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おまけ 3の1
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スーラ一族総出の旅行から山の中の我が家へ帰ってきてから幾日。旅の疲れも粗方取れ、暮らしのリズムも以前のように戻り、ある程度生活も落ち着いた頃。その日俺達は屋敷の玄関前で、ロランの体のブラッシングをしていた。
使っているブラシは旅行先で買った猪毛の高級なもので、買った時からずっと使うのを楽しみにしていた物だ。獣人の毛並みの艶出しにピッタリという触れ込み通り、ただでさえ素敵なロランの毛並みがより艶々としている。やればやるだけ愛しい人の毛並みが綺麗になっていって楽しいし、ロランも尻尾をゆったりと左右に振って気持ちよさそう。
旅行で溜まっていた家事は全部終わらせたし、家を空けていた間の埃の掃除も済んでいて、畑の方は留守を任せていたゴーレムのお陰で貴重な薬草が豊作。天気も良く、山の中でも気温は過ごし易く、今日はいたって平和な日だ。大旅行の後だし、偶にはこうやって2人でのんびりまったり過ごすのも悪くない。
「ロラン、最後の仕上げに尻尾をブラッシングするから、一旦フリフリするの止めて」
「むう、難しい相談だな。マルセルの手でブラッシングされると、どうしても気持ちが良くて尻尾が揺れてしまう」
「もう、ロランてば。煽てるのが上手なんだから」
擽ったいやり取りに益々振り幅が大きくなった尻尾を優しく捕まえ、ブラシを当てる。それでも動くのを我慢しきれず、手の中でもピクピクと動くのが可愛らしい。やり残しがないよう、丁寧に丁寧にブラッシングをする。
尻尾の手入れをしながら、こっそりとロランの逞しい体を盗み見た。全身をブラッシングする為、ロランは上半身は脱いで半裸だ。はあ、カッコイイ。本の虫で運動とは無縁なのに、どうしてこんなにもいい体しているのか。獣人の体の為せる神秘だな。気をつけていないとロランに見惚れて手が止まってしまう。ブラッシングという名目のお陰で、俺は今この体を全身触りたい放題だ。役得、役得。
「ロランの毛並みは触っていて気持ちがいいなあ。どこもかしこもブラッシングして艶々で、もっと惚れ直しちゃう。今日程山の中で2人暮しでよかったと思った日はないよ。こんな素敵な獣人、人の多い所に住んでいたら、きっと周りが放っとかないもの。そしたら困っちゃうな。魅力的な人達に囲まれて選択肢が増えたら、ロランは俺なんか選ばないだろうしね」
「山の中の2人暮らしでよかったなんて、私は毎日思っているぞ。私には勿体ない程の素晴らしい伴侶を得られたのはこの上ない幸せだが、それと同時にあまりにも魅力的すぎるのは悩みの種だ。人の多い所だったら毎日伴侶の色香にやられた輩を端から追い払わなければならないところだった。出会ってこの方、お前は心身共に日に日に美しくなる。目移りなんて、以ての外。どんな時もその美しさから目が離せない。心配しなくても、私はお前に釘付けだ」
ああ、ロラン。なんて嬉しいことを言ってくれるんだ! ロランはどんな時も俺に嬉しい言葉をくれる。俺を喜ばせる天才だ。こんな素敵な人と結ばれて、俺はなんて果報者なんだろう。胸の内に湧き上がった暖かい気持ちを抑えきれず、ブラシを置いて後ろからロランに抱きつく。
「この黒い毛並みも、賢い頭脳も、控えめな性格も、全部愛しい。ロラン、この広い世界であなたに出会えた奇跡は、運命の女神様に何度感謝しても足りないよ」
「私も、ヘーゼルの瞳も、強靭な精神も、優しい心も、お前の全部を丸ごと愛している。きっと運命の女神様は、私達の魂を1つの同じ材料から2つに分けてお作りになられたんだ。私達は産まれる前からこうして惹かれ合い、結ばれる運命だったんだろう」
「わあ。それって、すごく素敵な考えだ。ロランはいつも素晴らしいことに気が付くね」
黒い毛並みにスリッと頬を擦り寄せると、ロランは唸るように低く笑って自分の首に回された俺の手に自分の手を重ねる。その手には以前の様な分厚い手袋は付けられていない。ロランの何も付けない短い毛足の毛皮に覆われた手の感触で、ほんの数日前にこの手で暴かれ、抱かれたことを思い出す。
あれは到底言葉にできない程素敵な体験だった。長年の努力が実り、俺とロランは念願叶って遂に最後まで結ばれたのだ。今もこの腹の奥があの日の余韻を思い出して、時たま甘く疼く。その事をとても幸せだと感じる。あれ以来自分でも自覚する程、俺とロランの間に漂う空気が以前よりも更に親密なものになった。お陰で旅行中にスーラ一族から貰った生暖かい視線は記憶に新しい。多少はからかわれもしたっけ。
だが、周りからどれだけバカップルと思われようが、いい意味で何かあったとバレバレだろうが、お互い熱く見つめ合うのを止められない。俺とロランは今、幸せの絶頂にいるのだ。何がどうあってもこの幸せな気持ちには水をさせない。
「マルセル、1度手を離してくれ」
「えー、俺は離れたくないな」
「だが、このままではキスができない。そうだろう?」
「ロラン……」
「マルセル……」
腕を緩めると、ロランは座っていた背もたれのない丸椅子の上でクルッと回って、こちらを向く。蜂蜜のようにトロリと蕩けた黄金の瞳と間近に向き合うことになって、ドキリと心臓が跳ねた。ああ、ロラン。愛しい人。何よりも大切な、かけがえのない俺の宝物。この人の為なら、俺はなんだってできるし、なんにだってなれる。
唇に、ロランの熱い息がかかった。もうあと少し顔を前に動かすだけで、キスができる。今からロランとキスをしない理由は何もないし、ロランも同じ思いなのだということがその瞳から読み取れた。目を閉じてゆっくりと顔を近づけ、正にキスをせんという、その瞬間。
ガサッ。
「あ、やべ」
ロランの後ろから、不信な物音と人の声がした。直ぐさまロランが獣人の脅威の反射神経で素早く半身を捻って振り返り、片手で俺を庇う。全身の毛がブワッと警戒で立ち上がり膨れ上がった。
「誰だっ!」
「あーあ。いいところだったのに、バレちまった」
そう言いながら、ガサガサと薮を掻き分け出てきて、服に着いた葉っぱや小枝を払うその人物。敵意などなく、柔和な笑みを浮かべてこちらを見ている。以前1度会ったことあるその人物に警戒をとき、しかしなぜその人がここにいるのか分からなくて、俺はロランの背中から顔を出して目を見開く。その人物とは。俺と同じ疑問を抱いたらしいロランが、警戒はそのまま口を開く。
「こんなところで何をしている、セヴラン」
「なんだ、俺の顔はまだ忘れていなかったみたいだな、兄弟。話の前に、水をくれないか? お前の目くらましの魔法に引っかかってあちこち歩き回ったから、もうヘトヘトだ」
そう言ってパタパタと手で顔を扇ぐセヴランさん。言葉の通り、相当長く山道を歩いてきたのだろう。今日は過ごしやすい気温だと言うのに、ダラダラと汗を流していて、それを手で拭っている。
だが、久しぶりに会った疲れ果てた様子の幼馴染にも、ロランは容赦しない。余っ程俺との良い雰囲気を邪魔されたのが気に食わないのだろうか。不機嫌も顕に警戒もとかず、セヴランさんに刺々しい声を投げつける。
「俺は、こんな山奥にお前のような王宮務めで忙しい筈の人間が、なんの用だと聞いているんだ、セヴラン。この程度の質問にも答えられないような礼儀知らずに飲ませる水はない」
「もう、そんな意地悪言っちゃいけませんよ、ロラン様。セヴランさんは見たところかなりお疲れのようですから、とにかく休んでいただかないと。あなたがお嫌なら私が屋敷の中から飲むお水と座る椅子を持ってきますからね」
「マルセル、こいつの為にそんなことしなくていい!」
「駄目です! せっかく来ていただいたお客様に失礼なことするなんて、絶対させません! ロラン様はここでセヴランさんをおもてなししていてください。放り出したりしたら、許しませんからね!」
追い縋るロランの腕を振りきり、屋敷の中に駆け込む。キツく言い含めたからか、ロランは追いかけてはこなかった。ただ、ロランはセヴランさんを凄く威嚇していたから、ロランが自分を押えられなくなって2人が喧嘩になる前に早く戻らなくては。まあ、意外とすぐ熱くなるロランと違って、セヴランさんはロランを軽くいなせるくらいには大人だから、ムキになったロランが余裕綽々のセヴランさんにキーキー嫌味を言うだけに終わりそうだけど。それでも急いで調理場で水を水差しに入れて調達し、コップも手に、ついでにそこにあった軽い木の椅子を腕に引っかけ持っていく。
2人の待つ玄関前に戻ると、案の定ロランがセヴランさんに対してさっきよりいっそう毛を逆立て、グルルルルッと唸り声を上げていた。ロランがいつものお得意の嫌味を何も言っていないところを見ると、大方俺の居なくなった間に、言い合いでセヴランさんに言い負かされた後なのだろう。ロランをからかうことに関しては、セヴランさんの方が1枚上手だと前回のスーラ家とセヴランさんとの集まりで証明されていた。セヴランさんといえば、威嚇してくるロランの様子を見て、楽しそうに腹を抱えて笑っている。牙も爪もないとはいえ、大人の獣人に威嚇されても動じないなんて、流石王家直属の騎士だ。かなり肝が座っている。
だが、だからといって滅多矢鱈セヴランさんを威嚇していい筈もない。俺は玄関扉から外に飛び出した勢いもそのままに、セヴランさんを威嚇するロランの背中に思いっ切り膝を入れてどついた。背骨を外して打撃したのはせめてでもの情けだ。全神経を目の前のセヴランさんに向けていたロランは、呆気なく椅子から転げ落ち、よろめいて鑪を踏む。やり過ぎに思われるかもしれないが、これくらいしないと強靭な獣人相手では何にもならないのだ。
「コラッ! ロラン! 私はお客様をおもてなししてくださいとお願い申し上げた筈ですよ!? それだというのに、なんですか! そんなに威嚇して! 紳士にあるまじき行為です。セヴランさんに謝罪してください!」
「し、しかしだなあ、マルセル。セヴランの奴、お前がいなくなった後に『よく気が利いてお前には勿体ないくらいの嫁さんだな。本当、街中に住んでいたら、お前は嫁さんを賭けて毎日最低5回は決闘を申し込まれていたところだ』と言ったんだぞ! この発言といい、直前の不振な物音や声といい、こいつが私達の会話を盗み聞いていたのは明白! 親密な仲の2人のやり取りを盗み見るなんて、とんでもない! こんな不埒なピーピングトムには、二度と馬鹿な真似ができないようにキツく言い含めなくては!」
まあ、恋人とのイチャイチャする時間を邪魔をされたのも、それを盗み見られていたのが恥ずかしいのも、どっちも俺は同じだから、ロランの気持ちが分からんでもない。でも、だからって折角ここまで遠路遥々来てくれた客人に失礼な態度をとっていいかと言うと話が別だ。例えそれが熱々の俺達の仲をからかう気満々の客人でも、である。
「ほら、ロラン」
「むう……。失礼な態度をとって、すまない、セヴラン」
