなり緊張しているんだよ」
「え……」
そうは見えなかった。わたしだけが世良さんの一つひとつの言動に敏感に反応していると思っていたのに。
「内緒だよ」
「言う相手なんていません」
「いやいや、春山社長は鋭いからね」
「たしかに」
世良さんはのんびりとした雰囲気なのに、なにげない仕草にも自身の想いをこめてくる。こうやって、さっきよりも握る手の力を強め、わたしの意識を刺激してくる。
だけどなぜだろう。半ば強引に手を引かれても嫌じゃなかった。最初こそ世良さんに連れまわされている感じだったのに、そのうちわたしもその気になってきて、未来の結婚生活の部屋を想像しながら楽しんでいた。
正直、結婚というものを現実的にとらえられないけれど、ほんの少しだけ夢見ることはできるようになっていた。
その後はベイエリアをドライブ。すると進行方向の少し先にレインボーブリッジが見えてきた。
「うわぁ、大きい!」
「この道は初めて?」
「いいえ、違いますけど。何度見ても迫力あるなあと思って」
「前の彼と見たんだろうけど、妬けるな」
「世良さんこそ、わたしで何人目ですか?」
世良さんが途端に黙り込む。
「もしかして、人数を数えてるんですか?」
「そういえば……と思ったんだけど。やっぱり、わからないな」
平然と言うので、本当にこの人はわたしを好きなのかなと疑いたくなるほど。普通は適当にごまかすでしょう。
「数えきれないほど、というのはわかりました」
「そんなにいないよ。いちいち覚えていないだけ。それより、ひとりで通ることのほうが多いよ」
「おひとりで、この辺りまでドライブに来るんですか?」
不思議に思ってたずねた。ドライブが趣味だなんて聞いたことがなかったから。
「仕事でだよ。でもこの辺を通るのは楽しみなんだ。そうだ、亜矢ちゃん! 北欧でよく使われる言葉なんだけど、ブルーモーメントって知ってる?」
世良さんがなにやら楽しそうにたずねてきた。
「いいえ、なんですか?」
「昼と夜が入れ替わる間の空のこと。夜明け前と日没後のほんの短い時間に見えるんだよ」
たとえば黄昏時。太陽が西の空に沈んだあと、東の空から青色に包まれていく神秘的な現象。上空で太陽の光が塵や水蒸気に吸収されて、青い光だけが地上に降りそそぐ。日本ではそれが十分ほどの短い時間なのだが、北欧ではそれが数時間も続くのだそうだ。
「ブルーモーメント。青の瞬間といっても、数時間も見られるんですね」
「なんでそんなふうにいうんだろうね。北欧の人たちは、それだけその空が大切で愛おしいということなのかな」
事務所のなかにいると、空なんてほとんど見ることがない。夕方の空というと、夕焼けばかりに目がいっていたけれど、今度ブルーモーメントの空をさがしてみようかな。
「海があると空が広く見えるだろう。だから、このあたりは絶好のビューポイントなんだよ。ただ残念、今日は曇り空だから難しいな」
「レインボーブリッジを背景に見たかったです」
「見ようと思えば、見られるよ。今度は天気をちゃんと確認しておくから、また来ようね」
「はい」
あっ、ついつられて「はい」と言ってしまった。今の、世良さんは気づいているのかな。
次のデートの約束。どれくらい先のことなのかわからないけれど、この先も一緒だよと言われているみたい。
でも世良さんはその場のノリで言ったとも考えられる。前を向いたままの世良さんは、特になんの反応も示さなかった。
連なる車の列は遙か彼方まで続いていた。ここまででもかなりの距離。あまりにも快適なドライブだったので気がつかなかったけれど、日もだいぶ傾いている。もうそんな時間なんだなと思いながら、思いのほか楽しんでいる自分がいることに驚いていた。
世良さんとの時間は自然な流れで過ぎていく。だけど、かえってそのことがわたしにとって障害となっている。
過去の恋愛で抱いていた好きという激しい感情を、世良さんとの間に感じないことが引っかかって、その胸に飛び込むことができない。
それでもたしかに感じている、この胸のときめき。ただ、今のわたしにはそれが恋に発展するサインなのか、それとも思い違いなのかを見極められない。
「車を降りて少し歩こうか」
突然、世良さんがそう言い出して首都高を下りた。
海がさざ波を立てていた。遠くに明かりの灯された東京の街並みが見える。日没直後の、まだ太陽の光が少し残る空の下の景色は、建物の輪郭がはっきり見えて、夜景とは違う美しさがある。
この景色をブルーモーメントの空の下で見られたら格別だろうな。
「こういう景色もなかなかだと思わない?」
「はい。実態がちゃんとあるからなのか、人の息づかいというか、生命力を感じます」
夜景に浮かぶ光の点は、繊細でどこか儚くて、幻のように思えるときがある。人々の存在をリアルに感じられない。
それとは違い、今見ている高層ビルやマンションの景色には都会の人々が目に浮かぶ。明かりの灯る窓を見ながら、働いている姿や自宅でくつろいでいる様子が想像できる。
「亜矢ちゃんの事務所とうちの会社が目指しているものは、建設にかかわるという点では限りなく近いけど、正反対でもあるよね」
闇と光。真逆の世界で存在感を発揮する。でもどちらも必要なもの。人が息づく街があるからこそのライティング。人を魅了する光を描くためにはキャンバスが欠かせないのだ。
「だから一緒にお仕事ができるんですよ。ないものを補い合えるんですから」
「いいこと言うね」
「でもわたしは事務の仕事しかしていないので、ちょっとさみしいです。なにかを作り上げるって、やっぱり快感なんですか?」
どんな気持ちなのだろう。どれだけの感動に包まれるのだろう。現場をよく知らないわたしにはいまいち理解できない。
「僕は設計だから直接作るわけじゃないけど、それでも感無量な気持ちになるよ」
「現場の人の苦労を知っているから、なおさらですよね」
世良さんは、設計課に異動する前は建設現場で働いていた。両方の気持ちがわかる立場だから、“感無量”なのだろう。
「人間はすごいね。自分よりも遙かに大きなものを作ってしまうんだから。飛行機なんて、空を飛ぶんだよ」
「飛行機は不思議ですよね。何時間も飛んでいられるんですもん」
「仕組みを知っても、それでもやっぱり不思議だよ。素人だからかな」
子どもみたいに高揚している。世良さんに仕事を語らせると、内容がどんどん広がっていく。そのうち宇宙にまで飛び出してしまうんじゃないかと思うくらい。それくらい仕事好きなことが伝わってくる。
「亜矢ちゃんは専門の仕事をやりたいの?」
「そこまでは考えていません。ライティングデザイナーは美術大学出身の人が多いですから。でもわたしはそうじゃありません」
「必ずしも美術系とは限らないよ。春山デザインの人にもメーカー出身の人がいなかったっけ?」
「いますよ。だけど、あの人は特別です。もともとセンスがある人ですから」
アウトレットモールのイルミネーションを担当したのがその人。照明メーカーの会社を辞めて、うちの事務所に転職してきた。春山社長に憧れていたという彼は、現在もめきめきと才能を伸ばしている。
「でも少しでも覚えたいなとは思っていて、とりあえず自宅でCADの勉強だけはしています」
CADとは図面をパソコンで描くソフト。業者間での図面データのやり取りも頻繁なので、建設業界では扱えることが常識だ。
しかし最近はCADどころか、照度計算機能を持つ3次元CG用ソフトにも注目が集まっていて、取り入れている設計会社も数多くある。
実際ライティングデザインは、CGでプレゼンすることが求められる時代。相手にこちらの意向を伝える際、平面図やスケッチよりも伝わりやすいというのも利点だ。
「CADは最低限の技術ですから」
「そっか。たださ、CADは少しやれば誰にでもできることだよ。言い方は悪いけど、トレースしかできないレベルなら、アルバイトやパートの人にまかせたほうが会社としては得なんだよね」
「そうですけど。それができないと仕事にならないじゃないですか」
世良さんにしては珍しく厳しい言い方だ。ちょっとショックだな。
「もちろん、亜矢ちゃんのがんばりを否定しているわけではないんだよ」
わたしの気持ちを察して、世良さんが眉尻を下げる。
「僕が言いたいのは、大事なのはそこじゃないということ。そういう分野で働いている女性の多くは、今の亜矢ちゃんよりもっと高い向上心を持っているんだ」
「わたしだって趣味の範囲で勉強しているんじゃありません」
わたしもついムキになって言い返した。それでも世良さんは冷静に続ける。
「誤解しないで。亜矢ちゃんがプライベートの時間をつぶしてまで努力していることにはびっくりしたし、感心もした。だけどね、そういった目先の技術よりも、もっと勉強することがあると思うんだ」
「ほかにですか?」
そんなこと、考えたことなんてなかった。自分では思いつかない。なにをすればいいのだろう。
「外国のライティングの歴史を調べたり、デザインをたくさん見たりするといいよ」
「ニューヨークやラスベガスですか?」
タイムズ・スクエアやベラージオの噴水ショー、それからフレモント・ストリート・エクスペリエンスはあまりにも有名だ。
「それもいいけど、ヨーロッパもなかなか斬新だよ。パリにリヨンにベニス。あとコペンハーゲンとかね」
「ブルーモーメント、ですね」
「そうそう。コペンハーゲンはブルーモーメントをバックにして映る街並みがきれいらしいよ」
明かりがぽつんぽつんと点在している様子は、きらびやかな夜景とはまた違う美しさがあるのだそうだ。
「有名なイルミネーションのスポットもあるけど、それよりも僕が興味あるのは街灯でね、日本とは違う照明方式なんだよ」
日本の街灯はポールを立てて、その上に照明器具を設置する。しかしコペンハーゲンでは、通りをはさんで空中で建物と建物をつなぐ支持線に照明器具を通して照らすのだそうだ。イメージ的には日本のお祭りのときの提灯に近い。
「詳しいですね。ヨーロッパに行かれたことがあるんですか?」
世良さんは物知りだ。建築関係の人なのに、ライティングのこともよく勉強している。
「ヨーロッパは一度だけ。でも時間が足りなくて、パリとリヨンだけだけど」
「そうだったんですか。前から思っていたんですけど、世良さんって見分が広いですよね」
「そうかな。普通だと思うよ。でもいつか亜矢ちゃんと一緒にヨーロッパに行きたいな。新婚旅行で行くのもいいね。亜矢ちゃんの勉強も兼ねて」
どさくさまぎれに攻めてくる。わざとじゃないんだろうけれど、やっぱり返答に困る。
「わざとだよ」
「はい?」
「どう? こういうやり方だと結婚を具体的に考えられない?」
「うーん、ちょっと無理があるかもしれません」
ベッドも新婚旅行も、世良さんの真摯なアプローチだけれど、そういう問題ではない。
形からというのは不純なような気がする。結婚は相手の人と一生添い遂げる誓いだから、丸めこまれたくない。
「覚悟してと言ったよね。だから遠慮もしない。思ったことはどんどん言わせてもらう」
海風で髪が揺れる。世良さんからさわやかな香りが漂ってきて、縮めてきた距離に動揺を見せると、自信に満ちた顔があった。
「亜矢ちゃんは、きっと僕と結婚したくなるよ」
吸い込まれそうな瞳にうっとりする。大人の色気が女の部分を誘う。弱いところを攻められて、囚われて、わたしは視線をそらせない。
「そういう言い方は卑怯です」
「どうして?」
「油断すると、その気になっちゃいそうです」
「それが狙いだから。マインドコントロール……なんてね」
迷いなく、「好きです」と言えたならどんなにいいか。幸せになれるに違いない。世良さんの深い愛情に包まれて、わたしは平穏な毎日が送らることができるはず。
「わたしに、それだけの価値があるとは思えません」
世良さんは知的で眉目秀麗でスタイルも抜群。王子様そのものだ。謙遜でなく、わたしのような人間に世良さんはもったいないと本気で思う。世良さんには、きれいで聡明で仕事のできる格好いい女性が似合うのだから。
「好きなんだ、誰よりも。それじゃ、だめなのかな?」
ふいに世良さんの身体が傾いてきて、そっと耳打ちされた。周囲にいるたくさんの人が見えなくなって、ふたりだけの世界になる。
「自分のことを価値に置きかえちゃいけないよ。そんなことを言ったら、僕なんてどうなっちゃうの? こんなにしつこく迫って、かなりやばい人間だと思う」
「そんなことないです。世良さんはとてもやさしくて、いい人です」
「ありがとう。でもいつまでいい人でいられるかな?」
「えっ……」
「冗談だよ。大丈夫、僕は亜矢ちゃんを裏切らないって誓うよ」
すっと身体が離れたかと思ったら、にこやかな顔が見下ろしていて、わたしは涙が出そうだった。わたしに、もう一度人を信じることを教えてくれようとしている。
「ゆっくりでいいよ、気長に待つから。だから絶対に僕と結婚してよ」
信じていいのかな? わたしは再び誰かを愛することができるのかな?
遠くにある雲の切れ間から青い空が見えた。ブルーモーメントだ。なんてやさしい色なのだろう。深い青なのに、あたたかい。まるで世良さんのようだった。けがれのない彼の心に身をゆだねながら、わたしは遠くに世良さんとの未来をぼんやりと夢見ていた。
でも大丈夫なのだろうか。忙しい世良さんだから、わたしとの時間を作るために無理をしているに違いない。
わたしと会う時間があるのなら、できれば自宅で身体を休めてほしい。だけどそう思う反面、誘いを断ることで世良さんに嫌な思いをさせたくないと思ってしまい、こうして会いにきてしまう。
「プラネタリウム建設のお仕事は順調ですか?」
日曜日の今日はドライブをしようということになった。お天気はいいとは言えないけれど、雨はなんとかまぬがれそうだ。
「順調だよ、完成が楽しみだよね。春山社長のライティングデザインも素晴らしいから、きっと話題になるよ」
「ちゃらんぽらんな感じの人なのに繊細な世界を生み出せるんですよね。なんだか信じられません」
「亜矢ちゃん、毒舌だなあ。でもライティングデザイン会社として経営できる人はほんのひと握りなんだ。春山社長はすごい人だよ」
就職するまで知らなかったのだが、春山社長は業界ではかなり有名な人。いくつかのコンテストで賞をもらっているし、テレビや雑誌の取材依頼もたまにある。
少し前までは新聞にコラムを寄稿していて、その新聞社の子会社である出版社からはムックの出版打診もあるみたい。今は仕事が忙しいので見送っているらしいけれど、そうなったらわたしもうれしい。
わたしは光に魅了された人々の笑顔に触れて、仕事の楽しさを知った。直接的にかかわっているわけではないけれど、誇りに思える。行き先を見失っていたわたしを導いてくれたのも、光の輝きだった。
ドライブの目的地はベイエリアにあるアウトレットモール。どこに行きたいかとたずねられて思いついたのがそこだった。
実はそのアウトレットモールは、うちの事務所でイルミネーションの仕事をさせてもらったところ。担当はうちの事務所のなかでもひと際感性豊かな若い男性社員。春山社長も彼の才能に惚れ込んでいて、一度見ておくといいと夜に連れてきてもらったことがある。
そんなワケで夜に見学に来たことはあったのだけれど、ショッピングをしたことがなかった。
アウトレットモールは夜とは違う雰囲気。異国を思わせるオシャレな外観は心をウキウキさせる。世良さんも職業柄、興味津々に建物を見渡していて、楽しそうに目を輝かせていた。
その後、ショッピングとなったのだけれど。
「今度はどうですか? わたしは気に入ったんですけど」
わたしは世良さんの着せ替え人形になっていた。
アパレルショップに入るたびに試着させられている。いったい、これで何着目だろう。
「うーん。それだと丈が長すぎる」
無難に涼しげな白のマキシ丈ワンピースを選んだのに、世良さんは腕組しながら渋い顔をしている。
だけど文句は言えない。誕生日に婚約指輪を受け取らなかったわたしへの誕生日プレゼントということで、決定権は世良さんにあるのだ。
「あまり露出が多いのは困ります」
「だめだよ、もうすぐ夏なんだから。ということで、マキシ丈は却下」
これもかなり夏っぽいと思うんだけどなあ。実際、色もデザインも夏用だ。
「人様に見せるほどではない脚なので、できるだけ隠させてください」
「きれいだから、もっと見せてよ。その代わり、僕と一緒のときだけだよ」
今日買ってもらう予定の服は、世良さんと会うとき限定に着るものらしい。ニコニコ顔して独占欲は忘れない。
「わかりました、ひざ丈までなら妥協します。それ以上短いのは断固お断りですからね」
わたしはもう一度フィッティングルームに戻るとワンピースを脱いだ。するとコンコンとドアをノックする音が聞こえてきた。
「亜矢ちゃん、これなんてどう?」
世良さんの声に、自分の服を着てドアを静かに開ける。彼の手にはネイビーのワンピースがあった。
「サイズはさっきのと同じだから大丈夫だと思う」
「いい感じですね、着てみますね」
あの口ぶりから、露出高めのものかと思いきや、意外にも清楚系。パフスリーブで、ひざ丈のワンピースのウエスト部分に革製の白い紐ベルトがついていて、上品で涼しげなデザインだった。
世良さんってこういうのが趣味なのか。
鏡の前で全身チェックを終え、ちょっとだけ恥ずかしさが芽生えた。
似合うかな? そう思いながら恐る恐るフィッティングルームのドアを開けた。
「どうでしょう?」
すると世良さんは、わたしを見るなり満面の笑みを浮かべた。
「思った通りだ、よく似合うよ」
「本当ですか?」
「うん、色っぽい」
「え、色っぽい?」
「亜矢ちゃん、結構スタイルいいんだね」
今着ているワンピースは、スカートはフレアラインで胸もとには控えめにドレープが入っている。けれど、さっきのよりも生地がやわらかい素材だから身体のラインが強調されてしまう。
「み、見ないでください!」
思わず胸のあたりを両手で隠した。
「そういうつもりで言ったんじゃないよ」
「じゃあ、どういう意味ですか?」
「えっと……バランスがいいと言いたかったんだよ。ほどよい肉つきっていうか……」
たしかにわたしは細身ではない。
世良さんなりに言葉を選んでいるようだけれど。
「フォローになってません!」
「なんで? ほめてるつもりなんだけどなあ。でもごめんね」
世良さんはのんびりと言う。
どこまでもマイペースな世良さんを見ていると怒る気も失せるというもので、頭をポリポリかいている姿を前に、いつの間にか笑っているわたしがいた。
世良さんに対するイメージがどんどん変わっていく。以前は、紳士的で落ち着いた冷静な人という感じだったのに、最近は無邪気な面が多くなった。
「もういいです。悪気がないのはわかってますから」
「もちろん悪気なんてないよ。まあ、なにはともあれ、機嫌が直ってよかった。亜矢ちゃんの笑顔は僕のサプリメントだからね」
照れもせず、その声は甘い。
その声を聞いてしまうと、従順になってしまう。わたしも世良さんのやさしい声や笑顔に弱いかもしれない。
「プレゼントは、これをお願いします」
「いいの?」
「このワンピース、かわいいので」
「なら、今年の夏はそれを着てデートしようね」
こうして、ようやくワンピを一着買うことができた。世良さんの満足げな顔を横目に、もう少し痩せなきゃとプレッシャーを感じながらも、今はそれほど悪い気はしない。
昼食後はアウトレットモールの近くにある大型家具屋へ行った。
世良さんは店内を歩きながらキョロキョロしている。なにかをさがしているようだった。
「ほしいものがあるんですか?」
「まあね」
いったい、なにを買おうとしているのだろう。
すると目的のものを見つけたらしく、「こっちだよ」と声を弾ませ、わたしをうながす。
そのとき、わたしの手がなにかにふわっとおおわれた。それが世良さんの手だとわかったときは、すでにしっかりと握られていた。
世良さんはこういうのは慣れているのだろうか。
わたしだって男の人と手をつなぐことは初めてじゃない。けれど恋人でない男の人とは初めてで、どういうリアクションをしたらいいのか困ってしまう。
でもわたしの動揺をよそに、世良さんは特に意識していない様子で、いつも通りの澄ました顔だった。
そして寝具売り場まで来ると、まじめな顔でわたしにたずねた。
「どれがいいと思う? クイーン? それともキングサイズ? あっ、セミダブルをふたつ並べて使うのもいいよね」
目の前には大きなベッド。かなり本格的な家具選びにびっくり。
「わたし、インテリアに詳しくないんです」
「参考までに教えてよ。結婚したら買い替える予定だから、先に希望を聞いておきたいんだ」
世良さんは実にさらっと、とんでもない発言をする。
プロポーズも受け入れていないのに、もう新婚生活の話になっている。
「でもお部屋の雰囲気に合わせたほうがいいと思いますし……」
わたしもなにを言っているのだろう。恥ずかしくなって、まともにベッドを見られない。
「そっかあ、まずは新居選びが先か。なら、ベッドを決めるのは別の機会にしよう」
またもさらりと言ってくれるけれど、わたしは深い意味を考えてしまって、余計に顔を上げることができない。
だけど世良さんは相変わらず我が道を行く。
「でもさ、ベッドは大きめのほうがいいよね。子どもが小さいときは川の字で寝られるから」
世良さんの妄想は止まらない。いよいよ子育てにまで発展しているようだった。
「亜矢ちゃんは、子どもは何人ほしい?」
「わたしはまだそこまで考えたことがなくて……」
いつかはとは思うけれど、今は結婚すら夢見ることができずにいる。
「僕はいろいろ想像しちゃうんだ。亜矢ちゃんに似た女の子がいいなあとか。もちろん男の子もほしいんだけどね」
「世良さん似のほうが断然かわいいです」
「そんなことないよ! 亜矢ちゃんに似たほうがかわいいって!」
世良さんは興奮気味に話す。
彼は真剣なんだ。まじめにわたしとの将来を考えてくれている。
世良さんには不思議な魅力がある。いきなり子どもの話をされると引いてしまうと思うのに、世良さんだと思わない。
その魅力でどれだけの人を虜にしてきたのだろう。世良さんに恋した女の子たちの気持ちが少しだけわかるような気がした。
この日はベッド以外にも、ダイニングセットやカーペット、それから食器棚まで見てまわった。
つながれた手はそのまま。歩いている途中でそのことを言ったら、「これくらい許してよ」とにっこり笑っていた。
拒む気なんて吹き飛んでしまった。この手は男の人らしく大きいけれど、意外にしなやかで心地いい。
「世良さんの手、やわらかいですね」
「亜矢ちゃんの手のほうがやわらかいよ。女の子って感じ。悔しいから言わなかったけど、これでもかなり緊張しているんだよ」
「え……」
そうは見えなかった。わたしだけが世良さんの一つひとつの言動に敏感に反応していると思っていたのに。
「内緒だよ」
「言う相手なんていません」
「いやいや、春山社長は鋭いからね」
「たしかに」
世良さんはのんびりとした雰囲気なのに、なにげない仕草にも自身の想いをこめてくる。こうやって、さっきよりも握る手の力を強め、わたしの意識を刺激してくる。
だけどなぜだろう。半ば強引に手を引かれても嫌じゃなかった。最初こそ世良さんに連れまわされている感じだったのに、そのうちわたしもその気になってきて、未来の結婚生活の部屋を想像しながら楽しんでいた。
正直、結婚というものを現実的にとらえられないけれど、ほんの少しだけ夢見ることはできるようになっていた。
その後はベイエリアをドライブ。すると進行方向の少し先にレインボーブリッジが見えてきた。
「うわぁ、大きい!」
「この道は初めて?」
「いいえ、違いますけど。何度見ても迫力あるなあと思って」
「前の彼と見たんだろうけど、妬けるな」
「世良さんこそ、わたしで何人目ですか?」
世良さんが途端に黙り込む。
「もしかして、人数を数えてるんですか?」
「そういえば……と思ったんだけど。やっぱり、わからないな」
平然と言うので、本当にこの人はわたしを好きなのかなと疑いたくなるほど。普通は適当にごまかすでしょう。
「数えきれないほど、というのはわかりました」
「そんなにいないよ。いちいち覚えていないだけ。それより、ひとりで通ることのほうが多いよ」
「おひとりで、この辺りまでドライブに来るんですか?」
不思議に思ってたずねた。ドライブが趣味だなんて聞いたことがなかったから。
「仕事でだよ。でもこの辺を通るのは楽しみなんだ。そうだ、亜矢ちゃん! 北欧でよく使われる言葉なんだけど、ブルーモーメントって知ってる?」
世良さんがなにやら楽しそうにたずねてきた。
「いいえ、なんですか?」
「昼と夜が入れ替わる間の空のこと。夜明け前と日没後のほんの短い時間に見えるんだよ」
たとえば黄昏時。太陽が西の空に沈んだあと、東の空から青色に包まれていく神秘的な現象。上空で太陽の光が塵や水蒸気に吸収されて、青い光だけが地上に降りそそぐ。日本ではそれが十分ほどの短い時間なのだが、北欧ではそれが数時間も続くのだそうだ。
「ブルーモーメント。青の瞬間といっても、数時間も見られるんですね」
「なんでそんなふうにいうんだろうね。北欧の人たちは、それだけその空が大切で愛おしいということなのかな」
事務所のなかにいると、空なんてほとんど見ることがない。夕方の空というと、夕焼けばかりに目がいっていたけれど、今度ブルーモーメントの空をさがしてみようかな。
「海があると空が広く見えるだろう。だから、このあたりは絶好のビューポイントなんだよ。ただ残念、今日は曇り空だから難しいな」
「レインボーブリッジを背景に見たかったです」
「見ようと思えば、見られるよ。今度は天気をちゃんと確認しておくから、また来ようね」
「はい」
あっ、ついつられて「はい」と言ってしまった。今の、世良さんは気づいているのかな。
次のデートの約束。どれくらい先のことなのかわからないけれど、この先も一緒だよと言われているみたい。
でも世良さんはその場のノリで言ったとも考えられる。前を向いたままの世良さんは、特になんの反応も示さなかった。
連なる車の列は遙か彼方まで続いていた。ここまででもかなりの距離。あまりにも快適なドライブだったので気がつかなかったけれど、日もだいぶ傾いている。もうそんな時間なんだなと思いながら、思いのほか楽しんでいる自分がいることに驚いていた。
世良さんとの時間は自然な流れで過ぎていく。だけど、かえってそのことがわたしにとって障害となっている。
過去の恋愛で抱いていた好きという激しい感情を、世良さんとの間に感じないことが引っかかって、その胸に飛び込むことができない。
それでもたしかに感じている、この胸のときめき。ただ、今のわたしにはそれが恋に発展するサインなのか、それとも思い違いなのかを見極められない。
「車を降りて少し歩こうか」
突然、世良さんがそう言い出して首都高を下りた。
海がさざ波を立てていた。遠くに明かりの灯された東京の街並みが見える。日没直後の、まだ太陽の光が少し残る空の下の景色は、建物の輪郭がはっきり見えて、夜景とは違う美しさがある。
この景色をブルーモーメントの空の下で見られたら格別だろうな。
「こういう景色もなかなかだと思わない?」
「はい。実態がちゃんとあるからなのか、人の息づかいというか、生命力を感じます」
夜景に浮かぶ光の点は、繊細でどこか儚くて、幻のように思えるときがある。人々の存在をリアルに感じられない。
それとは違い、今見ている高層ビルやマンションの景色には都会の人々が目に浮かぶ。明かりの灯る窓を見ながら、働いている姿や自宅でくつろいでいる様子が想像できる。
「亜矢ちゃんの事務所とうちの会社が目指しているものは、建設にかかわるという点では限りなく近いけど、正反対でもあるよね」
闇と光。真逆の世界で存在感を発揮する。でもどちらも必要なもの。人が息づく街があるからこそのライティング。人を魅了する光を描くためにはキャンバスが欠かせないのだ。
「だから一緒にお仕事ができるんですよ。ないものを補い合えるんですから」
「いいこと言うね」
「でもわたしは事務の仕事しかしていないので、ちょっとさみしいです。なにかを作り上げるって、やっぱり快感なんですか?」
どんな気持ちなのだろう。どれだけの感動に包まれるのだろう。現場をよく知らないわたしにはいまいち理解できない。
「僕は設計だから直接作るわけじゃないけど、それでも感無量な気持ちになるよ」
「現場の人の苦労を知っているから、なおさらですよね」
世良さんは、設計課に異動する前は建設現場で働いていた。両方の気持ちがわかる立場だから、“感無量”なのだろう。
「人間はすごいね。自分よりも遙かに大きなものを作ってしまうんだから。飛行機なんて、空を飛ぶんだよ」
「飛行機は不思議ですよね。何時間も飛んでいられるんですもん」
「仕組みを知っても、それでもやっぱり不思議だよ。素人だからかな」
子どもみたいに高揚している。世良さんに仕事を語らせると、内容がどんどん広がっていく。そのうち宇宙にまで飛び出してしまうんじゃないかと思うくらい。それくらい仕事好きなことが伝わってくる。
「亜矢ちゃんは専門の仕事をやりたいの?」
「そこまでは考えていません。ライティングデザイナーは美術大学出身の人が多いですから。でもわたしはそうじゃありません」
「必ずしも美術系とは限らないよ。春山デザインの人にもメーカー出身の人がいなかったっけ?」
「いますよ。だけど、あの人は特別です。もともとセンスがある人ですから」
アウトレットモールのイルミネーションを担当したのがその人。照明メーカーの会社を辞めて、うちの事務所に転職してきた。春山社長に憧れていたという彼は、現在もめきめきと才能を伸ばしている。
「でも少しでも覚えたいなとは思っていて、とりあえず自宅でCADの勉強だけはしています」
CADとは図面をパソコンで描くソフト。業者間での図面データのやり取りも頻繁なので、建設業界では扱えることが常識だ。
しかし最近はCADどころか、照度計算機能を持つ3次元CG用ソフトにも注目が集まっていて、取り入れている設計会社も数多くある。
実際ライティングデザインは、CGでプレゼンすることが求められる時代。相手にこちらの意向を伝える際、平面図やスケッチよりも伝わりやすいというのも利点だ。
「CADは最低限の技術ですから」
「そっか。たださ、CADは少しやれば誰にでもできることだよ。言い方は悪いけど、トレースしかできないレベルなら、アルバイトやパートの人にまかせたほうが会社としては得なんだよね」
「そうですけど。それができないと仕事にならないじゃないですか」
世良さんにしては珍しく厳しい言い方だ。ちょっとショックだな。
「もちろん、亜矢ちゃんのがんばりを否定しているわけではないんだよ」
わたしの気持ちを察して、世良さんが眉尻を下げる。
「僕が言いたいのは、大事なのはそこじゃないということ。そういう分野で働いている女性の多くは、今の亜矢ちゃんよりもっと高い向上心を持っているんだ」
「わたしだって趣味の範囲で勉強しているんじゃありません」
わたしもついムキになって言い返した。それでも世良さんは冷静に続ける。
「誤解しないで。亜矢ちゃんがプライベートの時間をつぶしてまで努力していることにはびっくりしたし、感心もした。だけどね、そういった目先の技術よりも、もっと勉強することがあると思うんだ」
「ほかにですか?」
そんなこと、考えたことなんてなかった。自分では思いつかない。なにをすればいいのだろう。
「外国のライティングの歴史を調べたり、デザインをたくさん見たりするといいよ」
「ニューヨークやラスベガスですか?」
タイムズ・スクエアやベラージオの噴水ショー、それからフレモント・ストリート・エクスペリエンスはあまりにも有名だ。
「それもいいけど、ヨーロッパもなかなか斬新だよ。パリにリヨンにベニス。あとコペンハーゲンとかね」
「ブルーモーメント、ですね」
「そうそう。コペンハーゲンはブルーモーメントをバックにして映る街並みがきれいらしいよ」
明かりがぽつんぽつんと点在している様子は、きらびやかな夜景とはまた違う美しさがあるのだそうだ。
「有名なイルミネーションのスポットもあるけど、それよりも僕が興味あるのは街灯でね、日本とは違う照明方式なんだよ」
日本の街灯はポールを立てて、その上に照明器具を設置する。しかしコペンハーゲンでは、通りをはさんで空中で建物と建物をつなぐ支持線に照明器具を通して照らすのだそうだ。イメージ的には日本のお祭りのときの提灯に近い。
「詳しいですね。ヨーロッパに行かれたことがあるんですか?」
世良さんは物知りだ。建築関係の人なのに、ライティングのこともよく勉強している。
「ヨーロッパは一度だけ。でも時間が足りなくて、パリとリヨンだけだけど」
「そうだったんですか。前から思っていたんですけど、世良さんって見分が広いですよね」
「そうかな。普通だと思うよ。でもいつか亜矢ちゃんと一緒にヨーロッパに行きたいな。新婚旅行で行くのもいいね。亜矢ちゃんの勉強も兼ねて」
どさくさまぎれに攻めてくる。わざとじゃないんだろうけれど、やっぱり返答に困る。
「わざとだよ」
「はい?」
「どう? こういうやり方だと結婚を具体的に考えられない?」
「うーん、ちょっと無理があるかもしれません」
ベッドも新婚旅行も、世良さんの真摯なアプローチだけれど、そういう問題ではない。
形からというのは不純なような気がする。結婚は相手の人と一生添い遂げる誓いだから、丸めこまれたくない。
「覚悟してと言ったよね。だから遠慮もしない。思ったことはどんどん言わせてもらう」
海風で髪が揺れる。世良さんからさわやかな香りが漂ってきて、縮めてきた距離に動揺を見せると、自信に満ちた顔があった。
「亜矢ちゃんは、きっと僕と結婚したくなるよ」
吸い込まれそうな瞳にうっとりする。大人の色気が女の部分を誘う。弱いところを攻められて、囚われて、わたしは視線をそらせない。
「そういう言い方は卑怯です」
「どうして?」
「油断すると、その気になっちゃいそうです」
「それが狙いだから。マインドコントロール……なんてね」
迷いなく、「好きです」と言えたならどんなにいいか。幸せになれるに違いない。世良さんの深い愛情に包まれて、わたしは平穏な毎日が送らることができるはず。
「わたしに、それだけの価値があるとは思えません」
世良さんは知的で眉目秀麗でスタイルも抜群。王子様そのものだ。謙遜でなく、わたしのような人間に世良さんはもったいないと本気で思う。世良さんには、きれいで聡明で仕事のできる格好いい女性が似合うのだから。
「好きなんだ、誰よりも。それじゃ、だめなのかな?」
ふいに世良さんの身体が傾いてきて、そっと耳打ちされた。周囲にいるたくさんの人が見えなくなって、ふたりだけの世界になる。
「自分のことを価値に置きかえちゃいけないよ。そんなことを言ったら、僕なんてどうなっちゃうの? こんなにしつこく迫って、かなりやばい人間だと思う」
「そんなことないです。世良さんはとてもやさしくて、いい人です」
「ありがとう。でもいつまでいい人でいられるかな?」
「えっ……」
「冗談だよ。大丈夫、僕は亜矢ちゃんを裏切らないって誓うよ」
すっと身体が離れたかと思ったら、にこやかな顔が見下ろしていて、わたしは涙が出そうだった。わたしに、もう一度人を信じることを教えてくれようとしている。
「ゆっくりでいいよ、気長に待つから。だから絶対に僕と結婚してよ」
信じていいのかな? わたしは再び誰かを愛することができるのかな?
遠くにある雲の切れ間から青い空が見えた。ブルーモーメントだ。なんてやさしい色なのだろう。深い青なのに、あたたかい。まるで世良さんのようだった。けがれのない彼の心に身をゆだねながら、わたしは遠くに世良さんとの未来をぼんやりと夢見ていた。
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