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第三章 吉村朱里

第15話

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「隼人、行くわよ」

 ドンドンドン、とつつしみなく部屋の戸をノックする音がして姉の声が俺を急かした。
 しかし今日、俺は姉と一緒に出かける約束をした覚えはない。
 俺が姉に突然駆り出されるのは日常茶飯事だが、いま聞こえた姉の口ぶりからすると、まるで出かける約束をしていたみたいではないか。

「ちょっと待って。行くって、どこに?」

「喫茶店に決まっているじゃない。先週、言ったでしょ?」

 そんなこと言ったっけ?
 あ、もしかして、コーヒーがすっかり冷めちゃったから来週云々うんぬんと言っていたアレのことだろうか。
 ポロッと出た社交辞令としか思えないあの言葉を、姉が一つの約束事としてスケジュールに組み込んでいたなんて思いもしなかった。

「分かった。すぐ行く」

 さいわいなことに、今週の土曜日も一日暇を持て余していた。いや、基本的に俺は暇だから、幸いでも何でもないかもしれない。
 俺は急いで汚らしい部屋着から、外出用の服装へと着替えた。
 緑の線と緑の帯が編みこまれた柄のグリーンチェックなハーフパンツに、ファンシーな蛙の顔がでかでかとプリントされた緑袖の白Tシャツというラフな格好。
 これがデートならきっと相手に怒られるか、後々に陰で愚痴をこぼされるような格好ではあるが、急いでいるから仕方がない。
 俺のその格好はへたしたら姉にも怒られかねないと思っていたが、部屋から一歩出てみると、そこにはもっとラフな姉の姿があった。

 姉はジャージ姿だった。それも、普段使っている鮮血色のジャージではなく、黒の古いジャージである。それは寝巻きでも部屋着でもなく、ましてやスポーツ用の服装でもない。
 姉は家から出ない日でも普段から小奇麗な身だしなみを心がけている人だ。だから、その黒いジャージはわざわざ清潔感を排除するように着たものである。
 化粧と髪のセットだけはきっちりしているようだが、服だけそういう感じだと、ドブさらいにでもいくつもりなのか、と言い知れぬ不安に襲われる。

 どうせ誰も俺のことなんて見てないだろうから。そういう気持ちで外出時でもテキトーな服をチョイッと引っつかんで体に被せて出てくる俺だが、姉と歩くとそれを後悔させられる。
 それほど姉が視線を集めてしまう。姉は地味なジャージを着ていても、その輝くオーラが色せることはない。

「前も言ったから分かっていると思うけれど、先週、吉村よしむら朱里しゅりを打ちのめしたのは、吉村朱里の兄、吉村よしむら恵介けいすけおびき出すためよ」

 歩きながら、姉は俺にそう説明した。
 姉の使い捨て可能な戦闘服も、まだ底をはかりきれていない敵への用心のためだそうだ。
 たしかに吉村兄は危険人物だ。へたをしたら着ている服が血まみれになるかもしれない。
 もっとも、その場合は服の心配なんかしている場合ではないだろうが。

 例の喫茶店に着くと、姉が俺を押しのけて先に入店した。入店時から周囲を警戒している。
「いるわね。二人、恵介と朱里」

 二人がいるのは姉の狙いどおりだった。二人を来させるために、あのとき、姉はわざわざ朱里が立ち去る前に「一週間後に出直す」と言ったのだ。

 店員が二名様ですかとたずねているが、その店員の言葉を片手でさえぎるように素通りし、敵の二人から見える位置の四人テーブルを選んで座った。

「よお、おまえか? 俺の妹を泣かせたのはよぉ!」

 先々週と同じ、白い長ランを羽織った金髪リーゼントの吉村兄がドカッと俺の隣に座り、俺の肩にひじを載せ、姉にガンを飛ばした。
 朱里のほうは姉の隣には座らず、他所から椅子をひっぱってきて、本来は通路である場所を自分の座席に変えた。
 さすがに金髪兄妹は悪目立ちするらしく、二人が席を動いている間はずっとほかの客の視線を集めて離さなかった。

 朱里は終始うつむいている。
 一週間前の朱里が泣いた日、きわめて不利な条件が多い彼女が、兄にあれこれと告げ口をしたはずはない。妹の普通でない様子から、兄がいろいろと聞き出そうとしたことは間違いない。
 その結果、兄が何をどの程度把握しているのか、そこのところはいっさい不明である。
 もしかしたら、朱里の言い逃れによる嘘によって、俺や姉が想像もしない情報を事実だと思い込んでいる可能性もある。

「そうよ、私よ。あまりにしつけのなっていないだったから、私が特別にしつけをほどこしてあげたのよ」

「しつけとか、そーゆーのは必要ねーんだよぉ」

 吉村兄はまだ俺の肩に体重を載せているが、彼が発言するたびに俺への負荷が増している。
 そのことに姉は気づいていて、姉の視線も鋭くとがっていく。

「弟から離れなさい。弟は関係ないでしょう? これは私とあなたの問題。もしもあなたが私の弟に『痛い』なんて言わせたら、私はあなたの妹に『死にたい』と言わせるわよ」

「はぁ? どうやって?」

 そんなこと、できるはずがない。単なる虚勢だ。そう高をくくる吉村兄は、眉をひそめて半笑いを浮かべてみせた。
 しかし、姉は虚勢でそんなことを言ったりしない。
 たしかに「どうやって?」と疑いたくもなるが、俺の姉ならそれを有言実行できるのだ。

 姉が朱里に視線を送り、その視線をテーブル下にある自分の右手に落として、朱里の視線を誘導する。
 俺や吉村兄からは見えないところで、姉と朱里は共通の何かを視界に収めた。おそらく、例のICレコーダーだろう。

「お兄ちゃん。染紅しぐれ隼人はやとから離れて。お願いだから」

 その朱里の発言が俺をかばっての発言でないことは明らかだ。
 吉村兄は妹の発言に驚きながらも、舌打ちをして俺にかけていた荷重を取り除いた。

 ウエイトレスが水を二つ運んできた。

「おい、ねーちゃん。パエリア一つ」

「パエリアをお一つですね? ご注文は以上でよろしいでしょうか」

「以上だ。さっさと行けや」

「かしこまりました」

 ウエイトレスは少し緊張した様子だったが、さほどおびえている様子でもなかった。こういうガラの悪い客は案外多いのかもしれない。あるいは、メニューが豊富な喫茶店のウエイトレスは一味違うということか。

 それにしても、この夏にパエリアとは……。
 二人とも長袖だし、この兄妹、よほどの寒がりなのだろうか。
 あ、そういえば姉もジャージで長袖だった。俺だけ半袖だ。俺、間違ってないよな?

「私はコーヒーを注文したかったのだけれど」

「水で我慢しろや」

 ここでまた姉が水をこぼして吉村兄にぶっかけるかと思ったが、意外にも姉はお冷を自分の近くへと引き寄せた。
 それは吉村兄に対してひるんでいるというわけではなさそうだ。姉の表情は弱気になるどころか、いっそう視線を鋭く尖らせている。

「吉村朱里、あなた、そこにいたら通行人の邪魔になるでしょう? こっちに来なさい」

「おい」

 吉村兄の怒気が飛ぶが、姉に睨みを差し込まれた朱里は、おどおどした動きで姉の隣に引っ越すしかなかった。

「で、テメェ、俺の妹を泣かせた落とし前はどうつける気だぁ?」

「しつけに落とし前もクソもあるもんですか。それよりあなた、二週間前に私の弟を殴ったわよね? あの後、弟は十分近くその場を動かなかったのよ。意識がなければ救急車を呼んでいたところだわ。そのことについて何か釈明はあるの? あるわよね?」

 二つの鋭い視線が互いを刺す。
 長躯ちょうくの吉村兄が俺の姉を見下ろし、姉が吉村兄を見上げる形になっている。
 しかし、姉は相手を睨み上げるときの顔のほうが怖い。

「知るか、バーカ。テメーの弟がどうなろうが知ったこっちゃねーよ。いまは俺が怒ってんのが分かんねーのかぁ? あぁ?」

 みなぎる吉村兄の肘が再び俺の肩に載る。

 姉が……キレる……。

 いや、キレていない。まだキレていない。

 姉の表情は動かない。すでにこれ以上ないほど目元やほおに力が入っている。次の変化は表情ではなく動作に現れると思われる。
 しかし、姉は動かない。こらえているのだろうか。
 だとしたら、なぜ?
 俺への被害を懸念してくれているのだろうか。
 あるいは、何か深い考えがあってのことなのか……。

「お待たせいたしました。パエリアでございます。熱いのでご注意ください」

 ウエイトレスが定型文句とパエリアを吉村兄の前に置いて去っていった。

 姉を睨む吉村兄の視線がパエリアへと落ちる。

 その瞬間、状況が急激に動いた!

 それはほんの一瞬の出来事だった。
 姉の手が素早くパエリアへと伸びる。
 しかし吉村兄が先にパエリアを手前に引いたために姉の手がテーブルを叩くことになった。
 吉村兄はパエリアの皿を遮熱板しゃねつばんごと右の手のひらに載せ、それを姉の方へと投げつけた。
 いわゆるパイ投げ。
 それを高熱のパエリアでやったのだ。
 俺の前方からビチャリという殺傷力のある衝突音が発せられた。

「あ、おい!」

 吉村兄が想定外の事態に気づき、慌ててパエリアの皿を両手につかんで引く。
 パエリアは姉ではなく、朱里の顔面に直撃していたのだ。
 姉が朱里を盾として自分の前に引き寄せていた。
 吉村兄は遮熱板の落ちた皿が熱くてすぐに手を離すが、刹那、自由落下を開始する前の皿に姉の拳が飛び、飛んだパエリアの皿の底面が吉村兄の顔面へ直撃する。

「ああああああああっ!」

 火災警報のごとく朱里のけたたましい悲鳴が店内に鳴り響いた。
 そんな吉村朱里の顔に、姉がバシャァッと水をかけ、それから、おしぼりで彼女の顔を素早くぬぐう。
 おしぼりが薄手なため、そのおしぼりはあまり役に立たず、最終的には姉の素手と朱里自身の手が朱里の顔面をいまわった。

「あぢぃいいいいいっ!」

 二つ目の悲鳴は俺の隣から発せられた。
 顔面に直撃した後、落下したパエリアの皿は、一度テーブルにぶつかって弾み、そうして着地した先が吉村兄の股間であった。
 吉村兄はパエリアの皿を払いのけ、そしてズボンに付着したパエリアを素手で削ぎ落とし、それでも熱を取り除けなかったようで、ズボンを膝まで下げてパンツに水をかけ、薄いおしぼりで何度も股間を拭った。

 状況を察知した男性店員が慌ててタオルを持ってきて吉村兄を手伝う。
 吉村兄は店員からタオルを奪い取って自分で続きの処理をした。

「代わりのお召し物を用意いたしますので、少々お待ち下さい」

「待ちなさい! 先に濡れタオルと氷を持ってきて! はやく!」

「か、かしこまりましたっ!」

 男性店員の指示で、ウエイトレスが氷水の入ったジョッキとタオル数枚を持ってきて姉に渡した。
 姉がタオルをジョッキに突っ込んでから朱里の顔に当てると、朱里はそれを奪うようにして自分で顔をいた。
 拭いた後、朱里はタオルの綺麗な面を顔に押し当て、そのまま動かなくなった。

 姉は右手をジョッキに突っ込んでいる。

 事態があまりに性急せいきゅうに動いたため、状況が飲み込めず、俺はただ呆然としていた。

「テメェー……。殺す。絶対に殺す!」

 ズボンを膝まで降ろした状態の吉村兄が、鈍い光に満ち満ちた殺意の視線で姉を刺し、歯が砕け散りそうなほどギリリリッと噛み締めた口で予告した。

 そのとき、ドンッとテーブルが揺れた。
 朱里がタオルを握り締めた両の拳をテーブルに打ちつけたのだ。
 彼女の顔は真っ赤だった。

 その赤はもちろん、怒りのためだけではない。

 朱里は普段は恐れている自分の兄に、兄が俺の姉に向けているのと同じ視線を向けた。
 目が「殺してやる!」と言っている。
 その視線に吉村兄が怯んだ。
 いや、怯んだというよりは、「理解できない」と言いたげな表情をしている。
 悪いのは自分ではない、おまえを盾にした染紅しぐれ華絵かえなのだ、と。

「お待たせいたしました。こちらにお召し替えください」

 男性店員が従業員用の制服ズボンを持ってきて吉村兄に渡した。
 店員は吉村兄の着替えを待っているが、姉がテーブルをトントンと叩いて注意を引いた。

「あなた、車があるなら、この娘を病院に連れていってください。ないなら救急車を呼んでください」

「あっ、はい! かしこまりました!」

 男性店員は一度引っ込んで、すばやく俺たちの前に現れた。車の鍵を取りに行ったのだろう。

「さ、参りましょう」

 吉村朱里は去りぎわ、姉にも自分の兄に向けたものと同じ視線を向け、歯をギリリッと言わせていった。
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