39 / 45
10.願いは、ただひとつ
039
しおりを挟む
梅雨前線が日本列島に停滞中で、雨音は一向に鳴り止まない。
ナギが死んだ夜も雨だった。
昼間は晴天だったのに、日が落ちて間もなく激しい雨とともに雷も鳴り響いた。
稲妻が空を引き裂き、空気を轟かせる。
今日もあの夜と似ている。遠くの雷鳴が耳に届いた。
***
降矢くんの手向けた白いユリの花が雨に濡れていた。
交通量の多い大通りの交差点。ここでナギはトラックにはねられたそうだ。
しゃがみ込み、手を合わせているであろう降矢くんの背中を、傘を差しながら見つめる。
「なんで、わたしをここに連れてきたの?」
夕方近く、自宅のインターフォンが鳴った後、しばらくしてからお母さんがわたしを呼びにきた。仕方なく一階に下りると、玄関に降矢くんが立っていて、わたしを見るなり挨拶の代わりに軽い会釈をした。そして行き先を告げられぬまま、わたしはここに連れてこられたのだ。
降矢くんは立ち上がると、こちらを振りかえった。
「あんた、津久井にちゃんと最後の言葉をかけてやったのか?」
「最後の言葉?」
「津久井に別れの挨拶をしたのかってこと」
「言ってる意味がわかんないんだけど」
「あんたがいつまでも逃げてたら、津久井だって成仏できないだろう。いい加減、現実を受け入れろよ」
閃光が空を走り、降矢くんの目がカッと見開く。
「現実……」
そんなの、ちゃんとわかっている。ナギはもうこの世にいない。それは理解している。
逃げてもいない。わたしなりにこの状況を乗り越えようとして、ちゃんとがんばっている。このままじゃいけないって思うから、今日だって降矢くんに従った。
歩行者用の信号が点滅し、赤に変わった。雨で濡れたアスファルトに、その赤い色が反射している。それを見ていたらナギの倒れている姿が目に浮かんできた。固く目を閉じたナギの体がくの字に折れ曲がり、ぴくりとも動かない。体から流れ出る鮮血が血の海を作った。激しい雨が血だらけのナギを容赦なくたたきつけている。ナギの顔が見る見るうちに真っ青になっていった。
「どれだけ痛かったんだろう。どれだけ怖かったんだろう」
意識がないまま病院に運ばれたと聞いている。でも地面に落ちる瞬間まで、意識はあったかもしれない。その後もしばらく痛みに苦しんでいた可能性だってある。
「ねえ、ナギはここで最後になにを見て、なにを思ったのかな?」
痛みも苦しみも全部知りたい。ナギを感じられるものならなんでもいい。
お通夜にも告別式にも出席できなかったことが悔やまれてならない。亡骸でもいい。骨と灰でもいい。触れたかった。最後にこの目に焼きつけたかった。
「津久井の心の中までは俺にもわからない。でも、あいつを感じることのできる場所に行きたいんなら、ついてこいよ」
降矢くんの言葉に迷わず頷く。どこに行くのかわからない。だけどそこにたしかな答えがあるような気がした。
水の音がする。塩素のにおいがする。窓の向こうの黒い闇に閉じ込められた水面が、天井の照明を反射しながら静かに揺れていた。
ここはうちの高校の屋内プール。水泳部の人たちはいない。ここにいるのはわたしと降矢くんのふたりだけ。
「どうしてここに?」
「俺が津久井と最後に会話した場所だから。県大会の後、ここで津久井と話して、その後あいつの背中を見送った。それが俺の見た津久井の最後の姿だった」
たぶん降矢くんと別れた直後にナギは事故に遭ったんだ。ナギにとっても最後に会話をしたのは降矢くんだったのかもしれない。
「なにを話したか聞いていい?」
「おもに、あんたのことだよ」
「わたし!?」
思いもかけなかった言葉に、声が裏がえりそうになった。
話題がわたしということは、なにかもめていたの? 最後の最後までナギに迷惑をかけてしまったのかな。
「去年の夏、手のひらをかえしたように、たくさんの人間が津久井を期待はずれの選手だとあざ笑って離れていった。でも、あんただけはなにも言わず、ただそばにいた。それがあいつにとって立ち直るきっかけになったんだよ」
「嘘……」
「嘘じゃない。津久井がそう言ってたんだ」
「わたしは励ましてあげることすらできなかった。なにもできなかったんだよ」
「言葉にしなくても伝わることがあるんだろう。一緒にいれば、なおさらだよ」
「それなら降矢くんだって。ナギの復帰を純粋に願ってた。ナギに伝わってたはずだよ」
「でも俺じゃだめだったんだよ。あんたの支えがあったからこそ、津久井は水泳部に戻ってこれたんだ」
降矢くんは、だいぶ前からナギを水泳部に呼び戻そうと動いていたのだろうか。
でも人に遠慮しない性格の降矢くんなら、それもあり得る。部活をさぼっていたナギを怒るぐらいしていただろう。飄々とそれをかわしているナギも想像できる。
「津久井が言ってたんだ。プレッシャーに負けた自分に腹が立ってたって。こんなところでつまずいてる自分を情けなく思って、俺らの前で泳ぐのも怖かったって」
「ナギが?」
「ああ。それと、昔の知り合いが夢を叶えているのを見て、かなり卑屈になってたらしいぜ。悔しい気持ちが大きくて、そいつの活躍を素直に喜べなかったって言ってたよ」
美空のことだ。ナギが見つめていた先にあったものは、わたしが思っていたものと違っていたの?
美空を見ているとき、切なそうにも見えたのは未練じゃなくて自分の中に芽生えた嫉妬と闘っていた……。そういうことだったのだろうか。
ナギが死んだ夜も雨だった。
昼間は晴天だったのに、日が落ちて間もなく激しい雨とともに雷も鳴り響いた。
稲妻が空を引き裂き、空気を轟かせる。
今日もあの夜と似ている。遠くの雷鳴が耳に届いた。
***
降矢くんの手向けた白いユリの花が雨に濡れていた。
交通量の多い大通りの交差点。ここでナギはトラックにはねられたそうだ。
しゃがみ込み、手を合わせているであろう降矢くんの背中を、傘を差しながら見つめる。
「なんで、わたしをここに連れてきたの?」
夕方近く、自宅のインターフォンが鳴った後、しばらくしてからお母さんがわたしを呼びにきた。仕方なく一階に下りると、玄関に降矢くんが立っていて、わたしを見るなり挨拶の代わりに軽い会釈をした。そして行き先を告げられぬまま、わたしはここに連れてこられたのだ。
降矢くんは立ち上がると、こちらを振りかえった。
「あんた、津久井にちゃんと最後の言葉をかけてやったのか?」
「最後の言葉?」
「津久井に別れの挨拶をしたのかってこと」
「言ってる意味がわかんないんだけど」
「あんたがいつまでも逃げてたら、津久井だって成仏できないだろう。いい加減、現実を受け入れろよ」
閃光が空を走り、降矢くんの目がカッと見開く。
「現実……」
そんなの、ちゃんとわかっている。ナギはもうこの世にいない。それは理解している。
逃げてもいない。わたしなりにこの状況を乗り越えようとして、ちゃんとがんばっている。このままじゃいけないって思うから、今日だって降矢くんに従った。
歩行者用の信号が点滅し、赤に変わった。雨で濡れたアスファルトに、その赤い色が反射している。それを見ていたらナギの倒れている姿が目に浮かんできた。固く目を閉じたナギの体がくの字に折れ曲がり、ぴくりとも動かない。体から流れ出る鮮血が血の海を作った。激しい雨が血だらけのナギを容赦なくたたきつけている。ナギの顔が見る見るうちに真っ青になっていった。
「どれだけ痛かったんだろう。どれだけ怖かったんだろう」
意識がないまま病院に運ばれたと聞いている。でも地面に落ちる瞬間まで、意識はあったかもしれない。その後もしばらく痛みに苦しんでいた可能性だってある。
「ねえ、ナギはここで最後になにを見て、なにを思ったのかな?」
痛みも苦しみも全部知りたい。ナギを感じられるものならなんでもいい。
お通夜にも告別式にも出席できなかったことが悔やまれてならない。亡骸でもいい。骨と灰でもいい。触れたかった。最後にこの目に焼きつけたかった。
「津久井の心の中までは俺にもわからない。でも、あいつを感じることのできる場所に行きたいんなら、ついてこいよ」
降矢くんの言葉に迷わず頷く。どこに行くのかわからない。だけどそこにたしかな答えがあるような気がした。
水の音がする。塩素のにおいがする。窓の向こうの黒い闇に閉じ込められた水面が、天井の照明を反射しながら静かに揺れていた。
ここはうちの高校の屋内プール。水泳部の人たちはいない。ここにいるのはわたしと降矢くんのふたりだけ。
「どうしてここに?」
「俺が津久井と最後に会話した場所だから。県大会の後、ここで津久井と話して、その後あいつの背中を見送った。それが俺の見た津久井の最後の姿だった」
たぶん降矢くんと別れた直後にナギは事故に遭ったんだ。ナギにとっても最後に会話をしたのは降矢くんだったのかもしれない。
「なにを話したか聞いていい?」
「おもに、あんたのことだよ」
「わたし!?」
思いもかけなかった言葉に、声が裏がえりそうになった。
話題がわたしということは、なにかもめていたの? 最後の最後までナギに迷惑をかけてしまったのかな。
「去年の夏、手のひらをかえしたように、たくさんの人間が津久井を期待はずれの選手だとあざ笑って離れていった。でも、あんただけはなにも言わず、ただそばにいた。それがあいつにとって立ち直るきっかけになったんだよ」
「嘘……」
「嘘じゃない。津久井がそう言ってたんだ」
「わたしは励ましてあげることすらできなかった。なにもできなかったんだよ」
「言葉にしなくても伝わることがあるんだろう。一緒にいれば、なおさらだよ」
「それなら降矢くんだって。ナギの復帰を純粋に願ってた。ナギに伝わってたはずだよ」
「でも俺じゃだめだったんだよ。あんたの支えがあったからこそ、津久井は水泳部に戻ってこれたんだ」
降矢くんは、だいぶ前からナギを水泳部に呼び戻そうと動いていたのだろうか。
でも人に遠慮しない性格の降矢くんなら、それもあり得る。部活をさぼっていたナギを怒るぐらいしていただろう。飄々とそれをかわしているナギも想像できる。
「津久井が言ってたんだ。プレッシャーに負けた自分に腹が立ってたって。こんなところでつまずいてる自分を情けなく思って、俺らの前で泳ぐのも怖かったって」
「ナギが?」
「ああ。それと、昔の知り合いが夢を叶えているのを見て、かなり卑屈になってたらしいぜ。悔しい気持ちが大きくて、そいつの活躍を素直に喜べなかったって言ってたよ」
美空のことだ。ナギが見つめていた先にあったものは、わたしが思っていたものと違っていたの?
美空を見ているとき、切なそうにも見えたのは未練じゃなくて自分の中に芽生えた嫉妬と闘っていた……。そういうことだったのだろうか。
0
お気に入りに追加
19
あなたにおすすめの小説
【完結】幼馴染から離れたい。
June
BL
隣に立つのは運命の番なんだ。
βの谷口優希にはαである幼馴染の伊賀崎朔がいる。だが、ある日の出来事をきっかけに、幼馴染以上に大切な存在だったのだと気づいてしまう。
番外編 伊賀崎朔視点もあります。
(12月:改正版)
読んでくださった読者の皆様、たくさんの❤️ありがとうございます😭
1/27 1000❤️ありがとうございます😭
3/6 2000❤️ありがとうございます😭
マキノのカフェ開業奮闘記 ~Café Le Repos~
Repos
ライト文芸
カフェ開業を夢見たマキノが、田舎の古民家を改装して開業する物語。
おいしいご飯がたくさん出てきます。
いろんな人に出会って、気づきがあったり、迷ったり、泣いたり。
助けられたり、恋をしたり。
愛とやさしさののあふれるお話です。
なろうにも投降中
十七歳の心模様
須藤慎弥
BL
好きだからこそ、恋人の邪魔はしたくない…
ほんわか読者モデル×影の薄い平凡くん
柊一とは不釣り合いだと自覚しながらも、
葵は初めての恋に溺れていた。
付き合って一年が経ったある日、柊一が告白されている現場を目撃してしまう。
告白を断られてしまった女の子は泣き崩れ、
その瞬間…葵の胸に卑屈な思いが広がった。
※fujossy様にて行われた「梅雨のBLコンテスト」出品作です。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~
深冬 芽以
恋愛
交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。
2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。
愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。
「その時計、気に入ってるのね」
「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」
『お揃いで』ね?
夫は知らない。
私が知っていることを。
結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?
私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?
今も私を好きですか?
後悔していませんか?
私は今もあなたが好きです。
だから、ずっと、後悔しているの……。
妻になり、強くなった。
母になり、逞しくなった。
だけど、傷つかないわけじゃない。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる