片足を失くした人魚

青海汪

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第六話 塔に住む短髪の姫君

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サトルたちと出かけてから数日後の事だった。それまで何ら変化もなく、私も徐々に警戒を解いていた頃だった。登校して下駄箱に入れられた一通の手紙を見つけるまでは。
 ノートの切れ端に書かれた短い文章。
 『昼休みに屋上の階段にきて欲しい』
 これまでもらった手紙の中でも特に素っ気ない内容だった。誰かに見られても面倒なのですぐに破って捨てると、私は昼休みまで何気ない風を装い授業を受けた。
 「琳子ちゃん、お昼食べないのー?」
 授業が終わり賑やかな雰囲気に一変する教室から出ようとしたところで、クラスメイトの一人に声をかけられた。
 「ごめんなさい。少し用事があるの」
 手を振って教室を後にしようとした瞬間、彼女たちの間で声のボリュームが下がった事に気づいた。どう噂されようと仕方ない。どれだけ普段から振る舞いに気をつけていたとしても、一瞬で人と人の繋がりなんて崩れるものだから。
 人目につかないよう注意しながら屋上へ繋がる階段を上ると、そこには既に先客が待っていた。
 「あ…琳子ちゃん」
 私に気づくとケータイの画面から顔を離し、少し戸惑ったような表情を浮かべた。こうして改めて対面するのは数年ぶりになる。ちよの兄―――向井とは、車のガラス越しに顔をあわせた程度の面識だった。
 「何の用ですか? …向井先輩」
 翠と同じ年で確かディランと同じフェンシング部に所属していた。部内での活躍は特にないけれど、クラスメイトとも仲が良く彼の評判は特別悪くはなかった。けれど一方では明るい陽気な性格でありながら、時々自分よりもカーストの低い生徒に対し辛辣な発言も見られていた。
 「えっと…さ、この前妹から連絡きて…琳子ちゃんたちに会ったって言うから」
 威嚇するつもりはないけれど、毅然とした態度で彼の目を見据える私を直視できないのか彼はチラチラとケータイに視線を向けながら言葉を紡いだ。
 「いや、ほら。あれ…あの事件の話したのか知らないけどさ、妹も俺も被害者みたいなもんだし。わかるっしょ?」
 真っ黒な画面はいくら彼が触っても何の反応も示さない。電源を切っているのか、それとも壊れているのか…と思想を巡らせふと翠の顔を思い出した。
 「…そうですね。とても哀れで可哀そうだと思います。いくら同情しても足りないくらいに。辛かったでしょうね。マスコミが次の餌食を見つけるまでの間…被害者なのに、まるで犯罪でも犯したかのような扱いをされて。そしてマスコミが退けば次は周囲の好奇心に晒されて」
 「そ…そう! だから俺も辛かったし、何より妹も大変だったから…アイツ、おかしな事言い始めて、しばらく療養した方がいいって感じになってそれで…」
 「―――次の餌食に私たちを差し出そうとしたのは、決してご自身の保身の為だけではないといいたいんでしょうね」
 にっこりと微笑みながら。私は表情に気をつけて、言葉の先にまで思考を巡らせて紡いだ。蒼褪める先輩の顔を見詰めながら。
 「成績優秀、品行方正。どんな点に於いても完璧と評される私の兄と張り合うのはさぞ大変でしたね。でも安心して下さい。誰も先輩にそこまで興味を持って見比べていなかった筈でしたから。それとも…あの可笑しな動画をアップして、そこそこ再生回数を稼いでつい注目されているとでも思われました? ふふ…想像力が豊かね」
 「…あ…や、やっぱり…お前等がやったのかよっ! 俺の家の電化製品全部おかしくなったのって」
 沈黙したままのケータイ画面を突き出し先輩は勢いよく捲し立てた。
 「何の事を仰られているのかわかりませんが…一介の高校生にそんな真似ができると思っていらっしゃるんですか? それに私は機械系って苦手で…」
 「由良川ならっ! 兄貴の方なら…アイツはかなり電子系に強かっただろっ。将来は電子工学系の分野に進みたいって言っていた」 
 「あら、兄の事を随分とよく御存じなんですね。電子工学…そう言えば、むかしそんな事も言っていた気もします。けれどそれは先輩の空想のお話ですね。本当に想像力が豊かで…だから、私たちが一切の血の繋がりもないだなんてデマを作りだしてマスコミに売り出そうとされたのかしら」
 「いや、だから…それは」
 「確かに私たちは似ていないわね。けれどそれは、私の父がイギリス人だから。兄の父親はアジア人。人種が違うのだから異父兄弟でも似ていないのは当然。きっと当時のマスコミもそこらへんの裏はとったから、そんなデマを買いとったりしなかったんでしょうね」
 「………」
 俯いたまま握り拳を震わせる姿にそろそろこれ以上の追及は控えようと思ったその時、彼は真剣な表情を浮かべ私を見据えた。
 「―――半分でも血が繋がっている兄貴が、妹をあんな風に見る訳ねーって」
 
昼休み。屋上の花壇に植えられた花々を眺められる特等席を陣取って、ディランは持ってきていた銀色のシートを引いた。面積はさほどないが、二人座るには十分な広さだ。
天気もよく穏やかな風も吹いていて、心地よい。
「久しぶりに二人きりだね」
普段なら約束する日向や琳子とは今日は約束が取れていなかった。
「琳子ちゃん、何か言ってた?」
サトルに座るように促した。
「それが最近模試が続いて…あまり会えてないんだ」
溜息まじりに呟きサトルは二人分のお弁当を広げた。
「まぁ、クラスが違うし仕方ないけどね」
「そっか、残念だね」
「……何となく、あの日みんなで帰ってから忙しくてゆっくり話せていないから少し気になってはいるんだ。そう言えば日向は琳子と会っているのかな?」
手紙の主の件を思い出して、ディランは息を吐いた。
「日向君は自分からそういう話するタイプじゃないからね。会ってるかどうかはちょっと分からないな。今度、それとなく聞いてみようか?」
「あ、いや…いいんだ。そこまで踏み込むつもりはなくて、知っていたらと思って」
顔を赤らめ手を振り否定すると、サトルは持ってきた弁当をディランに勧めた。
「そう? じゃ、保留で。…ふふ、サトル君のお弁当、すっごく楽しみにしてたんだよね」
勧められたお弁当をディランは笑顔で受け取った。
「そう言えば、二人きりって久しぶりだね」
「そうだね。このところ、四人で行動することが多かったし、お昼もみんな一緒だったしね。あれはあれで楽しいけど、今日はサトル君を独り占め出来て幸せ」
普段は少し離れて座ることが多いのだが、この時ばかりはとディランはサトルを引き寄せ、近くに座るよう促した。
「……」
恥ずかしげに頬を染めたがディランに寄り添うように座った。
「ふふ、可愛い」
そばに座ったサトルを愛しげに見つめると、彼女の頬に軽く口付けた。
「じゃ、せっかくサトル君が作ってくれたお弁当、食べようか」
「うん、いただきます」
しばらく口づけられた場所を押さえて赤くなっていたが、促されてサトルもおにぎりを手に取った。
「あ、そう言えば結衣子さんから琳子のご両親の写メが送られてきたんだ」
ケータイを開き画像を見せた。
若い頃の写真を撮ったものらしく、琳子の母と父が別々に写されていた。
「こうして見ると琳子は母親似だね。ぼくとは大違いだ」
「そうなんだ。あ、じゃあサトル君は父親似?」
琳子の父親と母親の画像を見た後、確かに顔立ちは似てるかもと思いつつ、サトルへと視線を戻した。
「うん。画質が悪いけどこれ…両親の写真」
言いながら仲睦まじい様子の両親の写真をディランに見せた。
「ふふ、ご両親仲よさそうだね」
「母さんがね…ベタ惚れで。そう言えばディランはどちらに似ているの?」
「ん~、あったかな…」
自身のケータイから画像を探し出し、サトルに見せた。壁に掛けられた大きな肖像画を撮ったもので、そこには金髪の柔らかなウェーブがかかった赤みがかった紫色の瞳の女性がにこやかに椅子に腰掛けており、そのそばに銀髪に青い瞳の男性が険しい顔つきで寄り添い立っていた。
「一家全員の絵も昔はあったらしいんだけど、今はこれしか残ってないみたいで。あ、こんな険しい顔してるけど、別に母を嫌ってた訳じゃないみたい。むしろ、その逆。表情に出すのは苦手だけど、溺愛してたみたいだよ」
「そうなんだ。綺麗な方だね。ディランは母親に似てる」
「そうだね。兄二人は父親似なんだけどね。サトル君は母親に似たところとかないかな?」
「体格と瞳の色は母さん譲りだよ」
「あ、ホントだ。サトル君の綺麗な青い瞳ってお母さん譲りなんだね」
「ありがとう」
はにかみながら微笑んだ。
「ディランの瞳も綺麗だよ」
「ありがとう。サトル君にそう言ってもらえると嬉しいよ」
母親と違って赤ではなく、青みがかった紫色の瞳をやや細めてディランは笑みを浮かべた。
「そういえば、最初に見せてもらった琳子ちゃんの両親の写真、琳子ちゃんの髪とか瞳の色とか父親譲りなんだね」
「そうだね。でも他の部位はお母さんによく似ている」
琳子の母は真っ直ぐな黒髪に猫のように大きく見る者を引き寄せるような瞳を持ち、その容姿は琳子によく似ていた。対する父は柔らかそうなふんわりとした茶髪で、穏やかな雰囲気の紳士だった。
「確かに、雰囲気や顔立ちはお母さん似だね」
「日向はどっち似なんだろうね」
「う~ん…。日向君のとこって写真とかないみたいんなんだよね。絵姿とかも僕のとこと違って写実でもないし。日向君に聞いた話だと、日向君本人はお爺さん似らしくて、父親に似てないからって一時期問題になったらしいよ」
「そうなんだ。…面倒な話だね。要は妻を信じていないんだろ」
小さく息を吐きよく晴れた空を見上げた。
「日向はやっぱり里帰りはしないんだろうなぁ」
「日本に来てから連絡はたまにするけど、帰ってはいないみたい。しないんじゃないかな」
ディランも静かに息を吐くとサトルを振り返った。
「サトル君は? 里帰りとか考えてるの?」
「夏休みに帰るよ。でもみんなで夏祭りには行きたいな」
「あ、前に話してたよね、夏祭り。ふふ、楽しみだよ。今度、日向君や琳子ちゃんいる時に予定を確認したらいいね」
「うん。あ、ディランは浴衣着るんだよね?」
「着たいと思ってるんだけど、そもそも持ってないんだよね。お店も詳しくないから、今から調べないとだね」
「よければぼくも浴衣を買いたいから一緒に行かない?」
「ホント?」
サトルの言葉にディランは目を輝かせた。
「やった。うん、じゃあ、一緒にお店に行こう。サトル君の浴衣姿すごく楽しみだよ」
「はは、ありがとう。じゃあ、また予定立てようか。…ところでさ」
少し言いにくそうに尋ねた。
「例のちよの兄の向井…って確か同じ部活だよね。何かあれから変化とかあった?」
「向井君?  そう言えば、最近家の通信機器が全部ダメになったってボヤいてたよ。オール電化だったから、お風呂もキッチンも使えなくなったっていうのに、本人はパソコンとケータイがダメになったのが一番キツイって言ってたかな」
「電化製品が? 何でだろ…」
「最近、近くで雷が落ちたとかも聞かないしね。どこかで電気工事でもしてたのかな」
「ふぅん…」
何となく腑に落ちない様子で頷き答えた。
「妹からぼくらの事は聞いてないみたいだね。琳子に手紙を届けたりと、割と関わっていると思っていたから意外だけど」  
「あまり交流がないのかもね。向井君から妹さんの話あまり聞いた事ないし」
ちよの件を思い出し、ディランは息を吐いた。
「…そうなんだ」
「引きこもってたんだっけ、ちよちゃん。住まいが離れてるから、やりとり自体は少ないのかもね」
「同じ事件の被害者でも、明暗がわかれたね。まぁ、当たり前か」
「当然でしょ。当人達の心構えが全然違うんだし。むしろ、琳子ちゃんや翠君と比較するのが失礼なくらいだよ」
「ディランの言う通りだ。だけど…もし翠さんの立場なら、やっぱり琳子に対して複雑な気持ちを持つかもしれないなって思って」
琳子のストーカーが引き起こした事件を思いサトルは複雑そうにぼやいた。
「まあ、そうなるよね。理性で理解は出来ても感情はそうはいかないし。とはいえ、翠君はわりと理性お化けな側面があると思うけど」
「理性お化けって…」
ディランの表現にサトルは口を開けて笑った。
「感情に任せて爆発ていうのは早々ないかなと。まあ、ある場合は末期状態だろうとは思うけど」
「…末期かぁ。にしても、よくわかるね。翠さんみたいな人を知っているの?」
「んー。具体的に誰って訳じゃないけど、そうなのかなって、前デパートで話した時に思ったよ。鉄面皮は世渡りには向いているけど、当人がどこかでガス抜きしとかないと大変な事になるんじゃないかと琳子ちゃんとは別の意味で危うさを感じたかな」
「兄妹揃って変に不器用だね」
「かもね」
ディランは苦笑した。
「…あ、誰かきたみたいだ」
サトルはドアの向こうから聞こえる話し声に耳を澄ませた。普段屋上は学生の出入りが禁じられているが、サトルのような園芸部員は花の世話があり交代で屋上の鍵を預かる。
なのでドア越しに密談をする生徒たちは、恐らくドアを挟んでサトルたちがいる事にも気付いていないようだった。
「…琳子の声だ」
 相手方は男子生徒のようだ。二人の会話が始まると薄い扉越しにそれが聞こえてきて、サトルは少し気まずげにディランと息を潜めた。
 「―――半分でも血が繋がっている兄貴が、妹をあんな風に見る訳ねーって」
サトルは思わずディランを見た。サトルと同じく二人の会話に聞き耳を立てていたディランは思わず立ち上がり、静かに屋上の扉の前に立つと勢いよく扉を開いた。
「ホント、よくもまあ、下世話な想像が出来るものだよね。他に聞かれてないと思ったら、 ここまで薄汚い本性さらけ出しちゃって、未だ被害者気取りとか、頭おかしいんじゃないの? 可愛い後輩の女の子捕まえて、脅迫とかさ、最低だと思わない訳?」
開けた瞬間見えた向井の背中を蹴り飛ばした。
「琳子っ!」
「……っ?!」
突然の登場に琳子は青褪めた。サトルと目が合うもののそのまま勢いよく階段を駆け下りた。
「琳子っ! 待てよ!」
慌てて後を追いかけようとしたが、サトルの体力では到底不可能と早々に悟り、咄嗟にケータイを取り出し日向にかけた。
「…もしもし、日向?」
 
