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 ウィンデリア国の数多ある貴族の中で、とりわけ由緒正しいフォンド公爵家が王都に持つ屋敷は、月の光を浴びて夜の闇にその美しい姿を浮かび上がらせていた。
 屋敷の皆が一日の疲れを忘れ、夢に耽っているころ、この屋敷で執事を務めるアマリーは眠ることなく、滲んだ視界を瞬きでごまかしながら、荷造りをしていた。

 まだよ。まだ途中なのだから…。
 
 自分を律しようとひたすら唱えつつ、それでもすぐに滲んでしまう視界の中でも、彼女の手際はよかった。女性ながら執事を務める彼女は、常日頃、決断する事柄が多い。荷造りといえど、どれほどの思い出を振り捨てるかという重い決断を素早くこなすことができた。
 もっとも、彼女が運べる荷物の半分は、彼女の家族ともいえるヴァイオリンであり、普通の荷物は生活の必需品の最低限のものに限られていたのだが。
 そして、荷造りを終えた彼女は立ち上がった。

 お願い、最後だからしっかり見せて頂戴。

 彼女は祈るように自分の眼を励まし、視界を取り戻すと、10年以上も自分が過ごした部屋を最後に眺めることをとうとう自分に許した。
 滲み、熱を持った目を瞬きで宥めて見渡した部屋は、心地よい広さと快適さがあった。置かれている調度類には公爵家の家紋が彫金され、決して屋敷の主の部屋と見劣りのするものではない。それも当然のことで、ここは客間の一つであり、本来なら執事を務めるアマリーが使うべき部屋ではなかった。

 伯爵令嬢であったアマリーの母は、稀代の天才ヴァイオリニストとして名を馳せていた父と駆け落ちし、アマリーが生まれた。恐らく両親は幸せだったのだろうが、幸せは長く続かなかった。病で父はアマリーが6歳の時にこの世を去り、母子二人になったところを、母の親友であった公爵夫人が手を差し伸べて、この屋敷に招いてくれたのだ。
  
 客間を与えられたことから察するに、決して使用人として招かれたわけではなく、客人として遇されていたと思われる。手厚いもてなしを受けていただろうが、それでも、アマリーの母は、まるでアマリーが屋敷に馴染むまで何とか命を持たせていたかのように、僅か3か月で父を追うようにすぐにこの世を去ってしまった。
 
 残されたアマリーに、幼い身には大きすぎる悲しみと寂しさが襲ったが、彼女には新しい愛情がふんだんに注がれた。娘のいない公爵夫妻は、そして隠居した前公爵も、アマリーを嫡男リチャードと実の兄妹のように愛し育ててくれたのだ。
 
 アマリーに笑顔が戻り、公爵家に新しい明るい笑い声が広がるようになってから6年が過ぎた頃、公爵家は悲運に見舞われた。
 あの日のことは、アマリーには、そして公爵家の誰もが忘れることのできない記憶となっている。
 
 夜会に出かける前に、いつものように愛のこもったキスをリチャードとアマリーの頬にしてくれた公爵夫妻の乗った馬車は帰り道で崖から転落し、帰らぬ人となってしまった。
 
 夫妻が予定の時刻をとうに過ぎても戻らないことに、徐々に屋敷に緊張が満ちていった。
 それは子どもであったリチャードとアマリーにも感じ取ることのできるまでになり、大人たちの常とは違う様子は、幼い二人に恐怖すら与えた。
 二人は騒めく屋敷の空気に脅え、抱きしめ合って、夫妻の帰りを待った。夫妻が笑顔で部屋に来てくれることを待ち望み、心から祈った。
 けれども、幼い二人の祈りは届かなかった。屋敷が喧騒と悲しみに満ちる中、二人は縋るように抱きしめ合って、泣き続けた。
 そのとき、アマリーはリチャードに誓った。
 
 自分は絶対にリチャードの側に居る。一人にしない。
 
 嗚咽を堪えながら、懸命に言葉を紡いだアマリーの誓いを聞くと、リチャードは一層強くアマリーを抱きしめ、何度も、彼女に誓いの言葉を求めた。アマリーはその度に誓いを立て、それは、翌朝、駆け付けた前公爵が二人を抱きしめるまで続いたのだ。
 
 
 あの日から7年。
 この日の夕方まで、アマリーはあの誓いを自分が破ることになるなど、思いもしなかった。
 実際、誓いを護るために、自分がお嫁に行くことでリチャードと離れてしまうことを避けようと、アマリーは髪を切り、女性であることを捨て、使用人として働くことを選んだ。
 リチャードの妹ではない、貴族ではない彼女が、次期公爵のリチャードの側に居続けるためには、使用人となるしか道はなかった。
 そして、使用人の中でも一番にリチャードの近くにいるために、彼付きの執事となり、誓い通り、付き従ってきたのだ。
 ――今日の夕刻までは。
 胸に走った痛みを堪え、アマリーは10年以上暮らした部屋のドアを閉め、溢れる思い出を閉じ込めた。
 
 寝静まった屋敷に音を立てないよう、足音を忍ばせ、アマリーは使用人たちが使う出口に向かった。夜の静けさは、アマリーに屋敷と離れる寂しさを再び募らせてしまう。
 
 だめよ、泣くのはせめて屋敷を出てからに…
 
 アマリーは性懲りもなくまた滲み始めた視界を瞬きでしのぎながら、できる限り足早に出口へと進み――、そして息を呑んで足を止めた。
 廊下の最奥、出口の手前に、まるで立ち塞がるかのように佇む人影があったのだ。
 
 廊下に僅かに灯された明かりが、出口に佇む人影を照らしていた。
 背筋が美しく伸ばされた姿勢は、高い身長と相まって威厳を感じさせる。仄かな光を受けて輝く髪は、本来の明るい金色ではなく、月の光を編み込んだような白金に見えた。
 顔の造作は僅かな明かりでは見えないけれど、夜会で女性の視線をくぎ付けにするその美しい容姿を、アマリーは鮮明に思い描くことができる。
 暗がりが隠す彼の瞳は、濃い青で、彼が微笑むと眩しい輝きを見せる。整った顔の中心にある鼻梁は品の良さを感じさせ、薄い唇はいつも柔和な笑みで隠されている知性を感じさせるものだ。
 
 どれだけの暗がりの中でも、見間違えることなどなかった。
 目の前にいる相手は、アマリーが逃げ出そうとしていた、フォンド公爵リチャードその人だった。
 
 
 夜目でも分かるほどに幼いころから慣れ親しんだ姿にもかかわらず、アマリーはつばを飲み込んだ。
 それは、彼が、一番見つかりたくはなかった相手だからではない。今の彼は、彼女が目にしたことのない気配を帯びていたのだ。
 暗がりでも、リチャードの纏う怒りが、――怒りと呼ぶことすら優しいといえる程の激しい感情が伝わってくる。

「あの男の下へ行くつもりなのかい?」

 硬い、そして恐ろしく冷たい声だった。
 リチャードにこのような声が出せるとは、アマリーは知らなかった。気圧され体が竦む。
 声も出せないアマリーからの返事を諦め、リチャードは一歩踏み出した。
 
――!

 反射的に後退ったアマリーに難なく詰め寄り、彼女の腰に腕を回し、残りの片手で荷物を奪い取ると、驚きに固まる彼女を肩に担ぎ、リチャードは出口とは逆の方向に歩き出した。
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