6 / 54
第一章 悲しみのエンパシー
006
しおりを挟む
「今の音はなに!?」
佑は台所に入るなり、床の惨状と母と妹の殺伐とした雰囲気から、なにが起こったのかを察し、ため息をついた。
めぐるは母を怒らせてしまったことと佑のあきれたような顔に耐えきれなくなり、とうとう感情が爆発して堰を切ったように泣き出した。
「あんたはすぐそうやって泣くんだから。片づけるのはこっちなんだからね。お母さんの仕事をこれ以上増やさないで」
母の冷たい言葉にめぐるの泣き声はますます激しくなる。その金切り声に佑はあやす気力をなくし、めぐるが泣き止むのをただじっと待つことしかできなかった。
だが、めぐるは夕飯のときも泣きべそのまま。ムスッとしたまま食事をすませ、ひと言も言葉を交わすことなく、居間のテレビの前に居座った。そこで見かねた佑がその夜、めぐるを外に連れ出したのだった。
それからペルセウス座流星群を見るために空が開けた場所まで歩いてきたのだが、めぐるはどこからともなく聞こえてくる泣き声に引き寄せられるようにして、広い丘の街灯のそばに突っ立っている伊央を見つけた。
「お兄ちゃん、ほらやっぱり誰かいるよ」
「なんでこんなところに?」
夜間に子どもがひとりきりでいるというのはどう考えても異常だ。佑は伊央に駆け寄り、話しかける。
「家はどこ? お父さんとお母さんは一緒じゃないの?」
しかし佑がいくらたずねても、伊央は答えない。不安そうな顔で佑を見あげたまま。大きな目からは次々に涙がこぼれ落ちていた。
「参ったなあ。どこの子だろう? めぐるは知ってる?」
「ううん、知らない。この子、迷子なの?」
「そうらしい。まだ小さいから、住所を聞いたところで言えるわけないよな。でもなんでこんな時間にひとりでいるんだろう」
結局、埒が明かず、困り果てた佑は身元不明の伊央を自宅に連れ帰ることにした。
その後、母からの通報で家を訪ねてきたスーツ姿の刑事に伊央は引き取られていった。実は伊央には捜索願いが出されており、誘拐の可能性もあるということで、極秘捜査がされていた。そのため佑は、そのときの状況を刑事からいろいろと聞かれる羽目になった。つまり、ほんの少しではあるが十一歳の佑が誘拐犯の疑いをかけられたのだ。もちろん、すぐに疑いは晴れたのだが、母親は納得いかなかったらしく、ヒステリックに刑事に抗議していた。
しかし、六歳のめぐるにはすべてのことを理解できず、不安な面持ちで母親と佑をただぼんやりと見ていた。
◇
「あのとき僕は恐怖で足がすくんで動けなかった。なんとかあの丘まで歩いてきたんだけど、そこで途方に暮れていたんだ。そしたらめぐるがペルセウス座流星群のことを教えてくれた。流れ星に『家に帰れますように』と三回唱えるときっと叶うよって、僕の代わりに流れ星にお祈りしてくれた」
「わたし、本当にそんなことしたの?」
「うん、僕はちゃんと覚えてる。めぐるは僕の恩人だよ。ありがとう」
「恩人だなんておおげさだよ。なんていうか、あのときはたまたまタイミングが合ったんだと思う。お母さんと喧嘩して、お兄ちゃんが外に連れ出してくれたから」
今となっては母に感謝だ。
子どもの頃のめぐるは超がつくほど怖がりだった。夜、電気の点いていない部屋に入ることもできないほどで、いつも日が暮れる前に部屋中の電気を点けては母や佑に怒られていた。そう考えると、伊央はどれだけ怖かったんだろうとかわいそうになる。
「でもひどいでしょう? 子どもの誕生日を祝ってくれない母親なの。うちのお母さんは、たぶんわたしのことを好きじゃないんだよ。近所の人にもわたしの悪口を言いまくってる。かわいげがないとか、頭が悪いとか、なんの取り柄もないだめな子どもだって」
「めぐるはやさしいし、頭もいいよ。じゃなきゃ、西城ヶ丘学園に入れないよ」
「それは中三の冬休みに猛勉強したから。それまでは合格圏内ですらなかったの。だから今は学校の勉強についていくのが大変」
めぐるはうんざりした顔になる。
こんなふうに誰かに愚痴ったことなんてなかった。だけど伊央の前では素直になれる。
兄のようであり、弟のようでもある。めぐるにとって伊央はそんな存在に思えた。
「だとしても、めぐるはちゃんと努力した。がんばったよ。だめな子どもなんかじゃない」
「でもお母さんにとっては、お兄ちゃんのほうが大事みたい。お兄ちゃん、すごく優秀なんだ。勉強もスポーツもできて、友達も多くて、国立大のなかでも難関といわれている大学にも塾に通わずにすんなり合格したの。つまり自慢の息子がひとりいれば十分だから、わたしなんてどうでもいいの」
エピソードを聞いた伊央は悲しげに目を伏せた。だけどすぐにその目を怖いくらいにギラリと光らせ、表情を一変させた。
それはめぐるの見たことのない顔。憤りや怒りを必死に抑えてはいるが、隠しきれない感情が滲み出ている。
「どんなに冷たくされても自分を育ててくれる両親のいるめぐるは幸せだよ」
「そうは思うけど」
「西城ヶ丘学園の近くに児童養護施設があったんだけど覚えてない? 今は移転して、その跡地はコンビニになってるけど」
「あっ、その施設なら、なんとなく覚えてる」
佑は台所に入るなり、床の惨状と母と妹の殺伐とした雰囲気から、なにが起こったのかを察し、ため息をついた。
めぐるは母を怒らせてしまったことと佑のあきれたような顔に耐えきれなくなり、とうとう感情が爆発して堰を切ったように泣き出した。
「あんたはすぐそうやって泣くんだから。片づけるのはこっちなんだからね。お母さんの仕事をこれ以上増やさないで」
母の冷たい言葉にめぐるの泣き声はますます激しくなる。その金切り声に佑はあやす気力をなくし、めぐるが泣き止むのをただじっと待つことしかできなかった。
だが、めぐるは夕飯のときも泣きべそのまま。ムスッとしたまま食事をすませ、ひと言も言葉を交わすことなく、居間のテレビの前に居座った。そこで見かねた佑がその夜、めぐるを外に連れ出したのだった。
それからペルセウス座流星群を見るために空が開けた場所まで歩いてきたのだが、めぐるはどこからともなく聞こえてくる泣き声に引き寄せられるようにして、広い丘の街灯のそばに突っ立っている伊央を見つけた。
「お兄ちゃん、ほらやっぱり誰かいるよ」
「なんでこんなところに?」
夜間に子どもがひとりきりでいるというのはどう考えても異常だ。佑は伊央に駆け寄り、話しかける。
「家はどこ? お父さんとお母さんは一緒じゃないの?」
しかし佑がいくらたずねても、伊央は答えない。不安そうな顔で佑を見あげたまま。大きな目からは次々に涙がこぼれ落ちていた。
「参ったなあ。どこの子だろう? めぐるは知ってる?」
「ううん、知らない。この子、迷子なの?」
「そうらしい。まだ小さいから、住所を聞いたところで言えるわけないよな。でもなんでこんな時間にひとりでいるんだろう」
結局、埒が明かず、困り果てた佑は身元不明の伊央を自宅に連れ帰ることにした。
その後、母からの通報で家を訪ねてきたスーツ姿の刑事に伊央は引き取られていった。実は伊央には捜索願いが出されており、誘拐の可能性もあるということで、極秘捜査がされていた。そのため佑は、そのときの状況を刑事からいろいろと聞かれる羽目になった。つまり、ほんの少しではあるが十一歳の佑が誘拐犯の疑いをかけられたのだ。もちろん、すぐに疑いは晴れたのだが、母親は納得いかなかったらしく、ヒステリックに刑事に抗議していた。
しかし、六歳のめぐるにはすべてのことを理解できず、不安な面持ちで母親と佑をただぼんやりと見ていた。
◇
「あのとき僕は恐怖で足がすくんで動けなかった。なんとかあの丘まで歩いてきたんだけど、そこで途方に暮れていたんだ。そしたらめぐるがペルセウス座流星群のことを教えてくれた。流れ星に『家に帰れますように』と三回唱えるときっと叶うよって、僕の代わりに流れ星にお祈りしてくれた」
「わたし、本当にそんなことしたの?」
「うん、僕はちゃんと覚えてる。めぐるは僕の恩人だよ。ありがとう」
「恩人だなんておおげさだよ。なんていうか、あのときはたまたまタイミングが合ったんだと思う。お母さんと喧嘩して、お兄ちゃんが外に連れ出してくれたから」
今となっては母に感謝だ。
子どもの頃のめぐるは超がつくほど怖がりだった。夜、電気の点いていない部屋に入ることもできないほどで、いつも日が暮れる前に部屋中の電気を点けては母や佑に怒られていた。そう考えると、伊央はどれだけ怖かったんだろうとかわいそうになる。
「でもひどいでしょう? 子どもの誕生日を祝ってくれない母親なの。うちのお母さんは、たぶんわたしのことを好きじゃないんだよ。近所の人にもわたしの悪口を言いまくってる。かわいげがないとか、頭が悪いとか、なんの取り柄もないだめな子どもだって」