「私からも謝罪致します、セヴランさん。ロランがとんだ失礼を。お水と椅子をお持ちしました。どうぞ足を休めてください」
「いやいや、気にしなくていいんだ。俺の方こそいい時に邪魔して悪かったよ。事前の連絡もなく驚かしてすまないね。心から謝罪する」
「いえいえ、私達とあなたの仲じゃないですか。お気になさらないでください」
「そうかい? ロランの嫁さんは心が広いなあ。許してくれて嬉しいよ。やあ、それにしても、喉がカラカラだ! ご好意に甘えて、早速その水をいただこう」
俺の持ってきた品々を受け取り、セヴランさんが椅子にドッカリと腰を下ろす。余程喉が渇いていたのだろう。水差しの水をなみなみとコップに注ぎ、一息に飲み干した。
「おっ、なんだか少しスッとして美味しいな、この水。味も爽やかで体の疲労が取れるようだ」
「薄めのミント水に、魔法を注ぎ込んで疲労回復効果を高めたものです。今朝作ったばかりなんですよ。お口にあったようでなによりです」
「いやー、本当にロランのお嫁さんは気が利くなあ。独り身の俺にとっては羨ましい限りだよ」
そう言いながら、セヴランさんは水をまた1杯飲む。ミント水は所詮ハーブを使った水なので大量に飲むのには向いていないが、薄めに作ってあるのと魔法で体に優しくなるよう効能を弄ってあるからまあ大丈夫だろう。あっという間に、セヴランさんは水差しいっぱいのミント水を飲み干した。
「それで? 結局お前はなんでここにいるんだ。まさか私たちを冷やかすためだけにこんな山奥まで来たわけではあるまいし」
「まあまあ、それに関しては後で話すから、それよりも今はこれを見てくれないか? 今朝この山にはいる時に麓で買ったものだからまだ元気だと思うけど、あまり長い間狭い所へ閉じ込めていたら可哀想だ。俺からロランとマルセルさんに心ばかりの贈り物だ」
「贈り物?」
そういえば、セヴランさんは背中に軽く布をかけた長方形の何かを背負っていた。今は地面に下ろしていて、布の下から僅かに見えるそれは、籐かなにかの植物で編まれた繊細な作りの籠のようなものに思える。
あれが、贈り物? 確かに籠なら薬草の保管にいくらあっても足りないから助かるけど、それにしてはやけに大きくないか? ……ん? 今、あの籠動かなかったか? うわっ、やっぱりそうだ。また動いた。えっ、てことは、籠が勝手に動くわけないし、生き物が入ってんのか? あんまり長い間閉じ込めていたら可哀想だって言ってたし、そうだよな? えっ、ちょっと、セヴランさん、何持ってきたんだよ。
「セヴランさん、贈り物って、いったい……?」
「ああ、気になるか? まあ勿体ぶるものでもないしな。これだよ、これ」
「……うわあ! 凄い!」
セヴランさんが布を除け、俺達の目の前に押し出したそれを見て、俺は感嘆の声を上げる。セヴランさんが籠に入れて持ってきたのは、まだヒヨコを卒業したばかりの、10余匹の初々しい若鶏だった。目隠しの布を取られて驚いたのか、ピイピイと鳴き声を上げて籠の中を体をぶつけ合いながら動き回るのがなんとも可愛らしい。
「ほら、前にロランの家にお邪魔させてもらって話した時、マルセルさんは肉の苦手なロランに付き合って草食の食事ばっかりだって言ってたろう。偶には動物も食べたいだろうから、卵や潰して鶏肉にする用の鶏を持ってきたんだ」
「それで、麓からこんなに鶏を連れてきたのか」
「ああそうさ。俺はあまり詳しくないが、ある程度増やすには少し数がいると思ってね。ロランみたいに魔力で一定量生命力を補える高魔力の獣人なら草ばっか食べててもいいが、俺やマルセルさんみたいな人間は違う。獣人と比べるとそこまで魔力は高くないし、体も虚弱だ。偶には動物も食べないと栄養が足りなくなって病気になっちまうぜ。この鶏だけじゃなく今日直ぐに肉を食べられる様に干し肉だって持ってきた。どうだい、ロラン、マルセルさん。俺の贈り物はお気に召したかな?」
