片手の花と道化師

青海汪

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第四幕 クラウンの条件

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第四幕 クラウンの条件
 
 「―――まだ、見つかりませんか…」
 キアが学校から忽然と姿を消して二時間程経つ。そこまで慌てる必要はないと宥めにかかる周囲に対し、ぼくは必死に理性的に保とうとしていた。
 「シンらが探しちょるさー。狭い島じゃけぇすぐに見つかるさね。服部さんまで探しに行く必要さないさー」
 そう言ってゆかりさんはぼくに横になるよう促した。看護師という尊い職業に従事する彼女の前で拒む勇気などない。確かにキアが帰ってくる前に少し休憩をとった方がいい。今日は国崎家の人たちとの話し合いが長引いてしまい、自分でも疲れを感じていた。
 「わかりました。でも…何かあればすぐに起こして下さい」
 鷹揚に頷く彼女を信じ、ぼくは布団に潜り込んだ。よく太陽に干された布団の香りは、疲れたぼくを一気に夢の中へ引きずり込んでいった。
 歳を重ねるにつれて、脳はむかしの出来事を思い出し夢に見る事で記憶の整理をするようになるのだろうか。五十はとうに過ぎた老体はそんな泡沫の幻の中で今日も若返り、懐かしい人々との思い出を振り返らせてくれる。
 ぼくはドイツの割と裕福な家庭に生まれ育った。友人にも恵まれて、こうして思い返してみてもなかなか悪くない人生だった。父は勤勉で優しい人だったし、母はとても美しかった。
第一希望だった高校に入学が決まり、その祝いで外食をした日。たまたま街へやってきたサーカスが目について、両親が食事の後に連れて行ってくれた。
 小さなテントの大部分を占める円形の舞台。ひしめく観客たちの前で、酒瓶を煽りながら団長が開幕を宣言した。まさにアペリティフサーカス団に相応しい趣向だった。
 舞台の上にクラウンたちが現れ様々な技を披露する。空き瓶を自由自在に操るジャグリングに見た目にも華やかな手品の数々。素晴らしい技術に目を奪われ、絶妙なタイミングで入れられるボケは大いに観客の笑いを誘った。派手なメイクに騒がしい動き。大きな図体をしている癖に、クラウンたちの動きはまるっきり近所の悪ガキ同様で見ていて飽きなかった。猛獣ショーが終わり会場からライトが消える。
 「見てごらん、フィリックス。あれがサーカスの花形だ」
 父がそう言って指差したのはライトを一心に浴びたテントの遥か上空に佇む、ブランコ乗りの姿だった。
 「女の子だ…っ」
 煌びやかな衣装に身を包んだ少女は音楽に合わせて宙に飛び上がった。息が止まるような一瞬の沈黙。が、彼女はゆっくりと近づいてくるブランコに見事掴まりポーズを決めて見せた。
 割れんばかりの拍手が鳴り響き、まるで宙を舞う一羽の孔雀のように。ブランコ乗りの少女は美しい空中芸を惜しみなく披露した。
 「あらまぁ、この子ったら…驚いて口を開けたままよ」
 「はは、まだまだ子どもだな」
 両親の雑談も耳に入らなかった。ぼくの目は薄闇の中で光り輝く、一人の少女に釘付けになっていた。
 すべての演目が終わり観客がテントから去った後も、ぼくは生まれて初めて体験したこのとてつもない感動から一歩も動けずにいた。
 つい先程まで夢のような光景が広がっていた舞台には、僅かな明りが注ぐばかり。そこに何度も目にした景色を重ねて、ぼくは溜息を洩らした。
 「……」
 辺りは静まり返っていた。しかしぼくの耳にはロープの軋む音が確かに聞こえた。そして幼い少女の声が頭上から降りてきた。
 「『ぼくは自分が空でやれる事は何か、やれない事は何かって事を知りたいだけなんだ』」
 「!」
 声に導かれ薄闇に飲まれるテントの頭上を見上げる。そこにはブランコに乗ったまま本を読み上げるあの、ブランコ乗りの少女の姿があった。
 そして同時に彼女が手にしている本の正体にも察しがいった。何故ならぼくも「かもめのジョナサン」が大好きだったからだ。
 「『我々は一羽一羽が、まさしく偉大なカモメの思想であり、自由と言う無限の思想なのだ』」
 少女はパラパラと本をめくり、好きな言葉だけを選んで朗読していく。柔らかく心地よいその声を聞くうちに、ぼくは静かな喜びを感じずにはいられなかった。
 「『我々は自由なんだ』」
 少女の声に重ねるようにして、ぼくは思わず続く言葉を口にした。
 「『好きな所へ行き、ありのままの自分でいいのさ』」
 「―――っ!」
 ブランコが揺れるのをやめ、少女はようやくぼくの存在に気づき地上を見下ろした。公演中の煌びやかな衣装はそのままに、けれど舞台映えする派手な化粧は落としていた。歳はいくつくらいだろうか。ぼくよりもずっと小柄で、思っていた以上に幼い年齢という点に内心驚いた。もしかしたら小学生くらいかもしれない。衣装で誤魔化されていたけれど、よく見れば短い手足はまるっきり子どもで。そんな彼女があんなにダイナミックな演技ができるとは、と更に驚くばかり。
 「びっくりしたー」
 ケラケラと笑い彼女はそう言った。
 「誰もいないと思っていたのに。お兄ちゃん、もしかして迷子なの?」
 「違うよ、父さんが今、タクシーを止めに行っている。母さんは外でお友だちとお喋り中さ。…きみこそ、変わった所で読書だね?」
 「特等席よ。ここなら邪魔が入らないから」
 確かにそうだろう。と納得した所で外から父さんたちの呼ぶ声が聞こえてきた。
 「ぼくはフィリックス・ハーメル。きみは?」
 「フィリックス…素敵な名前ね。私はフルールよ。フランス人なの。ね、お兄ちゃん、もしも機会があれば面白い本を貸してちょうだい」
 そしてフルールはサーカス小屋の秘密の隠し通路を教えてくれた。こうしてぼくと幼いフルールの秘密の交流は静かに始まった。
 
 
 泣きじゃくるぼくを連れてポストマンが向かった先は、意外にも郵便局の上の階にある小さな自室だった。実家が目の前にあるのに、どうしてわざわざこんな狭い部屋を借りているのやら。家賃がもったいないなと、幾分冷静さを取り戻した頭でぼやいた。
 「えーと…取りあえず牛乳でいいね。子どもにはカルシウムがいるし」
 玄関を上がってすぐの台所に立つと、ポストマンはぼくの涙と鼻水で汚れた上着を脱いで冷蔵庫を開けた。ちらりと見えたその中身はビールで占拠されていた。自炊している気配もなく、床に放置されたゴミ袋には空のインスタントラーメンと缶詰が大量に押し込まれていた。
 「……汚過ぎるでしょ」
 洗濯機の周りには脱ぎ散らかした衣服が山盛り。床には慢性的に放置されたと見られる日用雑貨の数々が積み上げられ、玄関先から一歩も先に進む事もできやしない。こんな惨状を目の当たりにして尚、ぼくは自分の身の上を嘆いていられる程図太くはなかった。
 「男の一人暮らしってこんなもんジャン」
 にっこりと悪びれる様子もなく、何故か臭気を放つ牛乳を手渡そうとする鬼畜生。
 「わーアリガトウゴザイマス…って飲める訳がないでしょうっ! さすがにっ!」
 「はっは! そーして猫被るのやめてる方がよっぽど可愛げあるジャン」
 確かにポストマン相手にこれ以上猫を被る必要もない。そうとわかれば、暴言はいくらでも湧いて出てくる。
 「大体、人の手紙を盗み見るって悪趣味過ぎるんですよ! 知られて困るような事もこの島の住人にはないんですか? 僻地とは言え守られる権利はあるでしょうっ」
 取りあえず足の踏み場だけでも確保してやろうと、ぼくは近くにあった袋に床の上のゴミを突っ込んでいった。
 「正直、ここまでゴミを溜められる人がまともに仕事ができる筈ないですよね。日本人は綺麗好きって、あれは嘘だったんですか」
 激しく動けばその分蓄積された埃が舞い上がる。もはやニタニタ笑うポストマンの顔さえ見えないくらい、周囲は灰色一色の埃まみれだ。せめて窓だけでも開けなければ、埃を吸って肺炎になってしまう。黙々と超高速でゴミを回収しながら部屋を横断し、ぼくはやっとの想いでベランダまで辿り着くと一気に窓を開けた。
 「―――はぁ!」
 清涼な風が部屋の中の臭気ごと吹き飛ばしてくれた。ようやくまともな空気を吸うと、ぼくは部屋の片隅に飾られた写真立てと、そこに映る女性に捧げるかのように置かれた一輪の花の存在に気づいた。
 「だから言ったジャン。…男の一人暮らしってこんなもん。奥さんがいつも綺麗にしていたけど、その人がいなくなったら汚れるのが当たり前」
 大量の埃を身体中につけたポストマンが静かに歩み寄ると、写真立てを手に取った。
 「毎日栄養のある料理を作っていた人がいなくなったら、不健康なものしか食べられなくなる。可愛い子どもが生まれて、それを育てながら親への感謝の念を抱いたり自分自身を見直すきっかけになる筈だったけど、それがいないなら感謝も糞もないジャン」
 写真を見詰めるポストマンの凍てついた眼差しが、彼から発せられる空気が、何もかもが重たくて。ぼくは折角吸い込んだ空気なのに、呼吸をするのも彼に対し遠慮をしてしまうくらい怯えてしまった。
 「エコだとかロハスだとか、都会の生活に疲れて大自然の中で生活がしたいだとか言ってた癖に。子どもには裸足で野山を駆け回るような生活をさせたいって言ってた癖に。結局―――こんな田舎にきた所為で、死んじゃうなんて馬鹿ジャン」
 それは何年経っても褪せる事のない自責の訴えに聞こえた。この人は、ずっとこうやって奥さんと子どもが死んでしまった原因を、自分と島にあるのだと責め続けるのか。だとしたらそれは、何て…途方もない苦しみなんだろう。
 ニタニタと笑っている筈の顔が、まるでピエロのようにしか見えなくて。悲しみを伝えられない哀れな道化が毒づくその言葉一つ一つが、彼の心に深く突き刺さり延々と傷を抉り続ける。
 島にこなければ死ぬ事もなかった妻子を想うポストマンは、実の父親に島に置き去りにされそうになって悲しむぼくをどんな気持ちで見ているのだろう。お互いの心情を正確に量れなくて、ぼくはおもむろに尋ねた。
 「…単刀直入に聞きます。貴方はぼくが、嫌いですか?」
 ポストマンはじっと写真を見詰めたまま動かなかった。まるでそこにある最適な答えを探し出すかのように、随分と長いようにも感じられた沈黙を経て彼は言葉を発した。
 「子どもは元々嫌いだった。自分の子どもは別だと思っていたけど。…大人の都合に振り回されて、自分では何もできない無力な存在の象徴みたいで」
 飾る気もなく語られる本心。けれど別に心は傷つかなかった。本当に毛嫌いしているのなら、泣いているぼくをあのまま放置していただろうし。それに無力な存在の象徴という表現にも共感できた。
 「ぼくも何でもかんでも言い訳ばっかりする大人って大嫌いです。その癖子どもが正論を唱えると露骨に嫌な顔をする。逃げの常套句が『大人になればわかる』ですもん。そんなの、回答でも何でもない。ただ答えを先延ばしにして逃げる為の言い訳ですよね」
 ポストマンは写真立てを元の位置に戻すと、冷蔵庫から缶ビールを取り出してそれを一口飲んだ。その手元には左薬指にキラリ光る指輪があった。
 「で?」
 勤務中に飲酒かよ、とか色々突っ込みたくなったけどそれらをぐっと飲み込んで。まるで挑発するかのような口調のポストマンを見上げ、ぼくは応えた。
 「嫌いで結構です。だけど、ぼくは父さんと離れる気もないし時計台も可能な限り修理してから島を出て行きます。さっきは取り乱してしまったけど、流石に父さんが考えなしにあんな事を言う筈がないんで」
 「あんな時計台、放っておけばいいジャン」
 ぐいっと缶ビールを煽るように飲み、ポストマンは暗澹とした眼差しで窓辺に立つぼくを見詰めてきた。
 「誰も直さずに、時計の針も秒針も止まったまま。このご時世でここまでアナログな生活を守り続けてきた連中にぴったりジャン」
 「…別に、ぼくがどうにかしたいって思ってる訳じゃないですけど。だけど同じ島の子が何とかしたいって思っているんですよ?」
 「カンケーないねぇ。必要じゃないから誰も直さないって事ジャン? そんな無駄なものに時間かける暇があれば公式の一つでも覚えた方が遥かに賢いと思うよ」
 ヘラヘラ笑う顔はそのままに、不真面目な態度でポストマンは正論を掲げて追及してくる。こういうのを、性質の悪い大人って言うんだと思う。
 「貴方だって知ってるでしょ。あの二人の父親が帰ってこなくなったから…時計台を直せば戻るかもしれないって。非現実的で何の根拠もないけど、でも、もうそれに縋るくらいしかできないでいるあの二人の気持ちを汲んでやれないんですか? 大人の癖にっ」
 もはや自分でもこの反論はただの子どもの駄々にしか聞こえなかった。だけど実際に他に何か有効な手がある訳でもない。壊れたまま動かない時計台が蘇れば奇跡も起きるなんて、誰も保証してくれる確実な未来なんかじゃない。現実に目を向けろ、地に足を着けろと諭されてしまえばその通りなんだ。だけどあの二人は黙々と努力し続けて地道にお金を貯めて、そんな根拠のない希望に懸けている。
 「始める前から諦める言い訳ばかりほざいていて、何を成し遂げられるって言うんですか? 少なくとも、ぼくはシンたちを応援したい。だから…必ず、のっぺらぼうを説得してみせます」
 力強く断言するぼくを、ポストマンは何も言わずに眺めていた。先程までのふざけた態度も息を潜め、まるでこちらの主張に耳を傾けるかのようにも見えた。
 「………あ」
 長い沈黙の後にポストマンは微かに開いた口元から、何か言葉を発しようと唇を動かした。けれどその第一声は勢いよく開いたドアから飛び込んできた、シンたちの叫び声で綺麗さっぱり掻き消されてしまった。
 「キア!」
 「こがぁとこにおったんさーね!」
 シンとリクがぼくの姿を見つけるなり、靴を脱がずに駆け寄り抱きついてきた。
 「え、あ、ちょ…ちょっと!」
 土足! と注意しようとしたけど、首と腕に抱きつく二人の背中が汗でびっしょりと濡れていたのに気づきその言葉を飲み込んだ。
 「篤志、おみゃーが連れ去ったて噂になっちょるさー」
 後から入ってきたポリスマンがちらりとぼくの方を見ると、ポストマンに向かってちくりとぼやいた。
 いつの間にそんな大騒ぎになっているんだと、こっちが逆に驚いてしまった。それにポリスマンは今日、先生とデートの筈じゃと思った所でハァハァと肩で息をしながら室伏先生まで現れた。
 「蔵屋敷くん…ここに…ハァハァ…おったんやねぇ…ハァハァ…」
 見るからに頑張ってお洒落をした室伏先生。なのに走って探していたのか、髪はぼさぼさで汗でメイクも落ちている。
 「ホンマに見つかってよかったわぁ」
 その癖心の底から嬉しそうに笑うものだから、さすがにポリスマンでもなくてもこれには胸が熱くなってしまった。
 「…………」
 と何故かリクが不機嫌そうにポイッと、それまで抱きついていたぼくの腕を投げてそっぽを向いた。
 「…?」
 珍しく何かに拗ねているようだけど、取りあえず今は変に誤解を受けそうになっているポストマンの立場を釈明する事にした。
 「皆さん、ご迷惑をおかけしてすみませんでした。少し…父親との間にトラブルがあり、頭が冷えるまでここに居座らせてもらっていただけなんです。ポストマンは何も悪くありません。ほら、シンもリクも土足で入ってきてるから出てよ」
 二人の背中を押しながら玄関に移動する。大人数がいきなり現れたので、部屋の埃が舞い上がり鼻がむずむずしてきた。リクまで咳き込み始めたのでこのまま立ち去るつもりで玄関をくぐると、それまで無言を貫いていたポストマンが口を開いた。
 「コウ」
 「なん?」
 名前を呼ばれポリスマンが振り返る。ポストマンは蜘蛛の巣が張った本棚から一冊の本を取り出し、無言のままそれをポリスマンに突き出した。
 どこかぎこちなさを感じさせる動作で本を受け取ると、ポリスマンは室伏先生の腕を掴み部屋を出て行った。ぼくたちもその後を追い駆ける。けれど扉が閉まるその瞬間、ぼくは無意識に振り返り一人あの汚部屋に残されたポストマンの顔を見た。
 目元には見える筈のない涙のマークが光っている気がして。笑っているのに泣いているように見えたポストマン。けれどそれも扉が閉まる一瞬の事で、きっと誰も気づかなかったと思う。
 「あの、成宮さん…っ」
 ポストマンの家を出て海辺沿いの白浜まで歩くと、限界を迎えた室伏先生が顔を茹蛸状態にしてポリスマンを呼び止めた。
 「あの、そ、その…っせ、生徒も見てはるし…っ!」
 未だ一方的に握られたままの先生の華奢な腕。そういうぼく自身もシンとリクに左右を固められ、まるで連行されているみたいだ。
 「そういえば、どうして先生たちも連れてきたの?」
「キアがいのぅなるけぇ、俺らが一生懸命探しちょったんさー」
 ぼくが残した置手紙には一応目を通してくれていたそうだけど、不吉な予感を覚えたらしい二人は方々を探し回ってくれたそうだ。狭い島となればすぐに顔見知りに出会ってしまう。そうして捕まえたのがデート中だったこの二人だったらしい。ポリスマンはさすが本職らしく、すぐに目撃証言を集めて現場を押さえにきたって訳だ。室伏先生には申し訳ないけど、でも腕を掴まれたくらいでここまで過剰に反応するのだから。きっと二人きりで何時間も過ごす方が心臓はもたなかったんじゃないかとも思えた。
 未だ先生の腕を離さず、じっと立ち止まって海を見詰めるポリスマン。手にしている本は割と年季が入っていて、擦り切れた表紙のタイトルはぼくの位置から読めなかった。
 「その本、何なんですか?」
 「……俺が高校時に篤志に貸しちょった本さー。失くしたぁばかり思っちょったけど…」
 と呟きようやく先生の腕を離す。そしておもむろにページをめくると、懐かしげにそこに書かれた文章に視線を落とした。
 確か彼は神童と呼ばれるくらい勉強のできる生徒だったらしい。そんな彼が何故大学へ進学せずにこの島で働いているのか。愛しげに本を眺める姿に、ふと疑問が湧いた。
 「親父が倒れよってさー。本州の進学を諦めたんさ」
 まるでぼくの心を読んだかのように、ポリスマンは語り出した。
 「とにかく一刻も早く働かなーいかんって事で、お袋の面倒も見ないかんしさー。必死やったさ」
 当時の苦労を軽い口調でまとめる。楽しげに活字を追うその姿は、かつてどれだけの学問に対する探究心に溢れ輝いていたのだろうと思わずにはいられなかった。
 「…成宮さん…」
 先生もかける言葉に詰まったようだ。
不意にポリスマンはふとページをめくっていた指を止めた。
 「アイツ…人の本にっ」
 忌々しげに口元を歪めるポリスマン。
 「ナル兄ちゃ、だーした?」
 「どうしはったん?」
 ワラワラと集まって彼の手元にみんなで顔を覗かせる。赤いマジックペンで何重にも丸で囲われた一文が目に入った。
 『時計が止まる時、時間は生き返る』
 「ウィリアム・フォークナーだ」
 「誰さ?」
 思わず口走るぼくに、咄嗟にシンが尋ねてきた。
 「アメリカの作家さんやね。ノーベル文学賞も受賞しはった有名人やねん」
 「でも、言うちょる意味がわからんさ。時計が止まっちょったら、むかしに戻れるぅ意味さねぇ?」
 頭を抱えるリクが何とも可愛らしく見えて、ぼくはその意味を教えてあげようとした。
 「違うさ。時計≒時間じゃない言うちょるんさ。時計は目に見えん時間ちゅうもんを、具現化しとるんさ。じゃけぇ人間は時計に支配される生活をしちょる言うんさ」
 一足違いで講釈垂れるポリスマン。室伏先生はそんな彼の優秀さを目の当たりにしてか、とろとろに溶けそうな顔になっている。
 「………」
 けれど何だろう。何かがぼくの中で引っかかっていた。こうして予備知識がある人間がフォークナーの格言を聞けば、その意味を正しい形で解釈できる。けれどリクみたいに、何も知らない人がさっきの言葉を聞いたら? 時計が止まれば過去に戻れるかもしれないって、それを本気で信じるかはまた別にしても同じように考えてしまうかもしれない。
 過去に戻る。それはつまりやり直したいという意味を含んでいるって事だ。 
 「…時計台が壊れよって…不便しちょるが、この島の時間は、生き返っちょるいう事かの」
 ちょうど砂浜から見える岬に立つ、あの白い時計台を眺めながらシンが誰に向かって聞かせるでもなく呟いた。
 
 
 フルールはいつも観客が去った後の静まり返ったサーカス小屋で、空中ブランコに乗りながら本を読んでいた。
 「私、こういう仕事をしているから、学校ってほとんど通えていないの」
 秘密の抜け道を使ってぼくは毎晩のように、彼女にお勧めの本を持って会いに行った。ぼくらの間には特別な会話などなく、時々気に入った本のフレーズを紹介し合う程度。彼女が漕ぐブランコのロープが軋む音が、読書にぴったりなBGMの代わりを果たしていた。
 「『未来は今日始まる。明日始まるのではない』なんて素敵な事を言うのかしらね」
 「『忘却はよりよい前進を生む』これは叱られた時に使えるぞ」
 幼いフルールと過ごすそれは穏やかな日々だった。入学したばかりの高校は進学校として有名なだけあって、授業の内容も課題もハードだった。友人は沢山できた。けれど彼らと共に遊ぶよりもこうして夜、密かに家を抜け出してサーカス小屋に忍び込む方がずっと刺激的で楽しかった。
 「お兄ちゃん、今日は本は読まないでずっとお話でもしましょうよ」
 それは珍しく彼女から提案してきた事だった。相変わらずブランコに乗ったまま、フルールは舞台に座り込むぼくを見下ろして話しかけた。
 「実は明日、また別の街に行くの。だから今夜が最後。お別れになっちゃうから」
 アペリティフサーカス団のポスターを見て公演期間は知っていた。だけどこんなにもすぐ行ってしまうとは思っていなかったので、ぼくは些か寂しさを覚えた。
 「そうか…。こうして毎晩一緒に本を読むだけの時間が、ぼくはとても気に入っていたよ。次の街に行っても元気で」
 「ありがとう、お兄ちゃん。でもきっとまた会えるわ。だって私たちは世界中を旅するのよ。次、またこの街にきたら必ずショーを見にきてね」
 「勿論だよ」
 「それとね、私…ちょっと歳は離れているけどお兄ちゃんの事。とっても仲のいい友だちだと思っているのよ。だから今の約束を絶対に守るっていう証に、これをあげる」
 そう言ってフルールは小さな手帳をぼくに向かって落とした。それを慌てて受け取ると、彼女はブランコを漕ぎながら付け足した。
 「私には本の中にしか友だちがいなかったの。だから友だちに書かれたお気に入りの言葉をメモしてきたのよ。だって本は重くて一緒に旅をするには不向きだから」
 手帳に書かれた様々な言葉を読みながら、ぼくは口元を綻ばせた。
 「わかったよ。次きみに会う時までに、ここに書かれた言葉をもっと増やしておくよ。まさかとは思うけど…フルール。きみもぼくの事を忘れないで」
 ぼくの冗談にフルールは声を立てて笑ってくれた。
 「フィリックス・ハーメル! 幸せという意味を持つ素敵なお兄ちゃんの名前を、まさか私が忘れる訳がないじゃない。お兄ちゃんはその名の通り、私に生身の友だちという幸せを運んできてくれたんだもの!」
 声を大にして叫ぶ彼女を見て、ぼくは堪らず嬉しくなってしまった。
 サーカス団は知らない間にふらりと街にやってきて、そして去る時も風のように消えていく。翌日ぼくは学校へ向かう途中で通学路を離れ、最後にもう一度フルールと話ができないかと思ってサーカス小屋を尋ねた。しかしそこは綺麗さっぱり、アペリティフサーカスのすべてがなくなっていた。色鮮やかなテントも、沢山並ぶトレーラーたちも何もかも。
 鞄から彼女の手帳を取り出す。これもぼくの手元に残っていなかったならば、きっとあの夜のサーカス小屋で過ごした日々も夢だったのではないかと疑っていただろう。
 『別れの痛みは、再会の喜びに比べれば何でもない』
 何気なく開いたページに書かれた言葉が今日程、胸に深く染み込む事はなかった。
 
 
結局ぼくのなんちゃって誘拐未遂事件は、一切の事件性もなく終わった。というか勝手に周りが騒いだだけなんだけど。でもポリスマンが一応調書だけとっておきたいと言うので、ぼくらは海岸からそのまま駐在所へ移動した。途中で先生がぼくらにアイスを買ってくれたので、それを食べながら歩いた。
それにしてもデートを邪魔されたのにまるで怒りもしないなんて。道中ポリスマンと並んで歩く先生の様子を眺めながら、その度量の広さに感心した。国崎家の人たちも然り。この島の人たちはどうしてこんなに優しくて、埋められない孤独をそれぞれに抱いているのだろう。善行を積めば幸せになれると言うなら、真っ先に報われなくちゃいけない人たち。そう思うとあの汚部屋に閉じこもるポストマンが、どうしようもなく哀れに思えた。
「ナル兄ちゃ、前のアニメの続き見ていいさ?」
 駐在に着くなりシンはパソコンに飛びついた。ポリスマンも書類を探しながら手を振って勝手に見ろと言った。
 「よしっ! キア、頼むさー」
 当然パソコンなんて触らないシンが勝手に自分でアニメの再配信を検索できる筈もなく。ぼくだって大して詳しい訳でもないけど、リクが期待した眼差しを向けてくるから仕方なくインターネットを開いた。
 「……?」
 前回の検索履歴から探そうとして、ぼくは目を疑った。
 何故ポリスマンがアペリティフサーカスの連絡先なんかを調べているんだろう。それにその後に続く検索ワードも何かおかしい。
 『腫瘍』『余命』『医療』
 ぞくり…と背筋に冷たいものが走った。ぼくの横で一緒に画面を覗いていたシンが、ハッと息を飲む。
 「……何?」
 嫌な予感しかない。本当は聞きたくもなかった。だけどぼくは、シンの両目を睨みつけるようにして尋ねていた。
 「……俺の婆ちゃ…むかし、癌で死んだんさ。そん時出ちょった薬と似ちょるんさ…」
「成宮さん、これ…忘れもんとちゃいますやろか」
少し離れた所に立っていた室伏先生の長閑な声が、言葉を濁し黙り込むぼくらの元まで聞こえてきた。
「あー本当さね。昨日服部さんがきちょった時に忘れたんさー。ちょーどえぇさ。坊、これ父ちゃんに渡し…っておい、大丈夫さ? 顔色が…っ」
―――シンの母さんと一緒に病院に行ってきた父さん。突然大量の薬を飲み始めて、ぼくには相談もなくぼくを島に置いて行こうとしている父さん。おかしな検索履歴。ぼくは別にミステリーファンでもなんでもないけど、でもここまで材料が揃っていて疑わない方がおかしいと思った。
耳鳴りが止まらない。頭の上からどんどん血の気が引いていくのがわかる。小刻みに震える手。こんな妄想、信じたくもない。確かめなくちゃいけないってわかっているけど、身体が言う事を聞いてくれない。
「―――行くさ!」
突然、確かなぬくもりを感じた。気がつけばぼくの両手をシンとリクの二人が握り締めて、ぼくは彼らに引っ張られるようにして駆け出していた。
 
 
 フルールと別れてからは、それまで彼女との読書に充てていた時間をすべて勉強に費やした。ぼくには急に空白と化した時間と向き合うだけの心の余裕などなく。彼女と別れてから、余計に自分がいかにあの夜のサーカスで過ごすひとときを大切に思っていたのかを身に染みて感じるようになった。
 そうして勉強一色で過ごした高校生活。大学に進学してからは、今度は難易度の高い授業についていくのに必死になった。
 「隣の席、いいかしら?」
 出会いの始まりともなる彼女の一言。ナタリーは友人の為にとっておいた空席を指し、ぼくに笑いかけてきた。
 「あ……どうぞ。座って」
 友人と彼女を天秤にかけた瞬間、すぐに答えは出た。癖のない美しい赤毛の髪を束ねた彼女は、化粧っ気がないにも関わらずひどく目を惹く存在だった。整った顔立ちは余計な装飾を拒み、彼女が持って生まれた魅力を十分に引き出していた。かく言うぼくも、ナタリーに一目惚れをしてしまった。
 長所と言えば父親譲りの高身長くらい。勉強一筋できた冴えないぼくが人気者のナタリーに釣り合うようになるまで、様々な努力と友人たちの惜しみない協力が必要だった。ぼくらの結婚式で暴露された友人代表のスピーチは、多少の脚色はあったものの参列者たちを大いに楽しませてくれた。つまりそれだけぼくらの愛はドラマチックだったと言う事だろう。
 ぼくらはとても順風満帆な結婚生活を送っていた。子どもには恵まれなかったが、二人だけの時間は歳をとるごとに親密で濃厚なものとなり、時にわざわざ外で待ち合わせをしてデートを楽しんだりした。そんなどの夫婦もするような平凡でありきたりな幸せを噛み締めていた。
 毎年恒例の双方の両親を招いた旅行で、今年は行き先がギリシャに決まった時の事だった。当時ぼくは大学で教鞭をとっており、仕事が終わらずナタリーたちよりも遅くに飛行機に乗る予定をしていた。
 『これから飛行機に乗るわ。向こうのホテルで待っているから、気をつけてきてね』
 ナタリーからそんなメールが届いていたが、ぼくは授業の資料の作成に追われてすぐには気づかなかった。
 「ハーメル先生! ニュースを見ましたか?」
 チューターのフランシスが血相を変えて研究室に飛び込んできた。ぼくはまだ、目の前のパソコンに夢中だった。恐らく、この瞬間までが。ぼくの人生の中で最も平穏で幸せだった。
 フランシスがぼくの目の前にケータイのニュース速報を突きつけた。
 『ギリシャ行旅客機墜落―――生存率は絶望的』
 すぐにその文面から意味を読み取るのは無理だった。まるで不可解な外国語を前にしているかのような面持ちで、何度も何度も読み返した。
ケータイを持つフランシスの手が震え、悲鳴のような泣き声を聞いてようやく。それがとてつもなく残酷な現実なのだと理解した。
その瞬間からぼくは、暗くて長いトンネルの中に一人落とされた。歩いても歩いても、闇から抜け出せない日々の始まりだった。マスコミからの取材が殺到し、電話やメールが止まらない。愛する妻も、尊敬する両親もすべて失ったぼくに、皮肉にも莫大な遺産だけが与えられた。それは彼女たちが生きる筈だった人生を、不当に奪われた代償。彼女たちの命の値段なのだ。
金はとても簡単にそれまで、良き友人や親戚、隣人たちをこうも露骨に狂わせるのかと思い知った。家族を失ったぼくの傷を癒そうと慰め、切々と聖書の教えを説いたその口で金をせびりにくる人々。時に泣き崩れ時に激しく怒り、また唐突に関係を迫りながら、この不吉な財産を手に入れようと躍起になってぼくを取り囲んだ。
 今まで嗜む程度にしか口にしなかった酒の量が急に増えた。食欲はなく、空っぽの身体に浴びせるようにして酒を注ぎこむ。飲んでは吐いて。吐いては気を失い僅かな睡眠に陥る。そして目覚めれば再び夢の中にいる彼女たちの元へ戻りたくて、ぼくは酒を煽った。
 日常と夢の区別がつかなくなり、気がつけばぼくは僅かに残った真の友人たちの手によって入院させられた。抜け殻になっても生きろとせがむ彼らに、ぼくは一切の治療を拒否する事で意思を伝えようとした。
 「フィリックス…頼むから、元のきみに戻ってくれよ」
 「先生の授業をまた聞きたいです。どうか…元気になって」
 毎日のようにくる友人や生徒たちの見舞いもただただ鬱陶しかった。彼らは必ず涙を流しぼくを憐れむのだ。ならばあのまま放っておいてくれたらよかったのだ。天涯孤独となったこの身を好きに使って何が悪い。金だってぼくが死ねば慈善団体に寄付すればいい。
 生きる目的が何一つなくて。死ぬべき理由が天文学的数字程あるというのに。誰もぼくの声に耳を傾けてくれない。
 「きみの家を掃除してきたんだ。そしたらこんなものを見つけたよ」
 今日も点滴を引きちぎってベッドを血塗れにした。そんなぼくを見て友人は寂しげに笑い、家から持ってきたという古ぼけた手帳を開いた。
 どこかで見た覚えがある。けれど記憶を遡れば今は亡き愛しい人たちの思い出が溢れそうで、ぼくは再び死への憧憬を募らせた。
 「…読んでみよう」
 もはや生きる屍と化したぼくに向かって、彼は手帳に書かれた一文を読んだ。
 「『樹木にとって最も大切なものは何かと問うたら、それは果実だと誰もが答えるだろう。しかし実際には種なのだ』…あぁ、確か二―チェだったね」
 彼は小さく頷きまた読み上げた。
 「『明日死ぬかのように生きよ。永遠に生きるかのように学べ』いやぁ、これは昨今の学生に是非聞かせたいね」
 …誰の言葉だっただろうか。勉強漬けの毎日に心が折れそうになった時、ぼくは手帳を開きその言葉を何度も読み返した。
 「『我々は自由なんだ。好きな所へ行き、ありのままの自分でいいのさ』」
 ふと、幼い少女の声が重なって聞こえた気がした。薄暗いサーカス小屋の中に響く、ブランコを漕ぐ音。誰もいない空中で本を読む少女の姿。闇夜に咲く小さな花の名前を、ぼくは思い出した。
「『すべての困難はあなたへの贈り物を両手に抱えている。人が困難を求めるのは』」
 眼球の奥が急に痺れるように熱を帯びてきて、ぼくは静かに涙を流しその言葉の続きを口にした。
「『その贈り物を必要とするから』」
「―――!」
手帳を手にしたまま驚く友人に向かって、ぼくはひどく久しぶりに微笑んでいた。
「…大好きな…本の、リチャード・バックの言葉だ」
涙を流し喜ぶ友人と抱擁を交わし、ぼくはようやく気づけた。
―――ぼくは生きなければいけない、と。この先に用意された両手いっぱいの贈り物を受け取る為にも。
 
 荒廃した生活と長期間に渡る過度のアルコール摂取により、ぼくの身体は非常に衰弱していた。内蔵の機能も筋力までも低下し、長い間リハビリを続けどうにか自分一人でも生活ができる程まで回復した。担当医たちは奇跡だと手放しに誉めてくれた。
 「『大きな愛がある所に、常に奇跡がある』。ドクター、今のぼくはただ生かされた存在なのです」
 ぼくは感じずにはいられなかった。ナタリーや父と母の存在が常に心にある。彼女たちが見守ってくれている。その偉大な愛を感じる事で、ぼくは再び歩き出せるのだと。
 アペリティフサーカス団の巡業先を調べ、ぼくは凡そ三十年ぶりにサーカス小屋へ入った。十代の頃に見た小屋とは規模がまったく異なる大所帯。広々とした観客席はすべて埋まり、巨大な舞台を様々な色のスポットライトが照らし現実離れした演技を次々と披露していく。
 ジャグリングを失敗して観客の笑いをとるピエロの姿が目に付いた。彼女から教えてもらった目元の涙が示す意味を思い出す。こうして膝を叩いて笑うぼくも、傍から見ればピエロと同じなのかもしれない。傷は癒えても傷跡は残る。だけどそれは、彼女たちの生きた証なのだ。決して忘れやしない。そう心に強く誓ったその時、辺りの照明が消え舞台は暗転した。
 ドラムの音が響き宙に向かってライトが照らし出される。サーカスの花形―――ブランコ乗りの登場だ。
 舞台映えする派手な化粧に孔雀のような華やかな衣装。すらりと伸びた肢体は、もうあの頃の彼女の面影などなかった。
 彼女はスタッフからアイマスクを受け取ると、なんと目隠しをしたままブランコに掴まった。観客が固唾を飲んで見守る中、ひらりと宙を飛ぶフルール。まるでさなぎから孵ったばかりの蝶が、飛ぶ喜びを知り宙を舞って踊っているような演技。予め衣装に仕込んでいたのか、彼女がブランコから手を離して宙を飛ぶ度に、キラキラと鱗粉のようなものが舞いひどく幻想的で美しい光景となった。
 「フルール!」
 気がつけばぼくは立ち上がり叫んでいた。素晴らしい演技に観客席からは割れんばかりの拍手が送られた。
 演技を終え恭しくお辞儀をする彼女。顔を上げた彼女とぼくは、お互いの視線が一つに繋がるのを感じた。
 
 
 二人に手を引かれ走る間、ぼくは思いついてしまう最悪の結果がいかに非現実的な発想か言い聞かせようとしていた。
 大体あの死んでも死ななそうな父さんが―――ゆあーん ゆよーん―――生魚ばっかり食べても下痢しなかった―――そこに一つのブランコだ―――絶対に百歳まで生きそうな―――咽喉が鳴ります 牡蠣殻と―――
 「…くそっ!」
 考えが何もまとまらず、雑音が思考の邪魔をする。何でもいいから否定できる、安心できる材料が欲しいのに。考えれば考える程に意識はバラバラと音を立てて崩れていく。
 こんな未来が欲しかった訳じゃないっ!
 ブランコのように。自分の力で努力すればそれだけ高く空に飛んでいけるような―――引き戻される瞬間が一瞬のように感じられるような人生を送りたいと思っていた。父さんに手をひかれ歩いてきた道が、突然終わりを迎えるなんて。違う、まだ何もわかっていないんだ!
 涙でぼやける視界を乱暴に拭い、ぼくはようやく近づいてきたシンの家に文字通り飛び込んだ。
 「母ちゃ! キアの父ちゃは?」
 台所に立っていたシンの母さんが驚いた表情でぼくらを出迎える。
 「今疲れて寝ちょるさ。キアくんさ、どこ行っちょっ」
 シンの母さんのお小言を無視し、ぼくは父さんが借りている一階の部屋の襖を勢いよく開けた。
 「!」
 その一瞬、誰か違う人が布団に横たわっているのかと錯覚した。近くにいるからこそぼくは、徐々に訪れていた変化へ兆しを見逃していた。
 痩せた頬を誤魔化すかのように生やされている無精髭。以前より窪んでしまった目元。背が高いから気づかなかったのかもしれないけど、そこには隈もあった。乾いた唇からは穏やかな呼吸の音が漏れている。生きている。ただそれだけの事実にぼくは座り込んで安堵した。安心すると今度は身体が小刻みに震えだした。押さえつけていた不安が的中した予感に、耐え切れず押し潰されそうな程恐ろしくて悲しくて呼吸のしかたがわからなくなる。
「大丈夫さー。キアのお父ちゃん、生きちょるさ」
リクがそっと肩を抱き寄せてくれた。柔らかな手の感覚と彼女から仄かに香る甘い匂いがぼくを安心させる。
ゆっくりと深呼吸を繰り返し、ぼくは事情を察した様子のシンの母さんを見上げた。
「…父さんは、病気なんですね?」
「……」
シンの母さんはエプロンで濡れた手を拭くと、台所へ戻りガスの火を止めた。そしてぼくらに背を向けたまま黙り込んだ。
「母ちゃ、知っちょるんさ?」
シンの訴えに僅かに肩を震わせると、腹の奥から絞り出すような沈痛な声で答えた。
「―――余命宣告されちょるさ」
その一言は、今までずっと止まずにうるさく騒いでいた耳鳴りをピタリと消し去るだけの威力を持っていた。
同時にぼくは、自分の身体が加速したブランコから宙に放り出されるような。そんな奇妙な感覚に飲み込まれていくのを、まるで観客にでもなった気持ちで眺めていた。
 
 
 観客が去った静まり返ったサーカス小屋の中に、ぼくはあの日と同じように客席に座ったまま待っていた。
 「お兄ちゃん…?」
 懐かしいその声に、咄嗟に宙を見上げる。けれどそこには彼女の姿はない。完全に闇に同化してどこにいるのかさえわからなかった。
 「フルール…久しぶりだね。フィリックスだよ」
 久しぶりの再会に胸が躍った。彼女の顔は見えないけれど、確かに感じるぬくもりに向かってぼくは話しかけた。
 「あぁ…本当に夢みたいだわ。またお兄ちゃんに会えるなんて。ねぇ、今はどうしているの? 教えて、お兄ちゃん」
 彼女の声は震えていた。彼女もまた再会を喜んでいるのだと確信し、ぼくは静かにこれまでの自身の生き様について語った。
 「―――そんな…っ辛い、事を経験していたの?」
 涙ぐむフルールの声。彼女を泣かせたくなくて、ぼくは首を振って否定した。
 「別れ際にきみがくれたあの手帳…そこに書かれた言葉たちが、何度も力を与えてくれた。きみがいなければぼくは死んでいたよ」
 どんなに言葉を尽くしたとしても感謝し足りない。だけど未だにぼくの前に姿を現そうとしない彼女に対しさすがに不安を覚えた。
 「ぼくはきみにお礼が言いたくて…何か報えるならと思ってきたんだ。けれどどうして隠れているんだい?」
 フルールは答えなかった。長い沈黙が流れるかと思ったその矢先、小さなとても愛らしい赤ん坊の泣き声がぼくらの間に響いた。
 「…私の赤ちゃんよ」
 そう言って舞台裾から現れたフルールは、生まれて間もない赤ん坊を抱えていた。しかしそれ以上に目を惹いたのは、化粧を落とした彼女の顔に残る暴力の痕跡だった。
 「フルールっ!」
 ぼくは咄嗟に舞台に駆け寄った。
 大人になり美しく成長したフルールによく似た赤ん坊が、弱々しい泣き声を上げた。
 「お兄ちゃん…私の、初めてのお友だち」
 赤ん坊をあやしながらフルールはその瞳に涙を溜めた。
 「貴方が私のお蔭で救われたと言うなら、お願い。今度は私を助けて」
 よく見れば服の裾から覗く身体には痛ましい傷跡があった。彼女から差し出される赤ん坊を受け取ると、ぼくは空いている片手でフルールの涙を拭った。
 「このままじゃ、私の赤ちゃんが殺されてしまうの。幸い…団員たちが手を貸してくれるから何とかやってこれたけど、でも…夫から逃げなければ…っ」
 悔しげに唇を噛みしめるフルール。夫からの暴力が子どもに及ぶようになれば、このか弱い庇護者の命は危険に晒されてしまう。
 ふとその時、結婚前にナタリーと交わした言葉を思い出した。
 『もしも私たちの間に子どもが授からなかったら。それはきっと、新たに命を育むよりも今ある命を守りなさいって言う事なのよね』
 まるでそれは、天国にいるナタリーからの啓示のように思えた。彼女の偉大な愛が、この子を救う為に奇跡を起こしているのだろうか。
 「この子の名前は?」
 明るい茶色の髪と同色の賢そうな瞳がぼくを捉える。差し出された小さな手に指を近づけると、赤ん坊は迷わずにぼくの指を力強く握り締めた。
 「キア―――守り手という意味よ」
 キアとぼくは小さな手と大きな指を使って、握手を交わした。
 「…フルール…子どもを育てる上で、一番大切なものは何だろう?」
 基本的な生活を身につけ、教養を学ばせ可能な限り学力を伸ばしてやる他に何ができるだろうか。自分が持てる知識をすべて教え授けてやりたい。どこに出しても困る事のないように育ててやらなければいけない。一人の人間の人生を預かる覚悟をした途端、ぼくはその責任感から無意識に背筋を伸ばし表情を硬くしていた。
 「ねぇ、案外それはとても簡単なものなのよ」
 力を入れていたぼくの肩にそっと触れると、フルールはキアの顔を覗き込み優しく笑いかけた。
 「何よりも大切なのは『笑顔』。どんな時も、親が笑っていたら子どもは安心してくれるの」
 「あーぁ」
 キアの笑顔を見たこの瞬間、緊張していた身体から力が抜けた。長い絶望の果てにぼくは、遂に光を見つけ出したのだ。この子を守り育て、いついかなる時でも笑顔を絶やさないと決めた。
 そう、ぼくはキアの為に笑いを生み出し幸せを与える―――道化になると誓った。
 
 必ず夫と別れて迎えに行く。フルールはそう誓い、ぼくはその日までキアを守り育てると約束した。
 四十にして妻を亡くしてから赤ん坊を育てる事になるとは。平凡だった自身の人生がここ数年にかけて、ひどく波乱万丈なものになった気がする。けれどそれさえも楽しいと思えた。
 世間の目を欺く為にキアは息子として育てた。けれど幼い子どもとどう接していいのかわらかないぼくは、自分自身を一気に幼児退行させる事でそれを解決した。そして家族が残してくれた莫大な遺産を遣い、ぼくは幼いキアに様々な世界を見せて育てようと決めた。
 「父さんっ! そんな道端で座って食べないでよね! 行儀悪いっ」
 しかしその育児方法はキアを急成長させてしまった。すっかり幼児退行した生活が身についてしまったぼくを、キアはまるで大人のように叱り飛ばし注意する。しかもおかしな事に一切血の繋がりもない筈のナタリーにそっくりの怒り方をするのだ。
 ―――そんな彼が愛しくて堪らなかった。
 彼の歩む道からすべての小石を拾い上げ、代わりに金貨をばら撒いてやれたらと思わずにいられなかった。世界中にぼくの息子は最高だと叫びたかった。フルールに瓜二つの顔をして、ナタリーのように情け容赦なくぼくを叱りつけるキア。懐かしくて時にわざと、キアを怒らせてしまう時もあった。
 「脳に腫瘍があります。肝臓の数値もかなり悪く…正直に申し上げるとこの病院では手の施しようがありません」
 頭痛が続き身体の気怠さが改善しなかったので、キアを図書館に置いて病院を受診した。数週間後に再度足を運ぶと、ドクターは一切のジョークを挟まずに病状を説明した。
 「日本に高名なドクターがいます。彼ならある程度の延命も見込めるかもしれません。病状は一刻を争います。取りあえず紹介状を書くの…」
 激しい頭痛と耳鳴りが止まらない。日本へ行ったとしても完治の保証はないと暗に示すドクターの言葉が、何度も何度もこだました。
 病院を出て図書館にキアを迎えに行く間、自分がどの道を通ってきたのか何も覚えていなかった。
 「父さん、遅かったね。風邪薬貰えた?」
 お勧めした本を読んでいたキアが、ぼくに気づくと嬉しげに頬を緩ませた。
 「かもめの本は短いからすぐに読み切ったよ。でも結構面白いね」
 ぼくとフルールを繋いだ一冊の本。その感想を述べる小さな身体を眺め―――まだ彼は守られる側の人間なのだと再認識した。
 「キア、次はアジアへ行こう」
 正直言って、日本での治療を迷っていた。長期間の入院にオペの間、誰がキアを守れるだろうか。最悪の事態に陥った時、誰が彼に胸を貸してやれるだろうか。この先長い道のりを一人で歩いて行く彼を、一体誰が見守ってくれるだろうか。
 親しくなった友人の家に宿泊させてもらったその日の夜。家人の許可を得て、ぼくはパソコンを借りアペリティフサーカス団フルール宛てに一通のメールを送った。
 『ぼくらの最後の旅に、キアを連れて日本へ向かう。そこできみを待つ』
 
 漂流の末に辿り着いた日本でも南端に位置する安師岐島。島民の数は数十世帯と過疎地であった。けれど島民の結びつきは非常に強く人々からは生命の息吹を感じた。ぼくら親子を受け入れてくれた国崎家のゆかりさんは、職業柄すぐにぼくの身体の異常に気づいた。治療を勧められ彼女の働く病院へ向かうが結果は同じだった。
 「ぼくの病気について、キアには黙っていて欲しいのです。そして島民の皆さんには知っていて欲しい」
 猪五郎さんを交えた話し合いの席でそうお願いすると、二人は顔を見合わせ困惑した。
 「キアくんに内緒言うんさ、わかるけど…だーして他にも知らせるんさ?」
 「…彼の母親が迎えにくるまで、父親に先立たれた哀れな子どもを皆さんに守って欲しいのです」
 そして畳に額を擦りつけてお願いした。
 「何卒…何卒、お願い致したいです」
 ゆかりさんはそれでも返答に困っていた。だがそれまで腕を組んだまま黙っていた猪五郎さんが、そっとぼくの肩に触れると
 「男が頭下げちょるんさ。聞き届けん奴さ玉なしも同然さね」
 とよくわからない日本語を交えて了承してくれた。
 キア、キア。愛しいキア。きみが平凡とは大よそ無縁の人生を送っている事に漠然とした不安を抱いているのは知っていた。きみが望むならぼくは、誰よりも恵まれた環境を整えてあげる事だってできた。
 何故きみに敢えて困難な道を歩ませたのか。それは既にぼくが、困難が両手に抱えて持ってきた最高の贈り物を受け取っていたからだ。
 「―――My(Ki) gift(a)…」
 周りの景色が少しずつ輪郭をあらわにし、瞼を持ち上げたぼくを今にも泣きだしそうな顔をしたキアが覗き込んだ。
 キア。きみこそが最高の贈り物。
 
 
「どう、したんだい…キア?」 
 目を覚ますなり父さんは、不思議そうにぼくの頬を撫ぜながら尋ねてきた。本当に呑気でこっちの気持ちなんてお構いなしなんだ。
 「…っと、父さんが」
 声がうまく出せない。全身の筋肉が緊張して、ぼくは腹の奥底から絞り出すようにして尋ねた。
 「父さんが、死ぬって言うんだ…っ」
 笑っちゃうだろ、って。悪い冗談だよねって言うつもりが、続く言葉が出てこなかった。だって父さんが本当に珍しい真剣な表情で、小さく頷くから―――。
 「その通りだよ、キア」
 リクとシンが、二人して同時にぼくの手を痛いくらい握ってくれなかったら。ぼくは気を失っていたと思う。
 何回も口をパクパクと動かして、小分けに空気を吸い込みながら。周囲の音が聞こえないくらいの耳鳴りで頭がどうにかなっちゃいそうだ。
 「…ぼ、ぼくを置いて…島を出るって話を」
 「あぁ…まさかこんなに早く進行すると思っていなくてね」
 まるでちょっと予定が狂ったって程度の、ひどく軽い口調で話すと父さんは肩を竦めた。
 「できたら隠し通すつもりだったけどね」
 「…あ…あ、あ…っど、どうして…」
 必死に抑えていたけれどもう限界だった。全身の震えが止まらない。舌が上手く動かせなくて呂律が回らない。どうして、父さんが死ぬのにこんなに本人は落ち着いていれるんだろう。どうして父さんが死ななきゃいけないんだろう。どうして神様は、ぼくの大切なものを奪いにくるんだろう。どうしてどうしてどうしてどうしてどうして―――
 「子どもは夢を見る事を忘れてはいけない。その為のあらゆる犠牲は、すべて大人が払うべきだから」
 ぼくを。ぼくの両手を握っていた二人ごと抱き締める父さんの身体。広くて大きな胸板は、一体いつの間にこんなに薄くて頼りないものになってしまったんだ。
 「な、何それ…誰の格言…っ」
 この手に導かれて生きてきた。この胸の中に安らぎを見出して育ってきた。この確かなぬくもりと、優しさが失われるのはもっとずっと先だと思っていた。
 「フィリックス・ハーメルの格言だよ」
 痩せ細っていた大きな指が、ぼくの存在を確かめるかのようにそっと頬を撫でる。父さんは笑顔を浮かべそう囁いた。
 「―――うっうわーあぁぁぁ…っ!」
 「あーああぁぁぁ!」
 突然ぼくの両脇で、何故かシンとリクが大声をあげて泣き出した。
 「…ち、ちょっと! なんで二人が泣くんだよっ」
 一瞬呆気に取られそうになったが、慌てて突っ込むと泣きじゃくりながらリクが答えた。
 「キアが泣くのを我慢しちょるから…あぁぁぁ! う、うちが代わりに…っ」
 「泣くに決まっちょるさー! うわーあぁ」
 「ちょっと…やめてよ…子どもみたいに…泣くなんて…うふっ…う、うーああぁぁぁ」
 人前で大声を出して泣くなんてみっともないと思っていた。だけど泣きながらぼくは気づいていたんだ。父さんは、どんな時でもどんな状況に陥っても、ただの一度だってぼくに涙を見せなかった。
 今も口元に微笑みすら浮かべてぼくらを優しく抱き締め宥めてくれている。死が恐ろしくない筈がないのに。ぼくを残していくのがきっと、とてつもなく悲しい癖に。父さんは目元に一滴の涙さえ見せず、いつだって笑っている。
 その笑顔を、ぼくは、失ってしまうのか。
 
 
 
 
 
 
 
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