「めぐるはやさしいし、頭もいいよ。じゃなきゃ、西城ヶ丘学園に入れないよ」
「それは中三の冬休みに猛勉強したから。それまでは合格圏内ですらなかったの。だから今は学校の勉強についていくのが大変」
めぐるはうんざりした顔になる。
こんなふうに誰かに愚痴ったことなんてなかった。だけど伊央の前では素直になれる。
兄のようであり、弟のようでもある。めぐるにとって伊央はそんな存在に思えた。
「だとしても、めぐるはちゃんと努力した。がんばったよ。だめな子どもなんかじゃない」
「でもお母さんにとっては、お兄ちゃんのほうが大事みたい。お兄ちゃん、すごく優秀なんだ。勉強もスポーツもできて、友達も多くて、国立大のなかでも難関といわれている大学にも塾に通わずにすんなり合格したの。つまり自慢の息子がひとりいれば十分だから、わたしなんてどうでもいいの」
エピソードを聞いた伊央は悲しげに目を伏せた。だけどすぐにその目を怖いくらいにギラリと光らせ、表情を一変させた。
それはめぐるの見たことのない顔。憤りや怒りを必死に抑えてはいるが、隠しきれない感情が滲み出ている。
「どんなに冷たくされても自分を育ててくれる両親のいるめぐるは幸せだよ」
「そうは思うけど」
「西城ヶ丘学園の近くに児童養護施設があったんだけど覚えてない? 今は移転して、その跡地はコンビニになってるけど」
「あっ、その施設なら、なんとなく覚えてる」
0
お気に入りに追加
7
あなたにおすすめの小説
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
婚約者は、今月もお茶会に来ないらしい。
白雪なこ
恋愛
婚約時に両家で決めた、毎月1回の婚約者同士の交流を深める為のお茶会。だけど、私の婚約者は「彼が認めるお茶会日和」にしかやってこない。そして、数ヶ月に一度、参加したかと思えば、無言。短時間で帰り、手紙を置いていく。そんな彼を……許せる?
*6/21続編公開。「幼馴染の王女殿下は私の元婚約者に激おこだったらしい。次期女王を舐めんなよ!ですって。」
*外部サイトにも掲載しています。(1日だけですが総合日間1位)
【完結】貴方の望み通りに・・・
kana
恋愛
どんなに貴方を望んでも
どんなに貴方を見つめても
どんなに貴方を思っても
だから、
もう貴方を望まない
もう貴方を見つめない
もう貴方のことは忘れる
さようなら
【完結】ふしだらな母親の娘は、私なのでしょうか?
イチモンジ・ルル
恋愛
奪われ続けた少女に届いた未知の熱が、すべてを変える――
「ふしだら」と汚名を着せられた母。
その罪を背負わされ、虐げられてきた少女ノンナ。幼い頃から政略結婚に縛られ、美貌も才能も奪われ、父の愛すら失った彼女。だが、ある日奪われた魔法の力を取り戻し、信じられる仲間と共に立ち上がる。
歪められた世界で、隠された真実を暴き、奪われた人生を新たな未来に変えていく。
――これは、過去の呪縛に立ち向かい、愛と希望を掴み、自らの手で未来を切り開く少女の戦いと成長の物語――
旧タイトル ふしだらと言われた母親の娘は、実は私ではありません
他サイトにも投稿。
王妃そっちのけの王様は二人目の側室を娶る
家紋武範
恋愛
王妃は自分の人生を憂いていた。国王が王子の時代、彼が六歳、自分は五歳で婚約したものの、顔合わせする度に喧嘩。
しかし王妃はひそかに彼を愛していたのだ。
仲が最悪のまま二人は結婚し、結婚生活が始まるが当然国王は王妃の部屋に来ることはない。
そればかりか国王は側室を持ち、さらに二人目の側室を王宮に迎え入れたのだった。
娼館で元夫と再会しました
無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。
しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。
連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。
「シーク様…」
どうして貴方がここに?
元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる