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婚姻申し込みの書状を受け取ってから早3ヶ月。婚姻話はトントン拍子で進んでいった。願ってもないお話です、是が非でも結婚がしたい! と、いかにこの度の話に自分が乗り気か切々と書き綴った書状を送れば、向こうからも色良いお返事。一刻も早く結婚を、との言葉と共に、直ぐさま婚約とあいなった。その事に飛び上がって喜んでいるのもそこそこに。更には通常送られて来る筈の婚約者の姿絵も当人同士の手紙の遣り取りも、顔合わせだってブッチ切り、今となっては半月後には結婚式というところまで漕ぎ着けた。
顔も年齢も名前以外確かな事は何も分からない結婚相手だったが、不安など一切ない。俺のような人間のところに嫁いできてくれるだけで、どれほど有難いことか。できれば子供も欲しいが、贅沢は言わない。相手が子供を欲しがらなかったら俺も要らないし、結果できなくても全力で愛する。三年子なきは去れ? とんでもない! 子供を授かろうがそうでなかろうが、嫌でさえなければズッと傍に居て欲しかった。なんせ向こうは執務が忙しくて1度も相手の居る王都へ伺いに行けなかった俺にも文句の1つも言わない、とてもできた人なのだ。なんて優しい! その優しさに応える為に、尽くして尽くして尽くしまくるぞ!
通常どれだけ短くても半年以上はかかる貴族の結婚だが、俺達の場合はその約半分。お互いを分かり合う時間も気持ちを育てる暇もない。それでもきっと、俺達は大丈夫だという根拠の無い確信がある。こんな悪い噂ばかりの俺と、辺境の地で魔族領に隣接するこの領地に嫁いで来てくれる人なのだ。何があっても大丈夫だろう、という信頼があった。ああ、ルカ・ナタナエレ・F・カノーラ……。名前まで素敵な響き。今まで何度、この名を繰り返したことだろう。早くあなたに会いたいよ。
そんな俺は、今領地の端、隣の領地との境に立っている。何故って? 理由は簡単。今日はね、俺の結婚相手のルカ・ナタナエレ・F・カノーラが結婚の為に俺の領地に前入りして来る日なんだ! そのお迎えの為と称して、居てもたってもいられず領地境にまで迎えに来たってわけ! とうとう顔合わせ! とっても素敵な伴侶との、初対面! あぁー、楽しみだなぁー! 早く会いたい! エヘヘヘヘ、とだらしのない声を出し、表情筋を弛めながら婚約者がやって来るであろう地平線を眺める。そんな俺を見る従者達の視線は生温かい。
外では『野獣侯爵』と呼ばれようが、流石に自領の領民達とは生まれた頃からの付き合いだ。俺の引っ込み思案で押しの弱い本性は、彼等にはとっくのとうに知られている。こんなにも気立てのいい旦那様のところに嫁も婿も来ないのは明らかにおかしい! 世の中間違ってる! と、常々声高に叫んでいた彼等も、俺のこの度の婚約を我が事のように喜んでくれていた。
旦那様に婚姻の申し込み!? しかも向こうは名家のカノーラ家!? なんという事だ! 目出度いにも程がある! 道行く人が偶然複数人集まれば途端に喜びを抑えきれず万歳三唱、なにか仕事をしていても堪えきれず笑いだす、高らかな歌声で喜びの詩を歌うなどなど。皆の狂喜乱舞は俺と同じかそれ以上。いつも冷静な執事長まで、話を聞いた時には柄にもなく男泣きに泣いていた。今回のお出迎えも手の空いている者もそうでない者も総出で向かおうとしたくらいだ。婚約者に対する彼等の歓待ぶりが分かるというものであろう。
これだけ待ち望まれている婚約者だが、正直俺はあまり期待はしていない。いや、どうせ俺なんかのところに来るからには売れ残りだろうとか、ミソッカスに違いないとか、そういうの抜きにしても問題ありなんだろうとか、そういう事じゃなくてさ。俺と結婚してくれるだけで本当に奇跡みたいに有難い事だから、これ以上ルカさんに何かを望もうという気にならないんだ。そこに居てくれるだけで十分。それだけの事で朝晩拝んで更には奉る為のお祭りも開催したいくらい。だから、そういう意味で期待していないって事。
ルカさんは俺の元で何をしてもいいし何もしなくていい。前に子供がどうとか言ったけど、あれだって別にいいんだ。ルカさんは好きな事を好きなだけ、やったりやらなかったりして、心穏やかに過ごしてくれるだけでもう全ては完璧。俺はそこになんの意見もしたくない。こちらから何かしてあげようと意見を挟んで向こうに気を使わせてしまったら、元も子もないからな。勿論、向こうからこちらにして欲しい事等々要求があるのなら何だって呑むがね!
ああ、まだかなぁ、婚約者様。懐中時計をチラリと見るが、驚いた事にさっき見た時から3分も経っていない。時間ってこんなに進むの遅かったっけ? うぅー、まどろっこしい! ジリジリジリジリと、牛歩の速さで時は進む。そうしてどれくらい待っただろうか。ここに立ちんぼを始めてからもう3日は過ぎたんじゃないかと感じる程の長い長い時間が過ぎ、そして。
「来た!」
地面に耳をつけていた従者の1人が鋭く声を発する。地面を伝う馬車の立てる走行音を聞いたのだ。こんな魔族領に隣接した辺境まで来る馬車は滅多にない。俺が知る限り、今日ここを通る予定の馬車は婚約者の乗る馬車だけ。十中八九、婚約者の馬車がやってきたと見て間違いない!
「総員、配置につけ!」
端的に命令を下すと、各々待ち遠しげに落ち着かない様子で彷徨いていた従者達が、一糸乱れぬ隊列を組んだ。俺も彼等の先頭に立ち、ドキドキソワソワワクワクしながら婚約者を待つ。
今の俺、変なところないかな? 服は出る前にギリギリまで吟味して選んだ爽やかなスカイブルー。地黒の俺でも明るい印象を与えられるようにと出入りのデザイナーが選んでくれた。靴は周囲が写り込む程ピカピカに磨き上げているし、乗ってきた馬車だって華美過ぎない程度に飾り立ててある。従者達も負けず劣らずめかしこんでいるし、何も問題ない筈だ。
それでもやっぱり後から後から不安は襲ってくる。婚約者はスカイブルーが嫌いだったら? 靴のチップの趣味、これで良かっただろうか。歓迎の印である馬車の装飾をもっと豪華にして欲しかったと言われたらどうしよう。従者達が婚約者を出迎えるに当たって精一杯した心ばかりのお洒落を気に入って貰えない可能性もあるし……。
そもそも俺を一目見て、やっぱりこんな男と結婚なんて無理だと思われて、やっぱりこの婚約は白紙でと言われてしまったら? そうでなくともこちらを見た婚約者がいつかの時のように恐ろしさのあまり気を失ってしまうかも。不安はどんどん大きくなっていく。ドクドクと高鳴る胸にギュッと拳を握り締め、ただジッと婚約者を乗せているであろう馬車が目の前まで来るのを待った。
軈て地平線の向こうに小さな黒点がポツンと現れる。黒点はドンドンと大きくなっていき、アイボリーに染め上げられた馬車の姿へとなっていく。あの高級な作り、それを引く美しい白馬。高位の貴族が乗っているものと見て間違いない。きっと婚約者の乗る馬車だ。心臓が口から飛び出しそうになりながら馬車が近づいてくるのを凝視していると、馬車は徐々にスピードを弛め、俺の目の前で静かに止まった。緊張のあまり発言は愚か身動ぎ1つできない俺達の目の前で、馬車が揺れて中から細長い壮年の男が1人出てくる。
「えーっと……。ヴィッドルド侯爵様で、いらっしゃいますか……?」
怖がっているのを隠しきれていない様子で、男が問うてきた。身形は高級で晴れの日に合わせて華やかだが、嫁入りする公爵家令息が身につけるにしては些か質素だ。少々歳も取り過ぎている。いの一番に馬車から状況把握に出てきたことからしても、彼はきっと付き添いの従者だろう。
「あ、あのぉ……。ヴィッドルド侯爵様ではないのですか……? や、やっぱり、高級な身形の盗賊……?」
「いや、俺がヴィッドルド侯爵で合っている」
男の脅えよう、何かと思ったら盗賊と間違えられていたらしい。怪物のような面構えとは常々言われてきたが、今度は盗賊とは。初めて言われた。また1つ、他人から言われた蔑称が増えたぞ。
俺の返答に男はあからさまにホッとした顔をして、居住まいを正す。但し、先程までではないものの、俺に向ける恐怖の色は消えてくれない。まあ、これくらいは仕方がないか。いつもの事なのでもう慣れっこだしな。男はコホン、と1つ咳払いをしてから、改めて俺に挨拶を始めた。
