41 / 45
10.願いは、ただひとつ
041
しおりを挟む
ここは嫉妬も悲しみもしがらみもない世界──。
「千沙希」
不思議。水の中にいるのに、はっきりと声が聞こえた。耳もとで何度も聞いたその声を聞き違えるはずがない。
ナギだ。
でもどうしてここにいるの?
だってナギは……。
ううん、そんなこと、考えるだけ無駄だ。今わたしが見て感じているものこそがすべて。目の前にあるものがわたしの現実なんだ。
ナギは前と変わらない姿だった。手も足もある。傷ひとつなく、瞬きするまつ毛の一本一本まで鮮明に映っていた。
生きかえったの? と尋ねると、その目がやさしく細まった。
やっぱりナギだ。変わらないやさしい笑顔はいつだってわたしを温かく包み込んでくれる。
やっと会えた。わたしの最後の願いだったの。最期にひと目だけでも会いたかった。
「だめだよ、服を着たまま水の中に飛び込んじゃ」
ナギは怒るわけでもなくそう言った。
白いワイシャツがまぶしいくらいに鮮明で、アクアブルーに包まれた体が、わたしの頭上でふわりふわりとしている。
ナギだって制服着たままじゃん。
だけど、そのセリフは実際に声に出していたのかよくわからない。
「ねえ聞いて」とナギが言った。わたしは水の中のきらめく瞳を見つめる。
「僕は心配だよ。できればこれからもずっと千沙希のそばにいたい。でも、それはもう叶わないんだ。だから約束して。自分を大切にするって。ごはんもしっかり食べて、学校にも毎日行って。そして将来は好きな人と結婚して、家族を作って幸せになること」
ナギは台本を読み上げるみたいに一度もつっかえず、すらすらと言った。
やめてよ。まるで別れの挨拶みたいじゃない。
わたしが心配なら、これからもそばにいるって誓ってよ。それならごはんも食べるし、学校にも行くよ。勉強だってがんばるし、なんだったら愛想もよくなって、いい子になる。
ほかの人となんて結婚しない。するわけないじゃない。だって、わたしが好きなのはナギなんだよ。ナギしかいらない。
「残念だけど、もうすぐお別れなんだ。あまり時間をもらえなくてね。それにこういうのは本来あまり許されないことなんだ。でも最後にどうしても伝えたいことがあって無理に頼んでこうして会いにきた」
お別れなんて、そんなの嫌!
わたしはナギの胸に飛び込もうとした。でも体がいうことを利かない。すぐ近くにいるのにこの手で捕まえられない。やっとの思いで伸ばした手が、その体をすり抜けていった。
なんの感触も残らない手のひらに呆然とした。そんなわたしを無視して、ナギは話を続けた。
「本当はインターハイで満足できる成績をおさめたら言おうと思ってたんだけど。僕、いきなり死んじゃったから、それがどうしても心残りだった。好きだった。いろいろ順番が逆になっちゃったけど、いい加減な気持ちで一緒にいたんじゃないから」
死んじゃったなんて、そんなこと言わないで。こんなにはっきりと見えているのに。そんなこと信じたくない。
「僕も信じたくなかった。でも本当みたいなんだよね。参っちゃうよね。けど、こうして最後に会えてよかった。僕の最後の願いが叶ったよ」
ナギ……。やだよ、最後だなんて言わないで。
「元気で。体には気をつけるんだよ」
待って、ナギ。
「ごめん、千沙希。タイムリミットなんだ」
やだ、行かないで! もっと一緒にいたいよ。話もしたい。お願いだから、わたしのそばにいて!
「もうすぐ誕生日だよね。僕の部屋の机の引き出しにプレゼントをしまってあったんだけど。どうやら見つけてもらえたみたい。よかったら受け取って。少し早いけど十七歳おめでとう」
ナギの姿が急速にかすれていく。
ひどいよ、ナギ。一方的に言うだけ言って、わたしの気持ちはどうなるの?
けれどナギは答えてくれない。わたしの願いむなしく、ナギは見る見るうちにぼやけていって、そして消えた。それはあまりにも呆気なく、無情だった。
だけど感傷に浸っている暇はなかった。次の瞬間、わたしを襲った激しい苦しみ。口と鼻から一気に水が入り込んだ。目の前が真っ白になり、体が水圧で押し潰されそうな感覚がした。
く、苦しい……。
息ができない。
たくさん水を飲んでパニックだった。必死に手足をバタつかせてもがくけれど、体が重くて浮上できない。体を動かせば動かすほど、体力が奪われて体が沈んでいった。
わたし、死ぬのかな。死んだら、それでなにもかも終わってしまうんだよね。
肉体が消滅して、家族や友達と会えなくなる。教科書やノートや制服、お気に入りのスワロフスキーのサンキャッチャーに、大切に育てたミニ観葉植物のガジュマルの木も全部捨てられて、やがてみんながわたしのことを忘れていく。
そんな考えが頭をよぎり、急に恐怖が押し寄せた。
今だってこんなに苦しいのに、まだわたしは死ぬことができない。吐き出す空気はもう肺の中には残っていなくて、今にも潰れそうだ。
あと、どれくらい苦しまないといけないの?
今も苦しいのに、この先もっと苦しくなるの?
やだよ、怖い。死ぬのがこんなに怖いことだなんて。これですべてが終わってしまうんだと思ったら、心の奥にあった本能が叫んでいた。
わたしはまだ死にたくない!
「千沙希」
不思議。水の中にいるのに、はっきりと声が聞こえた。耳もとで何度も聞いたその声を聞き違えるはずがない。
ナギだ。
でもどうしてここにいるの?
だってナギは……。
ううん、そんなこと、考えるだけ無駄だ。今わたしが見て感じているものこそがすべて。目の前にあるものがわたしの現実なんだ。
ナギは前と変わらない姿だった。手も足もある。傷ひとつなく、瞬きするまつ毛の一本一本まで鮮明に映っていた。
生きかえったの? と尋ねると、その目がやさしく細まった。
やっぱりナギだ。変わらないやさしい笑顔はいつだってわたしを温かく包み込んでくれる。
やっと会えた。わたしの最後の願いだったの。最期にひと目だけでも会いたかった。
「だめだよ、服を着たまま水の中に飛び込んじゃ」
ナギは怒るわけでもなくそう言った。
白いワイシャツがまぶしいくらいに鮮明で、アクアブルーに包まれた体が、わたしの頭上でふわりふわりとしている。
ナギだって制服着たままじゃん。
だけど、そのセリフは実際に声に出していたのかよくわからない。
「ねえ聞いて」とナギが言った。わたしは水の中のきらめく瞳を見つめる。
「僕は心配だよ。できればこれからもずっと千沙希のそばにいたい。でも、それはもう叶わないんだ。だから約束して。自分を大切にするって。ごはんもしっかり食べて、学校にも毎日行って。そして将来は好きな人と結婚して、家族を作って幸せになること」
ナギは台本を読み上げるみたいに一度もつっかえず、すらすらと言った。
やめてよ。まるで別れの挨拶みたいじゃない。
わたしが心配なら、これからもそばにいるって誓ってよ。それならごはんも食べるし、学校にも行くよ。勉強だってがんばるし、なんだったら愛想もよくなって、いい子になる。
ほかの人となんて結婚しない。するわけないじゃない。だって、わたしが好きなのはナギなんだよ。ナギしかいらない。
「残念だけど、もうすぐお別れなんだ。あまり時間をもらえなくてね。それにこういうのは本来あまり許されないことなんだ。でも最後にどうしても伝えたいことがあって無理に頼んでこうして会いにきた」
お別れなんて、そんなの嫌!
わたしはナギの胸に飛び込もうとした。でも体がいうことを利かない。すぐ近くにいるのにこの手で捕まえられない。やっとの思いで伸ばした手が、その体をすり抜けていった。
なんの感触も残らない手のひらに呆然とした。そんなわたしを無視して、ナギは話を続けた。
「本当はインターハイで満足できる成績をおさめたら言おうと思ってたんだけど。僕、いきなり死んじゃったから、それがどうしても心残りだった。好きだった。いろいろ順番が逆になっちゃったけど、いい加減な気持ちで一緒にいたんじゃないから」
死んじゃったなんて、そんなこと言わないで。こんなにはっきりと見えているのに。そんなこと信じたくない。
「僕も信じたくなかった。でも本当みたいなんだよね。参っちゃうよね。けど、こうして最後に会えてよかった。僕の最後の願いが叶ったよ」
ナギ……。やだよ、最後だなんて言わないで。
「元気で。体には気をつけるんだよ」
待って、ナギ。
「ごめん、千沙希。タイムリミットなんだ」
やだ、行かないで! もっと一緒にいたいよ。話もしたい。お願いだから、わたしのそばにいて!
「もうすぐ誕生日だよね。僕の部屋の机の引き出しにプレゼントをしまってあったんだけど。どうやら見つけてもらえたみたい。よかったら受け取って。少し早いけど十七歳おめでとう」
ナギの姿が急速にかすれていく。
ひどいよ、ナギ。一方的に言うだけ言って、わたしの気持ちはどうなるの?
けれどナギは答えてくれない。わたしの願いむなしく、ナギは見る見るうちにぼやけていって、そして消えた。それはあまりにも呆気なく、無情だった。
だけど感傷に浸っている暇はなかった。次の瞬間、わたしを襲った激しい苦しみ。口と鼻から一気に水が入り込んだ。目の前が真っ白になり、体が水圧で押し潰されそうな感覚がした。
く、苦しい……。
息ができない。
たくさん水を飲んでパニックだった。必死に手足をバタつかせてもがくけれど、体が重くて浮上できない。体を動かせば動かすほど、体力が奪われて体が沈んでいった。
わたし、死ぬのかな。死んだら、それでなにもかも終わってしまうんだよね。
肉体が消滅して、家族や友達と会えなくなる。教科書やノートや制服、お気に入りのスワロフスキーのサンキャッチャーに、大切に育てたミニ観葉植物のガジュマルの木も全部捨てられて、やがてみんながわたしのことを忘れていく。
そんな考えが頭をよぎり、急に恐怖が押し寄せた。
今だってこんなに苦しいのに、まだわたしは死ぬことができない。吐き出す空気はもう肺の中には残っていなくて、今にも潰れそうだ。
あと、どれくらい苦しまないといけないの?
