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第四章 絶望のクライ
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部屋に通されると高級そうな応接セットがあり、ソファに座るようにうながされた。
「少し待っていなさい。すぐに戻ってくる」
御影理事長は鞄をロッカーにしまうと、なぜかすぐに部屋を出ていってしまった。
間取りは学園長室と違っていた。
大きく開放された南側の窓からは日が差し込み、照明をつけなくとも部屋全体が明るい。西側の壁面は天井まで本棚になっており、大量の書籍が収まっていた。デスクはその本棚の前に置いてある。
御影理事長は五分ほどで戻ってきた。
「コーヒーでもと思ったが、あいにく職員はまだ出勤していなくて。冷たいお茶でよかったかな?」
彼の手には校内の自販機で買った紙パックの緑茶がふたつある。老人特有の血管が浮きあがった手の甲を見ていると、やはり年相応なのだと感じる。
めぐるは恐縮しながら「いただきます」と紙パックのお茶をふたり分受け取ると、片方を伊央の前に置いた。
「高比良さんのことは如月学園長から聞いてるよ。雫石くんと仲がいいらしいね」
「仲よくなったのは最近なんですけど」
「だとしても、雫石くんはクラスで孤立していると聞いていたから、安心したんだよ。様子を知りたくても、わたしが教室まで覗きにいくわけにもいかないからな」
御影理事長は先ほどまでの厳つい顔を幾分柔和にさせた。
「無駄話はいいよ。それより僕の実の両親のことを教えてよ」
伊央が苛立ちを隠すことなく御影理事長に噛みついた。
視線は冷たく、隙を見せないよう警戒している。
その様子を見た御影理事長の表情は一瞬にして固くなった。
「そうだったな。時間も限られていることだし、本題に入ろう」
「まず、僕の実の父親は誰なの? 市内の塾に勤めていた、あんたの息子かもしれない人の画像を見たんだけど、その人なの?」
「昨日、わたしひとりで華耶子さんに会ったときに聞きました。その塾講師の方は尚央さんとおっしゃって、御影理事長の息子さんだと」
華耶子と話をしたことは伊央に伝えていなかったので、めぐるは補足のために口添えした。
「ああ。尚央は息子だよ。たしかに塾講師をしていたが、一年前にすい臓がんで亡くなってしまった。病気がわかった時点ですでに手遅れで、たった五十三日間の闘病生活だったんだよ」
たった五十三日間の闘病生活。めぐると伊央は言葉をなくす。
御影理事長はショックを受けているふたりを気遣うように間を置いた。それからゆっくりと息子の高校時代を語りはじめた。
「尚央が西城ヶ丘学園の生徒だった当時、同級生の女性と恋に落ちた。それから間もなく、女性は身ごもったんだ。ふたりともまだ十六歳だった。そのことを知ったわたしは出産も結婚も反対した。尚央は、ゆくゆくはこの西城ヶ丘学園を継ぐ立場だったから、世間体を考え、どうしても許すことができなかった。だが、ふたりは堕胎することを頑なに拒んだ。そして十六年前の八月に雫石くんが生まれたんだよ」
しわがれた声には長年に渡る自責の念が滲み出ていた。
「嘘? 僕は捨てられたんじゃないの?」
ほとんど泣き声だった。いや、実際は泣いていない。だが、めぐるには泣いているように聞こえていた。
無理もない。十六年近く、自分は捨てられたのだと思って生きてきたのだから。
伊央にとって、それでも生きる糧《かて》になっていた。恨みや憎しみの感情も人間の一部。無表情の仮面の下にそれらを隠し、エネルギーに変え、毎日を乗り越えてきたのだ。
「伊央は捨てられたんじゃない。伊央は両親に望まれて生まれてきたんだよ。そうですよね? 御影理事長」
「もちろんだ。ふたりは雫石くんを守ろうと必死だったよ。尚央は学校に行かず、アルバイトをはじめた。あとから知ったんだが、尚央は産婦人科の検診に何度かつき添っていたらしい。尚央の遺品のなかにエコー写真もあったよ」
御影理事長は立ちあがると、ロッカーにしまってあった鞄のなかから写真を取り出してきて、ふたりに見えるようにテーブルに置いた。
「この写真は尚央が自分のパソコンに取り込んで、印刷し直したものらしい」
それは胎児のエコー写真だった。
「これが伊央なんだ。なんだか不思議」
めぐるはモノクロのエコー写真を手に取ると、向きを変えたり、近づけたりしながら見入った。
まだ妊娠初期のものらしく、小さな物体が写ってはいるが、はっきりと人間の形を成していないため、めぐるにはなにがなんだかわからない。
それでも神秘的なものは感じた。伊央も同じような感想で、興味は示してもピンときていない。
「僕が産まれる前のことはだいたいわかった。でもエコー写真を大事に取っておく人間が、産まれてきた子どもを引き取らずに、どうしてずっと放っておけたんだよ?」
御影理事長は苦しそうに息を吐いた。彼が語ったその続きは、めぐると伊央の想像を絶する内容だった。
「少し待っていなさい。すぐに戻ってくる」
御影理事長は鞄をロッカーにしまうと、なぜかすぐに部屋を出ていってしまった。
間取りは学園長室と違っていた。
大きく開放された南側の窓からは日が差し込み、照明をつけなくとも部屋全体が明るい。西側の壁面は天井まで本棚になっており、大量の書籍が収まっていた。デスクはその本棚の前に置いてある。
御影理事長は五分ほどで戻ってきた。
「コーヒーでもと思ったが、あいにく職員はまだ出勤していなくて。冷たいお茶でよかったかな?」
彼の手には校内の自販機で買った紙パックの緑茶がふたつある。老人特有の血管が浮きあがった手の甲を見ていると、やはり年相応なのだと感じる。
めぐるは恐縮しながら「いただきます」と紙パックのお茶をふたり分受け取ると、片方を伊央の前に置いた。
「高比良さんのことは如月学園長から聞いてるよ。雫石くんと仲がいいらしいね」
「仲よくなったのは最近なんですけど」
「だとしても、雫石くんはクラスで孤立していると聞いていたから、安心したんだよ。様子を知りたくても、わたしが教室まで覗きにいくわけにもいかないからな」
御影理事長は先ほどまでの厳つい顔を幾分柔和にさせた。
「無駄話はいいよ。それより僕の実の両親のことを教えてよ」
伊央が苛立ちを隠すことなく御影理事長に噛みついた。
視線は冷たく、隙を見せないよう警戒している。
その様子を見た御影理事長の表情は一瞬にして固くなった。
「そうだったな。時間も限られていることだし、本題に入ろう」
「まず、僕の実の父親は誰なの? 市内の塾に勤めていた、あんたの息子かもしれない人の画像を見たんだけど、その人なの?」
「昨日、わたしひとりで華耶子さんに会ったときに聞きました。その塾講師の方は尚央さんとおっしゃって、御影理事長の息子さんだと」
華耶子と話をしたことは伊央に伝えていなかったので、めぐるは補足のために口添えした。
「ああ。尚央は息子だよ。たしかに塾講師をしていたが、一年前にすい臓がんで亡くなってしまった。病気がわかった時点ですでに手遅れで、たった五十三日間の闘病生活だったんだよ」
たった五十三日間の闘病生活。めぐると伊央は言葉をなくす。
御影理事長はショックを受けているふたりを気遣うように間を置いた。それからゆっくりと息子の高校時代を語りはじめた。
「尚央が西城ヶ丘学園の生徒だった当時、同級生の女性と恋に落ちた。それから間もなく、女性は身ごもったんだ。ふたりともまだ十六歳だった。そのことを知ったわたしは出産も結婚も反対した。尚央は、ゆくゆくはこの西城ヶ丘学園を継ぐ立場だったから、世間体を考え、どうしても許すことができなかった。だが、ふたりは堕胎することを頑なに拒んだ。そして十六年前の八月に雫石くんが生まれたんだよ」
しわがれた声には長年に渡る自責の念が滲み出ていた。
「嘘? 僕は捨てられたんじゃないの?」
ほとんど泣き声だった。いや、実際は泣いていない。だが、めぐるには泣いているように聞こえていた。
無理もない。十六年近く、自分は捨てられたのだと思って生きてきたのだから。
伊央にとって、それでも生きる糧《かて》になっていた。恨みや憎しみの感情も人間の一部。無表情の仮面の下にそれらを隠し、エネルギーに変え、毎日を乗り越えてきたのだ。
「伊央は捨てられたんじゃない。伊央は両親に望まれて生まれてきたんだよ。そうですよね? 御影理事長」
「もちろんだ。ふたりは雫石くんを守ろうと必死だったよ。尚央は学校に行かず、アルバイトをはじめた。あとから知ったんだが、尚央は産婦人科の検診に何度かつき添っていたらしい。尚央の遺品のなかにエコー写真もあったよ」
御影理事長は立ちあがると、ロッカーにしまってあった鞄のなかから写真を取り出してきて、ふたりに見えるようにテーブルに置いた。
「この写真は尚央が自分のパソコンに取り込んで、印刷し直したものらしい」
それは胎児のエコー写真だった。
「これが伊央なんだ。なんだか不思議」
めぐるはモノクロのエコー写真を手に取ると、向きを変えたり、近づけたりしながら見入った。
まだ妊娠初期のものらしく、小さな物体が写ってはいるが、はっきりと人間の形を成していないため、めぐるにはなにがなんだかわからない。
それでも神秘的なものは感じた。伊央も同じような感想で、興味は示してもピンときていない。
「僕が産まれる前のことはだいたいわかった。でもエコー写真を大事に取っておく人間が、産まれてきた子どもを引き取らずに、どうしてずっと放っておけたんだよ?」
御影理事長は苦しそうに息を吐いた。彼が語ったその続きは、めぐると伊央の想像を絶する内容だった。
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