「改めまして、ファルネア公爵家の執事を務めさせていただいております、ティエポロと申します。本日はカノーラ公爵家三男のルカ・ナタナエレ・F・カノーラ様を、ヴィッドルド侯爵家にお連れする命を受けてやって参りました」
そう言って男……ティエポロが深々と頭を下げる。おお、矢張り婚約者の乗った馬車だったか! という事は、ティエポロが乗ってきた馬車の後ろに列になって控えている何台かの内のどれかに、俺の婚約者が乗っているのだな! 益々緊張してきたが、それよりも遂に婚約者に会えるのだという高揚感が勝る。嬉しさにだらしなくフニャフニャになりそうな表情筋を引き締めながら、俺は馬車1台1台を凝視した。
「……ルカ・ナタナエレ・F・カノーラ殿はどの馬車に乗っている」
「ひぃっ!」
いや、なんで俺が婚約者がどこに居るか聞いただけでそんな顔を青褪めさせて後退る。待ちに待った婚約者に早く会いたいだけじゃん。俺、そんな顔怖い? 確かに色々と一杯一杯でかなり切羽詰った表情をしてる自覚はあるけどさぁ……。恐怖でガタガタ震えて思わず内股になる程? 別に取って食いやしないのに。
でも、まずいな。いい歳こいた大人の男のティエポロがこの脅えようなら、婚約者にも怯えられてしまうかも。この調子で婚約者にまで第一印象で怖い人とでも思われたら大変だ。これからの生活を共にする伴侶にまで噂に違わぬ怪物だと誤解されたら、余裕で死ねる。慌てて表情を取り繕い笑顔を作りかけるが、前に微笑みかけただけでうら若きご令嬢に恐怖から失神された事を思い出し、ヤッパリ無表情に落ち着いた。
「ルカ・ナタナエレ・F・カノーラ殿はどの馬車に乗っている」
「そ、それは、その……」
駄目だ。埒が明かない。参ったな。怖がらせたいわけではなく、ただ婚約者に早く会いたいだけなのに。……ん? いや待てよ。俺って今結構失礼なことしているのでは? 折角遠路遥々俺に会いに来てくれた婚約者の乗った馬車を、道のど真ん中で無理矢理止めるって、かなり身勝手な奴なのでは? だって、疲れていて早く休みたい時に道中でいきなり引き止められて休む暇もないって、かなり嫌じゃん。ここは屋敷でドッカリ腰を落ち着けて歓迎の準備を万全にし、婚約者が直ぐに旅の疲れを癒せるようにするのが最適解だったんじゃ……。
ウキウキと逆上せ上がっていた頭からザァーッと血の気が引き、思考が一気に冴える。まずい。婚約者に嫌われたくないとか言いながら、初手から阿呆みたいにトチッちまった。こうしてグダグダしている間にも、婚約者の俺に対する好感度はどんどん下がっていっている事だろう。焦って身を引き、何とか失態を取り戻そうとした、その時。ガチャリ、と停まった列の中程にある馬車の扉が開き、中から誰かが出てきた。余裕を感じさせる鷹揚とした立ち振る舞いの、その人とは。
先ず見えたのは茶色いブーツの爪先。タラップを踏み締めてゆっくり姿を現したのは、真っ白な衣装に身を包んだ、麗しい1人の青年だった。ホワイトベージュの髪は少しウェーブがかっていて絹のように艶めいている。白い肌は染み1つなく、陶磁器のように滑らか。スッと伸びた手足は長くホッソリとしている。バランスの取れた肢体は見ているだけで感嘆の溜息を禁じ得ない。
だが、なによりも特筆すべきはその顏だ。俺は今までこれ程美しい人を見た事がない。無感情に動かない柳眉。白い肌に見合ってホンノリと色付いた唇と頬は、いつか見た瑞々しい乙女椿のようだ。鼻筋も通っていて全体のバランスがいい。アイスブルーの瞳を持った目は、パッチリとしているが大き過ぎる事はなく、全体の雰囲気も相まって可愛らしいと言うよりは綺麗だという感想を抱かせる。まるで宗教画に描かれた大天使がそのまま抜け出してきたかのような美しい人が、俺の目の前に立っていた。
「ル、ルカ様!」
焦ったようなティエポロの言葉に、俺は目の前の麗人が自分の婚約者のルカ・ナタナエレ・F・カノーラだという事を理解する。嘘、マジで? この美の化身みたいな人が、俺の婚約者? えっ……だって俺、事実無根とはいえ『野獣侯爵』と陰口を叩かれていて、それを抜きにしてもかなりの不良物件で……。なのに、こんな素敵な人が俺のところに嫁入りに来てくれた。ああ、なんという事だ! 俺はきっと、今世どころか来世と来来世の運まで使ってしまったに違いない!
言葉も紡げずワナワナと震えていると、婚約者は無言のまま俺の目の前まで歩み寄って来た。そして俺の目の前まで来ると立ち止まり、ツッと流れるような動きで俺の事を上から下に観察する。
ああ、美人はこんなちょっとした仕草まで美しいのか。視線の運びや頭を動かす仕草、サラリと流れる髪のなびきまで、いちいち絵になる。……っと、そんな事を言ってる場合じゃない。折角の婚約者との初対面。これは俺の方から自己紹介をしなくては。俺は急いで脱帽してそれを胸の前に持っていき、婚約者に向かってボウアンドスクレープをした。
「ルカ・ナタナエレ・F・カノーラ殿。王都から遠路遥々よく来てくれた。ヴィッドルド侯爵家一同、あなたを歓迎する」
「……」
婚約者は何も答えない。ただ、刺すような視線だけを感じる。暫く待ったが余りにも無反応なので静かに姿勢を戻したが、それでもやはり無言。どうしたのだろうと困って婚約者を見下ろす。何か読み取れやしないかとその美しい宝石のような瞳を覗きこんだのだが……。ああ、なんという事だろう。婚約者は俺と視線がかち合った瞬間、無表情のままプイッと明後日の方を向いてしまったではないか! ショックで固まっている俺に対して、婚約者はあらぬ方を向いたまま口を開く。
「このような手厚い歓迎をしていただき、とても嬉しく思います。どうぞこれから、末永く宜しくお願い致します」
そうしてなんとか顔だけはこちらに向きなおし、しかし視線は横に向けたまま、ボウアンドスクレープをする婚約者。俺のそれよりも余っ程洗練されていて麗しい動作だ。しかし、それもそう長くは続かない。婚約者に冷たくされたショックと、その美しさに惚れ惚れとして感極まっているのとで俺が固まっている間に、婚約者はサッサとボウアンドスクレープを止めてもう用は済んだとばかりに来た道を引き返し、自分の馬車に乗り込んでパタリと扉を閉めてしまった。
後に残ったのは呆気に取られて動けずにいる間抜けなヴィッドルド侯爵家の面々と、気まずそうな顔をするティエポロだけ。俺達の佇む道が1本通っただけのだだっ広い草原を、寂寞とした風が吹いて行くのだった。
顔も年齢も名前以外確かな事は何も分からない結婚相手だったが、不安など一切ない。俺のような人間のところに嫁いできてくれるだけで、どれほど有難いことか。できれば子供も欲しいが、贅沢は言わない。相手が子供を欲しがらなかったら俺も要らないし、結果できなくても全力で愛する。三年子なきは去れ? とんでもない! 子供を授かろうがそうでなかろうが、嫌でさえなければズッと傍に居て欲しかった。なんせ向こうは執務が忙しくて1度も相手の居る王都へ伺いに行けなかった俺にも文句の1つも言わない、とてもできた人なのだ。なんて優しい! その優しさに応える為に、尽くして尽くして尽くしまくるぞ!
通常どれだけ短くても半年以上はかかる貴族の結婚だが、俺達の場合はその約半分。お互いを分かり合う時間も気持ちを育てる暇もない。それでもきっと、俺達は大丈夫だという根拠の無い確信がある。こんな悪い噂ばかりの俺と、辺境の地で魔族領に隣接するこの領地に嫁いで来てくれる人なのだ。何があっても大丈夫だろう、という信頼があった。ああ、ルカ・ナタナエレ・F・カノーラ……。名前まで素敵な響き。今まで何度、この名を繰り返したことだろう。早くあなたに会いたいよ。
そんな俺は、今領地の端、隣の領地との境に立っている。何故って? 理由は簡単。今日はね、俺の結婚相手のルカ・ナタナエレ・F・カノーラが結婚の為に俺の領地に前入りして来る日なんだ! そのお迎えの為と称して、居てもたってもいられず領地境にまで迎えに来たってわけ! とうとう顔合わせ! とっても素敵な伴侶との、初対面! あぁー、楽しみだなぁー! 早く会いたい! エヘヘヘヘ、とだらしのない声を出し、表情筋を弛めながら婚約者がやって来るであろう地平線を眺める。そんな俺を見る従者達の視線は生温かい。
外では『野獣侯爵』と呼ばれようが、流石に自領の領民達とは生まれた頃からの付き合いだ。俺の引っ込み思案で押しの弱い本性は、彼等にはとっくのとうに知られている。こんなにも気立てのいい旦那様のところに嫁も婿も来ないのは明らかにおかしい! 世の中間違ってる! と、常々声高に叫んでいた彼等も、俺のこの度の婚約を我が事のように喜んでくれていた。
旦那様に婚姻の申し込み!? しかも向こうは名家のカノーラ家!? なんという事だ! 目出度いにも程がある! 道行く人が偶然複数人集まれば途端に喜びを抑えきれず万歳三唱、なにか仕事をしていても堪えきれず笑いだす、高らかな歌声で喜びの詩を歌うなどなど。皆の狂喜乱舞は俺と同じかそれ以上。いつも冷静な執事長まで、話を聞いた時には柄にもなく男泣きに泣いていた。今回のお出迎えも手の空いている者もそうでない者も総出で向かおうとしたくらいだ。婚約者に対する彼等の歓待ぶりが分かるというものであろう。
これだけ待ち望まれている婚約者だが、正直俺はあまり期待はしていない。いや、どうせ俺なんかのところに来るからには売れ残りだろうとか、ミソッカスに違いないとか、そういうの抜きにしても問題ありなんだろうとか、そういう事じゃなくてさ。俺と結婚してくれるだけで本当に奇跡みたいに有難い事だから、これ以上ルカさんに何かを望もうという気にならないんだ。そこに居てくれるだけで十分。それだけの事で朝晩拝んで更には奉る為のお祭りも開催したいくらい。だから、そういう意味で期待していないって事。
ルカさんは俺の元で何をしてもいいし何もしなくていい。前に子供がどうとか言ったけど、あれだって別にいいんだ。ルカさんは好きな事を好きなだけ、やったりやらなかったりして、心穏やかに過ごしてくれるだけでもう全ては完璧。俺はそこになんの意見もしたくない。こちらから何かしてあげようと意見を挟んで向こうに気を使わせてしまったら、元も子もないからな。勿論、向こうからこちらにして欲しい事等々要求があるのなら何だって呑むがね!
ああ、まだかなぁ、婚約者様。懐中時計をチラリと見るが、驚いた事にさっき見た時から3分も経っていない。時間ってこんなに進むの遅かったっけ? うぅー、まどろっこしい! ジリジリジリジリと、牛歩の速さで時は進む。そうしてどれくらい待っただろうか。ここに立ちんぼを始めてからもう3日は過ぎたんじゃないかと感じる程の長い長い時間が過ぎ、そして。
「来た!」
地面に耳をつけていた従者の1人が鋭く声を発する。地面を伝う馬車の立てる走行音を聞いたのだ。こんな魔族領に隣接した辺境まで来る馬車は滅多にない。俺が知る限り、今日ここを通る予定の馬車は婚約者の乗る馬車だけ。十中八九、婚約者の馬車がやってきたと見て間違いない!
「総員、配置につけ!」
端的に命令を下すと、各々待ち遠しげに落ち着かない様子で彷徨いていた従者達が、一糸乱れぬ隊列を組んだ。俺も彼等の先頭に立ち、ドキドキソワソワワクワクしながら婚約者を待つ。
今の俺、変なところないかな? 服は出る前にギリギリまで吟味して選んだ爽やかなスカイブルー。地黒の俺でも明るい印象を与えられるようにと出入りのデザイナーが選んでくれた。靴は周囲が写り込む程ピカピカに磨き上げているし、乗ってきた馬車だって華美過ぎない程度に飾り立ててある。従者達も負けず劣らずめかしこんでいるし、何も問題ない筈だ。
それでもやっぱり後から後から不安は襲ってくる。婚約者はスカイブルーが嫌いだったら? 靴のチップの趣味、これで良かっただろうか。歓迎の印である馬車の装飾をもっと豪華にして欲しかったと言われたらどうしよう。従者達が婚約者を出迎えるに当たって精一杯した心ばかりのお洒落を気に入って貰えない可能性もあるし……。
そもそも俺を一目見て、やっぱりこんな男と結婚なんて無理だと思われて、やっぱりこの婚約は白紙でと言われてしまったら? そうでなくともこちらを見た婚約者がいつかの時のように恐ろしさのあまり気を失ってしまうかも。不安はどんどん大きくなっていく。ドクドクと高鳴る胸にギュッと拳を握り締め、ただジッと婚約者を乗せているであろう馬車が目の前まで来るのを待った。
軈て地平線の向こうに小さな黒点がポツンと現れる。黒点はドンドンと大きくなっていき、アイボリーに染め上げられた馬車の姿へとなっていく。あの高級な作り、それを引く美しい白馬。高位の貴族が乗っているものと見て間違いない。きっと婚約者の乗る馬車だ。心臓が口から飛び出しそうになりながら馬車が近づいてくるのを凝視していると、馬車は徐々にスピードを弛め、俺の目の前で静かに止まった。緊張のあまり発言は愚か身動ぎ1つできない俺達の目の前で、馬車が揺れて中から細長い壮年の男が1人出てくる。
「えーっと……。ヴィッドルド侯爵様で、いらっしゃいますか……?」
怖がっているのを隠しきれていない様子で、男が問うてきた。身形は高級で晴れの日に合わせて華やかだが、嫁入りする公爵家令息が身につけるにしては些か質素だ。少々歳も取り過ぎている。いの一番に馬車から状況把握に出てきたことからしても、彼はきっと付き添いの従者だろう。
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「いや、俺がヴィッドルド侯爵で合っている」
男の脅えよう、何かと思ったら盗賊と間違えられていたらしい。怪物のような面構えとは常々言われてきたが、今度は盗賊とは。初めて言われた。また1つ、他人から言われた蔑称が増えたぞ。
俺の返答に男はあからさまにホッとした顔をして、居住まいを正す。但し、先程までではないものの、俺に向ける恐怖の色は消えてくれない。まあ、これくらいは仕方がないか。いつもの事なのでもう慣れっこだしな。男はコホン、と1つ咳払いをしてから、改めて俺に挨拶を始めた。
「改めまして、ファルネア公爵家の執事を務めさせていただいております、ティエポロと申します。本日はカノーラ公爵家三男のルカ・ナタナエレ・F・カノーラ様を、ヴィッドルド侯爵家にお連れする命を受けてやって参りました」
そう言って男……ティエポロが深々と頭を下げる。おお、矢張り婚約者の乗った馬車だったか! という事は、ティエポロが乗ってきた馬車の後ろに列になって控えている何台かの内のどれかに、俺の婚約者が乗っているのだな! 益々緊張してきたが、それよりも遂に婚約者に会えるのだという高揚感が勝る。嬉しさにだらしなくフニャフニャになりそうな表情筋を引き締めながら、俺は馬車1台1台を凝視した。
「……ルカ・ナタナエレ・F・カノーラ殿はどの馬車に乗っている」
「ひぃっ!」
いや、なんで俺が婚約者がどこに居るか聞いただけでそんな顔を青褪めさせて後退る。待ちに待った婚約者に早く会いたいだけじゃん。俺、そんな顔怖い? 確かに色々と一杯一杯でかなり切羽詰った表情をしてる自覚はあるけどさぁ……。恐怖でガタガタ震えて思わず内股になる程? 別に取って食いやしないのに。
でも、まずいな。いい歳こいた大人の男のティエポロがこの脅えようなら、婚約者にも怯えられてしまうかも。この調子で婚約者にまで第一印象で怖い人とでも思われたら大変だ。これからの生活を共にする伴侶にまで噂に違わぬ怪物だと誤解されたら、余裕で死ねる。慌てて表情を取り繕い笑顔を作りかけるが、前に微笑みかけただけでうら若きご令嬢に恐怖から失神された事を思い出し、ヤッパリ無表情に落ち着いた。
「ルカ・ナタナエレ・F・カノーラ殿はどの馬車に乗っている」
「そ、それは、その……」
駄目だ。埒が明かない。参ったな。怖がらせたいわけではなく、ただ婚約者に早く会いたいだけなのに。……ん? いや待てよ。俺って今結構失礼なことしているのでは? 折角遠路遥々俺に会いに来てくれた婚約者の乗った馬車を、道のど真ん中で無理矢理止めるって、かなり身勝手な奴なのでは? だって、疲れていて早く休みたい時に道中でいきなり引き止められて休む暇もないって、かなり嫌じゃん。ここは屋敷でドッカリ腰を落ち着けて歓迎の準備を万全にし、婚約者が直ぐに旅の疲れを癒せるようにするのが最適解だったんじゃ……。
ウキウキと逆上せ上がっていた頭からザァーッと血の気が引き、思考が一気に冴える。まずい。婚約者に嫌われたくないとか言いながら、初手から阿呆みたいにトチッちまった。こうしてグダグダしている間にも、婚約者の俺に対する好感度はどんどん下がっていっている事だろう。焦って身を引き、何とか失態を取り戻そうとした、その時。ガチャリ、と停まった列の中程にある馬車の扉が開き、中から誰かが出てきた。余裕を感じさせる鷹揚とした立ち振る舞いの、その人とは。
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「ル、ルカ様!」
焦ったようなティエポロの言葉に、俺は目の前の麗人が自分の婚約者のルカ・ナタナエレ・F・カノーラだという事を理解する。嘘、マジで? この美の化身みたいな人が、俺の婚約者? えっ……だって俺、事実無根とはいえ『野獣侯爵』と陰口を叩かれていて、それを抜きにしてもかなりの不良物件で……。なのに、こんな素敵な人が俺のところに嫁入りに来てくれた。ああ、なんという事だ! 俺はきっと、今世どころか来世と来来世の運まで使ってしまったに違いない!