今も苦しいのに、この先もっと苦しくなるの?
やだよ、怖い。死ぬのがこんなに怖いことだなんて。これですべてが終わってしまうんだと思ったら、心の奥にあった本能が叫んでいた。
わたしはまだ死にたくない!
0
お気に入りに追加
18
あなたにおすすめの小説
神様のボートの上で
shiori
ライト文芸
”私の身体をあなたに託しました。あなたの思うように好きに生きてください”
(紹介文)
男子生徒から女生徒に入れ替わった男と、女生徒から猫に入れ替わった二人が中心に繰り広げるちょっと刺激的なサスペンス&ラブロマンス!
(あらすじ)
ごく平凡な男子学生である新島俊貴はとある昼休みに女子生徒とぶつかって身体が入れ替わってしまう
ぶつかった女子生徒、進藤ちづるに入れ替わってしまった新島俊貴は夢にまで見た女性の身体になり替わりつつも、次々と事件に巻き込まれていく
進藤ちづるの親友である”佐伯裕子”
クラス委員長の”山口未明”
クラスメイトであり新聞部に所属する”秋葉士郎”
自分の正体を隠しながら進藤ちづるに成り代わって彼らと慌ただしい日々を過ごしていく新島俊貴は本当の自分の机に進藤ちづるからと思われるメッセージを発見する。
そこには”私の身体をあなたに託しました。どうかあなたの思うように好きに生きてください”と書かれていた
”この入れ替わりは彼女が自発的に行ったこと?”
”だとすればその目的とは一体何なのか?”
多くの謎に頭を悩ませる新島俊貴の元に一匹の猫がやってくる、言葉をしゃべる摩訶不思議な猫、その正体はなんと自分と入れ替わったはずの進藤ちづるだった
最後の恋って、なに?~Happy wedding?~
氷萌
恋愛
彼との未来を本気で考えていた―――
ブライダルプランナーとして日々仕事に追われていた“棗 瑠歌”は、2年という年月を共に過ごしてきた相手“鷹松 凪”から、ある日突然フラれてしまう。
それは同棲の話が出ていた矢先だった。
凪が傍にいて当たり前の生活になっていた結果、結婚の機を完全に逃してしまい更に彼は、同じ職場の年下と付き合った事を知りショックと動揺が大きくなった。
ヤケ酒に1人酔い潰れていたところ、偶然居合わせた上司で支配人“桐葉李月”に介抱されるのだが。
実は彼、厄介な事に大の女嫌いで――
元彼を忘れたいアラサー女と、女嫌いを克服したい35歳の拗らせ男が織りなす、恋か戦いの物語―――――――
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない
月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。
人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。
2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事)
。
誰も俺に気付いてはくれない。そう。
2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。
もう、全部どうでもよく感じた。
VRゲームでも身体は動かしたくない。
姫野 佑
SF
多種多様な武器やスキル、様々な【称号】が存在するが職業という概念が存在しない<Imperial Of Egg>。
古き良きPCゲームとして稼働していた<Imperial Of Egg>もいよいよ完全没入型VRMMO化されることになった。
身体をなるべく動かしたくないと考えている岡田智恵理は<Imperial Of Egg>がVRゲームになるという発表を聞いて気落ちしていた。
しかしゲーム内の親友との会話で落ち着きを取り戻し、<Imperial Of Egg>にログインする。
当作品は小説家になろう様で連載しております。
章が完結次第、一日一話投稿致します。
僕とメロス
廃墟文藝部
ライト文芸
「昔、僕の友達に、メロスにそっくりの男がいた。本名は、あえて語らないでおこう。この平成の世に生まれた彼は、時代にそぐわない理想論と正義を語り、その言葉に負けない行動力と志を持ち合わせていた。そこからついたあだ名がメロス。しかしその名は、単なるあだ名ではなく、まさしく彼そのものを表す名前であった」
二年前にこの世を去った僕の親友メロス。
死んだはずの彼から手紙が届いたところから物語は始まる。
手紙の差出人をつきとめるために、僕は、二年前……メロスと共にやっていた映像団体の仲間たちと再会する。料理人の麻子。写真家の悠香。作曲家の樹。そして画家で、当時メロスと交際していた少女、絆。
奇数章で現在、偶数章で過去の話が並行して描かれる全九章の長編小説。
さて、どうしてメロスは死んだのか?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる