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第二部 首を繋がれた王と姫君

第十七話 冬に聞こえたキリギリスの歌

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 ―――This is the story of Genzirou.
 
 夜明け前の静かな一時。まだ太陽は昇っていないけど、一面を白く染めた雪の上に夜空の色が反射し、目を見張るような冷厳とした美しい風景を映し出していた。すべてが青く輝く幽玄の世界。触れた瞬間に体まで凍りついてしまいそうだ。
 断熱ガラスに指を這わせながら、ここからは見えない学園を取り囲む湖に想いを馳せる。もしかしたら水面も固まっているかもしれないけれど、今の俺には外の寒さもわからない。
 「…はぁ」
 閑散とした二人部屋を眺めて思わず溜息を漏らす。セトが消えてから増えることのなくなった奴のコレクションの数々。クローゼットにかけられた制服とマント。読みかけだった本も枕も、シーツも目覚まし時計も…
 言葉にできないだけでずっと持ち主の帰りを待っているように感じられた。
 「どこいっちゃったんだよ……」
二度目の溜息に不満を交えて吐き出す。けれど静まり返った足元に虚しく落ちていっただけで、誰も俺の質問には答えてくれない。
 「第一っ」
 できるだけ声を張り上げ、俺の机まで侵食しているコレクションの山を苦々しげに睨み呻いた。
 「綺麗だからってこんなに集める必要がどこにあるんだよ」
 食堂に行く度に失敬するナプキンの束。生徒たちからもらった様々な国の切手。落し物のハンカチに手袋やら、ちょっとでも気に入ったらなんでも持って帰る。空き瓶だって何度俺が捨ててきたことやら。ゴミ袋を片手に机に積まれたものをすべて捨ててやる。
 「お前がいないから悪いんだぞ!」
 何十種類もの鉛筆や消しゴム。千手観音でもないのにどうしてそんなに使うんだ! 指輪やネックレスにコサージュまで。あいつの美的感覚は少しおかしい。
 「普通トイレットペーパーまで集める奴がいるか? 金持ちのくせして妙にせこいぞ」
『それはいい匂いがするのに…。ゲンジロウは夢がないね』
 今にも窓辺に座って本を読むセトが、そっと口を挟んできそうだ。
少年から大人に変わろうとしている俺たちが、捨てていこうとしているものを掻き集めてできたようなセト。同性の割に細くしなやかな手足も、声変わりもとうに終えたはずの高く澄んだ声も、俺はとうのむかしに失ってしまったというのに。
 窓に背を向ける俺にふふとアイツが笑いかけた気がした。
 「どうしていつも…窓枠に座るんだ? もっとこっちの暖かい方へこいよ」
 「扉をくぐれるのは鍵と錠を持つ子どもだけだよ」
 「雪だって降ってるし…寒いだろ?」
 「ぼくは……扉に近づけないんだ。でもこうして窓から外を眺めることならできる」
 短い沈黙の後、セトは淡々と言葉を繋げ答えた。
 「ユキオは自ら窓の外へ出ていった。チュチュはぼくが逃がしてあげた。でもね、外の世界は危険がいっぱい。二人は楽園に行けたけど、ぼくはまだそこにはいけない。窓は向こう側を知る唯一の場所なのに…永遠にガラス越しにしか見ていられないんだ」
 ふいにゴミを漁る手が止まる。同時にいっぱいになった袋が破けて、底からビーズがこぼれ出た。つい大袈裟に落胆し机の下にもぐり落ちたビーズを拾おうとしたが、そこに錆びついた虫かごを見つけ驚いた。もうずいぶんとむかしになくして以来、存在さえも忘れていた。
 「なぁ! これ見てみろよ」
 喜び勇んで振り向くも窓辺に彼の姿などなく、枝に積もった雪が返事の代わりに地面へ落ちていった。
 「…セ……」
 セト、と言いかけて口を閉ざす。こぼれた言葉の残骸は辺りの静寂に溶け込むようにして消えていった。
 お前を窓辺に繋ぎ止める俺たちに、慰めなんておこがましくてできやしない。だってその首に鎖をかけ、永久に拘束する為ならきっとどんな手段も厭わないだろう。
玉座の前に集まる仲間の願いを聞き届けよ。
 そこに辿りつけず、門の前に集まる子どもたちの願いを知れ。
 俺たちは鍵と錠を隠しお前を王国に閉じ込めたまま逃がさない。選択を誤ったこの国の行方を案じるがあまり、玉座に立つ前のお前までがんじがらめに束縛してしまった。でも、それもセトが自らの首を捧げ、俺たちの為に身を捧げると言ってくれたからだ…
 なぁ、そうだろ? 
ガラスに映る自分自身の姿に向かって、悲痛な思いで問いかけた。
 
 
 「え? キサメが消えた?」
 朝食を終え教室へ向かう私に久しぶりに話しかけてきたサエとジェニファーは、人目を憚るように音量を下げてかぶりを振った。
 「違うんだよ。いきなり転入しちゃってさ、ベティがすごいことになってるんだ」
 「でも、彼は転入届けを出してなかったじゃない」
 「だぁかーらぁ彼女もなんにも聞いてなかったしぃ、余計に悲しいのよぉ」
 「悲しいどころじゃないね。あれは。完全にやばいよ。私たちだって近づきがたいムードだもん」
 飾らないジェニファーの意見に相槌を打ちながら、突然の転入について考えた。キサメの作品を日本で自身の名前で出品していたカナムラ教授も。つまる所は彼自身も学園の掌で踊らされていただけなのだろうか。
 「ベティはどこに?」
 「医務室にいる。放っておいたら自殺しかねないから」
 恬淡とした口調がことの重大さを逆に印象づける。彼女の友だちでありながら、二人からどこかよそよそしさを感じた。それも学園に暮らす生徒の特色なのかもしれないが。
 予鈴が鳴り響き周囲も騒然とする。慌てて教室へ向かう二人に手を振りながら、暗澹とする思いを巡らせた。ルームメイトの翠は既に一人で行動を開始しているかもしれない。胸に抱えた教科書に挟んだ手紙を今日中に郵送しようと決め、私も教室へ向かって駆け出した。
 教室へ入ると普段より空いた席が目立っていることに驚いた。これだけ多くの生徒が学園を出ていくのかと、改めて学園の風習に馴染めないものを感じる。いつも隣の席に座るそばかすのヴァレリアも消えていた。
 壇上に入ってきた教授も空席に一瞥する程度で、大して興味を示さず教科書を開け授業を始めた。あと何年か後には、私も彼らのように何ごともないように演じることができるのだろうか。ただ平穏に毎日を過ごし無事に学園を卒業した時、再びここへ戻りたいという衝動に駆られるようになるのかしら。
教授たちのほとんどが卒業生だ。寮生活になるので大半が独身になるが、ただ単に所帯を持つのを恐れているようにも見える。大人になれない大人たち。姿形は成人してしまったものの、心には幼い頃に抱いた想いを今も変わらず持っているのだろうか。
 芹沢さんへの手紙の返事と一緒にユイコさんへも手紙を書いた。面識もない人にどう文面をしたためたらいいのか悩み、結果、取り戻した過去を元にもっと母について知りたいと等身大の言葉で綴った。
 読みにくいかもしれない。脱字も多いかもしれない。でもずっと目を逸らしてきたことから、もう逃げたくないと伝えられたと思う。
 黒板に数式を書き連ねるベンバー教授の背中を見据え、覚悟を決めた。
 
 
 薬を飲ませ点滴をすると、ベッドに座る彼女の瞳に少しばかり落ち着きが戻ったように見えた。
 「恋人がいきなり転入するなんて過去に何回もあったわ。その度にこうして安定剤を出すのよ」
 くわえ煙草をしながらドクター・アンジーはシニカルに笑った。
 「少し休んでなさい。薬が回れば眠たくなるわ」
 その間に煙草をふかしにいくつもりか、机の上のライターと煙草ケースをポケットに忍ばせるとカーテンを閉めた。後に残されたベティは虚ろな眼差しを宙に向けたまま、人形のようにぴくりとも動かない。蒼褪めた頬には幾筋もの涙の痕が目立った。
 「……パイを…あげるわ…」
 深々と雪が降る音だけが聞こえる医務室に、ベティの独り言がこだまする。
 「ねぇキサメ…アップルパイを……焼いてあげる………美味しいのよ…」
 赤くなった目に涙を溜めて、堪えきれなくなったのか両手で顔を覆った。指の間から嗚咽を漏らしながら呻く。
 「愛しているって…結婚しようって……」
 悲しげに言葉を紡ぐ彼女を見ていて『ぼく』まで胸が苦しくなってきた。新世界を築こうとして消された恋人は、伝説の乙女たちとよく似ている。恋人の男の思想が危険視され、有無を言わさず殺されてしまい取り残された乙女。彼女はまさに乙女そのものだった。
 けれどこの世界の永続こそがみんなが望んでいる希望なんだよ。
壁の向こうから語りかけるも『ぼく』の声は決してベティの耳には届かなかった。
 
 
 あの頃は天井の高さに驚いていたのに、見上げた時、天井画の細部まで眺められるくらいに俺の身長は伸びていた。
 手摺の位置が腕よりも高くにあったのでいつの間にか、それを無視して階段を駆け下りる癖がついていた。自分で決めた授業にまだ慣れていなくって教室を移動する度に迷子になり、慌てて最後の数段をまとめて飛び越えていたけど、今では地面に着くまでちゃんと階段を下りている。
 英語が苦手だった俺は他の奴らとうまく会話ができず、努力をするよりはクールな一匹狼を演じようと決めて、よく空いた時間をこの螺旋階段で過ごしていた。ゴーストが出るとか言う噂を信じてか誰も近寄ろうとしない階段は、じっと動かないひんやりとした空気が心地よかった。
 もしも俺がユキオさんに出会わなかったら、今の俺もいなかったと思う。
 検査ばっかりの毎日が嫌になって看護師たちの監視を逃れては、ユキオさんがいる病棟へ忍び込んでいた。一日のほとんどをベッドで過ごすユキオさんは、俺の訪問を喜んでくれていたと思う。滅多に笑わない人だったけど、俺に向ける優しげな瞳だけは他の大人たち以上に綺麗で澄んでいると、子ども心にも憧れに似た思いを抱いた。
 ユキオさんがいる病棟には少し様子のおかしい人が沢山暮らしていた。壁に向かってずっと話しかける男や、ずっと手を叩いて笑っている女の人。大人なのにションベンを漏らして、顔をくしゃくしゃにして泣いている奴なんかもしょっちゅう見かけた。だけど見舞いにくる家族たちよりも、病棟に暮らす奴らの方がとても活き活きとしていて幸せそうだった。できるなら俺もユキオさんと同じ病棟にいたかったけど、何故か両親から猛反対をされた。
 「あそこは気が狂った人が入る所なのよ…かぁ」
 母親と呼んでいた女がいった科白を思い出し、ふっと卑屈な笑みを漏らす。どこよりもあそこは楽園に近い場所のように思えた。だからユキオさんは笑うことができたんだ。
 あの日がそうだった。いつものようにユキオさんの病室へ向かった時、入れ違いに出てきた男の子がいた。女みたいな顔をしていたけど服装から同性だと察した。透き通るような白い肌に伏目がちの大きな瞳。同じ男のくせに、なんだか人形みたいだなと難癖をつけたくなった。
 俺と目を合わせるも関心を示すようでもなく去っていく奴を睨み、ユキオさんにどこか似ているなと、興味を湧いたことにも何だかむかついて乱暴にドアを開けた。すると珍しく窓を開けたベッドの上で、ユキオさんが嬉しそうに微笑んでいた。
 「何かあったの?」
「セ…ト……会ったぁ?」
たどたどしくも頬をほころばせ語るユキオさん。セトというのがさっきの男女の名前なら、外人みたいでかっこいいなと密かに羨んだ。
「会ったけどよ…誰だよ?」
「ふふふ…ぼく…の…コウケエ者だよ」
「後継者?」
その言葉に思わずむっとした。今まで一番ユキオさんの近くにいる、と自負していた俺のプライドを軽く傷つけられた気分で口を尖らせて反論した。
「なんでだよ? 俺じゃだめなの?」
と意味もわからずに聞き返した。すると窓の向こうに広がる青空に視線を向けユキオさんは、その僅かに開いた唇から俺に命じた。
「ゲンジロウは…ナイトだ……王様を守る、勇敢な仲間」
「ナイト?」
カタカナじゃよくわからない、そう言いたかったけど振り向いたユキオさんの顔に笑みを見つけて、喉元まで出かかっていたその言葉を慌てて飲み込んだ。
窓から注ぐ光を背景に、痩せ細った指を出してくるユキオさん。眩しさについ目を細めたが、目の前に立つ小指を見て迷わずに指を絡めた。
「指切りげんま…嘘吐いたら…針千本のーますぅ…指切った」
焦点の合わない目で俺のいる辺りを捉えると
「約束だよ」
と優しく呟いた。初めて俺に向けられた笑顔が嬉しくて、セトに抱いた嫉妬など忘れてすぐに頷いた。それから新年を迎え自宅でゲームをしていた俺はユキオさんの訃音を聞いた。葬式の間ずっと泣き続けていたセトの姿は、七年も経った今でも鮮明に思い出せる。
 彼の目の前でユキオさんは窓から飛び降りたと、お喋り好きな大人たちが噂していた。警察からも色々と事情を聞かれたらしい。周囲の好奇心に満ちた卑しい視線がセトに集まった。近くに立つババアが泣きじゃくるセトの肩を叩き、噂の真相を確かめようと責めるように問い詰める。
 「ねぇ、泣いてたってわからないじゃない。本当に目の前で飛び降りたの?」
 「奥さん…こんな時にやめてください」
 ユキオさんの妹の、セトの母親が目を赤く染めながら頼んだ。
 「ケイコさんは黙ってなさい。警察に何回も聞かれているんでしょう? セトくん、おばさんに話しなさい」
 涙を拭うセトの腕を掴み無理やり口を割らせようとするババア。見ているうちにだんだんむかついてきた。同時にユキオさんに与えられたナイトの称号が俺を奮い立たせた。
 「黙れババア!」
 巨体を突き飛ばしセトの手を引いて逃げ出した。まるで大人が構築するこの世界から飛び出す為の、入り口を求めるかのように延々と走った。後からついてくるセトが途中で強く、俺の手を握り返してきた。
 灰色に染まった街を駆け抜けながら、涙がこめかみを伝ってどんどん後方に流れていく。今にも雨が降り出しそうな空を仰ぎ遠くで立ち昇る、細い煙を見つけて胸に痞えていた感情を吐き出した。
 大声で泣き喚く俺の隣でセトも顔をくしゃくしゃにして泣いた。お互いの泣き声なんて聞こえないくらい、自分の声がうるさくて喉が潰れてもずっと喚いていた。
 俺たちは、ただ欲しかっただけだ。すべてを受け入れてくれる、どこにも刃などない平和な何かが欲しくて―――決してこの世にない、そんな子どもだけの世界に恋焦がれていた。
 遠くで授業終了を告げる鐘が鳴る。
 次の時間は大嫌いだった英語だ。潤んだ目元を制服の裾で拭い立ち上がると、同じ体勢でいたので膝が鈍い痛みを発した。
 
 
 授業を終えたばかりのベンバー教授の元にはいつもの女子が集まっている。彼の人気の高さにはほとほと感心するばかりだ。下手に近づいて不評を買いたくないので諦めて教室を立ち去ると、背中に向けられる視線に気づいた。
 「次は授業あるの?」
 不意に近くにいたペクチュが話しかけてきた。
 「いいえ。図書室に行くつもりよ」
 じっとまとわりついて離れないバンバー教授の視線を意識して、やや声を大きくして答える。こちらから接しなくとも自らが近づいてくるに違いない。そう確信しながら歩調を合わせて廊下を歩く。
「いいわねぇ。私は機械工学よ」
恨めしげに分厚い教科書を掲げると彼女はげんなりとした面持ちで呻いた。
「もうすぐ冬休みでしょう? 宿題が山盛りだされるの」
今日の授業でも出された宿題を思いながら、同情を述べると弱々しい笑顔を浮かべ去っていった。
 二週間後に冬休みを控えているからか、長い間貸し出しされていたいくつもの本が返却され棚に戻っていた。一ヵ月半もの休みの間、生徒の半数以上が実家へ帰るらしいけど中には諸事情により学園に滞在する生徒も多くいるらしい。そんな子どもたちの為に、図書室も新書を増やすらしく、早くも新しく入る本のリストが貼り出されていた。
もちろん、明言こそしていないものの私と翠も残るつもりだ。
図書室の柱の脇にある一人席に座ると、芹沢さんからの手紙を取り出し読み返してみた。経営が傾いていたと言っていた会社に残り、新社長と協力して頑張ってみようと決めたらしい。彼女なら弁護士のライセンスもあるのだから、わざわざそんな苦境に立たなくともいいのではないかと思ったが、その理由をこう形容していた。
『今まで彼女に依存し、まるで彼女一人が会社を支えているような所があったけれど、そういった体制を廃止して社員が一丸となって戦えるような会社にしていこうと決めました。きっとそれこそが妃紗子さんが最も望んだスタイルだと、私は信じています』
支配者の駒になることに生き甲斐を見出していたような人が、どういう心境の変化だろう。けれどよくよく考えれば、変化の兆しはユイコさんとの出会った頃からちらほらとあらわれていた。
会社という王国に君臨した母。けれど彼女の意思は別の所にあったというの? 自らが支えながらも、本当は自分の庇護下でしか生きられない社員たちを疎んでいたのだろうか。
文面を読み返してから思った。会社と学園は似ていたかもしれない。だからこそ後任に灘垣という無能な男を指名したに違いない。彼が王国を破滅に導くのを望んで…
手紙を折り畳んでからおもむろに振り返った。予想通りに書架の間から私を見つけ、強張った表情を崩しながら近づいてくるベンバー教授に彼より数段上手の作り笑いを浮かべ出迎えた。
「教授も図書室へこられるんですね」
「あ…あぁ。でも今日はきみに話があって…」
「話、ですか? 奇遇ですね、私は質問があるんですよ」
せっかく貼りつけた笑顔もここまでしか維持できなかった。
「キッコとモリアをどこにやったんですか?」
口を引きつらせるベンバー教授を直視し、逃げる隙など与えない厳しい口調で問いかける。
「子どもたちを集めて選別し、利用されているようですけれど。けれどこうして戻ってきた貴方も、所詮は学園に操られているってことではないですか?」
うな垂れるように聞いていたが、やがて顔を逸らし消え入りそうな声で
「否定は…しないよ……」
と漏らした。
「まさかヒサコさんが子どもをここにやるとは思ってもみなかった。ぼくが日本に滞在していたのはまったく別の目的があったんだ。ちょうどその日しか休みがとれなくて、友人の……墓参りにいっていたんだよ」
「ハスミ…さんですか?」
私がその名を知っていることに驚いたのか目を大きく開け、突然納得いったように頷く。
「…そう。どうやらきみは思い違いをしているみたいだ。その…ガドレの際の失言も謝りたかったんだ。後からミドリに聞いたよ。軽はずみなことを言ったと思う。本当に申し訳ない」
深々と低頭する彼を眺め意外な展開に不安を覚えた。
「はっきり名言しておくよ。ぼくとヒサコさんはただの先輩と後輩で、特別な関係とかはまったくなかった。自分で言うのもおかしいけど、彼女一筋だったから」
真摯な瞳には嘘など偽りのものはどこにもないように思える。けれど一番怪しいと睨んでいた彼を候補から取り外して他に誰を疑えばいいの? 日本人ではない教授や混血の教授やスタッフなども入れればそれこそ、数えてもきりがない。一から出直す芹沢さんたちと同じく、私の推測も再び出だしに戻らなければいけない。
つい俯き落胆する私にそっと近づくと
「……キッコたちは無事だよ」
声をひそめ小さく囁いた。
「けれどぼくに言えるのはそこまでだ。それ以上は…言えない。この学園を必要だと思うから、ぼくたちは多少の犠牲もやむ得ないと思っている」
「!」
信じられない言葉に思わずキッと睨みつける。けれどそこには人形のような感情のないベンバー教授の顔があった。
「行き場のない子どもたちを迎える為に、ユキオが…ハスミの為に築いたのがこの学園だった。ぼくもきみの父親も、社会に否定されたからこそ、ここを守り抜きたくて集まった同志なんだ」
 操る言葉もどこか淡々として意思を感じない。他の教授に問いかけても、同じような調子で返ってきそうな科白だった。
 そう、教育されたの? 統一された思想を植え込まれたから、こうして戻ってきたの?
 「彼は父親であることを放棄した。だからもう、彼に何かを求めたりするのはやめてやってくれ。彼は……永遠にこの学園を守ることを選んだから」
 「でも……」
と呟いてから、その後に繋げる単語が見当たらず黙り込む。求める訳ではない。真実を知りたいと思う、ただそれだけのことですら許されないの?
「…学園を守る為なら、組織絡みの隠蔽も致し方ないと言われるんですか? 例え生徒たちが実験に利用されようとも、貴方は何食わぬ顔で教壇に立ち続けるんですね」
「―――え?」
それまでの無機質な表情を一瞬にして打ち壊し、ベンバー教授は戸惑ったように聞き返した。
「…あぁ、もしかしてそういう噂でも流行っているのかな」
沈黙の間に自ら納得できる答えを見つけだしたベンバー教授が語り出した。
「ぼくらが学生の頃にもあったよ。そういった噂」
 忘却の日に想いを馳せるような懐かしさをたたえた温かな瞳が細められる。
 「きみたちの頃は…本当に、この学園が世界のすべてだと思って疑わなかったから」
 まるで優しい想いで轍を踏む後輩たちを見守るかのようなその態度に、私ははっきりと悟った。
 「貴方は知っているんですね」
 私の導き出した答えを聞こうと、彼は静かに微笑んでいた。
 「ここには本当はベンジャミンが学内で殺された事実もないことも、何もかも。―――すべては生徒たちの自作自演のお芝居だってことを」
 ベンバー教授は少しの間私から視線を逸らし黙り込むと、消え入りそうな声で溜息を洩らした。
 「…受け入れられるとでも、思うかい…」
 再び顔を上げると彼はこの学園の住人たちが得意とする、あの人形の顔を見せた。
 「厄介払いでこの学園に押し込まれたという事実。卒業後も家族は引き取りを拒否するパターンは吐き捨てる程見てきたけれど…その度にぼくは、己の無力さを呪うよ」
 「……ベンジャミンは…国家の生贄だったんですね」
 国にいる限り命を狙われる哀れな王子は学園に亡命をしてきた。けれどそれこそが大きな間違いだった。彼はただ、生贄に差し出される最高のタイミングまでここで大切に守られていただけに過ぎなかった。
 殺される為だけに祖国に連れ戻された彼を―――学園に残された生徒たちはどんな想いで見送ったのだろうか。この事実が公になれば学園は危機的立場に追いやられる。
 「…誤解しないで欲しい。バロは…確かに強引なところもあるけれど、彼なりに子どもたちの行く末をいつも案じているんだよ」
 とってつけたような慰めの言葉に、私は肩を竦めて見せた。
 学園に依存する生徒たちは、事件が表面化することを恐れて各々が自らに振り分けられた役に没頭する。それらはすべてバロの命によるものだと、思い込んで。歪にも学園を守ろうとする意志だけは、誰にも侵すことはできない。
けれど私にはキサメの父親が言う「薬」の存在まで否定しきれなかった。それ故に失踪してしまった生徒たちを想う。そして彼のことも…
 
 
 膝に置いた虫かごを左手でいじりながら、無意識に右手は談話室に置かれたクッキーをつまんでいた。ほどよい甘さ加減のクッキーは今まで食べたどれよりも美味しくて、初めて学園から振る舞われたお菓子に新入生たちは感激した。
 「おやぁ…?」
 突然後ろから腕が伸びてくると手元から虫かごを奪い取った。
 「懐かしいね。ぼくがゲンジロウにあげたやつだろ?」
 同じく談話室にいたレオがチョコレートを齧りながら虫かごを眺め回す。そうだった。入学したての頃まだ監督生だったレオが気紛れにくれたんだった。
 「部屋に入ってきたキリギリスを飼ってなかったっけ?」
 よく覚えてるなぁと奴の記憶力に感心しながら、俺も追憶しながら頷いた。
 「中で飼っていたから冬まで生きていたぜ。寝ようとしたら鳴き出すからもぉ、すっげぇ迷惑だった」
 「あれ? でも春にはもう見かけなかったよね。さすがに寿命だったのかな」
 「いや…どうだったかな……」
 虫かごを受け取りながら俺も記憶を巡らせる。毎日餌を欠かさずやっていて、なおかつ生物学の教授に飼育方法を伝授してもらったからか、それとも日本と違い長寿の種類だったからかはわからないが、結構長くキリギリスの歌を聞いていた気がする。
 と、ふいにセトの顔が思い浮かんだ。
 指に注射器を挟み上体を捻って、こちらに不気味な笑みをたたえて何かをしていた。
 『理想的な環境だから長く生きていれたけど、綺麗なうちに…綺麗なままで死ねたら本望だよ』
 それを聞いた途端、背筋に冷たいものが走った。奴の口調はまるで、学園に依存する俺たちを揶揄しているようで錯覚を抱いたのだ。
 「ゲンジロウ」
 談話室にやってきたティルが俺の姿を見つけると名前を呼び近づいてきた。
 「話があるの…」
そんな彼女の顔色の悪さに、俺もレオも思わず目を見張った。螺旋階段よりも医務室へ連れて行くべきじゃないかと逡巡したが、頑なにティルが拒んだので仕方なく話を聞くことにした。よっぽど誰かの耳に入れたくない内容なのか、階下を眺め人気のないことを確認してからようやくホッ口元を緩めた。
彼女が人前で俺に話しかけてくるなんて稀だった。むしろこれが初めてのことと言ってもいいかもしれない。セトから婚約者がいるとは聞いていたけど、それがまさかコルスティモだとは知らず、バロが何げない会話で漏らした話でティルとの関係に気づき心底驚いた。
 婚約していると聞いても二人がお互いに好意を抱いているようにはまったく見えず、むしろ互いに関心さえ持っていないことにもショックを受けた。セトと婚約しているなら、将来は二人でこの学園を支えていくはずなのに、と何度も天真爛漫に振る舞うティルを見て疑問を呈した。
 けれどセトが一度だけ口にした言葉がとても印象的だった。
 『彼女はあのままでいいんだよ。ずっと…あのままでいてくれなくちゃ、いけないから』
 そこに秘められた意味を理解することはできず、追究することも忘れていつしか二人の奇異な関係を気にもとめないようになった。
あの時にはわからなかった疑問が時を経た今になって、わかるかもしれない。目の前に佇んだまましばし動かなかったが、指を胸の前で組むと肩を震わせながら第一声を沈黙が支配する踊り場に投じた。
 「セトは私に―――貴方たちを助けてあげてと頼んだの」
 
 
 ベンバー教授と別れた後も私は図書室に残った。モリアはいつも小説や童話の類を好んで読んでいた。中でも気に入った作品は何度も借りてきては読み返していたので、図書のレンタルカードには彼の名前がずらりと並んでいることも珍しくはなかった。
 彼が頻繁に借りては読んでいた本を広大な書架から探す作業は、ひどく骨が折れるものだった。何度も図書室内を往復し、気がつけば所見台の上には乗りきらないくらいの本の山ができあがった。
 一冊ずつ目を通すけれど熟読していては時間がいくらあっても足りない。気になるワードを探して流し読んだ。
 「これ……」
 咄嗟に図書のレンタルカードに書かれたモリアの名前を数える。ほとんど彼が借り続けていると言っていいくらい、そこには「モリア」の名前しか羅列していなかった。
 『心の中で数えあどけない寝顔を覗き込むと、アルスハンの白い肌に人の形をした影が映った。閉ざされていた彼の瞼が上がる。長い睫の下から向けられる眼差しが、イーライの姿を捉え恐怖に引きつった瞬間、恍惚とした刺激が全身を貫いた。
 イーライは勢いよく頭上に掲げた石を振り落とした。アルスハンの悲鳴は骨が陥没する音によって遮られた。赤く染まった顔から黒光りする石を取り出し、続けて同じ場所に落とす。二度目はあまり響かない。その代りにアルスハンの血飛沫が周囲の花たちに降りかかった。』
 何度もその文章を読みながら全身から血の気が引いていくのがわかった。何故ならこの小説に書かれた花園で行われる少年の殺害シーンは、そのままモリアが私に伝えた内容そのものだったのだ。
 「そういう…ことなの?」
 文字をなぞる指が微かに震えていた。
 ベンジャミンが消えたタイミングで渡された演劇部の新しい台本。そこには失踪した友人になりかわる主人公が描かれていたから―――それを、自分たちに与えられた役目だと思い演じることを選んだツイン。
 自分を学園から連れ出してくれると約束していた矢先の、恋人の失踪―――ファルバロの婚約者という立場からそれは『警告』だと考えたティル。
 普段ほとんど関わり合いを持たないベンジャミンが消えたと知り―――彼を殺したと訴えるモリア。
 学内に薬がばらまかれ、そして地下には彼のお気に入りの生徒たちが収集されていると言ったキサメ。
 思考を邪魔するようにして薔薇の香りが漂った。そう言えば見慣れている所為で気にも留めなかったけれど、学園の至る所にこの薫り高き花は飾られている。
 「私は…まるで観客ね」
 まるっきり部外者扱いのような身の上を自嘲し思わず口元が歪んだ。
―――きみたちの頃は…本当に、この学園が世界のすべてだと思って疑わなかったから
 脳裏に蘇ったベンバー教授の言葉に静かに頷くと、私は本を片づけ席を立った。図書館内はあらかた探したので、ガドレの時にユンから聞いた地下の談話室を確認しておこうと決めた。カウンターに並ぶスタッフの中から女性司書を探し声をかけた。
 「地下の談話を使いたいのですが」
 「今は他の人が使っているわ。もし内側から鍵がかかっていなければ、貴方も一緒に使えばいいわ」
 「初めて使うので……どうやっていけば…」
 「あっちの書架の奥に扉があるわ。暗いから気をつけて下りてね」
 「…ありがとう」
 礼を述べると足早にその場から駆け出し、教えてもらった扉の位置まで足音が響くのも構わず向かった。図書室にいること自体は平気だけどカウンターがどうしても怖かった。司書のほとんどが女性だったが、少しでも脳裏にあの頃の記憶が蘇りそうになればただちに逃げ出し、込み上げてくる恐怖に耐えた。
 ちょうど書架の影になって木製の扉はとても見つかりにくい所にあった。ノブを回してそっと開け、暗闇の奥に続く灰色の石段を見て戦慄に似たものを覚える。第一歩を踏み出すものの湿った空気の所為で、階段はとても滑り易く両手で壁を支えながらやっとの思いで下りていった。
 随分と長い階段に、もしかしたらここは城の貯水庫を改造してできた談話室かもしれないと思った。セトの秘密の部屋や隠し通路にしても、古城の設計を考えれば単なるミスではなく計算された上で造られたものだと納得いった。
 地下へ下りていくたびに空気の質が変わっていく。
 長い間換気のされずに溜まった淀んだ空気が、来訪者の神経を過敏にさせる。階段を下りきっても数の少ない電灯に照らされたそこは闇の領域が多く、柱の向こうからひんやりと冷たい風が吹いてきて頬を撫ぜていった。
 薔薇の香りを嗅いだ気がしたが、柱にかかれた談話室への案内標識を見つけた途端に注意も逸れた。矢印が示す方角を睨むと四角い扉の形に沿った光のラインが見える。
 素直にそちらへ向かおうとして足を止める。
 一寸先の闇。光の及ばない域には何があるのだろう。
 地下には実験に使われた子どもたちが眠っている。すべての実験はこの地下で行われているのだとしたら、談話室よりもその証拠を探すべきかもしれない。ライトも何も持ってきていない。けれど手探りでも何かを見つけられるかもしれない。
 すぐ近くで雫が落ちる音を聞きながら、私は柱に手をかけながら漆黒の闇に向かって歩き出した。
 
 
 手摺にもたれかかりながら、ティルはしばらく自分の中で順序立てるように考え込んでいた。その間に流れる沈黙が長ければ長いほど、俺は勝手な想像を膨らませて自問自答を繰り返してはかぶりを振ってそれを否定していった。傍から見ればおかしな奴だな、とも思ったけどティルの方も俺の動向に構っている余裕などないらしく、思案した面持ちのまま太い溜息を吐いた。
 「私は彼を裏切ってここを出ていこうとした。その罰としてベンジャミンは殺された」
 「ベンジャミンが殺された? どういうことだよ。実験以外に生徒が犠牲になることってあるのか? 裏切りってなんだよ」
 矢継ぎはやに質問する俺を両手で牽制すると、真面目な顔つきで「すべて話すから」と諫言した。
 なんだか手綱を相手に握られたまま進行するのに不安を抱いたが、とりあえず彼女に従うしかないと覚悟を決め、向こうから話し出すのを待った。
 「私たちが財産目当ての婚約をしているのは知っているわね?」
 素直に頷くと、会話の糸口を掴んだのかすぐに続けた。
 「どちらも婚約は単なる形だけのもの。お互いに好きな人ができたら、いずれは解消しようと決めていたから特に束縛するつもりもなかった」
 あれだけ男遊びをしておきながら、最終的にはセトの妻になる気でいたらそうとう根性が悪いぞ、と内心毒づいたが同調するように相槌を打っといた。
 「けれどあれは…私とベンジャミンが、グドゥの塔から飛び降りたチュチュを目撃した日のこと。茂みの向こうに大の字になって落ちた彼女を見て悲鳴を上げて逃げたわ。一瞬しか見ていないけど、死んでいるってわかったから。ベンジャミンとは幼馴染で、ここに入学を考えて彼の両親が見学にきていたの。その間……外で遊んでいた時に、偶然とはいえ私は塔から顔を覗かせたセトを見てしまった」
 信じられず凝視する俺から、両腕をさすりながら目を逸らすと
「咄嗟に理解した。彼があの女性を塔から突き落としたんだって。もちろん彼は婚約者。でも……見てはいけないものを見てしまった私を、今度は突き落としにくるんだって、来客用の部屋に泊まっていた私は怖くて眠れなかった」
 ベンジャミンと両親は翌朝に帰国したが、元々数日を滞在するつもりだった彼女の両親は、娘が異常に帰りたがる理由にも耳を傾けず、バロの元で素晴らしいもてなしを受けていた。その間水面下での遺族とのやり取りの結果、チュチュの死体は内々に処理されたらしい。
 「けれどもしかしたら夢だったかもしれないって思って、塔の…彼女が落ちた現場にいってみたの。もちろん跡形もなく証拠は消されていたわ。あぁ夢だったんだって帰ろうとした私の後ろに、セトがいた」
 セトは金色の巻き毛を結んだ美しい少女に向かって
 『こんにちは。お姫様』と言った。
 『ぼくは王様になるから、きみはお姫様だね』
 たじろぐ少女を爪先から頭まで眺め『きみには名前、いくつある?』と問いかけた。
 前後の脈絡のない質問に、少女は素直に
 『ティル・トラヴィス』
 『トラヴィス? へぇ…この国に古くからいる貴族の名前だね』
 感嘆するセトを見て幼いティルはやや得意げな気持ちになったらしい。
 『でもぼくには二人分の名前があるんだよ』
 『そんなの変よ! 一人に一つしかあげられないってパパが言っていたわ』
 『嘘じゃないよ。だって今のぼくはセト・イチノセだけど、時々ユキオが出てくるんだもん』
 「彼は笑って否定したわ。後からそれが死んだ伯父の名前だって知るまで…ずっと誰なのかわからなかった」
 足元を見詰めるティルを一瞥し、鼻水をすするふりをして涙を拭った。
 「それから彼は会う度に名前を増やしていった。その数が十を越えた頃……そう、彼が入学をして間もない頃だったわ。来年私も入学するから、その手続きの為に入国した時に空港で彼と会ったの」
 久しぶりに会うセトを見て驚いたという。それまで屈託のない笑顔を浮かべ、沢山ある名前を操り彼女を楽しませてくれたかつての面影はどこにもなく、やつれた顔に虚ろな目をしてティルに縋りついた。
 『ぼくはもうあそこから抜けられない』
 「彼自身が救われることはないから、諦めたから…でも、仲間に選んでしまった可哀想な友だちを助けてあげてくれって頼まれた。成長しいつか自分たちの罪に気づいてしまった時、世界が再び仲間を見捨てる前に私が手を差し伸べてあげて欲しい。その日がくるまで決してあそこには染まらず自由に生きればいい。全身全霊をかけて守るから、どんなに冷たい目を向けらても、仲間を救い出すまではこの学園にいてくれとセトは私に頭を下げた。彼は約束通り私を陰で守り続けてくれたわ。でも、それでも耐え切れなかった。いつ消されるかわからない日々を怯えるよりも、ベンジャミンは一緒に逃げようと言ってくれた。私もその誘いに乗って―――」
 長い時間喋り掠れてきた声がふいに途切れた。
 床に水滴をこぼしながら嗚咽を堪えティルはくぐもった声を吐き出す。
 「私の裏切りが……ベンジャミンを死に追いやり、セトを孤立させてしまったの。国に戻れば殺される運命しかない彼を―――バロは見殺しにした」
涙に濡れたその言葉は今まで聞いたどれよりも辛く、明かされた事実は俺の予想を遥かに上回る悲しみに満ちていた。
頬を伝う涙を拭いながら、俺も呟いた。
「俺も……同罪だ。ユキオさんが築いた理想から、この学園が遠ざかっていくのが嫌で、大人たちのエゴに使われるなんて許せなくて…力を持つセトを利用した。あいつはユキオさんの後継者だから、俺はナイトだからって納得させて…」
―――所詮は俺も大人と同じことをしていたんだ。
 ぼろぼろとこぼれていく涙に乗じてどんどん後悔と自責の念が強くなっていく。ユキオさんが求めた世界というよりも、自分に都合のいい環境を保持していたくて嫌がるセトを無理やり玉座に立たせた他の連中とまったく大差ない。馬鹿げた理想を掲げて、自分はまだ純粋な心を持っていると思いたかった。薄汚れた大人たちとは違う。反旗を翻すことで、セトを盾に使うことで自分から遠ざかっていく世界を繋ぎ止めようとしていた。
 「俺も……馬鹿だよぉ…うっ…う、ちくしょー…ちくしょおぉぉ……」
 替え玉でもいい。クローンでもいい。亡きゲンジロウと同じ顔をしていても、俺は俺としていればいい。言って欲しかった。胸を張って息子ですって言ってくれたら、それで満足だったんだ。
 「ぐっ…ぢぐじょーおぉぉぉ」
 枯れ果てた夢。叶わなかった理想。突きつけられた現実。すべてから逃れる為に与えられた美しいこの学園。キリギリスの身体に針を刺し、新しい標本に加えながらセトは冷たい横顔で言い放った。
 『どうせ、ここでしか生きていけないんだし…』
 あれは学園に依存する俺たちに向けた侮蔑の言葉。俺たちの為に学園に縛られた身の丈を嘆き、それでも優しさが邪魔をして見捨てることもできない苦悩に満ちたセトの本音。
 もう誰にもあいつを救えない。
 みんながあいつを裏切ったから。仲間の裏切りに傷ついたセトは、心を失いバロの操り人形になり下がってしまった―――
 大声で泣きじゃくる俺に、目を真っ赤にしたティルが歩み寄り呟いた。
 「聞いてちょうだい、ゲンジロウ。私たちに最後のチャンスが残されているの。彼を助ける、本当に最後の……チャンスが」
 
 
 確かに城とは言っても何百人もの生徒とスタッフたちを抱えるこの建物の中で、誰にも知られずに薬の開発をするのは容易ではないはずだ。その点地下なら人の目から隠しやすく、いざと言う時の証拠隠滅も簡単だろう。
 これまで学内で起きた事件が生徒たちによる自作自演のストーリーであると見切りをつけたけれど、ガドレの後に大量に生徒たちが消えてしまう点についてはまだ納得ができていなかった。翠から借りた資料や実際に聞いた話によると、ある日突然失踪してから何らかの形で他校へ編入したという説明がなされるらしいけれど。
 実際に進路変更が行われそういった事態に陥いるケースもあるのだろう。けれどもしもベンジャミンのパターンのように、国に帰った後は命の保証ができない状況だったとしても学園は一切干渉しないのだろうか。自治権を持つ領土内での出来事なのだから、権利を行使すればいいとも思ったけれど、同時に学園が被る様々な被害を想像し納得した。
 外の世界に居場所がない子どもたちが集められ、時に大人たちの一方的な都合で間引きされてしまったとしても。それでもここしか頼る所のない子どもたちは、必死になって学園を守ろうとする。歪んだ依存心と高められていく共犯者の認識。
 ピチョーン…
 薄暗い闇の中で雫が落ちる音が幾重にもこだました。
 今は使われていない巨大な地下水路を歩きながら、私はきた道を忘れないように壁にずっと手を当てて進んでいた。その指先から伝わる石壁の感覚が不意に変わる。
 「もしかして…」
 思わず口にしてそう呟くと、私はドアノブのようなものを見つけ左右に回したり引っ張ってみたりした。けれど当然の如く鍵がかかっていてびくともしない。
 こんな地下水路に扉があること自体おかしいと感じたけれど、城を改修した際にわざわざ作ったのだろうか。元はバロの息子のものだったという古城。これもいずれは彼が受け継ぐ財産の一つなのだろう。と、ガドレの時にセトから渡された鍵の存在を思い出した。
 ネックレスにして服の下に隠していた真鍮の小さな鍵を取り出すと、私は手探りで鍵穴を見つけ出しそこに差し込んだ。
 カチッという小さな感触と共に扉が開く。思いのほか抵抗もなく開く扉に、普段から誰かが―――恐らくセトだろうけれど、使っているのではないかと察した。
 「!」
 地下の薄闇に慣れていた瞳に小さな採光窓から注ぐ光を強く感じてしまい、私は思わず強く目をつむった。そしてゆっくりと刺激に慣れるよう再び瞼を持ち上げる。
 頭上高くにある小さな窓から注ぐ光が、宙に舞う埃たちをキラキラと反射させてどこか神秘的に見えた。そして淡い光を受けて静かに並ぶ莫大な量の本たち。壁という壁をすべて本の背表紙が埋め尽くしており、棚に入りきらないものは床に高く積み上げられていた。
 「……これ…は」
 戸惑いながら私は近くにあった本を手に取りめくってみた。本のタイトルはなく丁寧に製本されていることから、オーダーメイドで注文された類なのだろう。中身を流し読みしてから違う本を読んでみた。そうして何冊かの本をざっと読み終わってから私は自分の中にある予感を確信に変えることにした。
 「消えていった生徒たちの…物語なのね」
 言葉にしてみると急にその意味を重く感じてしまい、胸が不安とやるせない悲しみに苦しみを覚えた。ここに集められた本には、学園に存在したであろう生徒たちの物語が書かれていた。
 ある者は一族の権力争いに負け、またある者は罪の追及を逃れる為に…様々な理由から祖国を後にしこの学園に集まった子どもたちがいた。彼らはここで平和に暮らしていたけれど、学園に連れてこられた時と同様に大人たちの一方的な都合でこの地を去っていくのだった。時に遠い異国の地に運ばれ、また別の子どもは生死すらわからない状態となって―――いつしか学園から生徒たちが消えても誰も気づかなくなっていった。生徒たちの処分の時期はガドレの後にある転入期間に集中し、多くの生徒たちが入れ替わり立ち代わりに消えていく。そうしたことからガドレの主が子どもたちを選別していくのだと自然と噂されるようになった。
 取り残されたから選ばれたのか。それとも選ばれる為に、取り残されたのか…
 手にしていた本を閉ざし、私は再び天井高くまで聳え立つ書架を睨みつけるようにして見上げた。これがキサメが言っていた地下で眠る子どもたちの正体。彼が集めた失われた子どもたちの人生を描いた物語。
 「……あ」
 それを見つけた途端、私は思わず声を漏らしていた。
 まったく同じサイズで同じデザイン、色もすべて統一されて書架を埋め尽くしていた背表紙の中に一冊だけ異なる本を見つけてしまったのだ。天井に近い場所にあったので梯子を持ってきてそれを取りに行く。革で作られた表紙は意外にもさほど汚れてはおらず、軽く表面についた埃を払うと金字に輝くタイトルが姿をあらわした。
噴水の間に置かれた王冠を足蹴にする女神像に刻まれたあの言葉。バロの息子が作った石像は、完成当時に一冊の本を抱えていた。けれどいつの間にか紛失してしまったと言う……まさにこれのことではないだろうか。
『Dina da doo.』
タイトルを指でなぞりながらふっと思い出した。
図書室でセトが読んでいた本。時折、彼が脇に挟んで持っていた本と酷似している。
まさか…でも、確かめなくては。逸る思いを抑えて表紙をめくろうとした瞬間、壁の向こうで物音が響いた。
「!」
確か地下の談話室に先客がいると聞いていた。その人物が用事を済ませ談話室を出た所なのだろうか。この部屋に侵入していることがばれてしまった際の言い訳を考えるよりも先に、私は梯子から飛び降りると音を立てないよう気をつけて部屋を後にした。
薄闇の向こうで温かなランタンの光が待っていた。
「こんな所で何をされているのですか?」
聞き覚えのある優しげな口調だったけれど、私は制服の下に隠した本を落とさないよう細心の注意を払い声の主の元へ近づいて行った。
談話室の鍵とランタンを持つジャックは不思議そうに私を見下ろすと
「どうしてそんなに汚れているのですか? 頭にも蜘蛛の巣がついていますよ」
と笑いかけていた。けれどそのどこか心許ない笑い方に本能が警鐘を鳴らす。彼の視線が背中に隠した本へ向けられる前に、話題を変えようと必死に考え巡らせた。
「…地下の談話室を使うのは初めてで、少し迷ってしまって」
「あぁ、わたしがこれまで使っていたから入りづらかったのですね。もう用事は済みましたからどうぞお使い下さい」
真鍮の鍵を手渡すとあっさりと立ち去っていってしまった。
つい拍子抜けしてしまい警戒した自分が馬鹿みたいと思いながら、談話室に向かって歩き出した。
「ファルバロから鍵をもらったのですね」
「!」
すぐ耳元で聞こえたその言葉に心臓が大きく飛び跳ねた。
 「けれどまだ錠の在り処を見つけていない。過去を取り戻したからといって、物語の展開に影響を与えるには…まだ不十分ですよ、ミス・リンコ」
 驚きのあまり足裏と床がぴったりと密着して動かなくなった私に、彼は穏やかな表情を浮かべ冷たく言い放った。
 「貴方にファルバロを救えない」
 そう言い残すと軽く肩を叩いて、今度こそ本当に退出するとわざと伝えるように足音を鳴り響かせながら階段を登っていった。彼の後ろ姿を目で確認しながら接近した瞬間に強く香った薔薇の匂いを思い出し、不安にざわめく胸を押さえた。
 
 
 とにかくついてこいと言われてきたものの、どうしてこの面子なんだ? と俺は生徒会室のソファに腰を下ろすミドリとティルを交互に睨みながら考えた。
 発起人であるティルはあえて俺と目を合わせようとはせず、傍らに座るミドリの苦渋に満ちた顔を覗き込んだまま黙っている。セトを助ける最後のチャンスがあるって言ったくせに、ミドリにさっき俺に聞かせた内容をよりわかりやすくしかも丁寧に説明して奴の第一声を待っていた。
 「つまり…きみの言いたいことはこうなんだな」
クールに眼鏡の縁に触れながら、理路整然と話すミドリを見て、こんな話を聞いても平然としていられるなんてすごいなと感心してしまった。
 「次に狙われるのはぼくと琳子、だと」
 ミドリの問いかけにティルは神妙に頷き返した。
「冬休みを利用してここから出ていくべきよ。リンコはともかく、貴方は最後のシィクンツッ。今すぐ彼女を連れて出ていって。いえ、憎んでいるなら彼女を置いて出ていきなさいよ」
 急に語気を荒げるティルを意外な気持ちで見る。まるでミドリの身を心配するあまり、冷静さを欠かさない奴の態度にむかついているみたいで、そのくせ視線は常に奴に集中していた。
 もしかして俺って…お邪魔虫ってやつ?
 
 
 久しぶりに覗いてみた壁の向こうで、実に珍しい組み合わせのトリオがしばらくそれぞれに苦虫を噛み潰したような顔で思案に暮れていた。
 さっきから面白い話をしているけど、ゲンジロウはつまらなそうにそっぽを向いている。必死にミドリを説得するうちに、その努力が実らないことへ苛立ち始めたティルが、ついに我慢の限界に達したのか
 「いい加減にはっきりしてよ!」
 と怒号を浴びせた。彼女がこうして怒る所を初めて見る。なんだか貴重なシーン尽くしだな、と笑いを噛み殺しながら『ぼく』は舞台の進行を見守った。
 「リンコが憎いならはっきり彼女に伝えるべきだわ。貴方って、いつもポーカーフェイスで肝心なことは何も言わない! 惨劇をすべて思い出して、自分の所為だって追い詰める彼女の気持ちを少しは察したらどうなのよ」
 「……察した所でどうなる」
 眉間に小皺を寄せながらミドリがようやく口を開いた。
 「事実は変わらない。あいつの軽はずみな行為が事件を起こした。その責任が簡単に抗えるものだと思っているのか?」
 「リンコは貴方に認めて欲しかっただけよ」
 立ち上がり机を両手で叩くティルに向かって、耐えず落ち着いた態度を崩さなかったミドリも応戦した。
「認めてどうなる? ぼくはずっと、あいつを認めていたさ」
「嘘吐きよ! 本音じゃないから傷ついているんだわ」
「他人にとやかく言われる筋合いはない」
「私はリンコの友だちよ! 友だちになりたいって思った瞬間から、人は友だちになれるの!」
「友だちだからなんだって言うんだ。ぼくは、ぼくはあいつの才能をずっとむかしから認めていたんだ」
それまで話しに加わろうとしなかったゲンジロウまでもが、ミドリの答えに驚き両目を大きく見開けた。今更撤回など通じないと察したのか、ミドリは憎々しげにそっぽを向きぼやいた。
「ぼくはむかしから他の奴らより少しばかりいい結果を出せた。けれどあいつは何もしないで、より上をいく成績を修めた。俗にいう天才肌だ。感覚で捉えた瞬間に一気に伸びる。どんなに頑張ってもソレを掴んだ時のあいつには勝てない」
腕を組みぞんざいな態度で語るミドリの姿を二人は興味津々で見詰めていた。
「努力したさ。けれど、あいつがいつソレを掴むかわからない。いつ追い越されるかわからないから、がむしゃらに頑張った。何故同じ兄妹なのにそうも違うのかわらず随分と悩んだよ」
ふっと溜息を漏らし「まさか本当に血が繋がっていないとはな…」独り言のように呟く。
その隣でティルとゲンジロウは顔を見合わせた。
「で、でもよ…父親が違うってだけで血は……」
取り繕うようにゲンジロウが間に入るけれどミドリは一笑した。
「恋人の連れ子だったぼくを引き取っただけだ。父親は結婚を目前に失踪している」
とあっさり切り捨てられてしまった。
「それに気づいたのは小学四年の頃。おかげで無邪気にぼくにまとわりつくあいつが憎くて仕方がなかった。あいつがよく通う図書館の女職員が、あの男の動向が気にかかると教えにきてくれた時も、馬鹿で能天気な妹が痛い目に遭えばいいと思った。幼女趣味の変態を雇う方にも問題があるしな」
そうかぁ…と、リズムが乱れ始めた心臓のあたりを押さえ納得した。
呼吸がどんどん短く、速くなっていくけど頭は冷静にミドリの心境を分析していく。愚かな妹を懲らしめる為に沈黙を守った兄。目の前で祖父母を惨殺されて初めて、自分が犯してしまった事実に気づいてしまったのだろう。
罪を認められず…彼女を憎むことでしか、自分を保て………なかっ
「!」
急に『ぼく』視界が霞んだ。耐えきれず壁にしがみつき、身体の底から圧迫してくる痛みを堪えなんとか重たい脚を動かし出口に向かって移動した。
壁の向こうでゲンジロウが「何か聞こえないか?」と言っている。
素早く立ち上がりミドリが動き出した。早くここを逃げなくちゃ。見つかったら、今度は『ぼく』が殺されてしまう。漆黒に包まれた道の先に一縷の明かりを見つけ、力が入らず垂らしたままの腕を上げて手を伸ばす。指が届きそうになったのに石畳に躓きバランスを崩した。頭から壁にぶつかり、その反動で回転扉が開き暗い視界に眩しい白光が注ぎ込む。
遠くで勢いよく扉が開く音が響き、こちらに向かって駆けてくるゲンジロウたちの足音が聞こえた。目の前に迫る床に体力の限界に達した体が倒れ込む瞬間、激しい頭痛が意識の強制終了を告げた。
 
