冥海に、貴方と眠る

千代田ている

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 しわがれた手に、そっと背中を押された。たったそれだけの衝撃で、梨空はあっけなく黒い海面へとすべりおちた。ばしゃんと水面を破る音は、桶に張った水を力任せに路へ捨てる音にそっくりだった。
 お仕着せの衣は瞬く間にたっぷりと水を含み、華奢な体を海底へと引きずりこむ。抵抗する気力もなく、まだ若く美しい乙女はうねる波の中に攫われて消えた。
 
 瞼裏を光がちらちらと煌めき、梨空はふっと意識を取り戻した。瞼を開くと水面から陽光が降り注ぎ、梨空の頬を温めている。いつの間に夜が更けたのか、梨空を連れてきた船影も消えていた。ごぽり、と小さな泡が口の端に戯れて昇っていく。今の彼女に呼吸は必要ではないようだった。死にきれず魂だけがここに留まっているのかと思ったが、それにしては心が穏やかだった。
 ふと眼下に、そのきざはしを梨空へと差し伸べるように、階段が伸びているのが見えた。光を受けて銀に輝く階段は、暗い海底へ螺旋状に向かっている。
 呼ばれているのだ、と直感が訴えた。嫌な感じはしない。むしろその手すり、段の一つに至るまで施された繊細な意匠が、梨空の心をくすぐった。
 光に背を向け、恐る恐る手を伸ばす。潜るとその分だけ体が浮いたので、段に足をつけることはできなかった。梨空は手すりを伝い、衣を纏った脚を尾鰭の様に揺らめかせながら、少しずつ昏海の先を目指し始めた。

 深い蒼の霞が晴れて始めた時、海底に低くなだらかな傾斜を描くそれは、乳白色の宮殿のように見えた。しかし梨空が近づいていくと、その正体は大小様々の骨が重なり合うようにしてできた建造物だった。
 門なのだろうか、鳥の嘴のような尖った口が開いている。その先に階段は続いていた。梨空はいつの間にか地に着いていた足をひたひたと先に進めて、骨の屋敷の中へ入って行った。
 ざぱん、ともう一度耳元で海鳴りが鳴った。

 は、と深い眠りから醒める。梨空は瑠璃色の寝台に横たえられていた。上体を起こすが、周囲には誰の気配もない。四方を囲む大理石のような壁と、珊瑚を削って鏡面を嵌めたような、可愛らしい鏡台が備え付けられている。それ以外には何も無い、殺風景な部屋だった。
 梨空は不安に駆られて、膝に溜まっているブランケットを胸元にかき寄せた。死んだように静かだった。寝台から脚を降ろすと、剥き出しの素足に、滑らかな石がひやりと冷たい。部屋の出口はあったが、戸は立っていない。己が生きているのかも死んでいるのかも分からぬまま、少女は歩き出した。
 廊下は少女の寝かせられていた部屋に似て乳色一色だったが、石のように磨かれてはおらず、所々がぼこぼこと波打っていた。近くで見れば見るほどやはりそれはなにかの骨だった。梨空が見上げるほどの大きくて頑丈な骨もあれば、小魚の糸のような骨で隙間を埋められている部分もある。素肌に引っかかることもなければ、歩きにくいということもなかった。未知の海底ではこういうものもあるのだろうという妙な納得感はあったが、一人きりという事実だけがなんとなくそら恐ろしかった。このまま永遠に誰にも会えなかったら、どうしよう。そんな思いが梨空の足取りを急かした。
 歩き続けてどれだけ経ったろうか。やっと違う部屋に辿り着いた。同じく戸のない枠をくぐった瞬間、梨空は異様な光景に思わず息を呑んだ。
 石。梨空が抱き抱えてあまりあるほどの、灰色をした真四角の石だった。それがいくつもいくつも、目が眩むほど遠くまで、等しい間隔をあけて並んでいるのだ。
「……目が覚めたか。体に障りは」
 突然、柔らかい声をかけられて驚いた。整列した石に呆気に取られている間に、緩い衣をまとった青年が傍らへ佇んでいた。
「あ、えっと。大丈夫です……」
 驚いた梨空はしどろもどろに答えた。
「それは良かった。あまりに景色が違うので驚いたろう。もう大丈夫だよ」
 もう大丈夫だよ。たったそれだけの言葉がやけに頼もしい。梨空は俯いた。
「あの、龍神さま。私は死んだのですか。それとも龍神さまのお妃にしていただけるのでしょうか」
 柔和そうな男だったので、梨空は思い切って聞いてみた。梨空は龍神の怒りを鎮め豊漁を願うために、定期的に漁村から捧げられる生贄の一人だった。
 男は眉を下げてかぶりを振った。
「とても……言い出しにくい話なのだが。私は貴方がたが思っているような存在ではないのだ」
「え?」
「元はあるのかないのかも分からぬような、小さな魂の欠片だった。それが気が遠くなるほど旅をして私になった。人の子に願われて龍神の形を取ろうとしたが、私には分不相応であったようだ」
「では、龍神さまというのは最初からいないのですか? 私の願いを叶えてはくださらないのですか」
「残念ながら」
 重い沈黙が降りた。
「……では私は死んだのですか」
「わからぬ。ここへ来た女はみな骸の状態だった。そうでないのは最初の生贄とお前だけだ。だから私には分からぬ。動く屍なのかもしれぬし、生きていて、いつか村に帰る手段が見つかるのかもしれぬ。確かなことは何も言えない。役に立てず済まない」
「……そう、ですか」
 梨空には願いがあった。龍神に娶られることがあったら、子どもの頃から梨空を排斥し続けた村を滅ぼしてくれるよう願うつもりだった。それだけを頼りに、贄として定められた短い命を生きてきた。誰が戻りたいなどと願うものか。
 梨空は手足の力がすっと抜けてしまったように感じた。
「危ない」
 咄嗟に男が梨空の体を支えた。ぼろぼろと、涙だけが先を走って地に落ちた。男はそれを無言で見つめていた。

 およそ一週間、梨空は寝台の中に閉じこもって狂ったように泣き暮らした。願いも叶わず、帰る場所もなく、骸にすらならないこの体は一体何なのだろう。自問し続けたが、答えは永遠に出なかった。
 一週間が明けたある日、男が静かに梨空の部屋を訪った。今日の男からは、しゃらしゃらと鈴の音がした。
「入ってもいいかな」
 男が無い戸口の外側から声をかけた。
「どうぞ」
 もはや涙も涸れ、掠れた声で梨空は答えた。
「少しは気が紛れるかと思って。これを見せに来た」
 梨空は初めて体を起こして男の顔を見た。遠慮がちな指先の中には、そっと銀色の簪が添えられていた。
「……きれい」
 豪奢なものではなかったが、貧しかった梨空には至上の逸品に見えた。端には小さな山鳥が細工されており、赤い木の実の生った枝を咥えている。木の実は透けるような赤い宝石で、光が当たると太陽のように輝いた。隣には小さな鈴も生っていて、振るとしゃらしゃらと控えめな涼音がする。
「私に捧げられた最初の贄の子が遺したものだ。私のものでないからやることは出来ないが、少し預けるくらいなら、彼女も許してくれるだろう」
 そう言って差し出された簪を、梨空は柔らかく広げた両の手のひらに受けた。
 簪は重かった。男の労りが、そこに詰まっていた。
 散々出尽くしたと思っていた涙が、また頬を伝った。今までのそれと違う、熱い涙だった。
「どうした、すまない。なにか間違いを……」
 男は明らかに狼狽えた。簪が己の涙で穢れぬよう胸元に庇いながら、梨空は必死に首を振った。
「違うのです。私、誰かにこんな風に気遣ってもらったことがなくて……」
 梨空は閉鎖的な海沿いの田舎町で育った。父がまともに村の掟を守らぬので両親ともども村八分にされ、娘の梨空も当たり前に同じ待遇を受けた。遊びに加わろうとすれば無視をされ、買い物をしようとしても無視をされた。家を空ければいたずらをされたし、村の連絡網が広まる時には梨空の頭上を飛びこえた。生贄に選ばれたのは自然の成り行きだった。いつの間にか、村への復讐が唯一の生き甲斐になった。
「おかしいですよね、こんな急に泣き出して……。ごめんなさい、すぐに泣きやみます」
 男は眉根を寄せた。
「そんなことはない」
 気を損ねたと思ったが、単に口にすべき言葉に惑っているだけのようだった。
「……来て欲しい」
 そう言って急に背を向けるので、梨空は慌てて涙を拭い、その後を追った。

 男が向かったのは石ばかり並んでいるあの部屋だった。当時は視線を向ける余裕もなかったが、改めて見てみるとそこには古い文字が刻まれていて、石碑のようにも見える。ひとつひとつに、桃色の貝殻や、真珠、珊瑚などの美しい飾り物が添えてある。村にあった一つの風景に、似ているものがあった。
 墓場か、と梨空は思い至った。
「私の嫁にやられた女たちも、その簪の持ち主も、皆貴方のように悲しい運命の持ち主だった。それが今、こうしてともに眠っている。貴方をおかしいと思う者などここには誰もいない」
「……ここで、墓守を?」
「もう数百年になるか。私が彼女らにできることはそのくらいだ」
 男は中央の墓石に向かった。それは一際古く、ところどころにうっすらと苔が見えた。
「最初に嫁にやられてきた、簪の娘の墓だ。気丈で明るい娘で……私はすぐに彼女のことが好きになった。だが彼女には想い人がいた……その簪は彼女が村の男からもらったものだ。それでも彼女は私を大切にしてくれた。私は彼女を地上へ帰してやりたかったが、方法が分からなかった。そのうち彼女が先に死んだので、墓を作って、その簪と守っていくことに決めた。願いへの贄、地上から捨てられた者、荒れる波に呑まれた者……様々な死者が私を頼ってここへ集ってくる」
 梨空は、胸の中の簪の持ち主と、目の前の青年の心を思った。愛を求めた心、愛を得られなかった心。それでも寄り添うことを決めた二人と、復讐を誓った自分。
「お優しいのですね」
「寂しかっただけだ」
 寂しかっただけ。単調な言葉が、小刀のように梨空の胸にずきんと刺さった。寂しかっただけ。
「今も、お寂しいですか」
「……いや。海は誰もが等しく還り、そして眠る場所。ここは穏やかで暖かい」
 その通りだと思った。この海底は陽の光が届かないのに、どこか暖かい。それはひとえに、彼の存在ゆえなのかもしれないとも思う。
「私を、ここに置いていただけませんか」
 簪をそっと墓前に戻す。
 どうせ帰る場所も道も無い身ではあったが、自ら身を置くのとそうでないのとではまるで違った。
 梨空は生まれて初めて、ここに居たいと強く思った。優しくて、愛に満ちていて、でもやっぱりどこか寂しそうな青年のそばにいたいと思った。青年のことを、知りたいと思った。
 男は目を見開いたが、やがて穏やかに目を細めた。気づけばぎこちなく、指先を触れ合わせていた。お互いに欠けていたものを埋め合わせるように。まるでそれが、自然の成り行きだとでも言うかのように。
 人の肌というのは、暖められた海よりもっと暖かいのだな、と。孤独な彼らは幾千のまどろむ魂に祝福されながら、そう思った。
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