言葉も紡げずワナワナと震えていると、婚約者は無言のまま俺の目の前まで歩み寄って来た。そして俺の目の前まで来ると立ち止まり、ツッと流れるような動きで俺の事を上から下に観察する。
ああ、美人はこんなちょっとした仕草まで美しいのか。視線の運びや頭を動かす仕草、サラリと流れる髪のなびきまで、いちいち絵になる。……っと、そんな事を言ってる場合じゃない。折角の婚約者との初対面。これは俺の方から自己紹介をしなくては。俺は急いで脱帽してそれを胸の前に持っていき、婚約者に向かってボウアンドスクレープをした。
「ルカ・ナタナエレ・F・カノーラ殿。王都から遠路遥々よく来てくれた。ヴィッドルド侯爵家一同、あなたを歓迎する」
「……」
婚約者は何も答えない。ただ、刺すような視線だけを感じる。暫く待ったが余りにも無反応なので静かに姿勢を戻したが、それでもやはり無言。どうしたのだろうと困って婚約者を見下ろす。何か読み取れやしないかとその美しい宝石のような瞳を覗きこんだのだが……。ああ、なんという事だろう。婚約者は俺と視線がかち合った瞬間、無表情のままプイッと明後日の方を向いてしまったではないか! ショックで固まっている俺に対して、婚約者はあらぬ方を向いたまま口を開く。
「このような手厚い歓迎をしていただき、とても嬉しく思います。どうぞこれから、末永く宜しくお願い致します」
そうしてなんとか顔だけはこちらに向きなおし、しかし視線は横に向けたまま、ボウアンドスクレープをする婚約者。俺のそれよりも余っ程洗練されていて麗しい動作だ。しかし、それもそう長くは続かない。婚約者に冷たくされたショックと、その美しさに惚れ惚れとして感極まっているのとで俺が固まっている間に、婚約者はサッサとボウアンドスクレープを止めてもう用は済んだとばかりに来た道を引き返し、自分の馬車に乗り込んでパタリと扉を閉めてしまった。
後に残ったのは呆気に取られて動けずにいる間抜けなヴィッドルド侯爵家の面々と、気まずそうな顔をするティエポロだけ。俺達の佇む道が1本通っただけのだだっ広い草原を、寂寞とした風が吹いて行くのだった。
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BL
BLゲームの世界に転生してしまったキルシェ・セントリア公爵子息は、物語のクライマックスといえる断罪劇で逆転を狙うことにした。
それは長い時間をかけて、隠し攻略対象者や、婚約者だった第二王子ダグラスの兄であるアレクサンドリアを仲間にひきれることにした。
それでバッドエンドは逃れたはずだった。だが、キルシェに訪れたのは物語になかった展開で……
4/2の春庭にて頒布する「悪役令息溺愛アンソロジー」の告知のために書き下ろした悪役令息ものです。
悪役令息の七日間
リラックス@ピロー
BL
唐突に前世を思い出した俺、ユリシーズ=アディンソンは自分がスマホ配信アプリ"王宮の花〜神子は7色のバラに抱かれる〜"に登場する悪役だと気付く。しかし思い出すのが遅過ぎて、断罪イベントまで7日間しか残っていない。
気づいた時にはもう遅い、それでも足掻く悪役令息の話。【お知らせ:2024年1月18日書籍発売!】
国を救った英雄と一つ屋根の下とか聞いてない!
古森きり
BL
第8回BL小説大賞、奨励賞ありがとうございます!
7/15よりレンタル切り替えとなります。
紙書籍版もよろしくお願いします!
妾の子であり、『Ω型』として生まれてきて風当たりが強く、居心地の悪い思いをして生きてきた第五王子のシオン。
成人年齢である十八歳の誕生日に王位継承権を破棄して、王都で念願の冒険者酒場宿を開店させた!
これからはお城に呼び出されていびられる事もない、幸せな生活が待っている……はずだった。
「なんで国の英雄と一緒に酒場宿をやらなきゃいけないの!」
「それはもちろん『Ω型』のシオン様お一人で生活出来るはずもない、と国王陛下よりお世話を仰せつかったからです」
「んもおおおっ!」
どうなる、俺の一人暮らし!
いや、従業員もいるから元々一人暮らしじゃないけど!
※読み直しナッシング書き溜め。
※飛び飛びで書いてるから矛盾点とか出ても見逃して欲しい。
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