上 下
13 / 45
4.ふたりの過去がつながるとき

013

しおりを挟む
 その日の帰り、家が反対方向のすずちゃんと校門で別れて歩いていると、降矢くんがこちらに向かってくるのが見えた。水泳部の黒いジャージを着ている。
 ランニングかな。
 でも、ほかの水泳部員は見あたらなかった。
「今、帰り?」
 降矢くんが立ち止まって尋ねてきた。
 まさか普通に声をかけられるとは思っていなくて、思わず周囲を見まわした。
「あんたに聞いてんだけど」
「あっ、ごめん。うん、帰るとこ。降矢くんは取材終わったの?」
「今日のところは。残りは明日」
「大変だね」
「別に。それより津久井のことなんだけど」
 またその話か。この人はどこまでナギのことが好きなんだろう。気持ちはわかるけど、ちょっと執着しすぎ。
「ナギが水泳部を逃げ出しでもした?」
 ため息まじりに言ってみる。
「いや、そうじゃない」
「なら、なに?」
「その調子で頼むよ」
 その調子って……。毎回思うんだけど、その上から目線はなんなのだろう。けなされているわけじゃないのに気分が悪い。
「はいはい。ナギに会うなっていうことでしょう。わかってるよ。でも言っとくけど、降矢くんに言われたからそうしてるわけじゃないから。これはナギの意志だよ」
 ナギから連絡はない。もともと連絡はわたしからするほうが圧倒的に多かった。
 だから、わたしから連絡をしない限り、ナギとの接点は簡単にゼロになる。
 でもナギはきっとそれで平気なんだと思う。どうにも切ない。このまま、なんのつながりもないままナギと終わってしまうのかなと考え、胸が締めつけられた。
「降矢くんが思ってるよりも、ナギはちゃんと先のことを考えてるよ」
「あんた、思ったよりまともなことを言うんだな」
「わたしだってナギを応援してるんだよ。世界の舞台に立ってほしいって……心から……願ってる……」
 さすがに照れくさくて、最後のほうはごにょごにょと声が小さくなっていく。
 でも降矢くんに言っても、どうせ信じてもらえないんだろうな。怖い顔で睨まれるだけのような気がする。
 そう思いながら降矢くんを見上げる。けれど彼は、意外にも面食らったような顔をしていた。
 そんなに変なこと言ったかな。急に黙らないでほしいんだけど。
 この間《ま》がなんとも気まずい。なにか話さなきゃと考えるけれど、なにも思いつかない。
 そのうちに埃っぽい風が吹き上がる。それが目に染みて、瞬きを繰りかえしていたら、地面を踏みしめる音が聞こえた。
「津久井のやつさ──」
 降矢くんが静かに話し始める。いつもの刺々しさはなく、角が取れてやわらかくなった印象だった。でも次の言葉によって、再び緊張が走った。
「マジでやばいんだよ」
 わたしは息を呑み、「なにが?」と尋ねた。
「あいつの泳ぎを久しぶりに見て思ったんだけど、このままだと県大会にも進めないかもしれない」
「嘘……」
「なんつーか、凡人に成り下がったっていうか。綺麗な泳ぎなんだけど、あれじゃ勝てねえよ。今のあいつは勝負の世界にいない。あれは自己満足の泳ぎだ」
「そんな……。ナギは定期的にジムで泳いでいたんだよ。そんなに調子が悪いようには見えなかった。タイムだって深刻になるほど悪くなかったもん」
「なんでそんなことまで知ってんだよ?」
「そのジムは親戚が経営しているところなの。お姉ちゃんがそこでバイトしてる。それで、お姉ちゃんがきっと大丈夫だって。筋力も衰えていないから練習を積んで、練習試合や大会に出て慣らしていけば可能性はあるだろうって」
 唐突にお姉ちゃんの話をしてしまったけれど、降矢くんは逆に興味深げに聞いてきた。
「姉ちゃんって水泳に詳しいのか?」
「うん、元水泳部だから」
「そっか」
「もしかして、わたしは間違っていたの?」
「急になんだよ?」
「水泳部に戻る時期はナギのペースに合わせて、ナギのベストだと思うタイミングまで待とうと思っていたの。それが一番いい方法だって信じてたのに」
 答えがわからない。見守ることも大事だと信じて疑わなかった。ナギは傷ついていたから、せめてその傷が癒えるまでと思っていた。
「ねえ、違うの?」
 身を乗り出すようにして尋ねると、降矢くんは無言のまま困ったように眉間に皺を寄せた。
 それでも「教えてよ」と食い下がる。いつも「あんた」とわたしのことを呼び、決して名前を呼んでくれないほど降矢くんはわたしを毛嫌いしているのに、わたしが今一番頼りにしているのはこの人だ。
「そんな目で見んなよ。あんたはあんたなりに津久井を見守っていたのはわかったから」
「でもわたしはただ黙って見ているだけだった。水泳部に戻れって、ちゃんと説得すべきだったんだよ。わたしが悪いんだよ」
「いや、あんたのせいじゃないよ」
「でも、降矢くんだってそう言ってた」
「それはそうなんだけど、あれはそういう意味じゃなくてだな……」
 わたしが詰め寄ったせいか、降矢くんは少し引き気味になる。
「でもまあ、俺も言いすぎたよ。そもそも勝負の世界から戦線離脱したのは津久井自身なんだよな。そのことをわかっていたのに、あんたにきつい言い方をして悪かった」
「ちょっと……。急にしおらしくならないでよ」
「いや、ちゃんと伝えるべきだった。俺が言いたかったのは、あんたが津久井のそばにいると、津久井はあんたの中に逃げ場所を作っちまうってことなんだよ」
「逃げ場所?」
 思わぬ言葉にきょとんとなる。
「良くも悪くも、あんたは普通だからな。一緒にいて楽なんだろう。たしかにあんたは、津久井の嫌がるようなことをしないからな」
「それがナギに近寄るなって言った理由?」
「少なくとも今の津久井に必要なのは、癒やしじゃない。闘いに勝つ力を身につけるための環境だよ。いい指導者のもとで、思う存分練習させてやりたいんだ」
 わたしを否定する言い方だけど、言っていることは理解できる。
 わたしは甘やかしていただけだった。味方でいることに勤しむだけで、結局なんの力にもなっていなかった。
 わたしはいったい、なんのためにナギのそばにいたんだろう。
 愕然としているわたしを、降矢くんが少し気の毒そうに見ていた。
 目の奥が痛い。わたしの中で、ナギと過ごしてきた時間が破片となって崩れ落ちていくのが目に浮かんだ。
「泣くな、ばか……」
 涙に濡れたわたしの頬に、降矢くんの指先が触れた。それも唐突に。すると、なにかを確かめるようにゆっくりとなぞっていき、そして小さくため息をついた。
 目と目が合う。油断すると、そのまっすぐな瞳に負けそうになる。
 降矢くんは目を逸らすことをせず、切なげな顔になった。その瞬間、耐えられなくなって、わたしのほうから視線をはずしてしまった。
「俺、誤解してたみたいだな」
 目を閉じた瞬間、そんな言葉が落ちてきた。
 触れている指先が熱い。こぼれる涙を丁寧に何度もぬぐってくれた。
 どうしてやさしくしてくれるのだろう。わたしにはそんな資格なんてないのに。
 でも頼ってしまいそうになる。こういうのに慣れていない分、目を開けてしまったらその胸にすがってしまいそうで、心ごと閉ざそうと努力した。
 じゃないと、この涙は止まってくれそうにない。
 そのときだった──。
「こんなところでなにしてんだよ?」
 かなりイラついた声に振りかえる。その迫力に縮こまりながら見上げると、ジャージの袖をまくり、息を乱したナギが降矢くんを敵意ある目で見つめていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

命の記憶

桜庭 葉菜
恋愛
3年半ぶりに再会した好きな人が自分のことを忘れてしまっていた── その思い出に隠された、命と記憶のラブストーリー

神様のボートの上で

shiori
ライト文芸
”私の身体をあなたに託しました。あなたの思うように好きに生きてください” (紹介文)  男子生徒から女生徒に入れ替わった男と、女生徒から猫に入れ替わった二人が中心に繰り広げるちょっと刺激的なサスペンス&ラブロマンス!  (あらすじ)  ごく平凡な男子学生である新島俊貴はとある昼休みに女子生徒とぶつかって身体が入れ替わってしまう  ぶつかった女子生徒、進藤ちづるに入れ替わってしまった新島俊貴は夢にまで見た女性の身体になり替わりつつも、次々と事件に巻き込まれていく  進藤ちづるの親友である”佐伯裕子”  クラス委員長の”山口未明”  クラスメイトであり新聞部に所属する”秋葉士郎”  自分の正体を隠しながら進藤ちづるに成り代わって彼らと慌ただしい日々を過ごしていく新島俊貴は本当の自分の机に進藤ちづるからと思われるメッセージを発見する。    そこには”私の身体をあなたに託しました。どうかあなたの思うように好きに生きてください”と書かれていた ”この入れ替わりは彼女が自発的に行ったこと?” ”だとすればその目的とは一体何なのか?”  多くの謎に頭を悩ませる新島俊貴の元に一匹の猫がやってくる、言葉をしゃべる摩訶不思議な猫、その正体はなんと自分と入れ替わったはずの進藤ちづるだった

最後の恋って、なに?~Happy wedding?~

氷萌
恋愛
彼との未来を本気で考えていた――― ブライダルプランナーとして日々仕事に追われていた“棗 瑠歌”は、2年という年月を共に過ごしてきた相手“鷹松 凪”から、ある日突然フラれてしまう。 それは同棲の話が出ていた矢先だった。 凪が傍にいて当たり前の生活になっていた結果、結婚の機を完全に逃してしまい更に彼は、同じ職場の年下と付き合った事を知りショックと動揺が大きくなった。 ヤケ酒に1人酔い潰れていたところ、偶然居合わせた上司で支配人“桐葉李月”に介抱されるのだが。 実は彼、厄介な事に大の女嫌いで―― 元彼を忘れたいアラサー女と、女嫌いを克服したい35歳の拗らせ男が織りなす、恋か戦いの物語―――――――

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

ブエン・ビアッヘ

三坂淳一
ライト文芸
タイトルのブエン・ビアッヘという言葉はスペイン語で『良い旅を!』という決まり文句です。英語なら、ハヴ・ア・ナイス・トリップ、仏語なら、ボン・ヴォアヤージュといった定型的表現です。この物語はアラカンの男とアラフォーの女との奇妙な夫婦偽装の長期旅行を描いています。二人はそれぞれ未婚の男女で、男は女の元上司、女は男の知人の娘という設定にしています。二人はスペインをほぼ一ヶ月にわたり、旅行をしたが、この間、性的な関係は一切無しで、これは読者の期待を裏切っているかも知れない。ただ、恋の芽生えはあり、二人は将来的に結ばれるということを暗示して、物語は終わる。筆者はかつて、スペインを一ヶ月にわたり、旅をした経験があり、この物語は訪れた場所、そこで感じた感興等、可能な限り、忠実に再現したつもりである。長い物語であるが、スペインという国を愛してやまない筆者の思い入れも加味して読破されんことを願う。

病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない

月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。 人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。 2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事) 。 誰も俺に気付いてはくれない。そう。 2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。 もう、全部どうでもよく感じた。

VRゲームでも身体は動かしたくない。

姫野 佑
SF
多種多様な武器やスキル、様々な【称号】が存在するが職業という概念が存在しない<Imperial Of Egg>。 古き良きPCゲームとして稼働していた<Imperial Of Egg>もいよいよ完全没入型VRMMO化されることになった。 身体をなるべく動かしたくないと考えている岡田智恵理は<Imperial Of Egg>がVRゲームになるという発表を聞いて気落ちしていた。 しかしゲーム内の親友との会話で落ち着きを取り戻し、<Imperial Of Egg>にログインする。 当作品は小説家になろう様で連載しております。 章が完結次第、一日一話投稿致します。

ガラスの世代

大西啓太
ライト文芸
日常生活の中で思うがままに書いた詩集。ギタリストがギターのリフやギターソロのフレーズやメロディを思いつくように。

処理中です...