 
 真っ先に生徒会室を飛び出したミドリの後を追って、何が起きたのかわからず俺もティルも慌ててついてきた。
 「おいっ! 待てよ!」
 角を曲がり俺たちがいた部屋の真後ろにある廊下まで疾走する。すごい勢いで先に駆けつけたミドリの姿を見つけ、足元に横たわる人の姿を見て絶句した。まさかガドレ以来ずっと姿をあらわさず、俺やユンを死ぬほど心配させたあいつが、どうしてこんな所で倒れているんだよ。
「……セト?」
 疑問と不安を言葉に変え、信じられずに奴の名前を口にする。反応のないセトに触れようとした俺を片手で制し、ミドリは当初の冷ややかな表情に戻り
 「今はきみたちの知るセトじゃない。こいつは、バロの操り人形だ」
と答えた。
 「おおかた…薬が切れたんだろう。すぐに回収にくる」
 回収って、ものじゃないぞ! そう叫ぼうとしたタイミングを見計らったかのように、廊下の向こうから靴音を響かせて誰かが歩いてきた。
 カツン カツン カツン―――
 外で降り積もる雪が薄暗い廊下を更に重たい雰囲気に塗り替えていく。窓から注ぐ淡い光に照らされて、バロの秘書。ミスター・ジャックは顔色一つ変えずに俺たちの元に向かって一定の歩調を保ったまま近づいてきた。
 
 
 地上の談話室と比べてずいぶんと手狭な室内には、テーブルと椅子が三つと小さな本棚に辞書と図鑑が並べられていた。目的も上とは違い自習と定められているのだろう。邪魔者のいない静まり返った地下なら打ってつけだ。 
 椅子に腰をかけ目の前に置いた本を見詰める。
 『Dina da doo.』
 バロの息子が書いたであろう創作童話。石像から奪われ、以来ずっとセトの手元にあった。けれど彼の手元から離れこうして地下で眠っていた。それが何を意味するのだろう。
 ―――まさか、バロが彼に手をかけるはずがないわ。
 湧き立つ不吉な予感を振り払い、表紙に手をかけて埃臭い本を開いた。
 黄ばんだ紙に書き連られた言葉を目で追いながら次のページをめくる。日本語で書かれていながら時々、英語が文章に織り交じっているので少々読みにくい。けれどだんだん読み進めていくにつれ、ページをめくる手が躊躇うようになってきた。
 「……どういう、こと…?」
 本に向かって疑問を口にする。
 「ここに書かれていることは…すべて、現実に起きた事件の……詳細じゃない」
 七年前に起きたチュチュの失踪から始まり、反乱因子であるシィクンツッから女子生徒が、学園の謎と薬に携わる男の名前を聞かされ困惑している隙を狙って、薬で意識を奪い生徒たちの前から消した所で物語は終わっている。
 最後に物語から消えた女子生徒の愛称は『キッコ』。学園に転校してきた少女に憧れて友人の座を射止めたばかりだった―――
 「違う…ユキオさんじゃない……」
 これはユキオさんが書いた物語じゃない。
 『これはぼくが作った物語…』
 脳裏に突然セトの姿を思い出した。あの螺旋階段で白い薔薇を引きちぎり、花吹雪を散らせて彼は焦点の合わない目を向けて確か、こう言った。
 『ユキオが死んだから、今度はぼくが作ったんだ』
 
 
 足元で蹲ったままピクリとも動かないセトを一瞥し、ジャックは苦笑した。
 「見苦しい所をお見せして申し訳ありません」
 慣れた動作でセトの身体を抱き上げると、その瞬間辺りに強く薔薇の香りが漂った。
「ガドレ以来、体調が優れないようで点滴と投薬による治療を行っているのですが、ごくたまにこうしてベッドを抜け出してしまうのです」
 そっか…そういやぁ、ジャックは医者だって聞いたことあるな。そう納得しかけていた俺の前でミドリが疑問を呈した。
 「その投薬治療が本当に彼の身体に合っているかどうか…怪しい所ですね。ぼくら、ずっとセトの姿が見えないから心配して集まっていたんですよ」
 俺たちといる時と態度も口調もまったく違う。媚びる訳ではないけど油断ならない相手と認識しつつ、目上の人間に対する礼儀正しさとかいったものが表立って醸し出されていさっきまでのギャップに何とも複雑な気分になった。
 こいつもセト並みに人格を持ってるんじゃないか? ついそう疑ってしまいたくなる豹変ぶりだ。
 「ご安心下さい。随分回復しているようですし、近いうちに授業にも戻れるでしょう。何せ転入期間が始まり、親しい仲間たちが遠くへ行ってしまうのですから」
 笑顔でごまかされそうになったけど、今のはきっと警告だ。
 余計なことに口を挟むな。場合によれば転入という形で、俺たちを消すことだってできるんだぞ、と紳士的な微笑を浮かべて伝えている。軽く頭を下げてから踵を返すと、腕に抱かれたまま気を失っているセトを連れて暗がりに沈んだ廊下の向こうへ消えていった。
 思いがけない邂逅は瞬く間に終わってしまった。後に残るこの虚しさやら後悔を、俺は何もしないで時が過ぎるのに任せて忘れていっていいのだろうか。
 「なぁ、ミドリ」
 レンズの表面が光を反射して奴の表情が読めない。けれど相手の出方を伺っている暇なんてない。
 「俺たちに力を貸してくれ。この学園からあいつを解放してやらないと、犠牲者は増える一方だ。キサメも殺されて…次に危ないのはお前だろ? いや、リンコかもしれない。あいつが本当にバロに、すべてを捧げてしまったら……セトの名の下に集っていた俺たち仲間もきっと殺される。それこそ大人たちのいいように操られちまう!」
 セトが『バロ』になってからじゃ、もう、遅いんだ。
 膝を崩し床に額をつけて頼んだ。
 「お願いだ! あいつがバロの名を冠したら…俺たちは…今まで信じてきたものを失っちまうんだ!」
 頭を押しつけたままじっと待った。その間に流れる沈黙がふいに動きを見せる。
 「私からもお願い」
ティルも俺の隣に座り頭を下げようとした。三つ指をつくティルを制しミドリが溜息に似た息を吐き出した。その反応に色よい返事を期待して顔を上げる。するとずっと頭を下げていた俺にではなく、両手をついて正座をしていたティルに手を差し伸べながら
 「拒否…以外の返事をしても、どうせ懲りずにまたくるだろ」
 と諦めたような口調でぼやいた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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