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第二章 彩芽梓
第6話
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「隼人の姉貴って超美人だよなぁ」
兄弟姉妹の話になると、十中八九、俺の姉が引き合いに出される。
普段の姉はその美貌とともに愛嬌をふりまいている。人望厚く、卒業して一年余りが経過したいまでも、姉は男女にかかわらずファンが多い。
そのため、姉が本性を剥き出しにして多少の敵を作ったとしても、姉の地位が揺らぐことはない。
少数排他理論により、その少数が少し頑張って喚いてみたところで、嫉妬の妄執にとり憑かれていると卑下されるのがオチというものだ。
「ああ、あんな人に踏まれたい」
こいつは俺が中学生になって最初に話しかけてきた奴だ。
名は菊市文汰。これでキクイチブンタと読むが、あだ名としてキクイチモンジ、あるいはカタナ君、と呼ばれることが多い。
ボサッとした短髪に長いモミアゲ。日に焼けて目立たないが、産毛の多いその顔はホームベースの先をひっぱって伸ばしたような形をしている。
その菊市文汰は何の因果か、いまは俺の後ろの席になっている。
「おまえ、本気で言ってんの?」
「ま、おまえみたいな素人には、俺ら上級者の趣向は分からないだろうがな」
いやいや、素人はどっちだよ。こちとら玄人なんだよ。
俺の姉はな、なんたら神拳を足で使いこなすバケモノ、というか悪魔なんだよ。
彼女に踏まれたら、どんな性癖の奴も喜びを感じる余裕なんて生まれない。
激痛に悶え苦しみ、のたうち回るだけだ。
菊市には美人に踏まれたいといった、いわゆる変態的な性癖があるが、そんな菊市でも俺の中ではごく普通の、いわゆる一般人だと思っている。
普通か普通でないか、その境界は至極曖昧だが、その境界を最近になって跨いでしまった人が俺の身近に一人いる。
その人物がいま、俺に向かって走ってきている。
その人とは、吉村さんのことである。
「染紅隼人っ! 見せて!」
「え、何を?」
「もうっ、言わせんなバカっ、エッチ!」
吉村さんは真っ赤になって走り去っていった。
俺には彼女の意図がまるで理解できない。
隣の菊市もポカンとしている。
「吉村のやつ、何を見せてって言ったんだ?」
「知らん」
不良少女の吉村さんは、俺の股間を鷲掴みしたあの一件以来、妙に性への興味を抱くようになった。
しかも、それを抑えきれないでいる。
まるで初めて人間に性別というものがあることを知ったかのように、すべての関心がソレに集中している。
そして、その解決方法をすべて俺に見出そうとしているのだ。
「下半身のことかなぁ? 俺のじゃ駄目かなぁ?」
「知らん!」
たびたび思うことだが、菊市はキモイ奴だ。
変態だ。
イケメンではないが、不細工でもない。
普通だ。普通のキモイ奴だ。
「隼人君、大丈夫? 変なことされなかった?」
吉村さんが去ったその後に、すかさず駆け寄ってきた女子がいた。
白くて眩しいセーラーの上で艶やかなロングストレートを優美に揺らめかせた彼女は、大きく深みのある黒い瞳でバシッと俺の顔を捉えた。
「ああ、べつに何も」
変なことはされなかったよ。
変なことは言われたけれど。
「あ、あ、あ……彩芽さん⁉」
菊市がギョッとして彩芽さんを見上げた。
そしてその目が俺に移ったときには、釣り針をひっかけられたように吊り上がっていた。
しかし彩芽さんはそれに気づかない。彩芽さんは俺の方だけをじっと見ている。
「そう、よかった。ねえ、隼人君、ちょっと話があるから、放課後、体育館裏に来てくれない?」
「ああ、いいよ」
「ありがと! 待っているから」
彩芽さんはニコッと笑い、ヒラリと濃紺のプリーツスカートを翻して戻っていった。
隣の吊り目が俺の両肩をガシッと掴み、前後に激しく揺らす。
「なんでおまえだけ! なんでおまえばっかり! いまのアレだろ? どう考えても告白するってことだろ?」
俺は嫉妬に乱れる菊市の両腕を掴み、その揺さぶりを止めた。
菊市は目に涙を浮かべている。
菊市の悔しさは俺には理解できないものだから、菊市を哀れだと思ってしまう。
「いやいや、さっきの様子、怒っているみたいだっただろ? きっと何か相談があるとかじゃないかな。たぶん、吉村さんのこととかで」
「いんや、アレは想いを伝えようと真剣になっているときの顔だ。間違いないね」
菊市は腕組みして目を閉じ、何度も頷いている。
よほど自分の予想に自信があるようだ。
「おまえ、そこまで言えるほど彩芽さんのこと知らねーだろ」
「あ、オメー、『俺は彩芽さんのことをいろいろ知ってるもんね』って顔していたぞ! いつの間に仲良くなりやがった? こんチクショー!」
「そんな顔してねーよ。勝手な解釈をするな」
こういったやり取りが昼休みにあって、そうしてやってきた放課後。
どうしてもついてくると言った菊市を、「先生が至急職員室まで来るようにだって」などと伝言を預かったという嘘をついて、ようやく追い払うことができた。
体育館裏では彩芽さんが一足早く来て待っていた。
彩芽さんはまだ俺が来たことに気づいていない様子で、手を胸の辺りまで持ち上げたり、腰で手を拭ったり、落ち着きのない様子だった。
「彩芽さん」
俺が声をかけながら駆け寄ると、彩芽さんは目を見開き両手を上げて慌てふためいた。
「ちょっと、ごめん。ちょっと、待って。まだ、ちょっと、心の準備が……」
「心の準備?」
俺は訊きながら彩芽さんの正面まで来て立ち止まった。
彩芽さんは両手を前に突き出して揺らし、まるで俺の接近を拒むかのような仕草を見せていた。
「できてないって、言ってるでしょーがぁあああああ!」
一度引っ込んで飛び出した彩芽さんのグーが、俺の左頬を捉え、俺の左足が浮いた。身体が傾き、右腕を地に着き、そして俺の体が水平になった後、三回程度転がった。
俺は何が起こったのか分からず、しばらくそのまま固まった。
ふと我に返り、俺は全身にくっついた砂を払いながら立ち上がる。
「ごめん……」
とりあえず謝っておいたが、なぜ殴られたのかはいまだに理解できていない。
彩芽さんは少し赤くなった右手を左手の人差し指でコシコシしながら、視線もそこに落としたまま説明する。
「あ、あ、ごめんなさい。心の準備ができていなくて、つい……。心の準備ができていないのに隼人君が来てしまった場合を想定して、そんな場合の心の準備をしていたんだけど、心の準備ができていないって言っても隼人君が出なおしてくれない場合まで想定してしまって、想定が妄想になって、現実の隼人君に対してシミュレートしてしまったの。ごめんなさいっ!」
何を言っているか分からないよ、彩芽さん……。
もしかして、彩芽さんは俺の姉に近い人種なのだろうか?
否。姉とはぜんぜん違う。
悪意らしきものは感じられないし、何よりストレートだ。いや、パンチのことじゃなくて、気持ちが。
「ごめんなさい。心の準備をするから、五分だけ待って。五分間だけあっちに行っていてくれない?」
「……わかった」
俺は体育館の角を曲がり、彩芽さんが見えない位置で待機した。
五分間を測るために腕時計に目をやる。
彩芽さんの話というのはそんなに心の準備が必要となるような話なのだろうか。
よほど大事な話らしい。
彩芽さんの人生に大きく関わる相談事か、あるいは菊市が言ったように、愛の告白なのか。
いかん、いかん。菊市の軽率な発言を真に受けていては、あとで痛い目を見ることになる。決して期待してはならない。
「おい、隼人! 先生呼んでなかったじゃねーか!」
ああ、もう来たのか、菊市。
困った。こいつをどうしよう。目を吊り上げ、拳を振り上げて走ってくる菊市を、どうしよう。
「べつに担任の先生とは言ってないだろ」
「それを先に言えよ。誰なんだよ?」
菊市はヘナッと両肩を垂れて俺を見上げた。
こいつはいつも、こういう細かいアクションがオーバーだ。
「体育の大濠だよ」
当然これも嘘。すべて誤魔化しである。
「ゲゲェ! 行きたくねぇ……。俺が何かしたかよ?」
「でも、やっぱいいってさ。よかったな」
大濠先生を使って嘘をついたと本人に知られたら、俺がどんな目に合うか知れない。
姉の俺に対する恐ろしい仕打ちほどではないだろうが、未知という種類の恐怖は、姉の仕打ちに対して抱く分だけで十分だ。おなかいっぱいなのだ。
大濠先生を引き合いに出したのは、菊市があとで用事を確認しにいかないようにするためである。
「で、どうなったよ?」
さっぱりした顔をして聞く菊市。
やっぱり気になっていたようだ。
「まだだよ。早すぎて殴られた」
菊市はいまさらながら俺が砂にまみれていることに気づき、理解に苦しむ様子で、俺をジロジロと視線で舐め回す。上下に、左右に、螺旋状に。
「どゆこと? 早すぎって、まさかおまえ、こんなところで、そんなことを⁉」
何を言っているんだ、こいつは。
「おまえも行ってみたらどうだ?」
菊市の顔がボンッと一瞬で沸騰し、全身がゆで卵なみに固まったが、俺がポンと背中を押すと、菊市はつんのめって俺が思った以上に前進した。
余計なことをした、と思いながら、俺はすぐさま壁に背をつけ、彩芽さんの方から姿が見えないよう隠れた。
そのすぐ後、彩芽さんの絶叫が木霊した。
「心の準備ができてないって、言ってるでしょうがぁああああああ!」
薄い金属板を切り裂くようなその声は、おそらく学校中に轟いただろう。
その声の直後、菊市の体が砂を巻き込みながら転がってきた。
「おい、大丈夫か?」
彼はムックリと起き上がると、全身に付いた砂のうち、左肩だけをゆっくりとなで払い、目に涙を浮かべながら「帰る」と言った。
彼が数歩進んだ後、振り返って一言付け足した。
「俺が来た場合には、『お呼びでない』って言い渡すつもりだったらしく、その心の準備ができてなかったんだと……」
そりゃお気の毒に。
彩芽さんは心の準備ができていなかったはずなのに、菊市はその用意された言葉でズバッと斬り捨てられていた。
「じゃあな。元気出せよ」
トボトボと歩く菊市を見送る俺。
早く行けばいいのに、菊市はまた立ち止まって顔だけ振り返る。
「俺、悔しいよ……。女の子に殴られて、痛みで泣いちまうなんてよぉ……」
「知らんわ!」
五分が経過した。
菊市の乱入があったから、さらに一分多めに待った。
「彩芽さん」
俺はいろんな要因でドキドキしながら彩芽さんに駆け寄った。
彩芽さんはもう心の準備ができているようで、ニコッと笑った。後ろで手を組んでいる。
そのポーズだと姿勢が実によく、存外大きめの胸が、白い薄地のセーラー服越しに強調されている。
「ごめんね、こんな所に呼び出したりして」
「ああ、べつにいいよ」
彩芽さんの笑顔は、やはりどこか怖い。姉のように綺麗な顔が笑っているから怖い。
次の瞬間に絶望に突き落とされる気がしてならないのだ。さっきの突発的暴力も俺の恐怖心を支援している。
しかし彼女は姉ではない。
彩芽さんは普通の、たぶん普通の女子生徒だ。
「あのね、私、私ね……」
「うん」
妙にもったいつけている。
モジモジしている。
心の準備は万端のはずだが、こういう仕草を取り入れる心の準備もしていたのだろうか。
「私、隼人君の、隼人君の……」
もしかして、この展開はやっぱり……。
「俺の?」
ことが好きです、と来るのか?
訪れるのか?
春が、心の春が、訪れるのか⁉
「隼人君の貞操は私が守るから!」
「え?」
カァアアッと彩芽さんが赤くなったと思ったら、陸上部顔負けのピッチで走って逃げていった。
「なに……」
俺が脳内整理のため棒立ちしていると、走っていったのと同じ速度で彩芽さんが戻ってきた。
「そういうことだから! だから、とりあえず、ケータイのアドレス交換しよ」
これは、愛の告白か?
違うよな……。
ただの宣言だよな……。
愛の告白だとして、俺は返事をしていないから、それなのに話が進んでいるということは、愛の告白ではないということだろう。
でもやっぱり分からん。
恋人だと思っていたら、「勘違いしないで。私はあんたの彼女になった覚えはないわ」などと言われるかもしれない。
逆に友達だと思っていたら、「恋人だと思っていたのは私だけだったってわけ? 最低!」などという展開もありえなくもない。
確かめたほうがいいのだろうか。
「じゃあ、そういうことだから!」
彩芽さんは制服の濃紺プリーツスカートで風を切りながら走り去ってしまった。
結構な俊足だった。
「まあ、いっか……」
嫌われてはいない、ということだけは分かる。
彩芽さんのはにかんだ表情は新鮮で、純粋にかわいらしいと思った。
兄弟姉妹の話になると、十中八九、俺の姉が引き合いに出される。
普段の姉はその美貌とともに愛嬌をふりまいている。人望厚く、卒業して一年余りが経過したいまでも、姉は男女にかかわらずファンが多い。
そのため、姉が本性を剥き出しにして多少の敵を作ったとしても、姉の地位が揺らぐことはない。
少数排他理論により、その少数が少し頑張って喚いてみたところで、嫉妬の妄執にとり憑かれていると卑下されるのがオチというものだ。
「ああ、あんな人に踏まれたい」
こいつは俺が中学生になって最初に話しかけてきた奴だ。
名は菊市文汰。これでキクイチブンタと読むが、あだ名としてキクイチモンジ、あるいはカタナ君、と呼ばれることが多い。
ボサッとした短髪に長いモミアゲ。日に焼けて目立たないが、産毛の多いその顔はホームベースの先をひっぱって伸ばしたような形をしている。
その菊市文汰は何の因果か、いまは俺の後ろの席になっている。
「おまえ、本気で言ってんの?」
「ま、おまえみたいな素人には、俺ら上級者の趣向は分からないだろうがな」
いやいや、素人はどっちだよ。こちとら玄人なんだよ。
俺の姉はな、なんたら神拳を足で使いこなすバケモノ、というか悪魔なんだよ。
彼女に踏まれたら、どんな性癖の奴も喜びを感じる余裕なんて生まれない。
激痛に悶え苦しみ、のたうち回るだけだ。
菊市には美人に踏まれたいといった、いわゆる変態的な性癖があるが、そんな菊市でも俺の中ではごく普通の、いわゆる一般人だと思っている。
普通か普通でないか、その境界は至極曖昧だが、その境界を最近になって跨いでしまった人が俺の身近に一人いる。
その人物がいま、俺に向かって走ってきている。
その人とは、吉村さんのことである。
「染紅隼人っ! 見せて!」
「え、何を?」
「もうっ、言わせんなバカっ、エッチ!」
吉村さんは真っ赤になって走り去っていった。
俺には彼女の意図がまるで理解できない。
隣の菊市もポカンとしている。
「吉村のやつ、何を見せてって言ったんだ?」
「知らん」
不良少女の吉村さんは、俺の股間を鷲掴みしたあの一件以来、妙に性への興味を抱くようになった。
しかも、それを抑えきれないでいる。
まるで初めて人間に性別というものがあることを知ったかのように、すべての関心がソレに集中している。
そして、その解決方法をすべて俺に見出そうとしているのだ。
「下半身のことかなぁ? 俺のじゃ駄目かなぁ?」
「知らん!」
たびたび思うことだが、菊市はキモイ奴だ。
変態だ。
イケメンではないが、不細工でもない。
普通だ。普通のキモイ奴だ。
「隼人君、大丈夫? 変なことされなかった?」
吉村さんが去ったその後に、すかさず駆け寄ってきた女子がいた。
白くて眩しいセーラーの上で艶やかなロングストレートを優美に揺らめかせた彼女は、大きく深みのある黒い瞳でバシッと俺の顔を捉えた。
「ああ、べつに何も」
変なことはされなかったよ。
変なことは言われたけれど。
「あ、あ、あ……彩芽さん⁉」
菊市がギョッとして彩芽さんを見上げた。
そしてその目が俺に移ったときには、釣り針をひっかけられたように吊り上がっていた。
しかし彩芽さんはそれに気づかない。彩芽さんは俺の方だけをじっと見ている。
「そう、よかった。ねえ、隼人君、ちょっと話があるから、放課後、体育館裏に来てくれない?」
「ああ、いいよ」
「ありがと! 待っているから」
彩芽さんはニコッと笑い、ヒラリと濃紺のプリーツスカートを翻して戻っていった。
隣の吊り目が俺の両肩をガシッと掴み、前後に激しく揺らす。
「なんでおまえだけ! なんでおまえばっかり! いまのアレだろ? どう考えても告白するってことだろ?」
俺は嫉妬に乱れる菊市の両腕を掴み、その揺さぶりを止めた。
菊市は目に涙を浮かべている。
菊市の悔しさは俺には理解できないものだから、菊市を哀れだと思ってしまう。
「いやいや、さっきの様子、怒っているみたいだっただろ? きっと何か相談があるとかじゃないかな。たぶん、吉村さんのこととかで」
「いんや、アレは想いを伝えようと真剣になっているときの顔だ。間違いないね」
菊市は腕組みして目を閉じ、何度も頷いている。
よほど自分の予想に自信があるようだ。
「おまえ、そこまで言えるほど彩芽さんのこと知らねーだろ」
「あ、オメー、『俺は彩芽さんのことをいろいろ知ってるもんね』って顔していたぞ! いつの間に仲良くなりやがった? こんチクショー!」
「そんな顔してねーよ。勝手な解釈をするな」
こういったやり取りが昼休みにあって、そうしてやってきた放課後。
どうしてもついてくると言った菊市を、「先生が至急職員室まで来るようにだって」などと伝言を預かったという嘘をついて、ようやく追い払うことができた。
体育館裏では彩芽さんが一足早く来て待っていた。
彩芽さんはまだ俺が来たことに気づいていない様子で、手を胸の辺りまで持ち上げたり、腰で手を拭ったり、落ち着きのない様子だった。
「彩芽さん」
俺が声をかけながら駆け寄ると、彩芽さんは目を見開き両手を上げて慌てふためいた。
「ちょっと、ごめん。ちょっと、待って。まだ、ちょっと、心の準備が……」
「心の準備?」
俺は訊きながら彩芽さんの正面まで来て立ち止まった。
彩芽さんは両手を前に突き出して揺らし、まるで俺の接近を拒むかのような仕草を見せていた。
「できてないって、言ってるでしょーがぁあああああ!」
一度引っ込んで飛び出した彩芽さんのグーが、俺の左頬を捉え、俺の左足が浮いた。身体が傾き、右腕を地に着き、そして俺の体が水平になった後、三回程度転がった。
俺は何が起こったのか分からず、しばらくそのまま固まった。
ふと我に返り、俺は全身にくっついた砂を払いながら立ち上がる。
「ごめん……」
とりあえず謝っておいたが、なぜ殴られたのかはいまだに理解できていない。
彩芽さんは少し赤くなった右手を左手の人差し指でコシコシしながら、視線もそこに落としたまま説明する。
「あ、あ、ごめんなさい。心の準備ができていなくて、つい……。心の準備ができていないのに隼人君が来てしまった場合を想定して、そんな場合の心の準備をしていたんだけど、心の準備ができていないって言っても隼人君が出なおしてくれない場合まで想定してしまって、想定が妄想になって、現実の隼人君に対してシミュレートしてしまったの。ごめんなさいっ!」
何を言っているか分からないよ、彩芽さん……。
もしかして、彩芽さんは俺の姉に近い人種なのだろうか?
否。姉とはぜんぜん違う。
悪意らしきものは感じられないし、何よりストレートだ。いや、パンチのことじゃなくて、気持ちが。
「ごめんなさい。心の準備をするから、五分だけ待って。五分間だけあっちに行っていてくれない?」
「……わかった」
俺は体育館の角を曲がり、彩芽さんが見えない位置で待機した。
五分間を測るために腕時計に目をやる。
彩芽さんの話というのはそんなに心の準備が必要となるような話なのだろうか。
よほど大事な話らしい。
彩芽さんの人生に大きく関わる相談事か、あるいは菊市が言ったように、愛の告白なのか。
いかん、いかん。菊市の軽率な発言を真に受けていては、あとで痛い目を見ることになる。決して期待してはならない。
「おい、隼人! 先生呼んでなかったじゃねーか!」
ああ、もう来たのか、菊市。
困った。こいつをどうしよう。目を吊り上げ、拳を振り上げて走ってくる菊市を、どうしよう。
「べつに担任の先生とは言ってないだろ」
「それを先に言えよ。誰なんだよ?」
菊市はヘナッと両肩を垂れて俺を見上げた。
こいつはいつも、こういう細かいアクションがオーバーだ。
「体育の大濠だよ」
当然これも嘘。すべて誤魔化しである。
「ゲゲェ! 行きたくねぇ……。俺が何かしたかよ?」
「でも、やっぱいいってさ。よかったな」
大濠先生を使って嘘をついたと本人に知られたら、俺がどんな目に合うか知れない。
姉の俺に対する恐ろしい仕打ちほどではないだろうが、未知という種類の恐怖は、姉の仕打ちに対して抱く分だけで十分だ。おなかいっぱいなのだ。
