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第五章 染紅灘蔵

最終話

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 後日、父は俺の旅費を出してくれると言った。
 ただし、母がパートタイムで働き、それとは別に取ってきた内職の仕事を姉と俺とで分担することが条件だった。
 姉は渋々しぶしぶだったが了承した。母は案外ノリノリだった。
 ま、内職のほうはどうせほとんど俺に押しつけられるのだろうが。

 巡ってきた土曜日。

 俺が「さて、内職に精を出しますか」と自分の気持ちを誤魔化して張り切っていたところに、姉がいつものごとくバーンと部屋の戸を開け放ち、ツカツカと入ってきて俺の腕を引き上げた。

「コーヒー飲みに行くわよ」

 姉はすでに身支度を終えていた。
 丈の長い白と細黒のボーダーシャツにデニムのショートパンツを身に着け、それからライトブラウンのショルダーバッグを肩にげている。

 俺は姉にかされてとっとと身支度を整えた。
 薄地の紺色チノパンにグレーのTシャツ。我ながらセンスのないコーディネートだと思うが、姉を待たせている状況で御洒落おしゃれをしようなどと考えている暇はなかった。

 行先は例の喫茶店だった。姉と吉村兄がもめたあの喫茶店である。
 中に入ると、四人テーブルに見知った顔が三つそろっていた。あずさちゃんと朱里しゅりとトシである。
 近づくと、梓ちゃんだけが俺と姉に気がつき、手を振った。

「森野君は隼人はやと君の『お尻がイイッ!』って言っていたけど、吉村さんもそうなの?」

「はぁ? ケツなんかどーでもいーし。あたしは前のほうが気になって……ってなに言わせんだ、バカ!」

 姉が声をかけると、朱里とトシはギョッとした様子で挨拶をした。

「仲がいいのね」

「そんなわけねーっス。全員、姐御あねごが呼び出したっスよね?」

「でも、一緒のテーブルに着いて待っていなさいとは言っていないわ」

 朱里がハッとする。
 朱里の横に座る梓ちゃんもハッとする。
 トシは頭を抱えた。
 よく考えたら、三竦さんすくみというか、この三人は全員が互いに犬猿にも近い仲だった気がする。

 俺と姉は通路を挟んだ向かいの四人テーブルに着いた。

「で、お姉様、用件は何ですか?」

「隼人がね、オクラホマに行けることになったの。それを連絡したかったの。それだけよ。じゃあもう帰っていいわ」

 姉は軽いトーンでそう告げると、シッシと手の甲で追い払う仕草をとった。
 それは体裁ていさいだけの仕草で、この三人が「はい、そうですか」とすぐには帰らないことを姉はよく分かっている。

「おめでとう、隼人君!」

 赤いワンピースに白のレースを羽織った梓ちゃんが小さな拍手をして喜んでくれた。

「隼人君、おめでとう」

 白ドクロ柄の黒いシャツで男らしい格好のトシが、頼りない腕でガッツポーズを決めた。俺より喜んでいる。ガッツポーズの後は梓ちゃんに負けじと拍手で張り合う。

「お姉ちゃん、それだけのために三人も呼んだの? それって電話やメールで済む話なんじゃ……」

「彼らが隼人に『おめでとう』を言いたいだろうと思って」

「いや、そうだとしても、それも電話で済む話じゃ……」

 そんなことは分かりきっているとでも言うように、姉はフフッと笑った。
 目的は報告よりも召集それ自体にあったようだ。

「あたしはべつに喜んでねーっスからねっ」

 朱里は相変わらず季節を先取りしすぎな長袖のフランネルシャツで身を包んでいる。
 朱里はそっぽを向きながらも小さくて雑な拍手をした。

「ちょっとトイレ」

 俺が席を立つと、釣られたように勢いよく立ち上がる者がいた。

「あ、僕も行っていい?」

「好きにしろよ。でも、なんでおまえまでついてくる、吉村朱里!」

 席の奥にいる朱里は梓ちゃんが通せんぼして出られなかったが、舌打ちした後、テーブルをくぐって向かいの席から通路に出てきた。

「べつにタイミングがかぶっただけじゃん?」

「あっそう」

 梓ちゃんが朱里をにらむが、朱里は見ていない。
 姉が手招きし、梓ちゃんを自分の対面へと移動させた。

 俺がトイレの前まで来ると、突然トシが立ち止まって振り返った。

「吉村さん、ここから先は入らせないからね」

「バッ……男子トイレなんか入らねーよ!」

 朱里は怒ってドシドシとガニ股歩きで女子トイレに入っていった。
 俺はそんな二人を無視してトイレへ入る。
 トイレ内に先客はいなかった。五つ並んだ小便器のいちばん奥に俺が陣取ると、トシは俺の隣にやってきた。

 空いているんだから一つ開けろよな、などと思っていると、どうもトシは隣でモジモジしている様子だ。
 チャックを開けるのに手間取っているという様子ではなく、俺の方をチラチラと気にしている。

「どうした? ウンコなら俺に構わず行けよ」

「違うよ! ただ、恥ずかしいだけ……」

「おまえが勝手についてきたくせに、なに恥ずかしがってんだよ」

 俺はとっとと用を足すと、トシを置いてトイレを出た。

 席に戻ろうとしたとき、姉と梓ちゃんの話し声が聞こえてきて思わず立ち止まる。そして続きを聞きたいと思ってしまった。
 その話は俺が戻れば中断されるような内容だった。俺は身を屈め、二人の話に耳をそばだてた。

「梓、あなた、隼人のことが好きなの?」

「私、隼人君のこと好きです。でも、それが友達として好きなのか、恋愛対象として好きなのか、どっちなのかが自分ではよく分からないんです。ただ、私が隼人君のことを好きだということは間違いないです」

「そう……でも隼人はやらないからね。私のものだから」

「お姉様のその精神も受け継がせてもらいます。私は師匠の弟子ですから」

 なんだか気恥ずかしいから、やっぱりその会話を中断させるべく、俺は少し間をおいてから声をあげて席に戻った。

「ただいま」

「お帰りなさい、隼人君」

 梓ちゃんが奥にずれて俺の座る席を空けてくれる。
 しかし同時に姉も奥にずれてスペースを空け、さらには席をポンと叩いて座るように促した。
 その時点で梓ちゃんはあきらめた表情をしたし、俺も姉に逆らうわけにはいかず、姉の叩いた場所に腰を下ろした。

 座席には姉の温もりが残っていて、思わず姉の顔を見た。

「あら、隼人、いまのその顔、私に劣情れつじょうを抱いたわね?」

「なっ! そんなことないって!」

 俺が否定すると、姉の視線が例のごとく鋭くなった。

「隼人、知っているのよ。さっき、私と梓の会話を盗み聞きしていたことをね」

 それを聞いた梓ちゃんのほおやら耳やらがカァアアッと一気に赤く染まった。

「え、なになに、なんスか、姐御!」

 朱里が帰ってきて、その後すぐにトシが戻ってきた。二人は俺の隣に立っている。

「お仕置きよ。これから隼人にお仕置きするのよ」

 姉の顔はギラついていた。
 どこか嬉しそうで、楽しそうで……愉しそうで……。

 梓ちゃんは目を丸くしている。しかし、興味がある、続きが気になるという顔をしている。
 トシと朱里にいたっては、キラッキラと目を輝かせて、これから起こる何かに期待を膨らませ、好奇心を振りまわしている。

「え、いま、ここで?」

「ええ、そう、もちろんよ」

 とんだ晒し者じゃないか。特にこの三人に見られながらお仕置きなんて、ついに心が折れてしまいそうだ。
 勘弁してください。どうか、どうか、ご容赦、ご慈悲を……。
 一つだけでいい、俺のこの一つの言葉だけ、聞き入れてはくれないでしょうか?

「やめてよ、お姉ちゃん!」

「だーめっ!」

 ギラギラと輝く笑顔。
 姉は今日も絶好調だった。

   ―おわり―
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