 
その日、日向は教室で友人達と昼食を摂っていた。このところ、ディランやサトル、それに琳子との四人で食事を摂る事が多かったが、いつもという訳ではない。
「あれ? ひなちゃん、電話鳴ってる~」
「は?」
いい加減呼び方を改めて欲しいと関に指摘するのも忘れるほど珍しい着信に日向は思わずケータイを凝視した。友人やバイト先の店長、日向の交友関係はディランほど広くはない。番号自体、信頼できる人にしか教えていないのであるが。画面に表示された名前に日向は目を見開いた。
「…出ないのか?」
「いや、出る」
友人達に断って席を立つと日向は教室の外へと移動した。
「…遅くなって悪い。どうした?」
まさかサトルからかかってくるとは思わなかった。普段かけてこないだけに、何か妙な感覚があった。
「休み時間にごめん。琳子が…ちよの兄貴に絡まれてそのままどこかに行っちゃったんだ」
床に手をつく向井とその傍に佇むディランを一瞥し
「この大馬鹿野郎はぼくとディランがお灸を据えるから、琳子を…探してくれないかな。……傷ついている筈だから」
「…分かった。すぐに探す」
何がどうなったのか、混乱する情報ばかりだったが、このままにしておく訳にはいかない。手短かに電話を切ると、日向は教室に残してきた友人達に声をかけた。
「…悪い、急用が出来た。ちょっと出てくる」
「えー、用事っ」
「気にせず行ってこい」
思わず不満の声が出る関を制して、須藤がいくよう 促した。
「日向~、今度埋め合わせしろよな」
相変わらずの気の抜けるやりとりを尻目に日向は教室を出た。
休憩時間中とあってどこの教室も廊下も生徒たちで 溢れていた。普段使わない空き教室も、人が普段は使わない階段にも誰かがいて昼食を摂っていたりした。一人になりたい時、決して校舎には向かわないだろう。屋上には既にディラン達がいたのだから、それもありえない。
ちよの件は日向からするとどうにも消化不良だった。ただ、解決すべきは当人達の問題であり、第三者である日向が納得するかどうかは問題ではない。
ただ、あの時会ったちよは日向の目には怯えた無力な少女に見えた。あの出会いと話し合いとも言い難い機会を通して問題を解決出来たようには思えなかった。
その兄というだけで、嫌な想像が膨らんで日向は慌てて、その想像を掻き消した。
ディラン達がいてくれるなら問題の兄が再び琳子に追いつくことはあり得ない。
校舎を出て中庭を回って、グラウンドを視界の端に収めながら、人通りの少ない場所を目で追って、実際にいくつか走ってみて。
体育館裏で、琳子の姿を見かけた。
「…ここにいたのか、琳子」
声をかけられ、琳子は振り返った。
その目には涙はない。だが、必死に涙を堪えていたのか赤く染まっていた。
「……」
「…サトルから、粗方話を聞いた。ちよの兄に絡まれたって…」
詳しい状況や何を話したかまでは分からない。ただ、今にも泣きそうな表情の琳子は初めて見た。ちよに対峙した時でさえ、凜として心の内を表に出さずに立ち回っていた姿を思い出すと、今の彼女がどれだけ酷く傷ついているのかがよく分かった。
「…脅迫、されたのか…?」
ちよの兄ということを考えると、十分に考えられる。他にも酷い罵詈雑言があったのかもしれないが、日向には浮かびそうになかった。
「…何でもないの」
琳子は気まずそうに首を振った。
「何でも、ない訳ないだろ…。その、言いにくいことだとは思うが、何もなくて、そんな風に傷ついたりしないだろ」
「……」
俯き琳子はしばらく黙り込んだ。
「誰にも知られたくないの…」
「それは…サトルにも、か…?」
琳子にとって誰より信頼できる親友が浮かんで思わずポロリと言葉に出た。
「……っ」
グッと唇を噛み締めると琳子は悲しげに日向を見つめた。
「…私だけの事ならいくらでも我慢できるわ。けど…何も後ろめたい事なんてなくても、いつも世間は一方的に私たちを評価していくじゃない」
息を吐き出し琳子は続けた。
「私たちは何もやましい事なんてないのに、事実だけを見て真実まで決めつけて…っ。私も翠も…」
涙が込み上げてきたが、琳子は必死にそれを堪えた。
「………」
言葉に詰まった。こんな状態でさえ、必死に堪えようとする琳子を見ていられなくて、堪らず伸ばした手で涙を堪える彼女の肩に触れた。
「…吐きだせばいい。無理して堪える必要なんて、ない…。琳子はこれまでよくやってきてる…。琳子の評価は……よく知りもしない他人が勝手に決めつけるものじゃない…。勝手な決めつけを聞く必要は、ない…」
「……っ私たちは…お互いを心の支えにして、いたけど…っでも、例え本当の、兄妹じゃなくて、も…っ周りが邪推するような後ろめたい関係じゃなかったわ…」
肩を震わせ苦しげに息を吸いながら琳子は話した。
「何かあれば…あの親だから、あの家族だから…って…! 私たちの価値はいつも先入観で塗り潰される…っ。もう、うんざりよ……」
「琳子…」
あまりにも酷過ぎる。周囲の偏見に満ちた目や噂、世間という言葉に隠れた不特定多数むの人間の評価だというからぞっとする。特定の誰かなら、その言葉の矛盾を指摘してはねのけることも出来たかもしれないが。相手は特定の誰かなどではない。それを事件からずっと受けてきたと思うと、かける言葉が見つからなかった。
ただ、今の琳子の心の内を少しでも軽くしたいとそれだけで。自分でも答えが見つからないまま、震える彼女の背にそっと手を添えた。
「…見てないから、泣きたければ泣けばいい」
「………っ」
琳子は俯き顔を隠すと声を殺して涙を流した。
「………」
視線を逸らしつつも、落ち着かせるように、涙を流す彼女の背を優しく撫でた。
しばらくして落ち着くと、琳子は目元を隠し日向からそっと離れた。
「…ごめんなさい…顔を洗ってくるわ」
「…ああ、そうだな。分かった」
少し落ち着いたらしい琳子を見て、やや安堵したように表情を和らげた。
 
体育館裏の手洗い場で顔を洗ったけれど、泣き腫らした目はまだ熱を持っていた。目元の赤みがマシになるまでぼんやりとしている間、私の思考は止まったままだった。
既に昼休み時間は終わって午後の授業が始まっている。もしかしたら教室に戻っているかもしれないなと思いながら先程の場所へ向かった。
「…落ち着いたか?」
体育館裏に残っていた日向は私の姿を見るなり、まだ心配そうに尋ねた。
「……」
意外だと思ったのは―――もう行っていて欲しかったからか、それとも彼ならまだ残っているような気がしたからか。自分でもよくわからないまま小さく頷いた。
「…授業は…?」
「……さっき関に連絡して、遅れるから授業のノートをとっておいてくれと頼んだ。このまま途中で放り出す訳にはいかないと思ったんだが、…迷惑、だったか…?」
私の指摘に気まずい表情を浮かべ、苦笑した。
「まさか…」
ふふ、と笑い肩を竦めた。
「ありがとう。それと、ごめんなさい」
「……? 琳子が謝るところはないと思うが」
感謝を穏やかな表情で受け入れた後、不思議そうに目を丸くした。
「色々と気を遣わせてしまって、ごめんなさいって事よ。本当に…ありがとう」
「なら、よかった。…そうだ、サトルに連絡を入れないといけないな。電話しても、構わないか?」
「…でも、授業中じゃないかしら」
言いながら、もしかしたら向井を締めている最中かもと少し胸がすっきりした。
「ああ、そういえばそうか。なら、もう少し後にした方がいいな」
私の言葉に納得した表情を浮かべた。
「……その、掘り返すようで悪いが、ちよの兄貴には呼び出されたのか?」
「えぇ」
「脅迫されて、暴言を吐かれたという事だよな…」
そこまでは先ほどの言葉から十分に推測できたのだろう。
「怪我は? …そいつに何かされなかったか?」
「脅迫…」
繰り返し呟き私は少しばかり考えた。
「彼の妹と会ったと聞いて、弁解したがっていたみたいよ。話すうちに私もきつい言い方になってしまって、彼を刺激してしまったんだと思うわ」
つい頭に血が上っていた上に、また周囲を巻き込んでしまう結果を生み出してしまい私は肩を竦め苦笑した。せめて翠みたいに、もっとスマートな報復の方法を考えればよかった。
「怪我が心配なのは向こうの方よ。ディランが蹴り飛ばしていたから」
「…ディランが」
私に怪我がないと聞いて安堵するも、ディランのくだりで思わず吹き出しそうになるのを抑え、日向は息を吐いた。
「…悪い。ディランが話をややこしくしてないといいが」
「貴方が謝る事じゃないわ」
ふふ、と笑ってから私は先ほどからどう切り出せばいいのか困っていた話題を出した。
「さっきの話だけど…私たちが、実の兄妹じゃないって件は…サトルしか知らないの。お願いだから黙っていて」
「…分かった。秘密にすると約束する」
彼は素直にしっかりと頷いて約束してくれた。きっと彼ならば、それを生涯秘めて漏らさずにいてくれるだろう。私にはそれを信じるしかできないけれど、だからと言って彼に何らかの保険をかけておく必要は感じられなかった。
「………」
しばらく日向を見詰め静かに微笑んだ。
「…どうした?」
日向は目を丸くして尋ねてきた。
「優しいなぁって思って」
「は? いや、優しいって、これがか?」
完全に予想もしていなかった反応に日向は面食らった表情を浮かべた。
「その、友人なんだ。…心配するのは当然のことだろう…」
そこまで話して日向はハッとしたように頭を抱えた。
「どうしたの?」
「あ、いや…」
やや言葉に詰まった後、意を決したらしく改めて姿勢を正すと深々と頭を下げた。
「申し訳ない。友人だ何だと言いながら、先ほどのこちらの距離感は友人の枠を越えていた、と思う。琳子に不快な思いをさせる気は毛頭なくてだな…」
「あら、大丈夫よ。ふふ、あのくらい、気の知れた友だち同士なら普通だわ」
「そ、そうなのか…? いや、同性の友人ならともかく、問題ない、のか…? その、許可もなく肩や背に触れて…あ、いや。琳子が気にしないなら、いい…」
折に触れて感じていた点でもあったが、彼の国では男女の風紀に関する事に於いてはそうとう遅れをとっている印象だった。もしかしたら異性の友人という概念すらないのかもしれない。
だからこそ、時々わからなくなる。彼の優しさは初めての異性の友人に対する過剰な反応の結果なのかどうかを。
「…悪い。こういうのは不得手で、間違えていたら指摘してくれ」
首を捻ねりながら応える彼を見てさすがに私も補足をしておくべきと気づいた。
「とは言え、私も異性の友人となると海外生活の長い子ばかりだから日本人男性はあまりここまで積極的ではないわね」
「…あー。悪い、ディランの影響は多大に受けている可能性はある…。そういえば関や須藤から女の友人の話を聞いたことはないな…」
気まずい様子で日向は視線を逸らした。
「ただ、あれは琳子だったから、なんとかしたいと思っただけで、軽はずみな訳では…あ、いや、今話してるのはそういう話ではないな」
「優しさから出た行動を、疎ましく思う理由はないわ」
「…なら、よかった」
ホッと安堵した表情を浮かべた。
「…いや、よくないな。ちよの兄貴がこの学園に通っていることを考えると何か対策をとらないといけなくなるな。今回の件で逆怨みして更に過激な手段に出る可能性がある」
「……多分、それは大丈夫じゃないかしら」
少し考えてから私は意味深に笑った。
「あの二人がお仕置きしてくれているなら、逆恨みなんて馬鹿な真似をしようだなんて思わないでしょう?」
「…確かにそうだな」
サトルとディランのことを考えると納得した表情を浮かべた。
「…悪い。まだ本調子じゃないのに、酷な話をした」
「あら、そんな柔じゃないわよ」
もうすっかり気持ちは落ち着いている。けれど未だ授業の最中であろう校舎に目を向けると、面倒な問題ばかりな気がして苦笑してしまった。
「けれど今日はもう早退するわ。授業が終わったら鞄をとってくる」
「そうだな、その方がいい」
そこまで話して日向は少し躊躇った後、口を開いた。
「一人で大丈夫か? その、もし問題なければ、途中まででも送るが」
「ありがとう。でも大丈夫よ」
「そうか。なら、気をつけて帰ってくれ。何がありそうなら、僕かサトルにでも連絡してくれ」
「ありがとう」
微笑む私たち背後で授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
 