大濠先生を引き合いに出したのは、菊市があとで用事を確認しにいかないようにするためである。
「で、どうなったよ?」
さっぱりした顔をして聞く菊市。
やっぱり気になっていたようだ。
「まだだよ。早すぎて殴られた」
菊市はいまさらながら俺が砂にまみれていることに気づき、理解に苦しむ様子で、俺をジロジロと視線で舐め回す。上下に、左右に、螺旋状に。
「どゆこと? 早すぎって、まさかおまえ、こんなところで、そんなことを⁉」
何を言っているんだ、こいつは。
「おまえも行ってみたらどうだ?」
菊市の顔がボンッと一瞬で沸騰し、全身がゆで卵なみに固まったが、俺がポンと背中を押すと、菊市はつんのめって俺が思った以上に前進した。
余計なことをした、と思いながら、俺はすぐさま壁に背をつけ、彩芽さんの方から姿が見えないよう隠れた。
そのすぐ後、彩芽さんの絶叫が木霊した。
「心の準備ができてないって、言ってるでしょうがぁああああああ!」
薄い金属板を切り裂くようなその声は、おそらく学校中に轟いただろう。
その声の直後、菊市の体が砂を巻き込みながら転がってきた。
「おい、大丈夫か?」
彼はムックリと起き上がると、全身に付いた砂のうち、左肩だけをゆっくりとなで払い、目に涙を浮かべながら「帰る」と言った。
彼が数歩進んだ後、振り返って一言付け足した。
「俺が来た場合には、『お呼びでない』って言い渡すつもりだったらしく、その心の準備ができてなかったんだと……」
そりゃお気の毒に。
彩芽さんは心の準備ができていなかったはずなのに、菊市はその用意された言葉でズバッと斬り捨てられていた。
「じゃあな。元気出せよ」
トボトボと歩く菊市を見送る俺。
早く行けばいいのに、菊市はまた立ち止まって顔だけ振り返る。
「俺、悔しいよ……。女の子に殴られて、痛みで泣いちまうなんてよぉ……」
「知らんわ!」
五分が経過した。
菊市の乱入があったから、さらに一分多めに待った。
「彩芽さん」
俺はいろんな要因でドキドキしながら彩芽さんに駆け寄った。
彩芽さんはもう心の準備ができているようで、ニコッと笑った。後ろで手を組んでいる。
そのポーズだと姿勢が実によく、存外大きめの胸が、白い薄地のセーラー服越しに強調されている。
「ごめんね、こんな所に呼び出したりして」
「ああ、べつにいいよ」
彩芽さんの笑顔は、やはりどこか怖い。姉のように綺麗な顔が笑っているから怖い。
次の瞬間に絶望に突き落とされる気がしてならないのだ。さっきの突発的暴力も俺の恐怖心を支援している。
しかし彼女は姉ではない。
彩芽さんは普通の、たぶん普通の女子生徒だ。
「あのね、私、私ね……」
「うん」
妙にもったいつけている。
モジモジしている。
心の準備は万端のはずだが、こういう仕草を取り入れる心の準備もしていたのだろうか。
「私、隼人君の、隼人君の……」
もしかして、この展開はやっぱり……。
「俺の?」
ことが好きです、と来るのか?
訪れるのか?
春が、心の春が、訪れるのか⁉
「隼人君の貞操は私が守るから!」
「え?」
カァアアッと彩芽さんが赤くなったと思ったら、陸上部顔負けのピッチで走って逃げていった。
「なに……」
俺が脳内整理のため棒立ちしていると、走っていったのと同じ速度で彩芽さんが戻ってきた。
「そういうことだから! だから、とりあえず、ケータイのアドレス交換しよ」
これは、愛の告白か?
違うよな……。
ただの宣言だよな……。
愛の告白だとして、俺は返事をしていないから、それなのに話が進んでいるということは、愛の告白ではないということだろう。
でもやっぱり分からん。
恋人だと思っていたら、「勘違いしないで。私はあんたの彼女になった覚えはないわ」などと言われるかもしれない。
逆に友達だと思っていたら、「恋人だと思っていたのは私だけだったってわけ? 最低!」などという展開もありえなくもない。
確かめたほうがいいのだろうか。
「じゃあ、そういうことだから!」
彩芽さんは制服の濃紺プリーツスカートで風を切りながら走り去ってしまった。
結構な俊足だった。
「まあ、いっか……」
嫌われてはいない、ということだけは分かる。
彩芽さんのはにかんだ表情は新鮮で、純粋にかわいらしいと思った。
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