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第二部 首を繋がれた王と姫君
第十二話 糸に絡まるマリオネット
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第十二話 糸に絡まるマリオネット
―――This is the story of Twins.
ぼくは念入りに髪を梳き鏡に映るその顔を確かめるようにして眺めた。
いつもぼくの隣で笑っている瓜二つの顔がこちらを見詰めている。だけど少しだけ目元が違う。彼らをよく知る人でなければそれも見分けがつかないだろうけど、些細なこの違いが一卵性の二人を区別する唯一のポイントでもあるのだ。
首元のリボンを結ぶと壁にかけていたコートを取る。今朝は一段と寒くなると、ルームメイトのベンジャミンが昨日ぼやいていた。戸を開けて一気に階段まで走っていくと、これから校舎へ向かおうとする生徒たちで一階は溢れていた。朝のクイズの常連である生徒がぼくを見つけ声をかけてきた。
「よぉ。最近は片割れで行動してるんだな。ハルキか? ナルキか? 一時間前にもう出て行ったぜ」
「ナルキは厨房を借りて、新作開発に取り組んでいるから朝が早いんだよ」
「ふぅん…別に自分で作らなくってもお菓子なら腐るほどあるのにな」
「ほら、ナルキはパティシェになりたいから日々特訓しているんだよ」
「夢がある奴ってすげぇなぁ。俺たちなんて明日の天気ぐらいしか考えてないよ」
高笑いを響かせる彼らを無視してさっさと寮を出た。この程度の嫌がらせは普段から慣れている。むしろ学園に於いて彼のように明確な目的を持っている方が珍しいぐらいだ。
寮を出てから振り返り、ふと笑みを浮かべる。
―――そのお菓子の中に何があるか知らないから、喜んで食べていられるんだ。
談話室に入ると数人の生徒たちがテーブルに座り勉強をしていた。今日は水曜日なので半日で授業が終わる為、教授たちは普段よりも多く課題を出すので生徒たちは宿題に追われる。
後からくると言っていたサエとジェニファーを待とうと、私はどこか座れる場所を探して奥のソファまで移動した。と、窓辺に腰を下ろしクッキーをかじりながら参考書を睨むゲンジロウの姿を見つけた。
今日はそれほど顔色も悪くない。けれど彼も重度の薬物依存者なのだろうか。
彼も私に気づくと眉根を寄せながらも
「セトならいないぜ」
とぼやいた。
「別に彼を探している訳じゃないわ」
と断ってから彼の傍らに立ち参考書の中身を覗き込んだ。翠と同じ学年なのに経済学を学んでいるのかと、少し意外な気持ちになる。もしかして両親の後を継いで政治家を志しているのかしら。
「ユンに会いたいんだけど…グドゥの教室へは、行き辛くって」
「ユンに?」
露骨に疑問符を浮かべながら問い返す。
「グドゥにならないかって言われて、その返事をまだしていなかったから」
「へぇ…」
値踏みするように私を見やり、くわえていたクッキーを頬張ると
「それでどうするんだよ。もし転校したいなら早くにグドゥになって、バロにお願いしなくちゃなんねぇしな?」
「あら、転校する必要なんてないわ。今の環境に十分満足してるもの」
「なら断るのか?」
尚も問いかけてくるゲンジロウを一瞥し、今ここでその答えを言うべきか逡巡した。翠は私がグドゥに入るのに反対していた。けれどそこでなければ見えないことの方が多い。
「…気になる?」
明言するのを避けて逆に問うと、ゲンジロウは頬を紅潮させて怒った。
「ご、誤解すんなよ! 俺はお前がグドゥに入るのとかどうだっていいんだ。ただ……本当に俺らの仲間になれるかが気になって…」
「ふぅん…やっぱりセトと貴方ってすっごく仲がいいのね。サエが貴方たちの関係性について色々と言っていたくらいよ」
「んな訳がないだろっ! 俺はユキオさんの意志を貫きたくって…ってなんで、そんなことまでお前に話してんだよ」
期待通りの反応にすかさず合いの手を返す。
「ユキオさんって…ユイコさんのお友だちだった人よね?」
まんまと私の思惑にはまったゲンジロウは、驚いた様子で目を見開いた。
「知ってるのか……?」
母の後輩だったベンバー教授と繋がりがあった女性。墓参りにきた際に芹沢さんと知り合った彼女の名前を出すことで少なくとも、彼の興味を一身に集めることができた。
「えぇ、母親の後輩だったの。ベンバー教授とも仲がよかったみたいだけど、彼女からユキオさんについては少し聞いたことがあるわ。元はこのお城も彼が継ぐはずだったんでしょう?」
同情を交えて彼を見詰めると、先程よりもいくぶん警戒心を緩めた表情になっていた。クッキーをもう一枚くわえると立ち上がり
「外で話そうぜ」
その提案に小さく頷くと、彼の後について談話室を出た。
授業がすべて終わると待ち合わせに指定していた講堂へ向かった。今日は水曜だからグドゥたちも談話室で勉強をしているかもしれない。しかしできるだけ多くの談話室の前を通ったが、悉く期待していた人には出会えなかった。
ぼくは自分の運の悪さを呪いながらやや俯き加減に廊下を歩いた。それでも顔見知りの生徒と擦れ違うと必ず
「あれ、珍しいね。今日はナルキと別行動なんだ」
「片割れはどうした? 喧嘩でもしたのか?」
と声をかけてくるので返事をするのも鬱陶しく人気の少ない道を選んでいった。
「ハルキ」
講堂の前でベンジャミンが手を振っている。その顔には笑顔があったが、遠回りしていたので彼を待たせていたことになる。申し訳なくなって駆け出すと同時に、階段を下りてきたジャックが現れた。
ジャックの脇に挟まれた革鞄に気づき焦りを覚えた。
「お待たせしました! ドクター・アンジ―、ベンジャミン!」
慌てて二人の下に駆けつけると、ヤニで茶色く染まった歯を見せてドクター・アンジ―が笑いかけてくれた。
「廊下を走ったら駄目よ。怪我でもしたら代役を探さないといけないんだから」
『代役』という言葉にぼくもベンジャミンも同時に眉を寄せ反応すると、互いに目配せを交わした。この役を演じ切るまでは絶対に、ミスは許されない。
「それじゃぁ、これね。書き直した台本よ」
と言ってドクター・アンジーは部員の分の台本が入った鞄を渡してくれた。結構な重さだったけれどすぐに隣に立つベンジャミンが、鞄を半分持ってくれた。
「それにしても、悪いわね。ベンジャミン…貴方、演劇部じゃないのに」
「いえ、ハルキから頼まれていたので大丈夫です。それに演劇部の舞台はぼくも楽しみなので」
本来なら部外者であるはずのベンジャミンの尤もらしい言い訳に、ドクター・アンジ―はただ静かに頷いた。
「そうね…すべてはガドレを無事に終える為に」
「はい」
ぼくらは声を揃えて返事をする。
「気合入れていくわよ。今日の部活は覚悟しておくことね」
最後に檄を送るとドクター・アンジーはの踵を返し去っていった。その後ろ姿が完全に視界から消えるまで待つと、これまでの緊張が一気に緩んだ。
「ごめんね! ちょっと遠回りしていたら遅刻しちゃって…」
「『ハルキ』らしくないね。あまりらしくない行動は控えるべきだと思うよ」
やんわりと指摘され反省する。頭を掻きながら、まだまだだなぁと苦笑いをした。
「必要なら今すぐにでもストーリーを読み直して、役作りから徹したっていいんだよ」
口角を上げ目尻を垂らした優しげな表情で言われたものの、ベンジャミンの瞳は決して笑ってはいなかった。
「う、うん…」
背筋に冷たいものが走るのを感じながら思わず目を逸らす。言うことは最もだったが、ベンジャミンがこうして怒るなんて珍しくそれを彼に指摘する訳にもいかなかった。
「ほら、次はカナムラ教授の手伝いをする約束だったろ? 行こう」
俯いたぼくの前に差し出された手を掴むと、ぼくらは歩調を合わせて歩き出した。
人気のない場所を求めて移動した結果、私とゲンジロウは螺旋階段に並んで腰を下ろすこととなった。
「そのユイコって奴は、ベンバー教授とも知り合いなのかぁ」
「はっきりとは教えてくれなかったけどベンバー教授の恋人か…それか親しい女友だちだと思うわ。そう、ユキオさんって在学時から入退院を繰り返していたんでしょう? 同じ年に亡くなった人がいるって」
「ハスミさんか…」
「ハスミさん?」
聞き慣れない名前に反応する。両膝を抱きかかえるとゲンジロウは腕の中に顔を沈めながら呻いた。
「ユキオさんの大切な人だよ…。あの人が交通事故で亡くなって、後を追うようにしてユキオさんも死んでいった。だからもう、誰も…本当のセトを知らないんだ」
『本当のセト』という言葉に引っかかるも、もうしばらく彼に手綱を渡して喋らせることにした。
「なぁ、俺さ…お前のこと、正直あんまり好きじゃなかったんだ」
率直な意見につい相好を崩して頷いた。何故だか好きと言われるよりも、その反対の言葉を聞く方が安心してしまう。そこには特別な打算も策略もないのだと素直に納得できるようになってしまった。
「私も好かれていないって思っていたわ」
本心に基づいた意見に彼も頬を緩ませると、ふっと遠くを見るような目つきになった。
「でも仲間が増えたらセトを守れる。もしもお前が…グドゥに入るって決めたら、俺たちと一緒に生涯セトを守りこの学園で生き続けることもできる。あいつを新たなバロにすることが、俺たちの使命なんだ」
淡々と語るその口調に熱意はなく、もはやそれを享受する他に道はないのだと諦めているようにもとれた。緩やかな曲線を描く頬を眺めながら彼もまた、セトではなくバロに踊らされているのだと思った。でもどうしてセトはバロの言いなりなのだろう。何か弱みでも握られているの?
「噂なんてあんまり気にしちゃあ…ねぇけどさ、お前の家庭も色々とあったんだろ?」
遠慮がちに尋ねる彼を一瞥し、ふっと自嘲気味の笑いを漏らした。
「でも…ここへきて、他の生徒たちも複雑な事情を持っていたんだって知って…なんだかカルチャーショックを受けちゃったわ」
「……俺も同じだった。俺…クローンなんだ。ははっ…なんかSFみたいな話だろ?」
予想外過ぎる出自の事実に驚き、自虐的な口調で語るゲンジロウを見詰めた。
「でもそれは実話で、死んだ人間が生きていていい訳がなかった。所詮は人工的に作られた命だから、定期的に検診を受けて薬も飲み続けなくちゃいけない。人よりも抗体が少ないからしょっちゅう入院させられた」
普段の彼からは想像できない過去。いつもセトと一緒に笑って、毎日を楽しく過ごしているのだとばかり思っていたけれど、今、目の前にある彼の横顔からは、普段の明るい面差しが微塵も感じられない。一切の他人を否定し、周りと一線を置いた孤独な空気に没頭しているようでもあった。
「でも怪我の功名っていうのかな…。お陰で、同じ病院に入院していたユキオさんと知り合って、この学園のことを聞いたんだ。ここは誰もが幸せを求めてやってくるから、仲間を作れるって教えてくれた」
「仲がよかったの?」
「仲っていうも何もあの人は……目の前に誰がいるのかも認知できないくらいで…俺が病室を抜け出してユキオさんの所に、一人遊びをしにいっていただけだ」
「病気ってもしかして脳の?」
「いや、心なんだ。時々叫んだりして、泣き出すんだ。ここは嫌だ。こんな所にいたくないって大の大人が泣くんだぜ。真っ白な壁が赤くなるまで叩いて……」
肩を落として溜息を吐くと、ゲンジロウは虚ろな眼差しで宙を睨んだ。
「大人の形をした子どもだった。あの人も俺たちの仲間だって思えたから、俺は…セトを守ろうって決めたんだ」
大切な人を失った悲しみが反動となって、セトへの強い感情を生み出したのだろう。けれどそれは友情とも少し違う。仲間意識と言うよりも…
「…セトは友だち以上の存在なの?」
質問の意味をよく玩味するように考えると、眉間に力を込め一点を睨み
「あいつは…むかしの俺なんだ」
と呟いた。
意図するものを考え視線を逸らした。私もゲンジロウの言ったことに無意識に同調していた。私たちはセトに何かを求めている。この手に入れられなかったものを彼に託して、擬似的に満足しようとしているような気がする。
「……」
けれどそれ以上は考えてもわからなかった。私たちは一体何を欲しているのだろうか。手に入れたくても入れられなかったものって……何?
ふいにティルの言葉が思い起こされ、胸が熱くなり唇を噛み締めた。でもセト自身もバロを支援している。具体的な理由がある訳でもないのに、何故あぁも彼を被害者だと断言できるのだろう。誰が正しく何が間違いなのか、その境界線さえ曖昧になりつつある。
この学園が一つの世界だとしたら、正義は誰のもの? 学園に集う私たちは、いつの間にか独自のルールに組み敷かれるようになっていった。同じ制服を着て日常生活を共にする。繰り返し繰り返していくことで、私たちは無意識のうちに疑似家族のような錯覚を抱く。そうして自然と刷り込まれていくのだろうか。この学園を守る為に、互いに手を組みあうように…
「―――ゲンジロウまでリンコに熱を上げてるの?」
突然、私たちを冷やかす声が頭上から響いた。驚いて彼と同時に仰ぐと、螺旋を描く階段の上からセトが身を乗り出してこちらを見下ろしていた。
「こんな所で女の子を口説いていたら、ゴーストに嫉妬されちゃうよ」
再び顔を引っ込めるとセトは笑いながら下りてきた。
「ば、バーカ。ちげぇよ!」
そうして私たちの元に辿り着くと、わずかに頬を赤らめるゲンジロウを一瞥し、私に笑いかけてきた。
「これから町へいこうか」
「え?」
唐突な言葉に私とゲンジロウが同時に呟く。その様子を見てお腹を抱えて笑いながら
「ツインみたいな反応だよっ」
とおちゃらけた。
「ま、町って…外出は禁じられてるじゃない」
「お前! まーた勝手に抜け出そうと……」
呆れるゲンジロウに、きっと彼はこの手の常習犯なのだと確信した。
「平気だよ。今、バロは国外出張をしているし町まで車で送ってもらうもん。ゲンジロウもくる?」
この前温室で言っていたことを果たそうとしているのだろうか。けれどその目的が見えない。どうするの? と意味を込めてゲンジロウを見上げると、
「俺までいったら誰がアリバイ工作するんだよ」
とぼやき立ち上がった。
「ベティたちには強制補習を受けてるって説明しとくからな」
歩き去っていく彼の後ろ姿を見詰め、残された不思議な空気につい緊張してしまった。
私の不安を感じ取ってかセトは笑顔を添えて手を差し出してきた。
「じゃあ、いこうか」
一瞬の躊躇いを覚えたが、身体は私の意に反するようにそっと手を重ねた。
美術質の窓の向こうに積もる雪を見て溜息を吐く。束の間の休憩を手に入れたが、隣の部屋から聞こえてくるベンジャミンとカナムラ教授の楽しげな笑い声を耳にした途端疲れがドッと増した気がした。
どうしてぼくがこんなこと…
とぼやいてから、足元の教科書を爪先で蹴る。古くなった教科書をダンボールに詰めて焼却炉まで持っていくよう頼まれているのだが、作業は一向に進まない。隣の部屋から聞こえる笑い声が独り身の寂しさを更に強く自覚させる為、こうして部屋を変えてやっているというのに。
元はと言えばベンジャミンが勝手にぼくの名前で、カナムラ教授の手伝いを申し込んでいたからだった。その暇があれば厨房にこもり試作品を作るか、もしくは彼女を探して同じように楽しくお喋りに興じていただろう。それに先ほど渡された訂正された台本を覚えなきゃいけないし、やることは多々とある。
「…ベンジャミンの所為だ」
一人で愚痴りながら深い溜息を吐く。長いことカナムラ教授と距離をとっていた彼にささやかなご褒美を与えてやっていると考えるべきなのだろう。
「よっこいしょっと」
と大袈裟な身振りをつけて立ち上がり、再び作業に戻った。どの教科書も結構使い古されているらしく、表紙も擦り切れて手垢がついている。中には生徒の落書きなども残っており、モナ・リザにゲジゲジ眉毛が書かれていた。これが口髭なら有名な作品だったな、とぼやく。
本棚からいらない本を取り出し紐でまとめて箱に詰め、それを何十往復と繰り返しているうちに腰が痛くなってきた。
「あっ!」
腰をかばって立ち上がったその時。小さな悲鳴と同時に、抱えていた本がバランスを崩して足元に落ちしまった。豪快に散った本を慌てて拾い集めながらも、こんな大きな音を立てたのに隣室の二人はちっとも気づきやしないと毒づいた。
「いっくらなんでも『ベンジャミン』とぼくがずっと一緒に行動しているなんておかしいよ」
と、一冊の教科書を拾おうとして手をとめた。中に挟まっていたスケッチブックの切れ端が目にとまり、おもむろにそれを開いた。
見慣れた少年のデッサンだった。彼らは毎日のように彼を見ていたのに、目の前に咲く笑顔はこれまで見てきたすべての彼の印象が、上塗りした偽りのものだと訴えかけてきた。
今よりもずっと幼い頃のセト。こんな風に彼は笑えるのだと、何故か胸が締めつけられるように苦しくなった。これが本当の彼の姿。彼らが理想を求めなければ、今もこんな風に屈託のない最高の微笑みを返してくれていたのだろうか?
涙腺を刺激する熱い思いが溢れ出す。
―――だけどぼくらには学園が必要で、それはすべての子どもたちの為でもあったんだ。ぼくはここへやってくることができた。けれど選ばれなかった子どもたちは、まだ沢山いる。彼らを救えるのは、学園の王座が約束されているセトだけだから。だから、選ばれたぼくらも同じく求めるんだ―――
セトが新たな王にならなくちゃいけない。
涙を拭いながら声を押し殺して泣いた。
「ハルキ? そっちは片づいたかしら?」
カナムラ教授の声に慌てて涙を隠す。手元の画用紙も同じように折り畳んで戻そうとしたその時、画面下に書かれたサインが目に入った。
「……チュチュ?」
その名を口にし、ぼくは反射的に画用紙を制服の中に捻じ込んだ。
校舎の前に用意されたジープを見て、穏やかだった心が再び激しく掻き立てられた。
雪道でもあれなら難なく走れるだろう。それに…シャベルや殺人に使う斧だって入る。背筋に感じる冷や汗を思いながら、私の想像に過ぎないかもしれないけど、まだ疑いは晴れていないのよ、とマントを羽織るセトを軽く睨んだ。
でも彼がベンジャミンを手にかけたとしたら、張本人が現場へ証拠を確認しに行くだろうか? セトならいくらでも誰か他の人間を代わりに寄越せたんじゃないかしら。疑惑に苛まれる私とは対照的に、当の本人はとっても無邪気にはしゃいでいる。
「ウーグルが町に買出しにいくついでに乗せてくれるんだ」
運転席から顔を覗かせる赤ら顔の老人が、聞いたことのない言語でセトに呼びかけた。出発するから早く乗るようにと促しているようだった。渋る私の手を引きながらジープに乗り込むセト。大柄な隆々とした筋肉を誇るウーグルの姿を見た途端、五体不満足でも意識がある状態で戻れたら幸せだろうな想像してと、苦笑してしまった。
エンジンがかかりゆっくりと走り出す。学園を囲う塀が凍って、見ているだけで寒くなってしまった。
扉が開き青い湖の上に架かる橋を渡る。意外にも湖は凍っておらず、漣を立て幾重にも波紋を広げていた。乙女が流した涙がこの湖を創った。恋した人に裏切られた乙女の怨念が形を変えて、今もこの地に留まっている。
どうして恋人が姿を消した時に裏切られたと思わなかったのだろうか。歴史上の出来事を振り返った時、過去を確かめるものは今も伝えられる史実だけだ。誰も乙女の気持ちや、恋人の心情を確証して語ることはできない。真実はわからないから、事実だけを伝統として伝えるのがガドレなのかもしれない。例え愛しい人が自分の前から突然姿を消したとしても、恋人を信じ待ち続けることが美徳とされているのだろうか。
恋人に先立たれたバロの息子は、どうして死んでしまったのだろう。彼女を待ち続けることが『死』を正当化する理由なの? 何だかそれって…とても悲しい結末だと思う。死がすべての終わりだと思うから、そう感じてしまうのかもしれない。
窓ガラスに映る顔がとても暗い表情をしていた。暗澹とした想いが溢れ、自然と唇を硬く閉ざした。
車中のウーグルとセトの会話はすべて現地の言語で交わされ、聞くつもりもなく流しているとだんだんハミングのようにリズムを伴って聞こえてきた。短く発音を結ぶのに、続く言葉が連続して発せられるので途切れず、軽やかな音調に変わる。
意味を理解しようとせずに無心に耳を傾けると不思議な音楽のようで心地よかった。
凹凸の多い道のりでやけに車内が揺れる。ここへくる時はジャックの可愛い車に乗ってきたのを思い出し、現在との落差に二度目の苦笑を漏らした。
それにしても雪がすごい。黒い木立の間を埋めるように雪が高く積もっている。僅かに注ぐ木漏れ日が地面に反射して眩しく、久しぶりに学園を出たことで気持ちもどんどん高揚していくのがわかった。
外の景色に夢中になる私の肩をセトがつっつく。
「今の、聞いてた?」
学園では見たこともない笑顔に、何故か戸惑いを感じながらも私は首を振って否定した。
「何の話?」
ハンドルを回しながらウーグルがニヤニヤしているのが気にかかった。
「リンコのこと、とびっきりの美人だねって。二人で駆け落ちでもするのかってさ」
「な、何言ってるの!」
おどけた口調のセトを見て急速に顔の熱を帯びたのがわかった。
「妬いてるんだよ。一人娘が嫁いで家を出ていっちゃったからさ」
朗らかに笑うセトが今は憎らしい。恨めしい気持ちで睨みながら私はらしくないな、と自覚しながらもぼやいた。
「でも…だからって駆け落ちだなんて…」
「傷ついちゃったかな。誰か好きな子でもいるの? モリアはリンコに夢中なんでしょ」
「勘違いしないで。彼はただの友だちよ」
「へぇ…好みの子がまったくいないんだ。珍しいね」
「そういう意味じゃなくて…」
「ルームメイトと実に対照的だよね。えっと、ヤマトナデシコって言うんだっけ?」
彼の口からティルの話題が出たチャンスを見逃さなかった。
「彼女と婚約しているんでしょう?」
「そうだね」
はぐらかされると思っていたのでこの反応は想定外だった。
「意外だわ。ティルのことをどう思っているの?」
「感情がなくたって結婚はできる。バロの命令ならぼくも彼女も従う他にないし、結婚と恋愛は別だってみんなが言うよ」
「でも…ティルは色々な人と付き合っているじゃない」
「両親から与えられなかった温もりを求めているんだろ」
これ以上の言及を拒むように背を向けるとずっと黙り込んだ。
温もりを求めている? と反芻して私も思案に暮れた。確か彼女の父親はこの国の貴族だったが、現在はアメリカで事業家として働いているらしい。母親はフランスの女優だそうだが名前を明かさなかったので確認はとれていない。
「……」
ふっと吐いた溜息に混じって、これまでの身体の緊張が解けた気がした。ティルに特別な感情を抱いていないと知って、ホッとしてから翠たちへ伝えた情報を思い出した。
『私の知ることはとても少ないの。フィアンセになっていなかったら、きっとシィクンツッに選ばれて一番に消されているような存在だったから』
あの時ティルは悲しげにそう呟いていたた。
『バロは学園をもっと世界に広めようとしているわ。その為にも資金やコネがもっと必要で、多額の金を惜しまずに寄付する私の父に縁談を持ちかけたのだと思う』
あの学園は大々的には知られてはいないものの、一部のエリートや問題児を抱える富豪たちの間では人気が高く年々入園志願者は増加の一途を辿っているのだとか。学園を出た子どもたちには財産の寄付が求められており、私の知らない間に母の保険金の一部がバロの手元へ送金されていたことが翠の調べでわかった。しかしそれは強制力を伴わないものの、卒業生たちは必ずと断言してもいいくらい土地や財産を学園へ贈与している。それらは維持費や、もしくは例の薬の開発費に充てられているのかもしれない。
生徒の大半が身内などの紹介で学園へ入る為、見解を変えたら賄賂ともとれなくはない。セトの後ろ姿を見詰めながら心の中で問いかけた。
あの木箱の骨と…髪は、一体誰のものなの? その手でベンジャミンを殺したの?
婚約者のティルは貴方を、バロの元から自立させなくちゃいけないと言っていた。すべてを話したつもりみたいだけど、彼女はまだ知っている。伯父のユキオさんが亡くなり、チュチュが消えた七年前。その時何があったのか、それを知っているのに彼女は敢えて素知らぬふりをしている。
共に戦って欲しいと言ったくせに、未だ仮面を外さない彼女に苛立ちを感じながらも胸の奥で渦巻く複雑な感情から目を逸らした。
ウーグルの野太い呼び声に、私とセトは同時に窓の外を見た。
滑らかな斜面を下っていくその先には、まるで砂糖菓子で精密に作られたような煉瓦造りの小さな町が広がっていた。ちらちらと降る粉雪を背景に、町の中心に建つ大きな時計台の姿はまるで絵葉書のような美しさだ。
ふと思いつきセトを見やる。窓ガラスに頬をつけて町の様子を眺める彼の表情は、学園にいる時とは比べものにならないくらい活き活きと輝いていた。
「そういえばリンコも休みの日はよく図書室で過ごしているんだってね」
祝祭日は外出が禁じられている生徒たちの為に大勢の行商が学園にやってくる。生徒たちはそこで思い思いの買い物をしたり、部活動に勤しんで一日を過ごすのが大半だ。部活に所属していないので私は専ら本の虫になっている。
「よく知ってるわね」
生徒たちの動向はすべてお見通しというのだろうか。以前にも図書室で本に熱中しているところを見られていたので、敢えて隠さずに伝えた。
「どのジャンルも充実しているけど…思いのほか童話が多くて。むかしから好きだったから読みだしたら止まらなくなったのよ」
「童話が好きだった?」
その理由を尋ねた気にセトは首を傾げた。私は素直に答えるべきか僅かに迷ったけれど、どういう訳か彼になら話してもいい気がした。
「……童話の世界は…とても夢があって、そして…素直で残酷だから」
中には寓話のように道徳的な内容で諭すことを目的としたものもある。けれどピーター・パンのように物語の中で子どもたちは海賊たちと殺し合いをしたり、時に妖精たちに命を狙われそうになる。子ども向けの物語は、一見して美しい言葉で綺麗に飾られているけれど。実際の中身はひどく現実的で容赦ない駆け引きが行われているのだ。
「人が生来持つ残虐性をとても綺麗にカバーして表現している場面を読む度に…子どもたちは残酷な生き物なんだって改めて思い知らされるの」
人を殺してはいけない。人を虐めてはいけない。人の物を盗ってはいけない…そんな道徳性を成長と共に身につけていくけれど、私たちはこの社会に属さなければきっと童話に出てくる子どもたちのように純粋で、素直で、何よりも残酷なままだろう。
「―――But through the window,he watched the only happiness he would never have.」
ネバーランドから家に帰ってきたウェンディたちが、両親に抱きしめられる姿を見詰めるピーター・パンの心情を描いた一文を暗唱しセトは小さく微笑んだ。いつもこのシーンを読む度に胸が熱くなり、すべての幸せを手にした筈のピーターがひどく悲しく思えた。
―――海賊と戦ったり空を飛ぶことも大勢の子どもたちにはできない幸せだ。それらを手に入れたピーターがただ一つ、得ることのできなかったもの。それは、彼にはいつまでも窓を開けて帰りを待ち侘びる母はいなかった。
「学園の窓はいつもいかなる時も開けておきたいと思っているよ。ただし寒いから実際に開けるのは門の方だけどね」
「!」
心臓が一際大きく跳んだのがわかった。その痛みを噛みしめながら、セトにとって。いいえ、私たちすべての子どもたちにとって。メール・ヴィ学園はネバーランドに等しい存在なのだと悟った。
「……っ」
どんな姿形であろうと。いかなる過去があろうと受け入れる。それが彼の望むネバーランドなのかもしれないと、熱くなる頬を髪で隠しながら密かに考えた。
掃除のお礼にカナムラ教授が美味しい紅茶をご馳走してくれるとの申し出があり、ぼくらもそれに甘えるつもりで職員室へ向かった。あまり入る機会がない職員室内には意外にも教授たちの姿は少なく閑散としている。茶葉と日本のパッケージのお菓子を持ってくると、衝立で仕切った応接室にぼくらを通してくれた。
「水曜日は職員室にもっと教授がいると思っていました」
ベンジャミンが素直に驚くと、三人分のカップを暖めながらカナムラ教授も答えた。
「クラブの顧問じゃなかったら、寮へ戻ったりしてプライベートタイムを楽しんでいるのよ」
「カナムラ教授も今日はクラブがあるんでしょう?」
「えぇ、午後からだからあと一時間かしらね。ハルキもクラブへ参加するんでしょう?」
「はい。ナルキとは部室で落ち合うことにしています」
「そぅ…あいかわらず、仲はいいのね?」
意味深な口調に警戒しながら頷く。妖艶な雰囲気に飲み込まれて何だか彼女にはすべてを話してしまいそうになった。
「これって今、日本で流行ってるお菓子ですよね? 確か一枚だけ唐辛子味のクッキーがあるって」
「そうなのよ。この前日本に帰った時に友人が持たせてくれたのよ。まだハズレは食べてないから、誰に当たるか少し楽しみだわ」
「ひどいなぁ、ぼくは運がないのに」
「パルトロに選ばれるくらいの幸運の持ち主が何言っているのよ」
快活に笑い飛ばすカナムラ教授とベンジャミンを見比べ内心、溜息を吐いた。パルトロに選ばれることが幸運だなんて…誰も思っちゃいないのに。それでもカナムラ教授が運んできた紅茶とお菓子を目にした途端、憂鬱としていた気分が一気に吹き飛んだ。初めて見るお菓子は参考になる。それに日本のメーカーが生産したものなら、こことは違って安心して食せた。
嬉しそうにクッキーと紅茶を頬張るぼくらを見て、カナムラ教授は
「貴方たちがお菓子を食べる所を見るなんて、なんだか貴重ね」
と呟いた。
「普段からぼくは食べていますよ? ツインはここのお菓子は体に合わないとかって言っているけど」
ベンジャミンが口を尖らせて抗議すると、顔の前で手を振りながら
「そうだったわね。ごめんなさい」
と素直に謝罪した。
「ただ…どうしてツインはここのお菓子は食べないのかしらって、思っただけよ」
鋭い眼光に捕らえられ、ぼきは身が竦むような恐怖を覚えた。
「ぼくも、ナルキもアレルギー体質で素材が合わなくって」
しどろもどろになりながら答えると、
「そぅ」
と呟き、微笑みを浮かべおいしそうに紅茶を啜った。
山の頂上にある学園と比べてまだ積雪量は少ないものの、石畳の通りは氷結していてすぐに転んでしまいそうだ。マントと手袋をはめていると、車を停めたウーグルが助手席からマフラーを取って渡してくれた。
「ありがとう」
礼を述べると優しげに微笑み返してくれた。ウーグルと待ち合わせ時間を決めてからセトも降りてきた。
「小さな町だから大して案内する所もないけど、何か見たいものでもある?」
咄嗟にあの大きな時計台を思い出した。この国に来てから観光をする暇もなく学園に閉じ込められていたので、久しぶり色々と見て回りたい欲求が膨らんだ。
「時計台が見たいわ」
「あぁ、一応あれでも寺院なんだ。あそこには剣が奉納されているんだよ」
「剣って…ガドレでパルトロが持ってくる?」
「うん」
と言ってセトは歩き出した。
「でもこれは内緒だよ。みんなどこに剣があるか知らないから」
片目をつむるセトに頷き返した。チラチラと粉雪が降り、閑散とした町並みをより可愛らしく演出していく。窓から漏れる温かな明かりが人の気配を確かに伝えていた。
「剣はこの村の守り神みたいなものなんだ」
「そんなものを…ガドレの為に借りていいの?」
「うん。だって学園でこの国の習慣を再現したり文化の普及に一役も二役も買っているからさ。それにガドレは神聖な儀式として認識されて、ここに住む人たちからしたら学園で暮らすぼくらも特別な存在って思われているみたいだよ」
「…前から聞きたかったんだけど、メール・ヴィの意味って」
「選ばれたって意味。でもタタ音調で読むと、取り残されたって意味になる」
「取り残された…から、選ばれたのかしら。それとも選ばれる為に、取り残されたのかしら」
「それはすべて、本人次第だよ」
冷たく言い放つセトの背中を見て切なくなった。社会から邪魔者扱いされてやってきた生徒も、将来を有望視されてやってきた生徒もあそこには大勢いる。そんな私たちの価値は誰が決めるのだろう。
―――すべてを決める大人たちがいる。私たちは抗うこともできない。
「だからさ、リンコもグドゥに入るべきだと思う」
唐突な話題に顔を上げ、前を進む彼を凝視した。黒いコートに点々と雪がかかる様子を眺めながら、何故私をグドゥに誘うのだろうと思った。
「どうして…私なの? 他にも優秀な生徒はイヒヌゥの中にもいるわ」
「優秀だけじゃ駄目なんだ。新しい世界を作る為に必要な仲間だから」
立ち止まり、私と歩調を合わせると再び歩き出した。
「ある所に頭が狂っていた王子様がいました。彼は大切な人を迎える為に新しい世界を作ろうとしていました」
黙々と歩き彼の話に耳を傾ける。今のセトは学園にいる時よりもお喋りだ。
「でもせっかく作った世界なのにお姫様は否定しました。そこはおかしい。こんな世界があっていい訳がないから、私は出て行くと言って、本当に出て行ってしまいました。王子様はその後、精神科病棟に入院させられたのでした。信じていた人に裏切られたショックでもう完全に狂ってしまったから」
「……もしかして、それが日本の姉妹校だったの?」
フードに隠されて見えない横顔に、恐る恐る問いかける。
しばしの沈黙の後にふっと口元を緩めると
「バロは、伯父さんが作った学園を気に入りそれを世界に広めようとした。行き場のない子どもたちはどんどん入ってくる。だけど伯父さんを裏切った人はこなかった。それなのに脇見運転をして突っ込んできた車に当てられて、呆気なく死んじゃった」
黙りこむ彼を一瞥し何と声をかけていいのかわからず私も口を閉ざした。
歩くたびにキュキュと雪が鳴く。二人の足音を聞きながら、バロの息子の死がセトに与えた影響を考えた。裏切られた哀れな伯父と…湖の伝説はどこかで繋がっているかもしれない。伝説の乙女のように待ち続けることを望んだ所に、彼の理想とするものが込められているのだろうか。
バロの息子。ユキオさんの元から離れていった女性にも、同じように待っていて欲しかったから、叶わなかった理想を求めているのかしら。歩いていくうちに水が止められた噴水のある小さな広場に出た。ベンチも植木もすべてが白く染められ、積もった雪を使って子どもたちが巨大な雪のモニュメントを作っている。
そのうちの一人が私たちに気づき歓声を上げた。
「ジューロ!」
少年の大声に他の子どもたちも一斉に
「ジューロ! ジューロ!」
と叫び始めた。彼らの歓声にセトが手を振って応える。最初に私たちに気づいた少年が駆け寄り、親しげに喋りかけてきた。
「いつきたの? 前もって声をかけてよ」
英語と現地語の混合言語で話すと、私にも目を向けて微笑んだ。
「ジューロの恋人?」
「残念ながら違うんだ」
婚約者がいるくせに、何が残念なのよ…と内心毒づく。
「ねぇ名前は?」
背丈は大して変わらないがやや学園の生徒たちと比べ、幼い印象の少女が話しかけてきた。
「リンコよ。貴方は?」
「パトリュー! メール・ヴィの学生なんでしょ! 素敵だわぁ」
「一緒に遊ぼう!」
口々に叫ばれついセトと顔を見合わせた。すると最初に駆けてきた少年が
「二人きりになりたいんだろ。久しぶりに恋人を連れてきたんだよ」
と怒った。その発言に大きく落胆する彼らを見回しセトが提案した。
「それなら後で時計台においで。彼女を案内してから遊ぼう」
彼の言葉に飛び跳ねて喜ぶ彼らを微笑ましい思いで眺めながら『久しぶりに恋人を連れてきた』という言葉が頭にひっかかり離れなかった。彼が前回連れてきたという女性は一体誰のことを指しているのだろうか。
広場を抜け細い裏道を歩くと、大人たちとも顔を合わせるようになった。けれどその度に彼らは違う名前でセトを呼び、セトも学園では決して見せないような笑顔で応えた。
ジューロ、デレイブ、カイン、フェイラン、ニコフラス……
沢山の名前がある。呼べばセトは笑顔になる。彼はこの町ではセト・イチノセではなくなり、バロの孫、ファルバロという肩書きもすべてが無縁の存在になった。
「こんにちはアディエム!」
ロバに跨る男の呼びかけに応えるセトを見て、どうして彼は私を町へ連れ出したのだろうと改めて気にかかった。
警戒しなくちゃいけない相手なのに、彼が無邪気に微笑む度に胸が苦しくなる。もっと彼のことを知りたいと思うのは有益な情報を集めたいから?
階段が凍りついて滑りそうになった私の手をさり気なく握ると
「気をつけて」
と労わり雪の少ない道を選んで歩いてくれた。長い階段を登ると、漆喰が剥がれ落ち所どころに罅が走ったシンプルなデザインの寺院に到着した。蔦が表面を覆っているのかと思ったが、近づいてみると直に壁に絵が描かれたトリックアートの一種だったので驚いた。漆喰に絵を描くスタイルは確か十二、三世紀にイタリヤで流行ったルネッサンス様式と呼ばれていた。まさに移民たちが集う国だと、以前彼から受けた講義を思い出す。周りの雪と比べて薄汚れた壁も寺院が辿ってきた歴史を伺わせた。
敷き詰められた石畳の脇に寄せられた雪は様々な聖人に姿を変え、訪れる者たちを迎えた。白皙の面差しは赤みを差せば本物のようで、完成度の高さに素直に感嘆した。
湿った木戸を押し開け中へ入る。薄暗い建物の天井にはステンドグラスが嵌められ、色とりどりの光が優しく注ぎ込んでいた。そのデザインは食堂のものとよく似ていて、乙女と男が剣を挟んで見詰め合っている姿だった。もしかしたらガラス工芸に精通している国だったのかもしれない。細やかな細工や雪の像などを思っても見事な作品ばかりだ。
ステンドグラスの前に飾られた祭壇に納まった、意外にシンプルな剣に目がいった。白光とした刃は研ぎ澄まされ、鋭いラインがとても美しい。刀身に何か文字が彫られているけれど刻まれた文字を解読することはできなかった。
冷厳とした雰囲気に身震いをする。
備品の椅子やオルガンも傷んでいるものの、手入れは施されているらしく埃は被っていなかった。
「時を刻む寺院って異名の由来が、あれなんだ」
天井を指差す彼の眼差しを追う。円錐の形をした塔の天井に、赤銅色の巨大な振り子が左右に揺れている。薄闇の向こうで鈍く反射する沢山の歯車が見えた。さっきから聞こえていた空気の震える音の正体はあれだったんだ。
「歯車は乙女の心臓を示しているって説があるんだけど、この地方の歴史について調べている学者があまり多くないから本当かどうかはわからない」
上げていた腕を下ろし私を見る。視線が一つに絡まった瞬間、意図せずに心臓が飛び跳ねた。
「ここほどぼくらにとって住みよい国はないと思うんだ。入学式のみんなの顔っていったら…まるで人形そのものだもん。だけど卒業式には全校生徒が涙を流すんだ。誰もここを出たくて、卒業してもすぐにこの国に戻りたがる。なかなかビザが発行されないから、同窓会も頻繁に行われているよ」
祭壇に向かって歩きながらセトは語り出す。
「きみの両親も同窓会で再会したんだって」
「……それも、バロから聞いたの?」
青を基調としたステンドグラスを通して光が注ぐ祭壇に立つと、セトは舞台に立つ役者のように軽やかに振り返った。その顔には蝋人形のような無機質な表情が張りついていた。
「ぼくはバロの人形だから」
どこかを見ているようでどこも捉えていない虚ろな瞳。乾いた唇からこぼれる感情のない言葉は、まるで機械に吹き込まれたアナウンスだった。
「きみの父親はグドゥを選んだ。学園と共に生きることが生涯の目標となったけど、ヒサコはイヒヌゥになり外の世界で生きることを望んだ。どちらが幸せ? ナンセンス。ふふ…だってそれぞれに似合った道をゆけばいいもん」
―――印象が変わった。
ほんの少し。だけど確かにそれまでの口調と異なる。さっきよりも論点が曖昧で、幼い感じがする。
セトは祭壇に座り込むと猫のように身体を縮ませた。
名前の数だけ…知らないセトがいる。彼は一人じゃない? でもそれって……
「ねぇ、どれを選ぶ? 特別に選ばせてあげるんだから光栄に思ってね」
挑発的な眼差しを受けて全身が紅潮した気がした。心臓が早鐘を打って、目まぐるしい感情に混乱する。
「聡明なきみならどれが一番、自分にふさわしいかもよくわかっているよね」
余裕を感じさせる態度で手を差し出すと、私が必ずその手を握り返すと確信した面持ちでこちらの反応を待った。
その手を取れば彼の仲間になれる。だけど例え仲間になっても、私は『本当のセト』に出会えない気がした。
違う。私が欲しいものはもっと…違う―――
「おや、グリムドじゃないか」
木戸が開く音と共に穏やかな声が聞こえてきた。振り向くと白い礼服に身を包んだ初老の男が、声によく似合った優しい表情をしてた立っていた。
「ラビュッツ」
叫び立ち上がると、男の後ろから先程広場で見た子どもたちが一斉に顔を出した。
「ジューロ! 遊ぼう!」
昼食を終え部室へ向かって歩いていた。他にも廊下で団欒をする生徒たちの姿も多く、珍しく校内が賑やかに感じられた。次の公演はガドレで湖の伝説をベースにした悲恋物語だ。徹夜で読んでいた台本を忘れずに鞄に入れてきたか確認しながら歩いていると、ぼくは誰かの肩にぶつかった。
「ご…」
慌てて謝ろうとして言葉が途中で切れる。その思いも寄らない幸運に一気に頬が熱くなった。
「ユン!」
参考書を片手に歩いていたユンは彼に気づくなり眉根を寄せた。素早く踵を返し歩き去ろうとする彼女の後を追いかける。
「聞いて! ぼく次の劇でね、羊飼いの男の子をやるんだよ!」
「私には関係ない」
「初めて女装以外の役をやらせてもらえるんだ! すっごく貧乏な羊飼いで最後の羊も狼に食われちゃうんだけど、ヒロインの力でパルトロにしてもらうすっごい役なんだよ!」
「もぅ!」
憤慨した面持ちで立ち止まるとユンは肩を怒らせた。
「今、ストーリーを教えられたら本番の楽しみがなくなるでしょ!」
何で怒られちゃったんだろって考え、すぐに思い当たった。
「それってぼくの演技を楽しみにしてくれてたの?」
小躍りするぼくを苦々しげに睨むとユンは小さな声でぼやいた。
「…べ、別に深い意味なんて…」
「ハルキはね、なんと主人公をやるんだよ。敵兵のスパイでね、ヒロインの巫女を騙そうとするんだけど恋しちゃう難しい役どころなんだよ」
「それも結局は悲恋になるんでしょう。乙女と男は擦れ違って死んじゃうの?」
「う、ん…。そうだけど、でも暗いお話にならないようにコメディ要素も入れるから、途中はとっても面白いよ」
「バッカみたい。どうしてそんなに悲恋に拘るのよ。過去に捕らわれて前に進めないままなんて…馬鹿よ」
肩を怒らせて歩いていく彼女の後を追いかけ、彼女がどうして苛立っているのかわからなくなった。
「どーしたの? なんか今日は機嫌悪いよ」
と言ってから、もしかしたらガドレが近づいているから気が立っているのかもしれないと思った。廊下の突き当たりまで進み角を曲がると突然、ユンは足を止めた。
「ユン…?」
直立不動の後ろ姿に恐る恐る声をかける。
「馬鹿だって…思っているんでしょ」
と呻くように呟いた。
「お姉ちゃんが死んでくれて、私、本当はすっごく嬉しかった。頭がいいから、あの家の古い風習に囚われず自由に生きようとしていたお姉ちゃんの所為で、私の家は一族から爪弾きにされて……大嫌いだった」
彼女の足元に雫が立て続けにこぼれたのが見えた。
「だけど…お姉ちゃんみたいにグドゥになっちゃった。所詮は私も、お姉ちゃんと同じよ。家族から邪魔者扱いされてここに入れられたんだもん」
涙を拭う後ろ姿を切ない思いで見据え、つい釣られて泣き出しそうになるのを堪えて言葉を紡いだ。
「違うよ。だって、チュチュとは違って…ユンはセトの仲間になれた」
ユンは肩がビクッと震わせ目を赤く染めて振り向いた。
「だからユンは……セトと一緒に新しい世界を作れる。選ばれたから、誰もが幸せになれる世界を作ればいいんだよ」
胸を熱くする気持ちを言葉に変えて吐き出すと、妙な恥じらいだけが残りぼくは俯いたまま黙り込んだ。
「ベンジャミンが消えたって聞いても…大して驚かなかった。ファルバロが七年前にお姉ちゃんを殺したように、きっと彼も大切な人だったんだって、逆に羨ましかった」
「え…?」
言っていることがよく理解できず、虚を衝かれた思いで黙り込んだ。
ユンは再び涙で瞳を濡らすと、ひどく落ち着いた口調で
「だって、世界を作る為なら犠牲はしかたないでしょ。お姉ちゃんもベンジャミンも、ファルバロに愛されているから殺されたんだもん」
と呟いた。
「どうして、みんな彼を異なる名前で呼ぶんですか?」
戸口に並んで佇み、セトが子どもたちと追いかけっこをするのを見守りながら問いかけた。
白髪の神父は穏やかな笑みを返すと、ふっと白い息を吐き出し答えた。
「彼の本当の名前をわたしたちは、誰一人として知らないのです」
「セト・イチノセいうのが、彼の本名です」
「えぇ、それが彼の名前だとはみんな知っていますよ」
と答えてから身を翻し寺院の中へ入っていった。その後を追いながら続く返事を求めた。
「もっと彼について、知りたいです。町の人が違う名前で彼を呼ぶ理由が…」
礼拝堂に隣接する小さな部屋へ移ると、ラビュッツ神父は使い古した鍋にミルクを並々と注いでレンジにかけた。
「焦げないように掻き回してください」
壁にかけられたタペストリーの上にコートをかけ、木ベラを受け取り指示された通りに動くと、後ろで棚から粉末ココアの袋を取り出し手渡された。
「寒いからホットショコラと焼きマシュマロを作りましょうか。そうだ、クッキーもあったはずだ」
何だかラビュッツ神父のペースに飲まれていっている気がしたが、黙って従うことにした。そんな私の隣でクッキーを箱から出しお皿に並べながら、神父はゆっくりと会話の続きを始めた。
「医学的なことは何もわかりませんが、わたしたちは彼の中に多くの人格が存在したとしても、敢えてそれを個性なのだと受け止めたいのです」
―――多くの人格が存在する。
その可能性を考えない日はなかったけれど、いざ第三者からそれを指摘されると妙に現実味を帯びて感じられるようになった。
「初めて町へやってきた時、彼は名乗りたがりませんでした。そこでグリムドと彼を呼びました。けれど次にやってきた時、グリムドと呼んでも反応しません。別の名前で彼を呼び…繰り返していくうちに、彼の名前は増えていったのです」
「どうやって彼の、その…多重人格ではないかって思われたんです?」
私から鍋を受け取ると、大小様々なマグカップにショコラを注ぎ冷蔵庫から生クリームを出して添えた。
「わたしが最初に疑問に思いました。けれど今でもわからないのです。一人の人間には様々な面があると思っていますから」
確かにそうだ。もしかしたら彼がそう、演じているのではないかって思ってしまう。
「……一つの印象として、彼を括れないって思いました。そんな人は初めてで、どこまでが本当で嘘なのかもわからなくて…自分から、もっと相手を理解したいって思うのはこれが初めてです」
「きっかけは些細なことです。そこから恋や友情に発展するのですから」
何故かふいにキッコのことを思い出したが、すぐに頭を振って忘れようとした。初めて私を理解しようとしてくれた子だったかもしれない。本当の私を知りたくて、あんな噂を流してでも独占したかった。
馬鹿な子だと蔑んだけど、でも、私から彼女を切り捨てなければ、ありがままの私を認めてくれる友だちに……なれたかもしれない。
神父は続いてマシュマロを串に刺して火力を調整しながら焦げないように焼いていった。
「グリムドが女性を連れてきたのはこれで二回目ですよ。以前はもっと年上の…彼が八歳くらいの頃でしたから、ちょうど今の貴方ぐらいの女性でしたかね。長い黒髪の東洋人で…チュチュと呼ばれていたかな? 同じようにこの寺院を見学していました」
「チュチュ…が、七年前にここへ?」
「もう七年も前になりますか」
私が更なる問いかけを口にしようとしたその時、礼拝堂から子どもたちの騒ぎ声が聞こえてきた。少しして何人かが部屋を覗き込み
「お腹が減ったよぉ」
と叫んだので、ラビュッツ神父は片目をつむって会話の終了を告げた。
まだ誰もきていない部室に着くと、舞台に見立てた壇上の回りに乱雑に置かれた椅子に腰を下ろしてハルキを待った。
部活が始まるまでだいぶ時間がある。今日は広場と披露宴のシーンを練習する予定なので、背景セットが壁に立てかけられていた。
大時計の秒針が動く音に耳を澄ますうちに、廊下の向こうから駆けてくる足音に気づいた。ドアが開く音で顔を上げる。急いできてくれたのか、髪型は乱れて額には汗が浮かんでいた。
「いきなりどうしたんだよ」
居丈高な口調だけどハルキの眼差しはぼくを労わる優しいものが含まれていた。何かとぼくを疎んでいるみたいだけど、本当は誰よりも出来の悪い弟を心配してくれているってよく知っている。
「ストーリーを確認したいんだ」
弱々しく呟くと、ぼくらは台本を開いて一つ一つの台詞を確かめていった。
「ベンジャミンは……本当に、モリアが殺したの?」
ぼくの唐突な質問に一瞬眉根を寄せると
「間違いないよ」
とハルキはぶっきらぼうに答えた。
「だって、信じられる? あの臆病なモリアが…どうしてベンジャミンを殺すの? 仲が悪かった訳でもないし…むしろ、二人の接点って」
立て続けに問うぼくを睨み、苦々しげに開口した。
「じゃあ他に何を信じるんだよ。誰がベンジャミンを殺したかが問題じゃない。大切なのは、いかにも今も彼が生きているかのように振る舞うことにあるんだ」
返す言葉を失い俯いた。
果たしていつからぼくたちは、昨日まで一緒に笑っていた友達が。ある日突然消えてしまったとしても何も思わなくなってしまったのだろうか。
「……ユンと、ハルキがいつも笑ってくれていたらもう、何もいらないって思っていた」
頬を伝う熱いものを感じながら、ポツリ、ポツリと自然と出てくる言葉を吐き出した。
「ここにいればぼくの願いはずっと、叶えられるから…演じるのは、苦でもなかったんだよ。でも……本当に、それが正しいことなのかなぁ…」
「馬鹿! 何言ってんだよ!」
椅子を倒す勢いで立ち上がると、ハルキはぼくの肩を揺すぶってきた。
「正しいんだよ! これしか方法はないんだ! だってベンジャミンは…殺される為にきたんだから」
涙で歪んだ視界に映ったハルキは今にも泣き出しそうな顔をしていた。
本当は、ハルキの方が泣きたかったんだよね。大切な友だちだったのに、彼が死んだことをごまかす為に―――
「つまり、ハルキがベンジャミンに化け、ナルキがハルキを演じ…一人二役をこなしているのだね」
身の凍るような冷たい口調にぼくらは同時に息を止めた。いつからそこにいたんだろう、と頭の隅で考えながら信じられない思いで、舞台袖に佇むキサメを見詰めた。
「ツインならではのアイデアだね。ハルキなら一声聞いただけで、完璧に相手の声色を真似ることができる。ましてやルームメイトだったベンジャミンだ。彼の特徴や癖などもよく知っているだろう」
と区切り反応を伺うようにしばらく黙った。まるでぼくらが否定できずにいるのを楽しむ様子で眺めると、更に追い打ちをかけるかのように開いたままにしていた台本に視線を向けた
「そこにバロからの命令でも書かれているのかな。きみたちでガドレが終わるまで、ベンジャミンが生きているかのように装い演じよとでもね」
確信を伴った言及に追い詰められ一気に逃げ場を失った。まさに窮鼠の思いで、それでも精一杯のプライドをかけてキサメを睨みつけた。
すると場を和ませようと大袈裟な身振りをつけて
「きみらを脅すつもりは微塵もないのだよ。ただ、確かめたいことがあるのさ」
と釈明してきた。優しい態度で取り繕っても、貼りつけたような笑顔が怖くてぼくはそっとハルキの指を握り締めた。
「セトの目的について―――」
繋がれた指にじんわりと汗が浮かぶ。
不安げにハルキを見ると、彼は久しぶりに見るあの人形のような表情を作っていた。
「馬鹿にしないでよ」
と静かに言い放った。
「ぼくらは役者だ。臨機応変に渡された台本の通りにストーリーを進めていくのが仕事なのに……舞台裏まで首を突っ込むなんて、失礼だよ」
どこを見ているのかわからない、何を考えているのかもわからない。感情を表に出さず相手の望む反応だけを示す人形のようなハルキ。いつも鏡を見るように同じようなことを考え行動していたはずの彼に、綻びを見つけたのは学園に入る前だった。
両親がハルキに、見切りをつけた頃から彼はあの顔をするようになった。変わりない愛情を注いでくれていたが、時折父たちの顔に浮かぶ失望の眼差しが、言葉以上の刃を伴ってハルキを追い詰めていった。
ぼくはその眼差しが自分自身にも向けられるのが恐ろしくて跡を継ぐ決意をした。『良い子』を演じることで最低限のポジションだけは守ろうとした。『悪い』ことはみんなハルキに押しつけて、大人たちの目には常に『良い子』として映っていなければ、いつか、自分自身の居場所まで取り上げられそうな気がした。大人に見捨てられるのを恐れたぼくらは、代わりに自分の分身を見捨てた。
本当の気持ちを身体の奥深くに閉じ込めて、周囲から求められる理想をかぶり日に日に演技力を身につけていく彼を見てずっと良心が痛んだ。後悔と恐怖、懺悔を繰り返して、堂々巡りの感情に罪悪感はどんどん膨れ上がっていくのに、いつまでもそれを行動に移せなかった。
けれどある日、ハルキがこの学園の存在を教えてくれた。
『子どもだけの世界があるんだ。ナルキ、ぼくと一緒にいこう』
もしあの時メール・ヴィへの入学を拒んでいたら、きっともうハルキの隣で笑えなかっただろう。
飾り立てられた豪華な城の中で、様々な事情から集まった子どもたちで作られたそこは歪んでいた。だけど歪みから生まれ、ただ一つの真実を守ることで生徒たちは信じられないような団結力を保っていた。
物語は虚構の世界。子どもたちは虚実の舞台に立つ操り人形。舞台でどんなに熱い言葉を吐き出しても、それはすべて偽りのもの。役者は幕と共に幾重にもつけた仮面を外す。
ぼくの指を力強く握り返しながら、今、ハルキはイヒヌゥの仮面をかぶった。巨大な権力の流れに抗うこともできず、流れに身を任せて漂うしかできない…哀れなイヒヌゥたち。
「エンディングはまだ誰も知らない。それはセトが決めることだから」
一縷の希望をファルバロに託して、変わらない日常の持続を支えていくのがぼくらの役目だった。
すっかり打ち解けた様子の子どもたちに手を振りながら、積荷に挟まれいくぶん窮屈になった車内に入り込む。セトがドアを閉めようとしたら一番の年長の少年がやってきて
「また新しい本を持ってきてくれよな」
「沢山用意しておくよ」
拳を合わせて別れを告げると、今度はパトリューと妹たちが窓ガラスをコンコンと叩いて私に開けるように促した。寒さで真っ赤になった顔を緩ませると白い歯を見せて
「リンコはとっても美人だから、ジューロの恋人になってもいいわよ」
「あたしたちも認めてあげるわ」
小さな妹たちまでが声を上げる。苦笑する私に耳を貸すように顎でしゃくると、
「死んだ人間のことなんて気にすることなんてないのよ。シルクのようなロングヘアーだったけど、貴方の髪もなかなかのものよ」
「…それってチュチュのこと、ね」
確かめるように小声で問うと何ら憚りなく彼女らは答えてくれた。
「えぇそうよ。でもリンコには私たちがついているんだから、頑張りなさいっ!」
激励に曖昧に頷いておきながら、初めて第三者からチュチュの死を明確に聞いたと高鳴る胸を押さえた。
ウーグルの呼びかけと共に車が走り出す。しばらく崩れ落ちそうな荷物を支える為に、身動きがとれなかったが、町を抜けて斜面に入ると安定したので離れていく町の光景を脳裏に焼きつけた。
小箱の中にあった黒い髪と骨。それは…間違いなくチュチュのものだろう。
何故それを彼が持っているのかと考えると、敢えて目を逸らしていた嫌な予想に直結してしまう。
「どう、楽しかった?」
いつものセトの笑顔がどこか心許ない。
「えぇ…とっても」
―――ガドレの主は長髪が好き。乙女選びが始まったのもチュチュが消えた年だった。これらの符号から導く答えは…
彼は七年前の少女の死について、重大な鍵を握っている。
―――This is the story of Twins.
ぼくは念入りに髪を梳き鏡に映るその顔を確かめるようにして眺めた。
いつもぼくの隣で笑っている瓜二つの顔がこちらを見詰めている。だけど少しだけ目元が違う。彼らをよく知る人でなければそれも見分けがつかないだろうけど、些細なこの違いが一卵性の二人を区別する唯一のポイントでもあるのだ。
首元のリボンを結ぶと壁にかけていたコートを取る。今朝は一段と寒くなると、ルームメイトのベンジャミンが昨日ぼやいていた。戸を開けて一気に階段まで走っていくと、これから校舎へ向かおうとする生徒たちで一階は溢れていた。朝のクイズの常連である生徒がぼくを見つけ声をかけてきた。
「よぉ。最近は片割れで行動してるんだな。ハルキか? ナルキか? 一時間前にもう出て行ったぜ」
「ナルキは厨房を借りて、新作開発に取り組んでいるから朝が早いんだよ」
「ふぅん…別に自分で作らなくってもお菓子なら腐るほどあるのにな」
「ほら、ナルキはパティシェになりたいから日々特訓しているんだよ」
「夢がある奴ってすげぇなぁ。俺たちなんて明日の天気ぐらいしか考えてないよ」
高笑いを響かせる彼らを無視してさっさと寮を出た。この程度の嫌がらせは普段から慣れている。むしろ学園に於いて彼のように明確な目的を持っている方が珍しいぐらいだ。
寮を出てから振り返り、ふと笑みを浮かべる。
―――そのお菓子の中に何があるか知らないから、喜んで食べていられるんだ。
談話室に入ると数人の生徒たちがテーブルに座り勉強をしていた。今日は水曜日なので半日で授業が終わる為、教授たちは普段よりも多く課題を出すので生徒たちは宿題に追われる。
後からくると言っていたサエとジェニファーを待とうと、私はどこか座れる場所を探して奥のソファまで移動した。と、窓辺に腰を下ろしクッキーをかじりながら参考書を睨むゲンジロウの姿を見つけた。
今日はそれほど顔色も悪くない。けれど彼も重度の薬物依存者なのだろうか。
彼も私に気づくと眉根を寄せながらも
「セトならいないぜ」
とぼやいた。
「別に彼を探している訳じゃないわ」
と断ってから彼の傍らに立ち参考書の中身を覗き込んだ。翠と同じ学年なのに経済学を学んでいるのかと、少し意外な気持ちになる。もしかして両親の後を継いで政治家を志しているのかしら。
「ユンに会いたいんだけど…グドゥの教室へは、行き辛くって」
「ユンに?」
露骨に疑問符を浮かべながら問い返す。
「グドゥにならないかって言われて、その返事をまだしていなかったから」
「へぇ…」
値踏みするように私を見やり、くわえていたクッキーを頬張ると
「それでどうするんだよ。もし転校したいなら早くにグドゥになって、バロにお願いしなくちゃなんねぇしな?」
「あら、転校する必要なんてないわ。今の環境に十分満足してるもの」
「なら断るのか?」
尚も問いかけてくるゲンジロウを一瞥し、今ここでその答えを言うべきか逡巡した。翠は私がグドゥに入るのに反対していた。けれどそこでなければ見えないことの方が多い。
「…気になる?」
明言するのを避けて逆に問うと、ゲンジロウは頬を紅潮させて怒った。
「ご、誤解すんなよ! 俺はお前がグドゥに入るのとかどうだっていいんだ。ただ……本当に俺らの仲間になれるかが気になって…」
「ふぅん…やっぱりセトと貴方ってすっごく仲がいいのね。サエが貴方たちの関係性について色々と言っていたくらいよ」
「んな訳がないだろっ! 俺はユキオさんの意志を貫きたくって…ってなんで、そんなことまでお前に話してんだよ」
期待通りの反応にすかさず合いの手を返す。
「ユキオさんって…ユイコさんのお友だちだった人よね?」
まんまと私の思惑にはまったゲンジロウは、驚いた様子で目を見開いた。
「知ってるのか……?」
母の後輩だったベンバー教授と繋がりがあった女性。墓参りにきた際に芹沢さんと知り合った彼女の名前を出すことで少なくとも、彼の興味を一身に集めることができた。
「えぇ、母親の後輩だったの。ベンバー教授とも仲がよかったみたいだけど、彼女からユキオさんについては少し聞いたことがあるわ。元はこのお城も彼が継ぐはずだったんでしょう?」
同情を交えて彼を見詰めると、先程よりもいくぶん警戒心を緩めた表情になっていた。クッキーをもう一枚くわえると立ち上がり
「外で話そうぜ」
その提案に小さく頷くと、彼の後について談話室を出た。
授業がすべて終わると待ち合わせに指定していた講堂へ向かった。今日は水曜だからグドゥたちも談話室で勉強をしているかもしれない。しかしできるだけ多くの談話室の前を通ったが、悉く期待していた人には出会えなかった。
ぼくは自分の運の悪さを呪いながらやや俯き加減に廊下を歩いた。それでも顔見知りの生徒と擦れ違うと必ず
「あれ、珍しいね。今日はナルキと別行動なんだ」
「片割れはどうした? 喧嘩でもしたのか?」
と声をかけてくるので返事をするのも鬱陶しく人気の少ない道を選んでいった。
「ハルキ」
講堂の前でベンジャミンが手を振っている。その顔には笑顔があったが、遠回りしていたので彼を待たせていたことになる。申し訳なくなって駆け出すと同時に、階段を下りてきたジャックが現れた。
ジャックの脇に挟まれた革鞄に気づき焦りを覚えた。
「お待たせしました! ドクター・アンジ―、ベンジャミン!」
慌てて二人の下に駆けつけると、ヤニで茶色く染まった歯を見せてドクター・アンジ―が笑いかけてくれた。
「廊下を走ったら駄目よ。怪我でもしたら代役を探さないといけないんだから」
『代役』という言葉にぼくもベンジャミンも同時に眉を寄せ反応すると、互いに目配せを交わした。この役を演じ切るまでは絶対に、ミスは許されない。
「それじゃぁ、これね。書き直した台本よ」
と言ってドクター・アンジーは部員の分の台本が入った鞄を渡してくれた。結構な重さだったけれどすぐに隣に立つベンジャミンが、鞄を半分持ってくれた。
「それにしても、悪いわね。ベンジャミン…貴方、演劇部じゃないのに」
「いえ、ハルキから頼まれていたので大丈夫です。それに演劇部の舞台はぼくも楽しみなので」
本来なら部外者であるはずのベンジャミンの尤もらしい言い訳に、ドクター・アンジ―はただ静かに頷いた。
「そうね…すべてはガドレを無事に終える為に」
「はい」
ぼくらは声を揃えて返事をする。
「気合入れていくわよ。今日の部活は覚悟しておくことね」
最後に檄を送るとドクター・アンジーはの踵を返し去っていった。その後ろ姿が完全に視界から消えるまで待つと、これまでの緊張が一気に緩んだ。
「ごめんね! ちょっと遠回りしていたら遅刻しちゃって…」
「『ハルキ』らしくないね。あまりらしくない行動は控えるべきだと思うよ」
やんわりと指摘され反省する。頭を掻きながら、まだまだだなぁと苦笑いをした。
「必要なら今すぐにでもストーリーを読み直して、役作りから徹したっていいんだよ」
口角を上げ目尻を垂らした優しげな表情で言われたものの、ベンジャミンの瞳は決して笑ってはいなかった。
「う、うん…」
背筋に冷たいものが走るのを感じながら思わず目を逸らす。言うことは最もだったが、ベンジャミンがこうして怒るなんて珍しくそれを彼に指摘する訳にもいかなかった。
「ほら、次はカナムラ教授の手伝いをする約束だったろ? 行こう」
俯いたぼくの前に差し出された手を掴むと、ぼくらは歩調を合わせて歩き出した。
人気のない場所を求めて移動した結果、私とゲンジロウは螺旋階段に並んで腰を下ろすこととなった。
「そのユイコって奴は、ベンバー教授とも知り合いなのかぁ」
「はっきりとは教えてくれなかったけどベンバー教授の恋人か…それか親しい女友だちだと思うわ。そう、ユキオさんって在学時から入退院を繰り返していたんでしょう? 同じ年に亡くなった人がいるって」
「ハスミさんか…」
「ハスミさん?」
聞き慣れない名前に反応する。両膝を抱きかかえるとゲンジロウは腕の中に顔を沈めながら呻いた。
「ユキオさんの大切な人だよ…。あの人が交通事故で亡くなって、後を追うようにしてユキオさんも死んでいった。だからもう、誰も…本当のセトを知らないんだ」
『本当のセト』という言葉に引っかかるも、もうしばらく彼に手綱を渡して喋らせることにした。
「なぁ、俺さ…お前のこと、正直あんまり好きじゃなかったんだ」
率直な意見につい相好を崩して頷いた。何故だか好きと言われるよりも、その反対の言葉を聞く方が安心してしまう。そこには特別な打算も策略もないのだと素直に納得できるようになってしまった。
「私も好かれていないって思っていたわ」
本心に基づいた意見に彼も頬を緩ませると、ふっと遠くを見るような目つきになった。
「でも仲間が増えたらセトを守れる。もしもお前が…グドゥに入るって決めたら、俺たちと一緒に生涯セトを守りこの学園で生き続けることもできる。あいつを新たなバロにすることが、俺たちの使命なんだ」
淡々と語るその口調に熱意はなく、もはやそれを享受する他に道はないのだと諦めているようにもとれた。緩やかな曲線を描く頬を眺めながら彼もまた、セトではなくバロに踊らされているのだと思った。でもどうしてセトはバロの言いなりなのだろう。何か弱みでも握られているの?
「噂なんてあんまり気にしちゃあ…ねぇけどさ、お前の家庭も色々とあったんだろ?」
遠慮がちに尋ねる彼を一瞥し、ふっと自嘲気味の笑いを漏らした。
「でも…ここへきて、他の生徒たちも複雑な事情を持っていたんだって知って…なんだかカルチャーショックを受けちゃったわ」
「……俺も同じだった。俺…クローンなんだ。ははっ…なんかSFみたいな話だろ?」
予想外過ぎる出自の事実に驚き、自虐的な口調で語るゲンジロウを見詰めた。
「でもそれは実話で、死んだ人間が生きていていい訳がなかった。所詮は人工的に作られた命だから、定期的に検診を受けて薬も飲み続けなくちゃいけない。人よりも抗体が少ないからしょっちゅう入院させられた」
普段の彼からは想像できない過去。いつもセトと一緒に笑って、毎日を楽しく過ごしているのだとばかり思っていたけれど、今、目の前にある彼の横顔からは、普段の明るい面差しが微塵も感じられない。一切の他人を否定し、周りと一線を置いた孤独な空気に没頭しているようでもあった。
「でも怪我の功名っていうのかな…。お陰で、同じ病院に入院していたユキオさんと知り合って、この学園のことを聞いたんだ。ここは誰もが幸せを求めてやってくるから、仲間を作れるって教えてくれた」
「仲がよかったの?」
「仲っていうも何もあの人は……目の前に誰がいるのかも認知できないくらいで…俺が病室を抜け出してユキオさんの所に、一人遊びをしにいっていただけだ」
「病気ってもしかして脳の?」
「いや、心なんだ。時々叫んだりして、泣き出すんだ。ここは嫌だ。こんな所にいたくないって大の大人が泣くんだぜ。真っ白な壁が赤くなるまで叩いて……」
肩を落として溜息を吐くと、ゲンジロウは虚ろな眼差しで宙を睨んだ。
「大人の形をした子どもだった。あの人も俺たちの仲間だって思えたから、俺は…セトを守ろうって決めたんだ」
大切な人を失った悲しみが反動となって、セトへの強い感情を生み出したのだろう。けれどそれは友情とも少し違う。仲間意識と言うよりも…
「…セトは友だち以上の存在なの?」
質問の意味をよく玩味するように考えると、眉間に力を込め一点を睨み
「あいつは…むかしの俺なんだ」
と呟いた。
意図するものを考え視線を逸らした。私もゲンジロウの言ったことに無意識に同調していた。私たちはセトに何かを求めている。この手に入れられなかったものを彼に託して、擬似的に満足しようとしているような気がする。
「……」
けれどそれ以上は考えてもわからなかった。私たちは一体何を欲しているのだろうか。手に入れたくても入れられなかったものって……何?
ふいにティルの言葉が思い起こされ、胸が熱くなり唇を噛み締めた。でもセト自身もバロを支援している。具体的な理由がある訳でもないのに、何故あぁも彼を被害者だと断言できるのだろう。誰が正しく何が間違いなのか、その境界線さえ曖昧になりつつある。
この学園が一つの世界だとしたら、正義は誰のもの? 学園に集う私たちは、いつの間にか独自のルールに組み敷かれるようになっていった。同じ制服を着て日常生活を共にする。繰り返し繰り返していくことで、私たちは無意識のうちに疑似家族のような錯覚を抱く。そうして自然と刷り込まれていくのだろうか。この学園を守る為に、互いに手を組みあうように…
「―――ゲンジロウまでリンコに熱を上げてるの?」
突然、私たちを冷やかす声が頭上から響いた。驚いて彼と同時に仰ぐと、螺旋を描く階段の上からセトが身を乗り出してこちらを見下ろしていた。
「こんな所で女の子を口説いていたら、ゴーストに嫉妬されちゃうよ」
再び顔を引っ込めるとセトは笑いながら下りてきた。
「ば、バーカ。ちげぇよ!」
そうして私たちの元に辿り着くと、わずかに頬を赤らめるゲンジロウを一瞥し、私に笑いかけてきた。
「これから町へいこうか」
「え?」
唐突な言葉に私とゲンジロウが同時に呟く。その様子を見てお腹を抱えて笑いながら
「ツインみたいな反応だよっ」
とおちゃらけた。
「ま、町って…外出は禁じられてるじゃない」
「お前! まーた勝手に抜け出そうと……」
呆れるゲンジロウに、きっと彼はこの手の常習犯なのだと確信した。
「平気だよ。今、バロは国外出張をしているし町まで車で送ってもらうもん。ゲンジロウもくる?」
この前温室で言っていたことを果たそうとしているのだろうか。けれどその目的が見えない。どうするの? と意味を込めてゲンジロウを見上げると、
「俺までいったら誰がアリバイ工作するんだよ」
とぼやき立ち上がった。
「ベティたちには強制補習を受けてるって説明しとくからな」
歩き去っていく彼の後ろ姿を見詰め、残された不思議な空気につい緊張してしまった。
私の不安を感じ取ってかセトは笑顔を添えて手を差し出してきた。
「じゃあ、いこうか」
一瞬の躊躇いを覚えたが、身体は私の意に反するようにそっと手を重ねた。
美術質の窓の向こうに積もる雪を見て溜息を吐く。束の間の休憩を手に入れたが、隣の部屋から聞こえてくるベンジャミンとカナムラ教授の楽しげな笑い声を耳にした途端疲れがドッと増した気がした。
どうしてぼくがこんなこと…
とぼやいてから、足元の教科書を爪先で蹴る。古くなった教科書をダンボールに詰めて焼却炉まで持っていくよう頼まれているのだが、作業は一向に進まない。隣の部屋から聞こえる笑い声が独り身の寂しさを更に強く自覚させる為、こうして部屋を変えてやっているというのに。
元はと言えばベンジャミンが勝手にぼくの名前で、カナムラ教授の手伝いを申し込んでいたからだった。その暇があれば厨房にこもり試作品を作るか、もしくは彼女を探して同じように楽しくお喋りに興じていただろう。それに先ほど渡された訂正された台本を覚えなきゃいけないし、やることは多々とある。
「…ベンジャミンの所為だ」
一人で愚痴りながら深い溜息を吐く。長いことカナムラ教授と距離をとっていた彼にささやかなご褒美を与えてやっていると考えるべきなのだろう。
「よっこいしょっと」
と大袈裟な身振りをつけて立ち上がり、再び作業に戻った。どの教科書も結構使い古されているらしく、表紙も擦り切れて手垢がついている。中には生徒の落書きなども残っており、モナ・リザにゲジゲジ眉毛が書かれていた。これが口髭なら有名な作品だったな、とぼやく。
本棚からいらない本を取り出し紐でまとめて箱に詰め、それを何十往復と繰り返しているうちに腰が痛くなってきた。
「あっ!」
腰をかばって立ち上がったその時。小さな悲鳴と同時に、抱えていた本がバランスを崩して足元に落ちしまった。豪快に散った本を慌てて拾い集めながらも、こんな大きな音を立てたのに隣室の二人はちっとも気づきやしないと毒づいた。
「いっくらなんでも『ベンジャミン』とぼくがずっと一緒に行動しているなんておかしいよ」
と、一冊の教科書を拾おうとして手をとめた。中に挟まっていたスケッチブックの切れ端が目にとまり、おもむろにそれを開いた。
見慣れた少年のデッサンだった。彼らは毎日のように彼を見ていたのに、目の前に咲く笑顔はこれまで見てきたすべての彼の印象が、上塗りした偽りのものだと訴えかけてきた。
今よりもずっと幼い頃のセト。こんな風に彼は笑えるのだと、何故か胸が締めつけられるように苦しくなった。これが本当の彼の姿。彼らが理想を求めなければ、今もこんな風に屈託のない最高の微笑みを返してくれていたのだろうか?
涙腺を刺激する熱い思いが溢れ出す。
―――だけどぼくらには学園が必要で、それはすべての子どもたちの為でもあったんだ。ぼくはここへやってくることができた。けれど選ばれなかった子どもたちは、まだ沢山いる。彼らを救えるのは、学園の王座が約束されているセトだけだから。だから、選ばれたぼくらも同じく求めるんだ―――
セトが新たな王にならなくちゃいけない。
涙を拭いながら声を押し殺して泣いた。
「ハルキ? そっちは片づいたかしら?」
カナムラ教授の声に慌てて涙を隠す。手元の画用紙も同じように折り畳んで戻そうとしたその時、画面下に書かれたサインが目に入った。
「……チュチュ?」
その名を口にし、ぼくは反射的に画用紙を制服の中に捻じ込んだ。
校舎の前に用意されたジープを見て、穏やかだった心が再び激しく掻き立てられた。
雪道でもあれなら難なく走れるだろう。それに…シャベルや殺人に使う斧だって入る。背筋に感じる冷や汗を思いながら、私の想像に過ぎないかもしれないけど、まだ疑いは晴れていないのよ、とマントを羽織るセトを軽く睨んだ。
でも彼がベンジャミンを手にかけたとしたら、張本人が現場へ証拠を確認しに行くだろうか? セトならいくらでも誰か他の人間を代わりに寄越せたんじゃないかしら。疑惑に苛まれる私とは対照的に、当の本人はとっても無邪気にはしゃいでいる。
「ウーグルが町に買出しにいくついでに乗せてくれるんだ」
運転席から顔を覗かせる赤ら顔の老人が、聞いたことのない言語でセトに呼びかけた。出発するから早く乗るようにと促しているようだった。渋る私の手を引きながらジープに乗り込むセト。大柄な隆々とした筋肉を誇るウーグルの姿を見た途端、五体不満足でも意識がある状態で戻れたら幸せだろうな想像してと、苦笑してしまった。
エンジンがかかりゆっくりと走り出す。学園を囲う塀が凍って、見ているだけで寒くなってしまった。
扉が開き青い湖の上に架かる橋を渡る。意外にも湖は凍っておらず、漣を立て幾重にも波紋を広げていた。乙女が流した涙がこの湖を創った。恋した人に裏切られた乙女の怨念が形を変えて、今もこの地に留まっている。
どうして恋人が姿を消した時に裏切られたと思わなかったのだろうか。歴史上の出来事を振り返った時、過去を確かめるものは今も伝えられる史実だけだ。誰も乙女の気持ちや、恋人の心情を確証して語ることはできない。真実はわからないから、事実だけを伝統として伝えるのがガドレなのかもしれない。例え愛しい人が自分の前から突然姿を消したとしても、恋人を信じ待ち続けることが美徳とされているのだろうか。
恋人に先立たれたバロの息子は、どうして死んでしまったのだろう。彼女を待ち続けることが『死』を正当化する理由なの? 何だかそれって…とても悲しい結末だと思う。死がすべての終わりだと思うから、そう感じてしまうのかもしれない。
窓ガラスに映る顔がとても暗い表情をしていた。暗澹とした想いが溢れ、自然と唇を硬く閉ざした。
車中のウーグルとセトの会話はすべて現地の言語で交わされ、聞くつもりもなく流しているとだんだんハミングのようにリズムを伴って聞こえてきた。短く発音を結ぶのに、続く言葉が連続して発せられるので途切れず、軽やかな音調に変わる。
意味を理解しようとせずに無心に耳を傾けると不思議な音楽のようで心地よかった。
凹凸の多い道のりでやけに車内が揺れる。ここへくる時はジャックの可愛い車に乗ってきたのを思い出し、現在との落差に二度目の苦笑を漏らした。
それにしても雪がすごい。黒い木立の間を埋めるように雪が高く積もっている。僅かに注ぐ木漏れ日が地面に反射して眩しく、久しぶりに学園を出たことで気持ちもどんどん高揚していくのがわかった。
外の景色に夢中になる私の肩をセトがつっつく。
「今の、聞いてた?」
学園では見たこともない笑顔に、何故か戸惑いを感じながらも私は首を振って否定した。
「何の話?」
ハンドルを回しながらウーグルがニヤニヤしているのが気にかかった。
「リンコのこと、とびっきりの美人だねって。二人で駆け落ちでもするのかってさ」
「な、何言ってるの!」
おどけた口調のセトを見て急速に顔の熱を帯びたのがわかった。
「妬いてるんだよ。一人娘が嫁いで家を出ていっちゃったからさ」
朗らかに笑うセトが今は憎らしい。恨めしい気持ちで睨みながら私はらしくないな、と自覚しながらもぼやいた。
「でも…だからって駆け落ちだなんて…」
「傷ついちゃったかな。誰か好きな子でもいるの? モリアはリンコに夢中なんでしょ」
「勘違いしないで。彼はただの友だちよ」
「へぇ…好みの子がまったくいないんだ。珍しいね」
「そういう意味じゃなくて…」
「ルームメイトと実に対照的だよね。えっと、ヤマトナデシコって言うんだっけ?」
彼の口からティルの話題が出たチャンスを見逃さなかった。
「彼女と婚約しているんでしょう?」
「そうだね」
はぐらかされると思っていたのでこの反応は想定外だった。
「意外だわ。ティルのことをどう思っているの?」
「感情がなくたって結婚はできる。バロの命令ならぼくも彼女も従う他にないし、結婚と恋愛は別だってみんなが言うよ」
「でも…ティルは色々な人と付き合っているじゃない」
「両親から与えられなかった温もりを求めているんだろ」
これ以上の言及を拒むように背を向けるとずっと黙り込んだ。
温もりを求めている? と反芻して私も思案に暮れた。確か彼女の父親はこの国の貴族だったが、現在はアメリカで事業家として働いているらしい。母親はフランスの女優だそうだが名前を明かさなかったので確認はとれていない。
「……」
ふっと吐いた溜息に混じって、これまでの身体の緊張が解けた気がした。ティルに特別な感情を抱いていないと知って、ホッとしてから翠たちへ伝えた情報を思い出した。
『私の知ることはとても少ないの。フィアンセになっていなかったら、きっとシィクンツッに選ばれて一番に消されているような存在だったから』
あの時ティルは悲しげにそう呟いていたた。
『バロは学園をもっと世界に広めようとしているわ。その為にも資金やコネがもっと必要で、多額の金を惜しまずに寄付する私の父に縁談を持ちかけたのだと思う』
あの学園は大々的には知られてはいないものの、一部のエリートや問題児を抱える富豪たちの間では人気が高く年々入園志願者は増加の一途を辿っているのだとか。学園を出た子どもたちには財産の寄付が求められており、私の知らない間に母の保険金の一部がバロの手元へ送金されていたことが翠の調べでわかった。しかしそれは強制力を伴わないものの、卒業生たちは必ずと断言してもいいくらい土地や財産を学園へ贈与している。それらは維持費や、もしくは例の薬の開発費に充てられているのかもしれない。
生徒の大半が身内などの紹介で学園へ入る為、見解を変えたら賄賂ともとれなくはない。セトの後ろ姿を見詰めながら心の中で問いかけた。
あの木箱の骨と…髪は、一体誰のものなの? その手でベンジャミンを殺したの?
婚約者のティルは貴方を、バロの元から自立させなくちゃいけないと言っていた。すべてを話したつもりみたいだけど、彼女はまだ知っている。伯父のユキオさんが亡くなり、チュチュが消えた七年前。その時何があったのか、それを知っているのに彼女は敢えて素知らぬふりをしている。
共に戦って欲しいと言ったくせに、未だ仮面を外さない彼女に苛立ちを感じながらも胸の奥で渦巻く複雑な感情から目を逸らした。
ウーグルの野太い呼び声に、私とセトは同時に窓の外を見た。
滑らかな斜面を下っていくその先には、まるで砂糖菓子で精密に作られたような煉瓦造りの小さな町が広がっていた。ちらちらと降る粉雪を背景に、町の中心に建つ大きな時計台の姿はまるで絵葉書のような美しさだ。
ふと思いつきセトを見やる。窓ガラスに頬をつけて町の様子を眺める彼の表情は、学園にいる時とは比べものにならないくらい活き活きと輝いていた。
「そういえばリンコも休みの日はよく図書室で過ごしているんだってね」
祝祭日は外出が禁じられている生徒たちの為に大勢の行商が学園にやってくる。生徒たちはそこで思い思いの買い物をしたり、部活動に勤しんで一日を過ごすのが大半だ。部活に所属していないので私は専ら本の虫になっている。
「よく知ってるわね」
生徒たちの動向はすべてお見通しというのだろうか。以前にも図書室で本に熱中しているところを見られていたので、敢えて隠さずに伝えた。
「どのジャンルも充実しているけど…思いのほか童話が多くて。むかしから好きだったから読みだしたら止まらなくなったのよ」
「童話が好きだった?」
その理由を尋ねた気にセトは首を傾げた。私は素直に答えるべきか僅かに迷ったけれど、どういう訳か彼になら話してもいい気がした。
「……童話の世界は…とても夢があって、そして…素直で残酷だから」
中には寓話のように道徳的な内容で諭すことを目的としたものもある。けれどピーター・パンのように物語の中で子どもたちは海賊たちと殺し合いをしたり、時に妖精たちに命を狙われそうになる。子ども向けの物語は、一見して美しい言葉で綺麗に飾られているけれど。実際の中身はひどく現実的で容赦ない駆け引きが行われているのだ。
「人が生来持つ残虐性をとても綺麗にカバーして表現している場面を読む度に…子どもたちは残酷な生き物なんだって改めて思い知らされるの」
人を殺してはいけない。人を虐めてはいけない。人の物を盗ってはいけない…そんな道徳性を成長と共に身につけていくけれど、私たちはこの社会に属さなければきっと童話に出てくる子どもたちのように純粋で、素直で、何よりも残酷なままだろう。
「―――But through the window,he watched the only happiness he would never have.」
ネバーランドから家に帰ってきたウェンディたちが、両親に抱きしめられる姿を見詰めるピーター・パンの心情を描いた一文を暗唱しセトは小さく微笑んだ。いつもこのシーンを読む度に胸が熱くなり、すべての幸せを手にした筈のピーターがひどく悲しく思えた。
―――海賊と戦ったり空を飛ぶことも大勢の子どもたちにはできない幸せだ。それらを手に入れたピーターがただ一つ、得ることのできなかったもの。それは、彼にはいつまでも窓を開けて帰りを待ち侘びる母はいなかった。
「学園の窓はいつもいかなる時も開けておきたいと思っているよ。ただし寒いから実際に開けるのは門の方だけどね」
「!」
心臓が一際大きく跳んだのがわかった。その痛みを噛みしめながら、セトにとって。いいえ、私たちすべての子どもたちにとって。メール・ヴィ学園はネバーランドに等しい存在なのだと悟った。
「……っ」
どんな姿形であろうと。いかなる過去があろうと受け入れる。それが彼の望むネバーランドなのかもしれないと、熱くなる頬を髪で隠しながら密かに考えた。
掃除のお礼にカナムラ教授が美味しい紅茶をご馳走してくれるとの申し出があり、ぼくらもそれに甘えるつもりで職員室へ向かった。あまり入る機会がない職員室内には意外にも教授たちの姿は少なく閑散としている。茶葉と日本のパッケージのお菓子を持ってくると、衝立で仕切った応接室にぼくらを通してくれた。
「水曜日は職員室にもっと教授がいると思っていました」
ベンジャミンが素直に驚くと、三人分のカップを暖めながらカナムラ教授も答えた。
「クラブの顧問じゃなかったら、寮へ戻ったりしてプライベートタイムを楽しんでいるのよ」
「カナムラ教授も今日はクラブがあるんでしょう?」
「えぇ、午後からだからあと一時間かしらね。ハルキもクラブへ参加するんでしょう?」
「はい。ナルキとは部室で落ち合うことにしています」
「そぅ…あいかわらず、仲はいいのね?」
意味深な口調に警戒しながら頷く。妖艶な雰囲気に飲み込まれて何だか彼女にはすべてを話してしまいそうになった。
「これって今、日本で流行ってるお菓子ですよね? 確か一枚だけ唐辛子味のクッキーがあるって」
「そうなのよ。この前日本に帰った時に友人が持たせてくれたのよ。まだハズレは食べてないから、誰に当たるか少し楽しみだわ」
「ひどいなぁ、ぼくは運がないのに」
「パルトロに選ばれるくらいの幸運の持ち主が何言っているのよ」
快活に笑い飛ばすカナムラ教授とベンジャミンを見比べ内心、溜息を吐いた。パルトロに選ばれることが幸運だなんて…誰も思っちゃいないのに。それでもカナムラ教授が運んできた紅茶とお菓子を目にした途端、憂鬱としていた気分が一気に吹き飛んだ。初めて見るお菓子は参考になる。それに日本のメーカーが生産したものなら、こことは違って安心して食せた。
嬉しそうにクッキーと紅茶を頬張るぼくらを見て、カナムラ教授は
「貴方たちがお菓子を食べる所を見るなんて、なんだか貴重ね」
と呟いた。
「普段からぼくは食べていますよ? ツインはここのお菓子は体に合わないとかって言っているけど」
ベンジャミンが口を尖らせて抗議すると、顔の前で手を振りながら
「そうだったわね。ごめんなさい」
と素直に謝罪した。
「ただ…どうしてツインはここのお菓子は食べないのかしらって、思っただけよ」
鋭い眼光に捕らえられ、ぼきは身が竦むような恐怖を覚えた。
「ぼくも、ナルキもアレルギー体質で素材が合わなくって」
しどろもどろになりながら答えると、
「そぅ」
と呟き、微笑みを浮かべおいしそうに紅茶を啜った。
山の頂上にある学園と比べてまだ積雪量は少ないものの、石畳の通りは氷結していてすぐに転んでしまいそうだ。マントと手袋をはめていると、車を停めたウーグルが助手席からマフラーを取って渡してくれた。
「ありがとう」
礼を述べると優しげに微笑み返してくれた。ウーグルと待ち合わせ時間を決めてからセトも降りてきた。
「小さな町だから大して案内する所もないけど、何か見たいものでもある?」
咄嗟にあの大きな時計台を思い出した。この国に来てから観光をする暇もなく学園に閉じ込められていたので、久しぶり色々と見て回りたい欲求が膨らんだ。
「時計台が見たいわ」
「あぁ、一応あれでも寺院なんだ。あそこには剣が奉納されているんだよ」
「剣って…ガドレでパルトロが持ってくる?」
「うん」
と言ってセトは歩き出した。
「でもこれは内緒だよ。みんなどこに剣があるか知らないから」
片目をつむるセトに頷き返した。チラチラと粉雪が降り、閑散とした町並みをより可愛らしく演出していく。窓から漏れる温かな明かりが人の気配を確かに伝えていた。
「剣はこの村の守り神みたいなものなんだ」
「そんなものを…ガドレの為に借りていいの?」
「うん。だって学園でこの国の習慣を再現したり文化の普及に一役も二役も買っているからさ。それにガドレは神聖な儀式として認識されて、ここに住む人たちからしたら学園で暮らすぼくらも特別な存在って思われているみたいだよ」
「…前から聞きたかったんだけど、メール・ヴィの意味って」
「選ばれたって意味。でもタタ音調で読むと、取り残されたって意味になる」
「取り残された…から、選ばれたのかしら。それとも選ばれる為に、取り残されたのかしら」
「それはすべて、本人次第だよ」
冷たく言い放つセトの背中を見て切なくなった。社会から邪魔者扱いされてやってきた生徒も、将来を有望視されてやってきた生徒もあそこには大勢いる。そんな私たちの価値は誰が決めるのだろう。
―――すべてを決める大人たちがいる。私たちは抗うこともできない。
「だからさ、リンコもグドゥに入るべきだと思う」
唐突な話題に顔を上げ、前を進む彼を凝視した。黒いコートに点々と雪がかかる様子を眺めながら、何故私をグドゥに誘うのだろうと思った。
「どうして…私なの? 他にも優秀な生徒はイヒヌゥの中にもいるわ」
「優秀だけじゃ駄目なんだ。新しい世界を作る為に必要な仲間だから」
立ち止まり、私と歩調を合わせると再び歩き出した。
「ある所に頭が狂っていた王子様がいました。彼は大切な人を迎える為に新しい世界を作ろうとしていました」
黙々と歩き彼の話に耳を傾ける。今のセトは学園にいる時よりもお喋りだ。
「でもせっかく作った世界なのにお姫様は否定しました。そこはおかしい。こんな世界があっていい訳がないから、私は出て行くと言って、本当に出て行ってしまいました。王子様はその後、精神科病棟に入院させられたのでした。信じていた人に裏切られたショックでもう完全に狂ってしまったから」
「……もしかして、それが日本の姉妹校だったの?」
フードに隠されて見えない横顔に、恐る恐る問いかける。
しばしの沈黙の後にふっと口元を緩めると
「バロは、伯父さんが作った学園を気に入りそれを世界に広めようとした。行き場のない子どもたちはどんどん入ってくる。だけど伯父さんを裏切った人はこなかった。それなのに脇見運転をして突っ込んできた車に当てられて、呆気なく死んじゃった」
黙りこむ彼を一瞥し何と声をかけていいのかわからず私も口を閉ざした。
歩くたびにキュキュと雪が鳴く。二人の足音を聞きながら、バロの息子の死がセトに与えた影響を考えた。裏切られた哀れな伯父と…湖の伝説はどこかで繋がっているかもしれない。伝説の乙女のように待ち続けることを望んだ所に、彼の理想とするものが込められているのだろうか。
バロの息子。ユキオさんの元から離れていった女性にも、同じように待っていて欲しかったから、叶わなかった理想を求めているのかしら。歩いていくうちに水が止められた噴水のある小さな広場に出た。ベンチも植木もすべてが白く染められ、積もった雪を使って子どもたちが巨大な雪のモニュメントを作っている。
そのうちの一人が私たちに気づき歓声を上げた。
「ジューロ!」
少年の大声に他の子どもたちも一斉に
「ジューロ! ジューロ!」
と叫び始めた。彼らの歓声にセトが手を振って応える。最初に私たちに気づいた少年が駆け寄り、親しげに喋りかけてきた。
「いつきたの? 前もって声をかけてよ」
英語と現地語の混合言語で話すと、私にも目を向けて微笑んだ。
「ジューロの恋人?」
「残念ながら違うんだ」
婚約者がいるくせに、何が残念なのよ…と内心毒づく。
「ねぇ名前は?」
背丈は大して変わらないがやや学園の生徒たちと比べ、幼い印象の少女が話しかけてきた。
「リンコよ。貴方は?」
「パトリュー! メール・ヴィの学生なんでしょ! 素敵だわぁ」
「一緒に遊ぼう!」
口々に叫ばれついセトと顔を見合わせた。すると最初に駆けてきた少年が
「二人きりになりたいんだろ。久しぶりに恋人を連れてきたんだよ」
と怒った。その発言に大きく落胆する彼らを見回しセトが提案した。
「それなら後で時計台においで。彼女を案内してから遊ぼう」
彼の言葉に飛び跳ねて喜ぶ彼らを微笑ましい思いで眺めながら『久しぶりに恋人を連れてきた』という言葉が頭にひっかかり離れなかった。彼が前回連れてきたという女性は一体誰のことを指しているのだろうか。
広場を抜け細い裏道を歩くと、大人たちとも顔を合わせるようになった。けれどその度に彼らは違う名前でセトを呼び、セトも学園では決して見せないような笑顔で応えた。
ジューロ、デレイブ、カイン、フェイラン、ニコフラス……
沢山の名前がある。呼べばセトは笑顔になる。彼はこの町ではセト・イチノセではなくなり、バロの孫、ファルバロという肩書きもすべてが無縁の存在になった。
「こんにちはアディエム!」
ロバに跨る男の呼びかけに応えるセトを見て、どうして彼は私を町へ連れ出したのだろうと改めて気にかかった。
警戒しなくちゃいけない相手なのに、彼が無邪気に微笑む度に胸が苦しくなる。もっと彼のことを知りたいと思うのは有益な情報を集めたいから?
階段が凍りついて滑りそうになった私の手をさり気なく握ると
「気をつけて」
と労わり雪の少ない道を選んで歩いてくれた。長い階段を登ると、漆喰が剥がれ落ち所どころに罅が走ったシンプルなデザインの寺院に到着した。蔦が表面を覆っているのかと思ったが、近づいてみると直に壁に絵が描かれたトリックアートの一種だったので驚いた。漆喰に絵を描くスタイルは確か十二、三世紀にイタリヤで流行ったルネッサンス様式と呼ばれていた。まさに移民たちが集う国だと、以前彼から受けた講義を思い出す。周りの雪と比べて薄汚れた壁も寺院が辿ってきた歴史を伺わせた。
敷き詰められた石畳の脇に寄せられた雪は様々な聖人に姿を変え、訪れる者たちを迎えた。白皙の面差しは赤みを差せば本物のようで、完成度の高さに素直に感嘆した。
湿った木戸を押し開け中へ入る。薄暗い建物の天井にはステンドグラスが嵌められ、色とりどりの光が優しく注ぎ込んでいた。そのデザインは食堂のものとよく似ていて、乙女と男が剣を挟んで見詰め合っている姿だった。もしかしたらガラス工芸に精通している国だったのかもしれない。細やかな細工や雪の像などを思っても見事な作品ばかりだ。
ステンドグラスの前に飾られた祭壇に納まった、意外にシンプルな剣に目がいった。白光とした刃は研ぎ澄まされ、鋭いラインがとても美しい。刀身に何か文字が彫られているけれど刻まれた文字を解読することはできなかった。
冷厳とした雰囲気に身震いをする。
備品の椅子やオルガンも傷んでいるものの、手入れは施されているらしく埃は被っていなかった。
「時を刻む寺院って異名の由来が、あれなんだ」
天井を指差す彼の眼差しを追う。円錐の形をした塔の天井に、赤銅色の巨大な振り子が左右に揺れている。薄闇の向こうで鈍く反射する沢山の歯車が見えた。さっきから聞こえていた空気の震える音の正体はあれだったんだ。
「歯車は乙女の心臓を示しているって説があるんだけど、この地方の歴史について調べている学者があまり多くないから本当かどうかはわからない」
上げていた腕を下ろし私を見る。視線が一つに絡まった瞬間、意図せずに心臓が飛び跳ねた。
「ここほどぼくらにとって住みよい国はないと思うんだ。入学式のみんなの顔っていったら…まるで人形そのものだもん。だけど卒業式には全校生徒が涙を流すんだ。誰もここを出たくて、卒業してもすぐにこの国に戻りたがる。なかなかビザが発行されないから、同窓会も頻繁に行われているよ」
祭壇に向かって歩きながらセトは語り出す。
「きみの両親も同窓会で再会したんだって」
「……それも、バロから聞いたの?」
青を基調としたステンドグラスを通して光が注ぐ祭壇に立つと、セトは舞台に立つ役者のように軽やかに振り返った。その顔には蝋人形のような無機質な表情が張りついていた。
「ぼくはバロの人形だから」
どこかを見ているようでどこも捉えていない虚ろな瞳。乾いた唇からこぼれる感情のない言葉は、まるで機械に吹き込まれたアナウンスだった。
「きみの父親はグドゥを選んだ。学園と共に生きることが生涯の目標となったけど、ヒサコはイヒヌゥになり外の世界で生きることを望んだ。どちらが幸せ? ナンセンス。ふふ…だってそれぞれに似合った道をゆけばいいもん」
―――印象が変わった。
ほんの少し。だけど確かにそれまでの口調と異なる。さっきよりも論点が曖昧で、幼い感じがする。
セトは祭壇に座り込むと猫のように身体を縮ませた。
名前の数だけ…知らないセトがいる。彼は一人じゃない? でもそれって……
「ねぇ、どれを選ぶ? 特別に選ばせてあげるんだから光栄に思ってね」
挑発的な眼差しを受けて全身が紅潮した気がした。心臓が早鐘を打って、目まぐるしい感情に混乱する。
「聡明なきみならどれが一番、自分にふさわしいかもよくわかっているよね」
余裕を感じさせる態度で手を差し出すと、私が必ずその手を握り返すと確信した面持ちでこちらの反応を待った。
その手を取れば彼の仲間になれる。だけど例え仲間になっても、私は『本当のセト』に出会えない気がした。
違う。私が欲しいものはもっと…違う―――
「おや、グリムドじゃないか」
木戸が開く音と共に穏やかな声が聞こえてきた。振り向くと白い礼服に身を包んだ初老の男が、声によく似合った優しい表情をしてた立っていた。
「ラビュッツ」
叫び立ち上がると、男の後ろから先程広場で見た子どもたちが一斉に顔を出した。
「ジューロ! 遊ぼう!」
昼食を終え部室へ向かって歩いていた。他にも廊下で団欒をする生徒たちの姿も多く、珍しく校内が賑やかに感じられた。次の公演はガドレで湖の伝説をベースにした悲恋物語だ。徹夜で読んでいた台本を忘れずに鞄に入れてきたか確認しながら歩いていると、ぼくは誰かの肩にぶつかった。
「ご…」
慌てて謝ろうとして言葉が途中で切れる。その思いも寄らない幸運に一気に頬が熱くなった。
「ユン!」
参考書を片手に歩いていたユンは彼に気づくなり眉根を寄せた。素早く踵を返し歩き去ろうとする彼女の後を追いかける。
「聞いて! ぼく次の劇でね、羊飼いの男の子をやるんだよ!」
「私には関係ない」
「初めて女装以外の役をやらせてもらえるんだ! すっごく貧乏な羊飼いで最後の羊も狼に食われちゃうんだけど、ヒロインの力でパルトロにしてもらうすっごい役なんだよ!」
「もぅ!」
憤慨した面持ちで立ち止まるとユンは肩を怒らせた。
「今、ストーリーを教えられたら本番の楽しみがなくなるでしょ!」
何で怒られちゃったんだろって考え、すぐに思い当たった。
「それってぼくの演技を楽しみにしてくれてたの?」
小躍りするぼくを苦々しげに睨むとユンは小さな声でぼやいた。
「…べ、別に深い意味なんて…」
「ハルキはね、なんと主人公をやるんだよ。敵兵のスパイでね、ヒロインの巫女を騙そうとするんだけど恋しちゃう難しい役どころなんだよ」
「それも結局は悲恋になるんでしょう。乙女と男は擦れ違って死んじゃうの?」
「う、ん…。そうだけど、でも暗いお話にならないようにコメディ要素も入れるから、途中はとっても面白いよ」
「バッカみたい。どうしてそんなに悲恋に拘るのよ。過去に捕らわれて前に進めないままなんて…馬鹿よ」
肩を怒らせて歩いていく彼女の後を追いかけ、彼女がどうして苛立っているのかわからなくなった。
「どーしたの? なんか今日は機嫌悪いよ」
と言ってから、もしかしたらガドレが近づいているから気が立っているのかもしれないと思った。廊下の突き当たりまで進み角を曲がると突然、ユンは足を止めた。
「ユン…?」
直立不動の後ろ姿に恐る恐る声をかける。
「馬鹿だって…思っているんでしょ」
と呻くように呟いた。
「お姉ちゃんが死んでくれて、私、本当はすっごく嬉しかった。頭がいいから、あの家の古い風習に囚われず自由に生きようとしていたお姉ちゃんの所為で、私の家は一族から爪弾きにされて……大嫌いだった」
彼女の足元に雫が立て続けにこぼれたのが見えた。
「だけど…お姉ちゃんみたいにグドゥになっちゃった。所詮は私も、お姉ちゃんと同じよ。家族から邪魔者扱いされてここに入れられたんだもん」
涙を拭う後ろ姿を切ない思いで見据え、つい釣られて泣き出しそうになるのを堪えて言葉を紡いだ。
「違うよ。だって、チュチュとは違って…ユンはセトの仲間になれた」
ユンは肩がビクッと震わせ目を赤く染めて振り向いた。
「だからユンは……セトと一緒に新しい世界を作れる。選ばれたから、誰もが幸せになれる世界を作ればいいんだよ」
胸を熱くする気持ちを言葉に変えて吐き出すと、妙な恥じらいだけが残りぼくは俯いたまま黙り込んだ。
「ベンジャミンが消えたって聞いても…大して驚かなかった。ファルバロが七年前にお姉ちゃんを殺したように、きっと彼も大切な人だったんだって、逆に羨ましかった」
「え…?」
言っていることがよく理解できず、虚を衝かれた思いで黙り込んだ。
ユンは再び涙で瞳を濡らすと、ひどく落ち着いた口調で
「だって、世界を作る為なら犠牲はしかたないでしょ。お姉ちゃんもベンジャミンも、ファルバロに愛されているから殺されたんだもん」
と呟いた。
「どうして、みんな彼を異なる名前で呼ぶんですか?」
戸口に並んで佇み、セトが子どもたちと追いかけっこをするのを見守りながら問いかけた。
白髪の神父は穏やかな笑みを返すと、ふっと白い息を吐き出し答えた。
「彼の本当の名前をわたしたちは、誰一人として知らないのです」
「セト・イチノセいうのが、彼の本名です」
「えぇ、それが彼の名前だとはみんな知っていますよ」
と答えてから身を翻し寺院の中へ入っていった。その後を追いながら続く返事を求めた。
「もっと彼について、知りたいです。町の人が違う名前で彼を呼ぶ理由が…」
礼拝堂に隣接する小さな部屋へ移ると、ラビュッツ神父は使い古した鍋にミルクを並々と注いでレンジにかけた。
「焦げないように掻き回してください」
壁にかけられたタペストリーの上にコートをかけ、木ベラを受け取り指示された通りに動くと、後ろで棚から粉末ココアの袋を取り出し手渡された。
「寒いからホットショコラと焼きマシュマロを作りましょうか。そうだ、クッキーもあったはずだ」
何だかラビュッツ神父のペースに飲まれていっている気がしたが、黙って従うことにした。そんな私の隣でクッキーを箱から出しお皿に並べながら、神父はゆっくりと会話の続きを始めた。
「医学的なことは何もわかりませんが、わたしたちは彼の中に多くの人格が存在したとしても、敢えてそれを個性なのだと受け止めたいのです」
―――多くの人格が存在する。
その可能性を考えない日はなかったけれど、いざ第三者からそれを指摘されると妙に現実味を帯びて感じられるようになった。
「初めて町へやってきた時、彼は名乗りたがりませんでした。そこでグリムドと彼を呼びました。けれど次にやってきた時、グリムドと呼んでも反応しません。別の名前で彼を呼び…繰り返していくうちに、彼の名前は増えていったのです」
「どうやって彼の、その…多重人格ではないかって思われたんです?」
私から鍋を受け取ると、大小様々なマグカップにショコラを注ぎ冷蔵庫から生クリームを出して添えた。
「わたしが最初に疑問に思いました。けれど今でもわからないのです。一人の人間には様々な面があると思っていますから」
確かにそうだ。もしかしたら彼がそう、演じているのではないかって思ってしまう。
「……一つの印象として、彼を括れないって思いました。そんな人は初めてで、どこまでが本当で嘘なのかもわからなくて…自分から、もっと相手を理解したいって思うのはこれが初めてです」
「きっかけは些細なことです。そこから恋や友情に発展するのですから」
何故かふいにキッコのことを思い出したが、すぐに頭を振って忘れようとした。初めて私を理解しようとしてくれた子だったかもしれない。本当の私を知りたくて、あんな噂を流してでも独占したかった。
馬鹿な子だと蔑んだけど、でも、私から彼女を切り捨てなければ、ありがままの私を認めてくれる友だちに……なれたかもしれない。
神父は続いてマシュマロを串に刺して火力を調整しながら焦げないように焼いていった。
「グリムドが女性を連れてきたのはこれで二回目ですよ。以前はもっと年上の…彼が八歳くらいの頃でしたから、ちょうど今の貴方ぐらいの女性でしたかね。長い黒髪の東洋人で…チュチュと呼ばれていたかな? 同じようにこの寺院を見学していました」
「チュチュ…が、七年前にここへ?」
「もう七年も前になりますか」
私が更なる問いかけを口にしようとしたその時、礼拝堂から子どもたちの騒ぎ声が聞こえてきた。少しして何人かが部屋を覗き込み
「お腹が減ったよぉ」
と叫んだので、ラビュッツ神父は片目をつむって会話の終了を告げた。
まだ誰もきていない部室に着くと、舞台に見立てた壇上の回りに乱雑に置かれた椅子に腰を下ろしてハルキを待った。
部活が始まるまでだいぶ時間がある。今日は広場と披露宴のシーンを練習する予定なので、背景セットが壁に立てかけられていた。
大時計の秒針が動く音に耳を澄ますうちに、廊下の向こうから駆けてくる足音に気づいた。ドアが開く音で顔を上げる。急いできてくれたのか、髪型は乱れて額には汗が浮かんでいた。
「いきなりどうしたんだよ」
居丈高な口調だけどハルキの眼差しはぼくを労わる優しいものが含まれていた。何かとぼくを疎んでいるみたいだけど、本当は誰よりも出来の悪い弟を心配してくれているってよく知っている。
「ストーリーを確認したいんだ」
弱々しく呟くと、ぼくらは台本を開いて一つ一つの台詞を確かめていった。
「ベンジャミンは……本当に、モリアが殺したの?」
ぼくの唐突な質問に一瞬眉根を寄せると
「間違いないよ」
とハルキはぶっきらぼうに答えた。
「だって、信じられる? あの臆病なモリアが…どうしてベンジャミンを殺すの? 仲が悪かった訳でもないし…むしろ、二人の接点って」
立て続けに問うぼくを睨み、苦々しげに開口した。
「じゃあ他に何を信じるんだよ。誰がベンジャミンを殺したかが問題じゃない。大切なのは、いかにも今も彼が生きているかのように振る舞うことにあるんだ」
返す言葉を失い俯いた。
果たしていつからぼくたちは、昨日まで一緒に笑っていた友達が。ある日突然消えてしまったとしても何も思わなくなってしまったのだろうか。
「……ユンと、ハルキがいつも笑ってくれていたらもう、何もいらないって思っていた」
頬を伝う熱いものを感じながら、ポツリ、ポツリと自然と出てくる言葉を吐き出した。
「ここにいればぼくの願いはずっと、叶えられるから…演じるのは、苦でもなかったんだよ。でも……本当に、それが正しいことなのかなぁ…」
「馬鹿! 何言ってんだよ!」
椅子を倒す勢いで立ち上がると、ハルキはぼくの肩を揺すぶってきた。
「正しいんだよ! これしか方法はないんだ! だってベンジャミンは…殺される為にきたんだから」
涙で歪んだ視界に映ったハルキは今にも泣き出しそうな顔をしていた。
本当は、ハルキの方が泣きたかったんだよね。大切な友だちだったのに、彼が死んだことをごまかす為に―――
「つまり、ハルキがベンジャミンに化け、ナルキがハルキを演じ…一人二役をこなしているのだね」
身の凍るような冷たい口調にぼくらは同時に息を止めた。いつからそこにいたんだろう、と頭の隅で考えながら信じられない思いで、舞台袖に佇むキサメを見詰めた。
「ツインならではのアイデアだね。ハルキなら一声聞いただけで、完璧に相手の声色を真似ることができる。ましてやルームメイトだったベンジャミンだ。彼の特徴や癖などもよく知っているだろう」
と区切り反応を伺うようにしばらく黙った。まるでぼくらが否定できずにいるのを楽しむ様子で眺めると、更に追い打ちをかけるかのように開いたままにしていた台本に視線を向けた
「そこにバロからの命令でも書かれているのかな。きみたちでガドレが終わるまで、ベンジャミンが生きているかのように装い演じよとでもね」
確信を伴った言及に追い詰められ一気に逃げ場を失った。まさに窮鼠の思いで、それでも精一杯のプライドをかけてキサメを睨みつけた。
すると場を和ませようと大袈裟な身振りをつけて
「きみらを脅すつもりは微塵もないのだよ。ただ、確かめたいことがあるのさ」
と釈明してきた。優しい態度で取り繕っても、貼りつけたような笑顔が怖くてぼくはそっとハルキの指を握り締めた。
「セトの目的について―――」
繋がれた指にじんわりと汗が浮かぶ。
不安げにハルキを見ると、彼は久しぶりに見るあの人形のような表情を作っていた。
「馬鹿にしないでよ」
と静かに言い放った。
「ぼくらは役者だ。臨機応変に渡された台本の通りにストーリーを進めていくのが仕事なのに……舞台裏まで首を突っ込むなんて、失礼だよ」
どこを見ているのかわからない、何を考えているのかもわからない。感情を表に出さず相手の望む反応だけを示す人形のようなハルキ。いつも鏡を見るように同じようなことを考え行動していたはずの彼に、綻びを見つけたのは学園に入る前だった。
両親がハルキに、見切りをつけた頃から彼はあの顔をするようになった。変わりない愛情を注いでくれていたが、時折父たちの顔に浮かぶ失望の眼差しが、言葉以上の刃を伴ってハルキを追い詰めていった。
ぼくはその眼差しが自分自身にも向けられるのが恐ろしくて跡を継ぐ決意をした。『良い子』を演じることで最低限のポジションだけは守ろうとした。『悪い』ことはみんなハルキに押しつけて、大人たちの目には常に『良い子』として映っていなければ、いつか、自分自身の居場所まで取り上げられそうな気がした。大人に見捨てられるのを恐れたぼくらは、代わりに自分の分身を見捨てた。
本当の気持ちを身体の奥深くに閉じ込めて、周囲から求められる理想をかぶり日に日に演技力を身につけていく彼を見てずっと良心が痛んだ。後悔と恐怖、懺悔を繰り返して、堂々巡りの感情に罪悪感はどんどん膨れ上がっていくのに、いつまでもそれを行動に移せなかった。
けれどある日、ハルキがこの学園の存在を教えてくれた。
『子どもだけの世界があるんだ。ナルキ、ぼくと一緒にいこう』
もしあの時メール・ヴィへの入学を拒んでいたら、きっともうハルキの隣で笑えなかっただろう。
飾り立てられた豪華な城の中で、様々な事情から集まった子どもたちで作られたそこは歪んでいた。だけど歪みから生まれ、ただ一つの真実を守ることで生徒たちは信じられないような団結力を保っていた。
物語は虚構の世界。子どもたちは虚実の舞台に立つ操り人形。舞台でどんなに熱い言葉を吐き出しても、それはすべて偽りのもの。役者は幕と共に幾重にもつけた仮面を外す。
ぼくの指を力強く握り返しながら、今、ハルキはイヒヌゥの仮面をかぶった。巨大な権力の流れに抗うこともできず、流れに身を任せて漂うしかできない…哀れなイヒヌゥたち。
「エンディングはまだ誰も知らない。それはセトが決めることだから」
一縷の希望をファルバロに託して、変わらない日常の持続を支えていくのがぼくらの役目だった。
すっかり打ち解けた様子の子どもたちに手を振りながら、積荷に挟まれいくぶん窮屈になった車内に入り込む。セトがドアを閉めようとしたら一番の年長の少年がやってきて
「また新しい本を持ってきてくれよな」
「沢山用意しておくよ」
拳を合わせて別れを告げると、今度はパトリューと妹たちが窓ガラスをコンコンと叩いて私に開けるように促した。寒さで真っ赤になった顔を緩ませると白い歯を見せて
「リンコはとっても美人だから、ジューロの恋人になってもいいわよ」
「あたしたちも認めてあげるわ」
小さな妹たちまでが声を上げる。苦笑する私に耳を貸すように顎でしゃくると、
「死んだ人間のことなんて気にすることなんてないのよ。シルクのようなロングヘアーだったけど、貴方の髪もなかなかのものよ」
「…それってチュチュのこと、ね」
確かめるように小声で問うと何ら憚りなく彼女らは答えてくれた。
「えぇそうよ。でもリンコには私たちがついているんだから、頑張りなさいっ!」
激励に曖昧に頷いておきながら、初めて第三者からチュチュの死を明確に聞いたと高鳴る胸を押さえた。
ウーグルの呼びかけと共に車が走り出す。しばらく崩れ落ちそうな荷物を支える為に、身動きがとれなかったが、町を抜けて斜面に入ると安定したので離れていく町の光景を脳裏に焼きつけた。
小箱の中にあった黒い髪と骨。それは…間違いなくチュチュのものだろう。
何故それを彼が持っているのかと考えると、敢えて目を逸らしていた嫌な予想に直結してしまう。
「どう、楽しかった?」
いつものセトの笑顔がどこか心許ない。
「えぇ…とっても」
―――ガドレの主は長髪が好き。乙女選びが始まったのもチュチュが消えた年だった。これらの符号から導く答えは…
彼は七年前の少女の死について、重大な鍵を握っている。
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