 
その後、教室に戻ると完全に全ての力を出し切った様子の関が机にぐったりと突っ伏していた。
「…起きているか?」
「ん」
ポンと出来たノートを渡された。約束自体は守ってくれたらしい。
「悪いな」
「ホントだよ~。普段はオレ、授業のノート見せてもらうタイプなのに~。まさか、マジで一時間完全にサボるとか思わなかったって」
授業に遅れる旨を連絡できたのは授業が始まる寸前で、結果普段きっちり授業ノートを取る須藤とは連絡がつかず、結果、授業中でもケータイを確認する関に頼むことになったのである。
「サボりなんて初めてじゃないか?」
普段からきっちりと授業を受けている須藤が不思議そうに目を丸くした。
「ああ。まあ、そうだな」
これまで記憶にある限り一度として授業をサボったことはない。
「で? きゅーよーは? なんだった訳?」
「その、個人的な話で、悪い…話せない」
琳子のことを考えると日向は結局口を噤んだ。
「え~」
「話せないが、二人には感謝している。この借りは」
「昼メシ一回、日向の奢りで」
ちゃっかりと日向の言葉を遮って話す須藤に関が不満げに口を開いた。
「ちょ、ノートとったのオレなんだから、オレはデザート付きで」
相変わらずの馬鹿なやりとりになんだかホッとするも、先ほどまでの琳子の姿が頭にチラついて日向は落ち着かなかった。
 
すべての授業が済みホームルームも何事もなく終わった。生徒たちは部活動やら帰宅の準備にとりかかり、教室内は少し煩雑としていた。
「日向」
「あ」
ちょうど日向に話しかけようとしていた関が思わず声を出し、一瞬妙な間が出来た。普段、サトルと日向が日常的に話すようなところがなかったため、関や須藤からしても違和感があったらしい。
肝心の日向はというとこうなることが分かっていたかのように、特に取り乱した様子はなかった。
「…悪い、関。少し用があるから、用件はまた次の機会にしてくれ」
「…あ、うん」
普段なら日向が女子に話しかけられたとからかうところなのだが、実際に女子を前にすると途端に大人しくなる関に既に荷物をまとめた須藤が話しかけた。
「行くぞ、関」
「ええ~、ちょ、なんでだよ」
ブツブツ文句を言いながらも、関は須藤に連れられて出て行った。
「…騒がしくして悪い。ここはなんだから、移動するか」
帰る準備を終えた日向が荷物を持って立ち上がった。
「そうだね」
頷くとサトルはケータイを取り出すと素早くメッセージを送った。
「行こうか」
教室を出て廊下を歩き出すが、放課後ということもあって廊下も人で溢れていた。部活に向かう生徒もいて、騒々しい。
「使ってない空き教室でも探すか」
「視聴覚室が委員会が始まるまで空いているはずだ」
二人で歩き出すもサトルはやや日向から距離を開けた。
「なら、そこにするか」
会話もそこそこに日向は視聴覚室へと歩き出した。不自然に距離が開いているし、日向が先を行く形になってしまった。着いてきているか不安だったが、周囲の視線もあってどうにも振り返ることも出来ず、歩調を緩めるだけに留め、どうにか視聴覚室にまで辿りついた。
「…悪い。こちらから事前に連絡を入れるべきだった」
琳子と別れた際、琳子を見つけた旨をサトルに電話したのだが、あいにく繋がらず用件だけを手短かに留守電に残しただけだった。友人想いのサトルのことを考えれば、明らかに説明不足で、もう一度きちんとした連絡をするべきだった。
「あ、いや。…それよりぼくこそ、不用意に教室で話しかけてしまったから、悪かったなと思って。一応ディランには連絡しているから歪曲して伝わることはないと思うけど」
サトルは申し訳なさげに苦笑した。
「なら、いいんだが」
周囲の目もあるが、一番の警戒要素は悪友であり、サトルの恋人でもあるディランだった為、日向はホッと胸を撫で下ろした。
「昼間、連絡してもらえて助かった。あの状態の琳子を一人にしておくのは流石に問題だったと思う。話を聞いて落ち着いてから、琳子は早退したんだが、連絡が遅くなって悪かった」
「そうだったんだ。そうか…よかった」
胸を撫で下ろし安心した。
「ありがとう、日向」
「…ああ」
対応が不十分だったと指摘を受けるかと覚悟していた為、やや面食らった表情を浮かべた。
「…何があったんだ? 一応、琳子から話は聞いたんだが、実際に見た訳ではなくてだな。あまり力になれたかは分からないんだが」
「…琳子から、どこまで聞いた?」
「…向井に呼び出されて脅迫されたと。暴言や罵詈雑言もあったらしいんだが具体的な言葉はあまり聞いてないな」
そこまで話して日向は少し口を噤んだ。サトルには既に話してあるとは聞いていた件。
「あとは…兄との仲をひどく言われたと」
「…あぁ」
何と言えばいいかわからず黙り込んだ。
「とりあえず…その通りだよ。兄妹間の事を勘繰った発言があった」
「…一卵性の双子じゃあるまいし、まして父親が違えば似てなくて当然なんだがな…。向井は何か根拠でも見つけて発言してたのか?」
サトルに話して言いものなのかと考えを巡らせつつ、気になっていたことを口にした。
「……ぼくも、数回しか翠さんに会っていないけど…ましてや、今は翠さんに恋人もいるようだし。だけど…今の翠さんは琳子をとても気遣っているし琳子もそうだ」
「あ、いや。一度も会ってもいない僕が言うのもなんだが、こちらが琳子と兄の仲を疑っていた訳じゃなくてだな」
想像とはまるで違う返しに日向は聞き方を間違えたことに気づいて気まずい表情を浮かべた。
「向井が兄妹仲を疑うに足るような何かしらの情報でも流れた可能性があるのかと、思ってだな…。単なる妬みの言いがかりなのか、気になって聞いたんだが。悪い、聞き方を間違えた」
「…ごめん、それはわからない」
「そうか、悪い。根拠のない言いがかりならまだいいんだが」
琳子の気持ちを考えるとそれすら問題だが、日向は結局姿勢を正してサトルを見た。
「…悪い。琳子から事情は聞いた。僕が聞いていい話だったかは分からないが…」
「話してもいいと思ったのは、琳子だろ。聞いた以上…ぼくも、放ってはおけない」
「…そうだな。こちらも途中で投げ出す気は毛頭ない。その、悪いが、琳子のことで何かあれば連絡をくれないか? 友人として、何が出来るか分からないが、少しでも力になりたい」
「それは構わないけど…」
言い淀み日向を見た。
「それは本当に、友情なのか?」
「……そう、だと思うんだが。何分、これまで女の友人がいたことがなかったから、何かしら、間違えているかもしれないな…」
確信が持てず、日向は言葉に迷った。
「間違え?」 
意味がわからずサトルは首を傾げた。
「…正直、距離感がよく分からない。琳子が困っていたら、力になりたいと思うし、話すのも有意義に過ごせていると思う。ただ、同性と違って女の友人だと距離感が違うのかもしれないが、その一般的なものが分からなくて完全に手探り状態な訳なんだが」
「……例えば、ぼくが琳子の立場に立たされたとしても日向は同じように行動した?」
「あ、いや、それは」
即答出来ず、日向は言葉に詰まった。
「…お前の場合、ディランがいるだろう。僕がしゃしゃり出ると返ってややこしい事態になる。まあ、ディランがどうしても動けない事態なら、当然助けに入るが、判断に少し時間がかかるかもしれない」
「出来るだけすぐに動くようにするが」と日向は付け加えた。
「………」
なんとも言えない表情でサトルは溜息を漏らした。
「…そういえば、琳子の時はそういう問題はいちいち考えなかったな。考えるより先に動いてしまった」
「……理性より身体が先に反応したって事だろ。…ぼくも…経験値なんてほとんどないから、ディランみたいに的確なアドバイスなんてできないけど。でもいまの今のままじゃ、二人にとっても良くない気がして…お節介とは自覚しているけど言わせて欲しい」
日向を真っ直ぐ見詰め
「琳子は…自分に好意を寄せてくる人に対して、ひどく警戒する節がある」
「…あー。それは、どういう意味だ? 友人はいらないとかいう意味ではないよな?」
「…ごめん、うまく説明できないけど友だちがいらないと言う訳じゃないんだ。でも…琳子はいつも彼女に何らかの好意を寄せる異性から、徹底的に距離を置くから」
「…好意を…。悪い、その、自分の気持ちをまだ理解出来てないところがある。琳子とはいい友人でいたいと思っているが、その、あまり踏み込まないように努力はする…」
どうにも断言出来ず、日向は息を吐いた。
「その、琳子が距離を置きたがるのは例の事件のせいか?」
「そう考える方が妥当かなとは思っているけど、本人から聞いた訳じゃない。あくまでぼくの想像だから」
「…他にも何かあるのか?」
「それこそ邪推になるから、琳子から直に聞くまでは言いたくない」
「まあ、そうだな」
憶測で物事を語るのもどうかと思い、日向は納得した表情を浮かべた。
「忠告感謝する。忘れないよう、胸に留めておく。悪いが、もう一つだけ聞いてもいいか?」
「答えられる範囲なら」
少し迷った後、日向は口を開いた。
「…琳子に今必要なのは、友人、でいいんだよな…?」
「……それが正解かはわからないけど。だけど今の二人の関係だから、話せたんじゃないかと思うよ」
今の二人の関係と言われても、それがどんな関係と断言しづらい。よき友人でありたいと思ってはいるが、友人とはどの辺りまで言うのかと、先ほどのサトルの指摘が妙に引っかかった。
「…悪い。妙なことを聞いた」
「恋人が必要なら、なれるのか?」
思わず口に出してしまい、サトルは咄嗟に口を閉ざした。
「ごめん、無駄口だった」
「あ、いや、こちらこそ悪い」
指摘されるべき落ち度があるからこそ、妙に引っかかってしまうのだろう。
「…必要だったら、恋人になれるとか、悪いがそれは無理だ。恋人というのはおそらくそういうのは何か違う気がする。そもそもそういうのは琳子が望まないだろう。ディランならもっと的確な意見が出てくるんだろうが」
「確かに…ぼくらじゃ、ここらが限界な気がするよ」
サトルも同意して苦笑した。
「そうだな。…話せてよかった。少しは考える糸口に出来そうだ。ディランに話せば、何かが違うと指摘されそうだが」
日向もまたなんとも言えない様子で苦笑した。
「…そうだね」
優しく微笑むと腕時計を見た。
「そろそろ帰ろうか」
「そうだな。お前の恋人が待ちくたびれてるんじゃないか?」
軽口を叩くと日向は視聴覚室の扉を開いた。
扉を開くとそこには笑顔のディランが立っているのが見えた。
「な」
「日向君、人の恋人連れ去って密会とかどういう事かな~?」
「いや、連れ去ってない! 」
「いやいや。ディラン、きちんとメッセージを送って伝えただろっ!」
「あ、サトル君、メッセージありがとう。ただ、日向君が心変わりしないかと思って。あの日向君が女の子を連れて歩いてたって噂になってたから」
サトルを見るとディランはふわりと笑みを浮かべてみせた。
「……~っ。だから、ぼくに興味を持つ物好きはディランぐらいだからっ」
「僕にとっては大事な彼女だから、心配ぐらいするよ」
サトルを愛おしげに見つめると、彼女の手を握った。
「で、日向君とお話は出来た?」
「まぁ…一応は」
不満げにディランを睨みつつも応えた。 
「明確な答えは出せなかったけど、有意義ではあったと思うよ」
「ふふ、それならよかった。まあ、日向君はちょっと時間かかりそうなタイプだからね。何かあれば、僕からもけしかけるから」
「あのな」 
「いや…」
チラリと日向を見て微笑んだ。
「多分、それは…必要な時間なんだと思う」
「?!」
思いもしなかった言葉に日向は面食らった。これまでサトルには何かと突っ掛かれることが多かったと思う。そのどれもが琳子の件で、親友想いのサトルからすれば、日向の至らなさや迂闊さがあちこち目について仕方なかっただろう。
だからこそ、今度だって何かしら不出来な点を指摘されるものと思っていたのであるが。
「…悪い。期待に応えられるかは分からないが、善処はするつもりだ」
振り返ってみても、自分の粗しか見えない。どこに評価する点があったのかは不明だが、琳子への気持ちも含めて、改めて自分を見直そうと思った。
「そっか。なら、僕も今しばらくは静観する事にするね」
サトルの反応から何かを感じとったらしく、ディランが日向を向いた。
「ただし。時間は有限なんだから、日向君、待たせ過ぎは禁物だからね」
「あ、ああ」
日向はしっかりと頷いた。
 
 
 当然だけど家に帰っても翠の姿は見えなかった。途中のコンビニで買った遅い昼食を済ませると急に疲れを覚えた。リビングで眠る訳にはいかないけど、翠が帰ってくる前にサトルに連絡をとりたい。けれどこのままでは確実に眠ってしまう…
 欠伸をしながら私は眠気覚ましにシャワーを浴びる事にした。
 そして着替えとタオルを持って浴室に向かい、頭から熱いお湯を浴びると今日一日浴びてきた様々な汚れや不快なものが一気に流れていく気がした。
 「………」
 多分話はほとんどあの二人に聞かれている筈だ。ディランは私たちの兄妹の秘密について知らない為、登場時にも叫んでいた卑猥な妄想だと片づけられるだろう。けれどサトルはどう思っただろうか。
 あの時、サトルが私に駆け寄ろうとうするのを察して咄嗟に逃げてしまった。彼女の身体を考えると絶対に追いかけてこられないと計算の上のひどい拒絶の仕方だったかもしれない。
 でもそれよりも…きちんと、サトルに会って話せるだろうか。話してもいいのか。今まで誰にも言えなかった―――既に終わってしまった過去を掘り返して、自己憐憫に浸りたいだけなのかもしれない。
 シャワーを終えて再びリビングに出ると、廊下から着信音が響いてきた。
 「はい、どちら…」
 『琳子?』
 ハッと息を飲みかけて私はサトルに気づかれないよう深呼吸をした。それからゆっくりと応える。
 「サトル…? 今日は、迷惑をかけてしまってごめんなさい」
 『それはいいんだ。さっき日向から聞いたよ。早退したんだね』
 「えぇ…色々と考えたくて」
 『そうだろうね。…多分、琳子は色々と聞かれる事を想定してどう説明するべきか頭の中を整理したいんだと思うけど。正直、何も聞く必要はないかなって思っているんだ』
 「でも…」
 『前にも言ったけど、ぼくにはきみたちは兄妹以下でも以上でもない。だからその点に関して特に追及する気もない。だけど…琳子が悩んでいる気がして、それだけが気がかりなんだ。…日向も、アレで結構心配しているようだったし』
 「―――私は…前にも少し話したけど、事件の事を思い出したのはつい最近だったの」
 喉元がぎゅっと締め付けられるような息苦しさを感じながらも、私は息を吐き出し続けた。
 「事件前後の出来事も曖昧でこれまで思い出しもしなかった事がどんどん蘇ってきて…まるで、私だけ一人、あの頃にタイムスリップしているような変な感覚になるの」
 『…衝撃的な事件だったんだ。それは当然の防衛反応だったと思うよ』
 「でも…ね…」
 無意識のうちに声が震え、誰かに見られている訳でもないのに私は必死に涙を堪えて受話器を握り締めた。
 「思い出したら、気づいちゃったの。…翠が…私を妹として見ていないって。その頃から…極端に私を避けるようになって…寂しくて、それで私は図書館へ足を運ぶようになったのよ。―――事件の発端は、私だったの」
 『そんな訳がないだろ。それは単なる偶然で、たまたま運悪く琳子が目をつけられただけで…っ。琳子は何も悪くない』
 本当にそうなのか、私にはわからない。一切の非がないと言い切れる自信もない。心優しい友人たちの言葉を鵜呑みにしてしまえば、私はもうこれ以上翠に対して後ろめたい気持ちを抱かずに済むのだろうか。誰に向かってすればいいのかわからない、行き場のない謝罪の言葉をいつまで心に留めておけばいいのだろう。
 「…でもね…今更思い出しても、翠は既に前を向いている。彼を支えてくれる素敵なガールフレンドもいるのよ。私だけ…まだ、前に進めないの。だから怖いの。誰かに好かれて、それまでの関係を一気に壊されていくのが…っ」
 『―――日向は…琳子の恋人になるつもりはないって、言っていた』
 「!」
 思わず息を飲み込んだ。同時に体育館裏で私が泣きやむまで支えてくれた肩に添えられた不器用な手のぬくもりを思い出し、不意に潤んでいた瞳から涙が乾いた。
 『ごめん…っ。こんな事、言うつもりはなかったんだ。だけど…琳子が…日向との関係が崩れるのを恐れているなら、その可能性は低いって言いたくて…』
 まるで一語一句を奥歯で噛み殺すようにして、サトルは苦しげに言葉を続けた。
 『だから…琳子。ぼくらはずっと友だちでいれる。その関係はきっとこの先も変わらない。琳子がもっと自由になれるまで…いや、違うな。琳子はもっと、自由になれるんだ』
 「……私が…自由に…?」
 不思議なもので口に出してみて初めて、私はこれまで自身が無意識に課していた様々な制約に気づいた。
『私服はあんなにお洒落なのに、制服姿は割と地味だよね。実は意外と面倒臭がりな癖に勤勉な態度を貫くのも…それまで琳子が、一方的に下されてきた周囲の評価を気にして身につけた所謂処世術なんじゃないかな。あとは…』
「…私って面倒臭がりだった?」
肩の力が抜け、私は笑いを押し殺しながら尋ねた。 
『勤勉で家事にもマメな人は、毎日制服のシャツにもアイロンをかけるんだよ』
「あは…っ」
まさにそれはサトル自身の事を指していて私は堪らず噴き出した。
「……むかし翠に言われたの。脱皮しない蛇は滅びるって。私はそれを…もっと賢く立ち回り生きろという意味に捉えたわ」
母の葬儀を済ませ遺言書に従うべく学園に向かう飛行機の中での短い会話だった。新しい環境を生き抜く為に、賢く、そして可能な限り誰かに恨まれないよう。憎まれないように生きていかなければいけない。
「でも違ったのかもしれないわね。私は…もっと自分自身と向き合うべきだった」
受話器の向こうでサトルが優しく笑っている気がした。
『明日、学校にくるだろ?』
「えぇ、行くわ」
『うん。安心してきたらいいよ。しばらく向井はこれないと思うから。それと…できたら日向に声をかけてやって。心配していたよ、とても』
「もちろんよ」
そしてサトルとの電話が終わると私は日向の携帯電話にかけた。
 
 
間借りしているディランの部屋に帰ってきてから、日向は落ち着かない気持ちのまま台所へと向かった。バイトのシフトは明日に入っていて、今日はない。バイトがあればよかったのにと、複雑な気持ちが混じった。
ディランはあの後、サトルと一緒に帰ったはずなのだが、部屋にはまだ帰って来ていなかった。
落ち着かない時は台所で作業するに限る。冷蔵庫の中を確認すると今まで作っていた料理のストックは空になっていた。
「新しく作るか」
副菜やメインをいくつか作りながらも、普段と違ってなかなか気持ちを落ち着かせられない。
煮込み料理になったところで、日向は一旦、手を止めた。野菜と肉から出る灰汁を取りながら、今日起きたことに思いを馳せた。
まさか琳子に以前会ったちよの兄が接触してくることになるとは。普段なら事件の経緯を事細かに分析して解決の糸口を探すのに神経を注ぐのだが。
今日に限っては頭にチラつくのは琳子のことだった。
昼過ぎに帰ったが、あの後何事もなかっただろうか。あの時自分ではまともな話し相手になれたとは到底思えない訳で、サトルと連絡でもして少しでも気持ちを軽くしているといいんだが。
クツクツと煮立った鍋に香辛料を加えていたところで、ケータイを持ったディランが顔を出した。
「日向君~、電話鳴ってるよ?」
「悪い」
いつの間に帰って来ていたのか、ケータイもいつ鳴り始めたのか、今になってはっきりと聞こえる着信音の鳴るケータイを受け取ると、ディランは台所を出ていった。
表示を見ると琳子となっており、日向は驚きつつも、通話ボタンを押した。
「遅くなって悪い」
『ごめんなさい、忙しかったかしら?』
「いや、部屋にケータイを置いてて、気づかなかった。特に問題ない」
まさか日付けも変わる前に電話が来るとは。
「…それより、電話して大丈夫なのか?」
『…あら、どうして?』
クスクス笑いながら琳子は続けた。
『心配かけていたから、無事に帰ったと伝えたかったの』
「あ、ああ。そうか」
声の調子が昼間会った時より幾分落ち着いているのに小さな安堵の息を吐いた。
「…悪い。流石に今日はかかってこないと思っていた。無事に帰れたみたいでよかった」
『ありがとう。ちゃんと寄り道せずに帰ったわよ』
「あの後、何か問題はなかったか?」
『もちろん』
つい笑いを堪えながら琳子は答えた。
「なら、よかった」
日向はホッと胸を撫で下ろした。
「…なんだか少し笑ってないか?」
今の会話のどこに笑いを堪える要素があるのかと、日向は苦笑した。
『だって…過保護な親みたいな事を言うんだもの』
吹き出しつつ答えた。
「は? いや、流石に兄弟くらいにしてくれ。それにそこまで過保護という訳でもないだろ」
まさかの返答に日向は面食らった。
『…ふふ、なら貴方は私の理想的なお兄ちゃんだわ』
「兄?! …あ、いや、サトル相手だと、兄弟でいうなら弟だとか言われたりしたから、驚いてだな…。まあ、妹がいたら、こんな感じ、なのか?」
『あはは、冗談よ。でもサトルと兄妹というのはイメージできるわね。その場合、すぐにディランとも義兄弟になるでしょうね』
「ディランが義兄とか、悪夢過ぎる…」
「ん、呼んだ~?」
名前に反応したらしく、ディランが台所に顔を出した。
「呼んでない、電話中だ」
慌ててディランを台所から外へと追いやった。
二人のやりとりに琳子はクスクスと笑った。
『さすがディランね。地獄耳なのかしら』
「…名前に反応したんだろう。うっかり愚痴も零せやしないな」
堪らず日向は苦笑した。
「そういえば、サトルとは連絡は取れたか? 琳子のことをひどく心配していた」
『さっき電話をしたわ。……みんなに、迷惑をかけたわね…』
「別に迷惑をかけられたなんて思ってない。サトルだってそうだろうしな。むしろ知らない間に大事な友人の身に何かが起きていることの方が願い下げだ」
『…ありがとう、本当に』
まるで日向の言葉を噛み締めるかのように呟いた。
『…そうだわ。今度みんなの都合がよければ、前に話していた結衣子さんの画廊に行かない?』
「ああ、そういえば前話していたな」
以前出かけた際の会話を思い出し、日向はやや口元を緩めた。
「確か抽象画作品を展示しているんだったか。いいんじゃないか。ディランにもこちらから空きを聞いておくことにする」
『わかったわ。楽しみにしているわね』
「そうだな。…悪いが、サトルとの連絡は琳子に任せても構わないか?」
『もちろんよ。…それともう一ついいかしら?』
「ん? ああ、構わないが」
他に何かあったかと日向は首を傾げた。
『明日、四人でランチにしましょう。だけど飲み物以外は持ってこないでね』
「?! 来られるのか、学校!」
琳子の言葉に思わず声が上擦った。
「…あ、悪い。学校の外で昼食か?」
『もちろん、行くわよ?』
クスッと笑い琳子は答えた。
『臆する必要なんてないじゃない。それに…ささやかだけど、たまには私が作るお弁当でも食べてもらいたいの。必要ないと言われるかもしれないけど、お礼を兼ねて御馳走させて?』
「必要ないなんてことはない。琳子が学校に来られるだけで充分……それなのに、弁当…? 有り難い話だが、家の事情で作りにくいんじゃなかったか?」
『手の込んだものなんて作らないわ。今から少し準備すれば、問題ないと思うの』
「そうか。…まあ、無理しない範囲で頼む。琳子の弁当なんて初めてだな」
話すうち日向の表情は綻んだ。これが電話でよかったと内心安堵した。顔を合わせていたら、どうにも気まずかったに違いない。
『そうよね。実は私もきちんとしたお弁当を作るなんて初めてよ』
「そうなのか? 」
これにはあまりに意外で、日向は目を丸くした。
「琳子なら何かの折に作ってそうな気がしたんだが」
『サトル曰く結構面倒くさがり、だそうよ。でも…確かにイギリスにいた頃も、寮にいたから自炊の必要がなくて…最近になって料理をするようになったわね』
「なら、料理歴はディランくらいか。何かきっかけでもあったのか?」
『日本に帰って、翠と二人暮らしになったからかしらね。翠は割と何でも作れるんだけど』
「…兄一人に任せきりには出来ないからか」
兄ではないと聞いたが、台所から出てもディランもいるので、悩みつつも言葉にした。
『そうね。でも安心して。食べてもお腹は壊さないものを作るわ』
「…頼む。初めての弁当で胃薬が必要なんて寂しいからな。といっても、料理自体は初めてじゃないから、そんな心配もいらないか」
琳子の言葉に思わず吹き出した。
『期待し過ぎないで待っていてね』
「ああ、そうだな。楽しみにしている。明日の昼食についてはディランにも伝えておく」
『ありがとう、それじゃあ…また』
「ああ、またな。あと、あまり無理はしないでくれ。何かあれば、明日の昼食は延ばしても構わない」
『あら…甘やかし過ぎると、育つものも育たないわよ?』
言葉とは裏腹に、口調はひどく嬉しげだった。
「? 育つ? …悪い、何の話かよく分からないんだが。琳子が壁を乗り越えて成長するとか、そういう意味だったりするのか?」
『そう言う事。無理しないでと言い過ぎると、自分で何とかしようと思う気持ちがなくなるわ。失敗は成長に繋がるんだから』
「…そういえばそうだな。悪い。琳子の成長を阻害する意思はない。なんというか、単なる心配症だ。要らないと思ったら流しておいてくれ」
『わかっているわ、大丈夫。でも明日は、心配し過ぎて胃薬は持ってこないでね?』
「…分かった。持ってくることのないようにする」
『あはは』
日向の真面目な返事に琳子は再び笑った。
「今のは笑うところだったか…?」
苦笑混じりにぼやきつつも、口調は自然と穏やかなものになった。
「まあ、でも。琳子は笑っている方がいいな。こちらまで穏やかな気持ちになる」
『そう…? ふふ、ありがとう』
「…ああ」
なんだか落ち着かなくて苦笑した。
『それじゃあ、また明日』
「そうだな。また明日」
話せてよかったと思いつつ、日向は電話を切った。
電話の最中、煮込み料理を弱火とはいえ、付けていたことに気づき、日向は慌てて火を切り、蓋を取った。具材が隠れるまで入っていたスープは煮上がり、済んでのところで焦げつきを免れていた。
「日向君、電話終わった~? 僕、そろそろお腹空いてきたんだけど」
「ああ。料理も出来てる。明日、琳子とサトルと四人で昼食を取ることになった」
「そうなんだ。じゃ、明日は楽しみだね」
今日の出来事をディランだって居合わせだろうに、少しの沈黙の後、普段通りの笑顔を浮かべてみせた。
「あ、そうそう。詳しくは夕食時に聞くから」
「なっ」
 
 
電話が終わると同時に翠が帰ってきた。
「お帰りなさい」
廊下にある固定電話の前に佇んでいた私に気づくと、翠は一瞬怪訝そうに眉を寄せた。
「早退したのよ」
「そうか…」
私の表情などから特に大事ではないと判断したのか、小さく頷いた。とその時。聞き慣れないバイブレーションが響いた。驚く私の前で翠はさも当然とばかりにポケットからケータイを取り出した。 
「…いつの間に買っていたの?」
「最近だ」
問いかけるも視線は画面に向けられたまま。
「………」
翠が私に秘密を持つのは今に始まった事ではない。
「…明日、お弁当を持って行くからその買い出しに行ってくるわ」
「あぁ、わかった」
ケータイを耳に当てながら応える翠を置いて、私は買い物へ向かった。
それから家に帰ると翠はまだ電話をしているのか自室に籠っていた。荷物を置きに二階へ上がると彼の部屋から話し声が聞こえてきた。特に楽しそうでもない、淡々とした口調の会話。彼がそんな対応を見せるのだから、随分と気心の知れた相手なのだろう。
夕飯と翌日のお弁当の準備をしている間、翠はなかなか一階へ降りてこなかった。
 
そろそろ梅雨入りと言われていたがその日は晴天だった。夕方に降水確率が高くなるとの情報だが、日中の天気が保てばそれで十分だった。
屋上に四人が集まると、私は持ってきたお弁当を広げた。サンドイッチがメインだけど具材は種類豊富に用意した。さすがにこれだけでは色彩に欠けると思い、簡単な卵焼きやソーセージを焼いたもの。デザートにリンゴやバナナ、オレンジ、キウイとは別にフルーツサンドも揃えた。
「すごく美味しそうだね」
サトルが手放しに称賛してくれたので、取りあえず見た目は及第点に達したと安心した。
「わあ、すごい! 美味しそう」
ディランもお弁当を見て笑みを浮かべた。
「……」
特にコメントもなく弁当の中身を見ている日向を見て、ディランは首を傾げた。
「あれ? 日向君、感想は?」
「あ、ああ。いや、洋食は詳しくないんだが、とても美味しそうにみえて…その…。琳子は謙遜が過ぎるんじゃないか?」
「そうかしら? 挟むだけだもの」
あまりに優しすぎる返事につい苦笑しつつ三人に勧めた。
「果物は切るだけ。簡単で失敗しにくいメニューよ」
「そうなのか?」
言いながら日向は目を丸くした。
「ああ、その食べてもいいか?」
「もちろんよ」
「そうか」
私の返事に穏やかな表情を浮かべると早速サンドイッチを取り、食べてくれた。
「…あまり食べたことない味だが、美味いな」
「このフルーツサンドも美味しいよ。初めて食べたけど、パンとフルーツって合うね」
「うん、美味しい。琳子ちゃん、料理上手だね」
ディランもサンドイッチを食べて、ふわりと笑みを浮かべた。
「これだけの量、作るのは大変だったんじゃないか?」
「みんな、ありがとう。中身の具材だけ前日に用意して、今朝少し早く起きて挟んだだけだから全然大変じゃないわ。それに…どういう形でもいいから、感謝の気持ちを伝えたかったの」
「すっごく伝わったよ。というか、琳子ちゃんが今日学校に来てるだけでも、嬉しかったしね」
「…次、同じ事があれば法的処置も検討するつもりよ。具体的な被害がなければ難しいけれど、彼もさすがにもう何もしないと思うの」
「ああ、その点は大丈夫なんじゃないかな? サトル君もすごく協力してくれたし。むしろ、僕より頼もしかったくらい」
サトルに視線を向けてディランは笑みを浮かべた。
「そんな事ないよ。ディランの脅しがなかなかよかったからさ」
「あー。昨日、何やってたんだ、お前ら」
うんざりした様子で日向がぼやいた。
「みんなありがとう。でも私は大丈夫よ」
琳子が優しく微笑みかけた。
「…ああ、まあ、そうだな。今日、琳子の顔が見れてよかった」
「…まぁ、いいけど」
小さく呟きサトルは琳子を見た。
「画廊に行く話し…いつにする?」
「あ、そうだねいつにしようか。次の土日なら空いてるよ」
「ぼくも空いている」
「わかったわ。なら結衣子さんに確認してみるわね。………こういう時、ケータイがあると便利そうね」
と昨日の翠のケータイの件を思い出し苦笑した。
「ああ、まあ、そうだな。僕も日本に来て初めてケータイの存在と利便性を知ったが。金もかかることだし、すぐには持てないかもしれないが、あるといいかもな。こうして集まって計画するのも悪くないが」
「実は翠はもう持っていたのよ。だから私も買おうかと思って…」
「あ、買えるなら、買った方が便利だよね。いいんじゃないかな」
「にしても…翠さんがケータイを持っているって知らなかったんだ」
「そうなのよ。ガールフレンドからの電話は自宅にかかってくるから…つい。でも最近買ったみたいよ。きっとガールフレンドにも知らせていないわ」
「あれ? てっきりガールフレンドとの電話を他の人に取り次がれたくないとか思ったけど、他にもっと大事な連絡でもあるのかな?」
ディランは不思議そうに首を傾げた。
「さぁ…秘密が多いのよ」
肩を竦めて苦笑した。
「その、琳子の兄貴はどういう人なんだ? 今ひとつ掴めないんだが」
「…どう言えばいいのかしらね? 人前では化けるのが上手だから、常に高評価を受けているわ」
「男女問わず好かれそうなタイプだよね。無駄口叩かないし」
「…なんというか、すごい人物だということは分かった」
「でもきっと…ディランみたいなタイプとつるむと地が出るわね」
「そうかな? 僕はもう少し翠くんとお話ししてみたかったけど」
「あー。つまり、ディランと相性は悪いんだな」 
「悪いと言いそうだけど、きっと…親しくなれば誰よりも信頼できる関係になりそうだわ」
サトルには悪いけれど、どうしてもディランはあの学園で唯一翠と親しくなった一癖も二癖もある友人に重ねてしまう時がある。二人とも共通して曲者の上にひどく女性にもてるという共通点があったからだ。
「あれ? もしかして誰か思い当たる人でもいるとか?」
意外な返しに思ったのかディランは目を丸くした。
「むかしの人よ。翠といい友だちだったと思うわ」
「なんというか意外だな。友人がディランみたいな奴とは」
「意外だからこそ、合うのかもしれないわね」
きっとあの二人の不思議な関係を説明しても理解してもらえないと思い、私は小さく笑った。
「…なるほどな。そういえば、ディランとの最初の出会いは最悪だったな。これで友人になるとは思いもしなかった」
「えーっ、ひどっ」
「そう言えば、二人はどうやって知り合ったんだっけ?」
「僕が日本に留学を決めて、大陸横断鉄道に乗った時の相席に乗ってきたのが日向君。完全に家出少年だったよね」
「あのな」
「へぇ…お互いの第一印象は?」
「まあ、綺麗な顔してるなとは思った。西洋にはこんな顔貌の人間がいるのかと思いはしたが、口を開けば胡散臭い。正直、近づきたくはないなと」
「あぁ」
何故か同調するサトルに堪らず吹き出した。
「サトルったら…アハハ」
「ちょ、サトル君まで? 」
「でも胡散臭いとまで思った相手と、どうして暮らし始めたの?」
「その列車で事件があったんだ。乗った時から、自分が異質だとは気づいてはいたが、乗客の一人が貴重品が盗まれたと喚いて、東洋人は僕しか乗っていなかったから、疑われた」
「日向君、あの時家財道具一式持って乗ってきてたからね。周りの目を引いたのもあると思うけど」
「あら…巻き込まれたのね」
「相席してた僕はいい迷惑だったよ。一番最後に乗車した客が日向君の道具をくすねるのも見えてたし、日向君は席に座ったきり、一度も立たなかったのに、取ったものを返せの口論で寝てられなくて、最後に乗車してきてた客を突き出しておしまい」
「お前、そんな理由で助けてくれたのか」
「いいじゃない? 結果的には日向君の疑いは晴れたし、取られたものも返ってきたでしょ? 日向君に興味が出たのはお礼だと言って律儀にご馳走してくれた後からだし。口約束で何もないかと思ってたら、本当にご馳走してくれるとは思ってなかったしね」
「面白い出会い方だったのね」
「確かに。その時、既に日向は日本へ向かうつもりだったの?」
「いや、その頃は本当にディランが言うよう、家を出たばかりで行き先は決まってなかった」
当時を思い出したのか、なんとも言えない苦い表情を浮かべた。
「大陸横断鉄道に乗ったのは本当に気まぐれで、事件がきっかけでディランとはよく話すようになったし、そこで日本の話が出てからだな」
「へぇ…なんていうか不思議な縁だね」
サトルも肩を竦めて笑った。
「そう言えば…本当に翠さんが向井の家の電気を…?」
「さぁ…私からは特に聞いていないし、翠からも話はないわ」
肩を竦めて苦笑した。
「まあ、翠君の性格を考えると例えやっていたとしても、わざわざ琳子ちゃんに言わないだろうしね。『やっていない』でいいんじゃない?」
「そうね。証拠はない以上…ね」
クスッと笑い頷いた。
「いいのか、それで。まあ、いいか…」
意図するところを察すると日向は息を吐いた。
「いいだろ。当然だ」
「ふふ、ダメになった電子機器は新しくしなきゃだし、高額なものも多いから、しばらくは大人しくしてるでしょ」
楽しそうに笑みを浮かべた。
「そうね」
楽しそうに笑うディランを見て私たちも釣られて笑った。それから画廊へ行く日時を決めると楽しいランチタイムが終わった。
 教室へ戻る頃には雲行きはやはり悪くなり、今にも雨が降りそうな天気になっていた。
 珍しくランチボックスを持って教室を出ていた私が席に戻るなり、クラスメイトの女子が数人集まってきた。
 「ねぇ、琳子ちゃん。お昼どうしていたの?」
 「お弁当作ってきたなんて珍しいねー」
 純粋な好奇心を装った追究に私は笑顔を意識して応えた。
 「サトルたちとランチの約束をしていたの」
 「あ、もしかしてサトルと彼氏とその友だちの子と? 最近よく一緒にいるもんね」
 「昨日も男子と午後の授業さぼっていたって噂聞いたけど…大丈夫?」
 「私も聞いたけど、昨日先輩から呼び出されたんでしょ。こんな事言いたくないけどさ、あんまり男子の気持ちを弄んでいると痛い目にあうよ」
 途中から彼女たちの会話に耳を傾けるのも面倒になり、私は視線を再び窓の外へ向けた。
 どれだけ気をつけてみたところで、同性からの反感を完全に抑え込める筈がない。できるだけそれが大きくならないように注意して努力はしてきたけれど、確かにここ最近の私は。サトルたちという友人を手に入れてから、自分の身の回りにいる彼女たちへの対応を疎かにしていた。
 「ねぇ、琳子ちゃん。聞いてる?」
 曇り空が見える窓ガラスに彼女たちの顔が不愉快そうに歪んで映る。その時彼がかけてくれた優しいあの言葉を思い出した。
 『勝手な決めつけを聞く必要は、ない』
 不意に笑みがこぼれてしまった。
 「えぇ、もちろんよ。でも私が思うに―――Don‘t judge.Mind your own Business」
 これで彼女たちとの関係は多分、一時的に悪化するだろう。それでもいい。私は、今、久しぶりに自分らしい選択を取る事ができたのだから。
Don‘t Judge.Mind your own Business.
―――勝手に決めつけないで。人の事に首を突っ込まないで―――
「え…ちょっ…どういう意味…」
「簡単なフレーズよ。わからなければ辞書でも引くなり勉強してみたらいいわ。きっと貴方たちの為になるから」
周囲に嫌われたくなくて必死になっていた。だけど今の私には、こんな自分を受け入れてくれる友だちがいる。肩の力を抜いて、私は優しく微笑む事ができた。
 
帰り道、やはり雨が降ってきた。天気予報をチェックしていたので特に困りはしなかったけれど少しだけ憂鬱な気分になった。雨が嫌いという訳ではない。確かに嫌な思い出も多い天気だけど、こうしてすれ違う人々が皆、傘で顔を隠して歩く光景が何となく不安にさせる。
私はもう一度彼に会いたいと思っている。出会えばもしかしたら、私の中で芽生えかけていたこの複雑な感情がはっきりと形づく可能性があるから。だからどんな些細なヒントでも見逃したくない。もしかしたらこの瞬間にも、傘で隠れたその向こうに彼がいるのかもしれないから。
彼の両親は日本人だったが、明確なルーツは知らないけれど異国の血も混じっている。祖父が運営する学園は世界中にあり、必ずしも母国に戻っているとも限らない。だから行方知れずになった今。彼がどこに身を寄せているのかわからないし、手掛かりなんて一切ない。
何人か学園にいた頃からの友人と繋がりはあったけれど、それでもお互いにやはりあの炎上事件が尾を引いていて。懐かしくて楽しい当時の話題は切り出せても、そこで犠牲になった可能性のあるセトについては名前はおろか、その存在すら言葉にできずにいた。一番身近な存在である翠にだって、私は未だにセトを話題にできていない。
誰かに話したい。でも、彼を知る人にしか話せない。彼を知る人。あの独特の雰囲気や不思議な存在感。何かを超越したようでいて妙に親近感を覚えるセト。思い出す度に苦しくて切なくて。でも、絶対に忘れたくない人。
くすんだ灰色の景色の中に広がる色とりどりな傘の隙間を歩きながら私は、無意識に見慣れた光景に彼の面影を探していた。
赤い傘…黄色い傘…水玉模様に可愛らしいキャラクターの小さい傘…お洒落なデザインのビニール傘…気がつけば街路樹の根元には紫陽花が咲き乱れ、色褪せた梅雨のひとときと思っていた周囲には様々な色彩が溢れていた。
その時、何気なく眺めていた紫陽花の向こうを歩く背の高い男性に気づいた。
紺色の傘で顔が隠れているけれど、颯爽と歩くその姿勢は妙に目を惹く。
「………」
何となく胸に浮かんだ既視感からくる心のざわめき。実際に関わりなんてなかったけど、学園で擦れ違い短い会話を交わした記憶はある。でもそんな筈ない。急にケータイを持ち出した翠の不可解な行動が不安を後押ししてくるような気がして、私は慌てて歩調を早め駅に向かった。
 
 
四人で画廊に行く約束をした当日。約束の時間は昼過ぎだったので、ディランは少し早くにサトルと約束をして、一緒に食事を済ませてから画廊に行くことにした。サトルのおすすめのお店に行くことになり、未だ新しい発見のある料理の数々に盛り上がった。
「美味しかったね。そろそろ行こうか、サトル君」
会計を終えてディランはサトルと一緒に店を出た。
「うん。ちょうどいいくらいの時間に着きそうだ」
「よかった。日向君や琳子ちゃんはそろそろ着く頃かな。あ、でも、日向君は早々に着いて待っているかも。日向君と待ち合わせると早めに着いてるのに、日向君は既に待ってるとかザラなんだよね」
苦笑した。
「一体何時間前に着いているんだ? 律儀と言うか…」
サトルもつられて苦笑しその先にある待ち合わせの画廊を見た。
「来たか」
既に画廊前に到着していた日向がサトルとディランを見て声をかけた。
「あれ、琳子は?」
待ち合わせ時間ぴったりだが琳子の姿が見えず辺りを見回した。
「…すぐ来るんじゃないか?」
言われて驚き、日向も周囲を見渡したがその姿はない。しかし少しして琳子が走りながらやってきた。
「ごめんなさい…っ! 遅れちゃったわね」
「大丈夫だよ。たいして時間経ってないしね」
ディランは笑顔で琳子を迎えた。
「そういや何かあったのか?」
「電車に乗り遅れてしまって」
恥ずかしそうに走った際に乱れた髪を撫でつけた。
「………」
妙に気恥ずかしくなって日向はやや視線を逸らした。
「そうか。まあ、何事もなかったみたいでよかった」 
「…待たせてごめんなさい。揃ったようだから、いきましょう」
「そうだね」
四人は大通りに面した画廊へ入った。受付で結衣子からの招待を受けている旨を伝えると、先に作品を鑑賞するよう促された。
「オーナーは後ほど参りますね」
そうして通された会場は様々な作品が並んでいた。メインは抽象画だが、コーナーを変えて立体作品も展示されていた。
「…何だか、すごい作品ばかりだ」
「初めて観るが、こういうものなのか」
興味深そうに日向も作品を鑑賞した。
「どれも面白いわね」
「ふふ、立体作品もいいよね。あ、サトル君、これ反対側から見ると全く違う作品に見えるよ」
サトルが見ているのとは反対側に回ったディランがふわりと笑みを浮かべた。
「えっ、あ…本当だ。すごいね…!」
それぞれが楽しむ中、琳子はゆっくりと作品を一つずつ鑑賞して回った。その中で深い青色を主に使った作品を見つけしばらく眺めた。
「…綺麗な絵だな」
他の作品を観ていた日向が追いついてきて、琳子の隣に立った。
「えぇ。…海の中にいるみたいで…とても素敵だわ」
「…海か、そうだな。海にも見えるな」
「貴方にはどんな風に見えるの?」
「…水には違いないんだが、滝壺だとかの深い水底のような…まあ、似たようなものか」
言ってみて苦笑した。
「滝壺…そうね、色々想像が膨らむわね」
「そうだな。…そういえば、話は変わるが、少し聞いてもいいか?」
「…何かしら」
視線をチラリと日向に向けるも顔は絵画に向かったまま答えた。
「こちらの考え過ぎなら別に構わないんだが。たいしたことないかもしれないが、今日、電車に乗り遅れた理由を聞いてもいいか?」
「…ふふ」
困ったように小さく苦笑し日向を見た。
「大した事じゃないの。駅で電車を待っていたら、知り合いに似た人を見つけて…それで」
「それは…まさか探してた人、とか?」
「……」
琳子は視線を彷徨わせて苦笑した。
「人違いだったの」
「…そう、か。残念だったな」
ぐっと言葉を飲み込んだ。
日向の様子を一瞥し、琳子は再び作品を眺めた。
「…大丈夫よ、傷ついていないから」
「…こんな事が、よくある、んだな…」
いちいち傷ついていられないくらいあるのかと思うと、日向は言葉に迷った。
「…見つかると、いいな…」
「ありがとう。貴方も、ね」
「あ、ああ。…ありがとな」
まさか自分の事まで気遣われるとは思っていなかったので、少し落ち着かない様子で作品に視線を向けた。
「…なんというか、こちらの気持ちが変わると作品も少し変わって見える気がするな」
「あら、どんな風に見えるの?」
「水の印象は同じなんだが、そこまで深い事はないかもしれないなと」
苦笑した。
「ふふ、気持ち次第で見え方が変わる…面白いところよね」
小さく息を吐き微笑んだ。
「ああ。…琳子にも印象が変わって見えるといいな」
「……そうね。でも、想像してしまうの。海の奥底の景色みたいで…あ、あとサトルの瞳の色にも見えるわね」
クスッと笑い肩を竦めた。
「ディランが好きそうだわ」
「…確かに。ディランなら真っ先にサトルを連想するだろうな」
思わず小さく吹き出した。
「なあに、僕の話?」
追いついてきたディランが声をかけた。
「あ、綺麗な青色だね」
「ホントだ。なんだかサトル君の瞳の色みたいですごく綺麗だよ」
ディランは作品を観て笑みを浮かべた。
「ま、また…身内贔屓する」
顔を赤らめ反論するサトル。
「身内…ね」
つい笑いを堪える琳子に、サトルはハッと気づいたように口を閉ざした。
「いいだろ、別に」
「ふふ、間違ってないよ。将来的には身内になるものね」
サトルの反応に嬉しそうに笑みを浮かべた。
「お待たせー!」
画廊の奥から結衣子が現れた。
「ごめん、ごめん。商談が長引いて。で、サトルってば顔が真っ赤だけど風邪? 大丈夫なの?!」
「え、ちょっと、サトル君大丈夫?」
「だ、大丈夫だからっ! と言うかディランの所為だろっ」
「あはは、そうだったのね。相変わらず仲良くしているのね」
察したらしく結衣子はサトルとディランの様子を微笑ましく眺めた。
「はい、サトル君は僕にとって大切な人ですから」
「あは、ご馳走さま。あっちにお菓子を用意したのよ。よかったらゆっくりして行って」
と、テーブルの上に用意されている茶菓子と紅茶を示した。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。で、琳子ちゃん…ちょっといいかしら」
「あ、はい。…三人は向こうで待っていてね」
 
 
週末と言う事もあり混雑した駅のホームで、私は確かにそこにいる筈のない人を見つけた。その話をした時彼は、きっと私の想い人と見間違えたのだと思い気遣ってくれたけれど…実際には違った。学園へ短期間だけ留学してきた生徒だった。翠よりも年上で授業も重ならないのでほとんど関わりはなかった。こうして再びその後ろ姿を見つけるまでずっと、忘れていた程度の存在。だけどその彼が―――何故翠と駅のホームに佇んでいたのだろうか。
「琳子ちゃん」
結衣子さんに促され個室へ招かれた私は呼びかけられてようやく思考を止めた。
「会って早々だけど…体調はどう?」
椅子に座ると結衣子さんは私を気遣うように声をかけてきた。日本に帰ってから私は事件前後の記憶がどんどん蘇り軽度の鬱と不眠症になった。それを知った結衣子さんが紹介してくれた精神科病院へかかり随分と症状は緩和された。今では定期的な受診とカウンセリングだけ行っている。実は結衣子さんも同じ主治医にかかっていると聞いており、時々こうして私の体調を気遣ってくれていた。
「大丈夫です。少しずつ薬も減らしているところです」
「そう…よかった」
そっと胸を撫で下ろすと結衣子さんは再び私を見詰めた。
「あのね…ちょっと相談に乗って欲しいのよ」
「何ですか?」
 普段の結衣子さんからは想像もできないような控えめな態度に内心驚きつつ尋ねた。
 「じ、実はね…この前、ベンバーから連絡がきたの。そ、それも突然よ。突然」
 「あら…」
 ベンバー先生は私が通っていた学園の教員の一人で、過去に結衣子さんと交際をしていた人だ。真面目で誠実な人柄で、随分と女子学生から人気があった。確か二人は学園が炎上した後、私たち兄妹を迎えにきたところで再会したけれど。
 「どんな内容だったんですか?」
 母親とほとんど同い年の女性からこんな相談を受けるなんて、一般的には考えられないだろう。けれど多分それは、私たちが同じ系列の学園にいたから。普通ではない環境で暮らし育ったから。だからこそ共有できる感覚があり、それは年齢なんて超えた結びつきを生み出すのだと思った。
 だけど翠と彼…ショウゲ・コゥルの間に、そんな友情を培うような時間などあったのだろうか。
 
 
「画廊で飲食できるなんて、何だか贅沢な気分になるね」
サトルたち以外に来客の姿はなく、受付に座っていた女性も今は席を外していた。まるで小さな美術館を独占しているような気分になりながらサトルは用意されていた紅茶を飲んだ。
「ホントだね。普段なら、画廊で作品を観るだけで終わるんだけど。ああ、出展者の知り合いとか、出展者さんに歓迎されるとたまにあるみたいだけど、そうそうないよね」
「そうなんだ。…結衣子さんは、同じ系列の学園を出ているから。きっと琳子にとってとても近しい存在なんだろうね」
「えと、確か日本の姉妹校だったっけ? 校風とか学校行事とか似たところはありそうだよね」
「そうだね。割と話を聞くと、外部に対して閉鎖的な学園みたいだし…生徒たちの繋がりは自然と密接になる」
「外部に対して閉鎖的、か。学園での人間関係がすべてになりそうだな。なんというか、息がつまりそうだ」
ぼやいた。
「まぁ…楽しそうならいいんじゃないか?」
琳子たちが入っていった扉の向こうから楽しげな明るい笑い声が聞こえ、サトルは口元を緩めた。
「話、弾んでるみたいだね。せっかくだから結衣子さんの学園の話も聞いてみたいね」
しばらくして琳子たちは部屋から出てきてサトルたちの席に着いた。
「待たせてごめんなさいね」
「おやつ足りてる? 沢山食べてよ」
「あ、いえ、十分です。ありがとうございます。お話、終わったんですか?」
「うん、まぁね」
照れ笑いを隠そうとせずに結衣子は応えた。
「ちょうどさっき結衣子さんの話をしてたんです。結衣子さんて、確か琳子ちゃんと同じ系列の学園に通ってらしたんですよね。もしよければ、お話聞かせてください」
「えー? だいぶ前になるわよ」
「よかったらぼくも聞きたいです」
「そう? んー、それなら何を話したらいいかな。質問していってくれない?」
「えと、じゃあ、まずは学園の名前、聞きたいです」
「黎桜学園よ。山中にある全寮制の学園」
「…ここから、近いですか?」
日向も興味深そうに尋ねた。
「いやー遠いね、うん。交通の便が悪いから時間かかるわ」
「あ、もしかして県外とか?」
「そうそう。もう卒業してから行っていないけど、割と遠いわ」
「卒業後も皆さんとは、交流があるんですか?」
「そうね。なんて言っても多感な年頃を一緒に暮らして過ごすから…ある意味家族みたいな感覚よ」
「わあ、それは素敵ですね。なんていうか、生徒間の距離が近い環境だったんですね。あ、せっかくなので学校行事とか、どんなのだったのか聞きたいです」
「行事かぁ…普通よ? 学園祭や体育祭もあったし。留学生の交流会もあったわね」
「そうなんですか? 琳子ちゃんの学園だとダンスとかもあったって聞きましたけど、結衣子さんの学園だとどうでした? 日本の学校だとダンスがあるなんてすごく珍しいと思うんですが」
「…あったと思うわよ。実は私、身体を壊してしばらく休学していたの」
結衣子は懐かしい思い出だとばかりに苦笑し答えた。
「だから復学した頃には周りも進級して知らない子ばっかりだったし、サボって海外留学したりもしていたの」
「身体、弱かったんですか?」
これまでの印象から到底想像できない事実にサトルだけではなく驚いたように日向が目を丸くした。
「えぇ、そうよ。しばらく入院もしていた程度には」
日向に向けて優しく微笑み答えた。
「今では随分元気になったけど、当時は少し大変だったなぁ」
大した事でもないとばかりに答えるもののその表情の裏にはきっと様々な苦労があったのだろう。同じように大病を経験しているサトルは結衣子の言葉に深く頷き同意した。
「そう言えば、海外留学ってどこに行かれてたんですか?」
「アメリカやフランスや…色々よ。留学というより旅行感覚だったけど、楽しくて。そう、その旅行で出会った作品に刺激されて今の仕事を始めたの」
当時を思い出したのか結衣子は眩いばかりの笑顔を浮かべた。
「夢を持つ事が、こんなに自分を強くするなんて知らなかったわ。恋人はいなくても生きていけるけど、仕事がないと生きていけばくなってないしね」
「わあ、素敵な仕事に出会われたんですね。生涯をかけて夢を追い続けられる仕事に出会うなんて本当に素敵です」
「…とてもかっこいいですね。何だか見ていて眩しくなります」
つい自分に重ねてしまうなと自覚しながら、サトルは素直に結衣子を称賛した。
「…ここの作品は結衣子さんが選んで、集められたんですか?」
「えぇ、そうよ。ここは私が一から作り上げた私だけのお城。支配的な父親から逃げ出す為に。そして胸を張って自分の力で生きていく為にこの画廊を作ったの」
「父親が……大変だったんですね。実は、こういった作品を観るのは初めてだったんですが、どれもすごくいいと思います。その、上手い感想が言えないですが…」
何故か支配的な父親という言葉に苦い表情を浮かべつつ、日向は言い難そうに言葉にした。
「…」
日向の表情に結衣子は静かに微笑んだ。
 
 
それからしばらく結衣子を囲んで座談会を楽しむと再び作品を鑑賞して回る事になった。
「……ねぇ、日向くん。ちょっと見せたい作品があるんだ」
「あ、はい」
日向はディランたちに先に行くように伝えると、結衣子の方へと振り返った。
「どんな作品ですか?」
「前回や今日の日向くんの話を聞いて思ったんだけど、故郷に近い景色が描かれているんじゃないかなと思って」
言いながら結衣子は日向を画廊の奥にある倉庫へ案内した。倉庫には様々な作品が置かれていた。
「…すごい」
所狭しと置かれた様々な作品に目をやり、日向は感嘆の声を上げた。
「あった、これこれ」
奥から水墨画をいくつか持ってきて近くのテーブルに広げた。
一つは穏やかな田園風景が広がる作品で、もう一つは見事な滝壺、最後に龍を描いたものが並んだ。
「………え」
一瞬、完全に言葉を失ってしまっていた。それほどまでに衝撃的で、日向の目は最初、田園風景へと向けられていたが、次に目を向けた滝壺の絵、龍の絵に釘付けになっていた。
「あの…これは…」
「知り合いのツテで購入した作品よ。琳子ちゃんにも確認したけど、多分日向くんの母国に近い地域で描かれた作品じゃないかなって思って」
「…そう、ですね…。確かに、近い地域の絵です…」
懐かしいというより、故郷に残してきた複雑な思いが蘇ってきて、日向は言葉に詰まった。
「商家でしたから、家は都にありましたが、田舎に行くとこういう風景をよく、目にしました」
「商人かぁ。…保守的な国なの?」
「…それはまあ…。家父長制で、うちは祖父が健在で一番の権力者ですが、祖父亡き後は父が力を持つ事になるでしょう」
うんざりといった様子で息を吐いた。
「家父長制ねぇ…さっき、私が父親の事を支配的って表現した時のきみの表情が気になったのよ。もしかしたら、似たような境遇かと思って」
「…うちの場合は祖父ですが、似たような環境かと思います。僕の場合も、家を出るのに大変でしたから。なので、結衣子さんも相当苦労されたのではないかと」
「そうね、うちは手が出たから」
苦笑し頷いた。
「うちも似たようなものですかね。僕の場合、殴られるのはまだ構わないんですが、貴重品の破壊や売却は困りました。ただ、どちらも結衣子さんの方がさぞやお辛かったことだと思います…」
「そんなの、どっちが辛いってないわよ。だけど私は、あの学園に行けたから…」
「…学園にはどういった経緯で行く事になったんですか?」
「あらゆるツテを使って調べたの。あそこは…子どもたちの保護シェルターであり、大人にとって都合よく子どもを捨てられる場所よ。もちろん、全員が全員にとは言わないけど」
「あの、そうだとすると、結衣子さんのご家族は結衣子さんを捨てる為に学園に送ったように聞こえるのですが…」
「そう言う意味よ」
ニコリと笑い表情を変えずに答えた。
「そういう場所なの。って言っても部外者には意味わかんないわよね」
「…あー。もしかして学園に入ると、消されたり、卒業出来ない、監獄みたいな場所だったりするんですか?」
一瞬にして学園のイメージが一変し、日向は苦い表情を浮かべた。
「さぁ? そんな噂もあったし、実際に編入はよくあったわ。監獄…と言える程度には孤立していて…」
小さく息を吐き出し結衣子はかぶりを振った。
「私たちはみんな、学園がどんな場所かもわからないまま大人になるしかなかったから。学園にいれるのは、子ども時代だけだから」
「……琳子は」
結衣子の話に耳を傾けていた日向は思わず口を開き、その後、言い直した。
「琳子も…同じ系列の学園に行っていたと聞いたのですが、結衣子さんの行っていた学園と同じような環境だったと思いますか?」
「……」
しばらく考え沈黙すると、結衣子はそれまでの朗らかな表情を硬く塗り固めて日向を見た。
「それを知ってきみは、どうするの?」
「…あ。何かをするという意思はなかったんですが。そもそも学園側に働きかけるような力はないですし」
今になって自分の失言に気づき、日向は慌てて否定した。
「ただ、知っておきたいと思っただけで、結衣子さんから聞くのは卑怯だったと思います。琳子の口から聞けるまで待つ事にします」
「……」
しばらく日向を見つめると申し訳なさそうに苦笑した。
「ごめんね。あの学園の生徒の特性って言うか…内輪の話に関してはみんな、敏感になりがちなのよ。特殊な環境だったし、みんな…色々な背景を持っていたから」
「そうでしょうね。琳子を見ているとそうだろうなと思います」
思い当たる節が多すぎて、日向は苦笑した。
「知っておきたいと思ったのは単なる好奇心ではなくて、友人として適度な距離間をもって接していきたいと思うのですが、先ほど話した通り、あまり勘の鋭い方ではありませんので、知ることが出来れば対処も出来るかと安易な考えに走ってしまった結果です」
「それが日向くんなりの優しさなんだね。いい友人に恵まれたようでよかった」
結衣子は目を細めて優しく微笑んだ。
「は? あ、いや、優しいとかそういう訳では…」
むしろ醜態を晒した方で、落ち着かない様子で否定した。
「ところでさ、この龍って何か信仰に関係するの? なかなか売るのを渋られて…」
「……龍は僕の国では水神で、本来描く事は一般には禁止されています。所持することが出来るのはある程度身分の高い人だけなので、おそらくお家処分になった貴人が手放したものでしょう。信仰の対象なので店主もこっそりと所持していたものだと思います…」
「そうだったんだ。…ごめんね、知らないとは言え気まずくなる物を見せたわね」
「……いえ。実は見たいと思っていたんです。中流の商家の身分では見ることが叶いませんでしたから」
記憶に残すように食い入るように絵を見たのち、結衣子に向き直り頭を下げた。
「なので、ありがとうございます」
「そんな、こちらこそよ。ありがとう。…よかったらいつでも観に来ていいのよ」
「いいんですか?!」
結衣子の言葉に日向は目を輝かせた。
「えぇ、何ならポストカードもあるけど…」
「いくらですか? あ……」
思わず言ってしまってから、何かに気づいたように一瞬躊躇した。
「……これを買うことを誰にも他言しないでいただけますか?」
「ん? いいけど…どうしたの? これはまだ展示していない作品だから、ポストカードも試し刷り分しかないのよ。だから誰かに何か言われる事はないと思うけど」
「…まあ、ここは日本なのでおそらく問題ないですが、国に帰りにくくなるかと心配しただけです。帰る時には、その前に対処すれば問題ないでしょうし、一枚下さい」
なんとも言えない表情で苦笑した。
「…随分と古い考えの国みたいね」
苦笑し結衣子は引き出しから三枚の作品を印刷したポストカードを取り出し封筒に入れた。
「サービスよ。試し刷りだから無料でね」
「ありがとうございます」
深々と頭を下げた。それから二人はフロアへ戻った。
「あら、それは?」
ちょうど立体作品を眺めていた琳子が日向に気づき、封筒について尋ねた。
「…あ、結衣子さんにもらったんだ」
一瞬躊躇した後、琳子にだけ聞こえるように話した。
「その、日本では特に問題ないんだが、他言しないでもらえるか?」
「えぇ、もちろんだけど…」
「悪い」
苦笑した後、日向は琳子にだけ見えるようにして封筒の中身を取り出した。
「…故郷近くの風景の絵を結衣子さんに見せてもらって、その絵葉書だ」
「素敵…」
思わず呟き、それからじっくりと絵葉書を眺めた。
「二枚は故郷にある風景なんだが、三枚目は僕の国では貴人しか所有を許されないものだ。だが、日本にいる間だけは持っていようかと思ってな」
「三枚目を私が、見てもいいの?」
「……ここは日本だから、見るだけなら問題ない。日本ならいくらでもこういった絵があるしな」
「そぅ、なら是非見たいわ」
「…あ、ああ」
複雑な思いを感じつつも、三枚目の龍の絵を見せた。日本で見ればなんて事のない、ただの絵だ。
「……水神?」
しばらく龍を眺め琳子は呟いた。
「まあ…そうだな。僕の国では信仰の対象でもある。絵師は大概、水神を見たという貴人から伝聞を元に描くらしいんだが、これはかなり正確なものだ」
「そうなの…貴重な作品ね。でも、正確なものって…」
信仰上の生物であり、且つ限られた人しか見られないものと言いながら何故正確に描かれたとわかるのか疑問が湧き尋ねた。
「………信じがたい話だと思うが、一度見た事があるからな」
「……龍、を?」
「………」
明らかに疑問の表情を浮かべる琳子を見つめた後、日向は苦笑した。
「まあ、な。ここじゃあり得ない話だし、無理に信じる必要はない。白昼夢みたいなものだ」 
「………」
しばらく考えてから琳子は答えた。
「私は見た事がないわ。けれど、誰かがソレを見たと言う事実を否定するだけの理由にはならないわね。だから…びっくりはしたけど、気になってしまうわ。私も見てみたいって」
肩を竦め小さく笑った。
「……はは。そんな風に言われるとは思ってもみなかった。ありがとな、琳子」
乾いた笑いが漏れて、日向は口角を上げた。側から見ればあり得ない話だし、想像上の産物で終わる話だ。それがこの地では当たり前の価値観だと日向自身特に何かの感慨など持っていなかったはずなのだが。
「……馬鹿みたいな話に付き合ってくれて、感謝する」
「友だちの話を聞くのは当たり前でしょう」
クスッと笑い琳子も頷いた。
「そうかもな。琳子も何か話があれば言ってくれ。友人の話を無碍にするつもりはない」
「ありがとう。それに…実は私も、一度だけ幽霊…? を見た事があるのよ」
「幽霊? そうなのか?」
「見間違いかもしれないけれど、多分」
ニコニコ笑い続けた。
「だから、普段見えないものを一概に否定するつもりはないわ」
「感謝する」
穏やかな表情を浮かべると日向は琳子に視線を向けた。
「…琳子も、いずれ話せるようになったら話してくれ、幽霊の話を」
「そうねぇ…夏の怪談話に間に合うように整理しておくわ」
と冗談まじりに答えた。
「……怪談、でいいのか?」
琳子の反応がどうにも意外で、日向は目を丸くした。
「いいのよ。笑い話に変えていけた方が…」
「琳子がいいなら、いいんだが…。無理に、笑い話に変える必要はないからな」
「大丈夫よ、安心して」
琳子は優しく笑いかけた。
「できたら貴方からも、また詳しく聞かせてね?」
「…そうだな。あまり楽しい話ではないが、いずれ話す事にする」
明るく話せる話題でもなければ、人に話す事でもない。以前、打ち明けた時から、少しでも心境が変わったのか、日向は穏やかな表情を浮かべた。
 
 
 家に帰ると既に翠も帰宅していたらしく、玄関に彼の靴が揃えて置かれていた。そこに見知らぬ誰かの訪問を告げるような形跡はない。だから安心して入って大丈夫と胸を撫で下ろし、私は靴を脱いだ。
 「…翠?」
 リビングからコーヒーのいい匂いが漂っている。きっとブレイクタイム中なのだろう。
 「あぁ、琳子も飲むか?」
 台所からちょうどマグカップを持った翠が現れた。その表情に何ら変化は見られない。
 「えぇ、もらうわ」
 先に手洗いを済ませてから再びリビングへ戻ると私の分のカップと茶菓子のクッキーが用意されていた。
 「ありがとう」
 対面に座ると私たちは特別何かを話す訳でもなくしばしコーヒーの香りを楽しんだ。翠から切り出してくる気配がないと察し、私は自ら話題に乗せた。
 「…今日、結衣子さんの画廊へ行ったの。ユリハマ線の電車を使って」
 二人を見かけた沿線の名前と、学園の繋がりがある結衣子さんを出せば私が何を聴きたいのかすぐにわかるだろう。
 翠はコーヒーの湯気で曇ってしまった眼鏡を外し、しばらく沈黙すると。彼の父によく似た鋭い眼差しに一抹の優しさに似た何かを滲ませ私を見詰めた。
 「…確かに以前のぼくなら、お前にそうやって警戒されるのも仕方ない」
 それは翠にしては珍しい自虐的な発言だった。含みのある物言いに真意を問い質したくなり、私の心臓は早鐘を打った。
 「信じる信じないは別にして…ぼくらにとって有害であるなら、既に何らかの対処を考えとっている」
 「…それは…彼との接触していた事実を認める上での考えなのね?」
 つまりショウゲ・コゥルが、私たちに何らかの害を及ぼす可能性は低いという話なのだろう。でもどうして彼が、わざわざ日本のこんな街へやってきたのか。観光にしても進学にしても大都市へ行けばもっと学び得られるものがある筈だ。
 「―――琳子にとってメール・ヴィ学園に関わるすべては忘れ去りたい出来事のようだな」
 「!」
 まるで翠にとってはそんな事、どうでもいいとばかりに。いつまでも過去に拘る私を冷ややかなに眺めるかのような眼差しに、私はひどく傷ついた。
 「…翠にとっては、違うの…?」
 自分が思っている以上に翠の言葉に動揺しているのを悟られたくなくて、私はカップを握る指に力を込めて身体の震えを抑えた。
 「あの学園の本性に気づき、友だちまで失くしたのは翠も同じよね。学園を離れてもそう簡単に忘れるなんてできないわ。ティルとの話題に一度だって登らないと言うの?」
 「琳子、落ち着け」
 「あら…やだ、大丈夫よ。取り乱すような話でもないでしょう?」
 にこやかに微笑みかける私の手を、翠が握りしめて持ち上げた。
 「………っ」
 淹れたてのコーヒーを入れたマグカップは熱くて、それを半ば無意識に握りしめていた私の指先は真っ赤に染まっていた。
 「取り乱してはいなくても、低温熱傷に気づけない程度には動揺していただろ」
 「……」
 言い返す言葉が見つからず俯く私に、翠は一度席を外すと冷やしたタオルを持ってきてくれた。けれど差し出されたそれを私はジッと見詰めるだけで動けなかった。
 「ショウゲ・コゥルは短期留学目的でメール・ヴィ学園に滞在していた。学園滞在中の交友関係は広く下級生たちにも人気の生徒だった。一カ月程で他校へ編入したからぼくも詳しくは知らない」
 タオルをなかなか受け取らない私に業を煮やしたのか、翠は半ば無理やり手を引っ張り指先を冷やし始めた。
 「ティルを介して彼からコンタクトがあった。時差がかなりある地域に滞在していたから仕方なく携帯電話を用意したが…ぼくの口から言えるのはここまでだ」
 手持ちのカードを披露すると、翠は小さく溜息を漏らした。
 私はその間やっぱり動けなくて。むかし小さい頃にこうして、ちょっとした火傷を負った時に翠が濡れたタオルで冷やしてくれた時の事を思い出してしまった。もうずっとずっとむかしだ。私たちがただ純粋に兄妹でいれた頃。翠は妹思いの優しいお兄ちゃんで、時々意地悪で。私はたまに翠の優しさを試すかのように、彼に甘えた。
 今の翠が私に見せる優しさは、あの頃と同じだった。傷ついた妹を労わり、でも甘えさせるだけではなく自らの足で立ち上がる事を望むもの。
 「―――あそこが…炎上しなかったら、きっと私は…」
 学園を出てきたからこそ、今の私たちがいるのだとわかっていても。辛い記憶ばかりだったとしても。私は今もやっぱり、あそこへ戻りたいと願ってしまう。
 だから学園に関わりのある人たちと出会うのが怖い。この想いがもっと強くなってしまう気がして。
 不安で苦しくて、いつの間にか滲んでしまった視界に翠を映すと。翠はまるで迷子をみつけてしまった大人のような悲しげな眼差しで私を見詰めていた。
 
 
その日は朝から雨が降り続いていた。天気予報では曇りのち雨と聞いていたのだが。
嫌な予感がする。日向がそんなことを思いながら登校してみれば、学校に着いてからは薄暗くどんよりしてた空模様だが雨は止んで、そのままずっと曇りが続いた。まさかないだろうと思っていた体育の授業が決行され、日向は慌てて隣のクラスに体操着を借りにいく羽目になった。いっそこのまま晴れてくれという思いも虚しく、帰る間際になって雨が降り出した。
散々だ。
朝とは違い、雨足はきつく、本格的にどしゃ降り状態。梅雨の時期なので、仕方ないと思いつつも、気分は晴れず、日向は置いておきたいと思いつつも借り物の体操着入れを机の上に出した。調べものがあって持ち帰りたいと思っていた書籍を雨だからと延ばしてきた期限も今日が最終期限。雨で中止になる体育の体操着のかわりと思って持ち帰るつもりだったのだが、借り物の体操着を持ち帰って洗わない訳にはいかないだろう。通学用カバンには入らないので、持ち帰りの書籍は紙袋に入れたが、この雨では大変なことになる。
紙袋にビニールを被せ、体操着入れに通学用カバンを持って日向はなんとか傘を出した。
「うわ、ひなちゃん、すっごい荷物。体操着、置いていったらいいのに」
「借り物をか?」
日向同様体操着を忘れて隣のクラスから借りてきた関の言葉に日向はうんざりした表情を浮かべた。
「あ、じゃ、そのまま返せばいいんじゃない? メンドーだし。ていうか、みんな、そーしてるし」
「遠慮する」
「え~」
関の話から察するにほとんどの男子生徒が借りた体操着を洗わずそのまま返却するらしい。そうは言っても、日向からすればどうにもあり得ない話で、きちんと洗って返すと借りた当人に了承済みだ。
大荷物を持って立ち往生はやっていられないので、話もそこそこに用事のある関とは別れて教室を出た。
下校時刻だけあって生徒の行き来があちこちに見られるが、誰も日向のような大荷物を抱えて雨の中行軍しようとする姿はなかった。
「………」
静かにため息をつくと日向は荷物を抱えながら傘を開き、校舎を出た。どしゃ降りの雨はさすがにきつい。せめて雨脚だけでも弱まってくれないものかと考えながら、日向は校門へと差し掛かった。
「大変そうだね?」
「…まあ、自分で撒いた種なので」
聞き覚えのない声に日向は振り返り、声をかけてきた相手を見た。
案の定、知らない顔だった。
「……ここの学校の人ですか?」
「まさか。でも近々そうなる予定だよ。きみはここの学生かな」
スラリと背の高い男性は日向の装いを一瞥すると笑顔で尋ねてきた。
「ああ、はい」
自分より幾分年上に見えるなと思いながら、日向は偽る必要もないので肯定した。
「…転校とかですか?」
「あ、そうそう。ソレだよ」
クスクス笑うその男性はどこか人懐っこい印象だった。
「と言うか、ぼくの日本語おかしくない? 大丈夫かな」
「…あ、いや。問題ないと思いますが」
そう言えば日本人ではないなと、日向はついまじまじと相手の顔を見た。西洋風の顔立ちを見るとついついディランが浮かんで、そのディランが普段から流暢な日本語で話すものだから、西洋風の顔立ちの人間が日本語をスラスラ話すのが当然のように感じてしまっていたらしかった。
「…まあ、僕も日本人ではないので」
「あ、そうなんだね。きみも留学生? この学校は多いらしいね」
「ああ、確かに多いかもしれないと思います。国際色豊かなので。…そういえば、学校に何か用があったのでは…?」
向こうからすればこうして見知らぬ学生と話していて問題ないのだろうかと日向は首を傾げた。
「んー? 別にないよ、用事なんて」
クスクス笑い傘をクルリと回すと学園を見上げ答えた。
「知り合いが通っているから、運が良ければ会えるかな程度には思ってたけどね。そしたらこの土砂降りの中大荷物を抱える風変わりな学生を見かけたから声をかけてみたくなってね」
「…まあ、頑固だとは認めますが。声をかける方だってなかなかのもの好きだと思いますがね」
なんと言っていいものかと苦笑した。
「はは、物好きとはよく言われるよ。割と見境なく人に声もかけるからね」
「…まあ、その方が交友関係が広がるんじゃないですかね。…僕は、そういうのは苦手で。いいなとは思います」
「そう? でも存外、不思議な縁で繋がったりもするよね」
肩を竦め男性は周りを見た。傘で顔は隠れているが、周囲は下校中の学生で溢れている。
「運命の相手とかね」
「…あー。それは女に言う台詞では?」
なぜいきなりそんな話になるのかと日向は訝しんだ。
「いや、生涯の友人にも出会えるかもしれないだろ? ちなみにぼくは、バイではないからね」
「…バイ?」
知らない言葉に日向は首を傾げた。 
「あぁ、同性でも異性でもいけるって話だよ」
「は?!  いや、ちょっと待て!  いけ、え?!」
一瞬、頭がついていかず、日向は目を白黒させた。
「…悪い。話についていけそうにないんだが」
あまりにも動揺し過ぎて、気づかずタメ口になってしまっていた。
「ん~、きみ、実は見かけより実年齢は下なのかな? そんないいリアクションは久しぶりに見たよ」
「いくつに見えているかは知らないが、そちらの方が年上に見えるが」
ディラン然り、西洋の顔立ちは年齢が掴めない。やや不満げに日向は相手を見た。
「一年ダブってるけど、高校三年になるよ。きみは?」
「…高校一年生です」
やはり年上かと思うと同時に日向は言葉遣いを改めた。
「高一? …そうか。ちなみに学科は?」
「理系ですが」
「そうなんだね。ぼくも理系だよ。宜しくね、後輩くん♪」
「…よろしくお願いします、先輩」
あまりよろしくしたくないなと思いつつ、日向は苦笑した。
「ところで…もう生徒はほとんど下校したかな?」
周囲にほとんど生徒の姿が見えないのを確かめショウゲは尋ねた。
「…どなたかお探しですか?」
「……。いや。いいんだ。長く引き止めてしまったね。それじゃあ、気をつけて帰るんだよ」
「……? 探し人の特徴を教えてもらえたら、もしかしたら、知っているかもしれないです。探しているのはここの学生、あるいは教師ですか?」
「いや、いいんだ。目立つ子だからきっとす…」
と言いかけて、男性の視線はある傘をさした女子学生に釘付けになった。
茶色の昨今の女子学生が使いにはやや落ちつきすぎたデザインではあるが、洗練されたセンスの良さを感じさせる傘からは薄茶色の毛先が覗いている。
「………知人、ですか?」
視線の先を見て、思わず浮かんだ琳子の名前をぐっと堪えて、日向は今話したばかりの男を見た。
「…あ」
答えようとして、彼は苦笑した。その視線の先にいた女子学生は友人らしき人に呼ばれて振り向いた全く見知らぬ他人だった。
「いや、知らない子だよ」
「…探しているのは女子学生ですか」
琳子ではなかったことにホッと胸を撫で下ろしつつ、尋ねた。傘でよく分からなかったが、一瞬琳子のような気がしたのを向こうも同じように感じとったのだろうか。
「まぁ、色々な子を探しているからね」
「…色々な子?」
「さてさて、ぼくも用事があるから帰るよ。それじゃあ、またね。後輩くん」
「……そうですか、では、また」
腑に落ちないものがあるものの、日向は小さく会釈した。
「あ、そうだ。先輩、名前、教えて下さい」
「ショウゲ・コゥルだよ」
軽く片手を上げるとショウゲは傘を翻し去って行った。
「厘 日向です!」
去っていくショウゲに聞こえるように声を上げ、頭を下げた。
 
 
 
 
  ぼくが奏でる音楽に身を任せ、さぁ、軽やかに踊りながらあの丘の向こうへ歩いていこう。きみらが望んだすべてがあそこにはある。
与えられた最後の舞台で、華麗な最期を御覧にいれよう―――
 
 
                         (『死刑場へ導く笛吹き男』より)
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