「ええ、とっても!」
ロランは医術に精通した人だ。当然、俺の体の健康の維持に肉が必要なことを知っていた。食料を調達する時に俺が食べる用の肉も一緒に仕入れてくれたし、普段の菜食の食事で足りなくなる栄養素を補うために大豆なんかの植物を畑で育ててくれてもいる。それでも必要な栄養が足りないと思われる時は強制的にロランの魔力を俺に流し込んでエネルギーを与えてくれたりもしていたくらいなのだから、決して俺の健康に関心がないわけでも、自分が苦手なだけで他人の肉食に理解がなく、反対なわけでもない。
それでも、わざわざ俺の為だけに余計な金をかけて肉を買うことも、ロランの魔物や動物避けの結界と香を超えて遠出してまで山の野生動物を捕りに行くのも、あまり意欲的でなかったのはむしろ俺の方。俺だってポプリやリキュールなどを作ってそれを麓で売り、活計を稼いではいるが、俺の拙い腕ではそれも額としてはまだまだ心ともない。高名な医学雑誌に論文やなんかを寄稿して原稿料を得ているロランの方がよっぽど稼いでいる。殆どロランに養ってもらっているような現状で、俺だけしか恩恵を受けられない『肉』というものに金や労力のリソースを割くことはあまりしたくなかった。
だが、家で家禽を飼うなら話は別だ。これなら餌と糞の掃除をするだけであとは基本的に勝手に増えていくし、卵ならスーラ家にお邪魔せていただいた時に朝食で出たのをロランも食べていたから、2人で同じものが食べられるだろう。鶏は雑食だから、余った野菜の切れ端や菜っ葉の屑を与えてやれば無駄もない。正に、理想の贈り物! そして、なにより……。
「あー、可愛いー! 癒されるー! 名前どうしようかな……」
「えっ、名前つけるの!? 食べるのに!? もしかして飼う気!?」
「マルセル、ペットが飼いたいなら今度どこかで仔犬か仔猫を貰ってくるから、食糧の鶏に情をかけるのはやめなさい」
「やだな、冗談ですよ。情があっても食べられる分には食べられますが、流石にこれだけの数の鶏に名前を付けるのは骨ですからね」
「大変じゃなかったら名前つけて食べるんだ……」
漸く落ち着いた様子で籠の中をモソモソと動く鶏を見て、どうやって食べようかと献立を考える。普通にスープにしてもいいけど、ソテーもいいな。手間はかかるけど、ガランティーヌも。ああ、お腹空いてきた。お昼まだだもんなあ。そうだ、今日はセヴランさんがいらしたから、お昼多めに作らないと。取り敢えず屋敷に戻って残りの食糧の数を確認して……。
「あ」
「どうした、マルセル? 何か問題でも?」
「いや、今気がついたんですけど、鶏小屋どうしましょう。まさか外の物置に押し込めるわけにもいきませんし」
「ああ、確かに。そこまで考えてなかったな」
「セヴラン……」
呆れ顔のロランにうっかりうっかり、とおどけるセヴランさん。あなたねえ……。まあ、元はこちらを喜ばそうという気持ちから生じたことだ。わざとでもないし、怒る気にはなれない。
鶏の今後に関しては、取り敢えず腹が減っていては上手い案も思い浮かばないから、と鶏の詰まった籠を風通しのいい涼しい日陰に移動させ、当座の水と餌を与えて俺達は食事の為に屋敷内に入る。3人分のスープを作りパンを出して、山道を歩いてきて疲れているであろうセヴランさんの為に干し肉を切り分けた。俺も味見の為にちょっと貰う。カラトリーに食事をよそって、席に着く。食前の祈りを捧げてから、食事を始める。
「んっ! この干し肉美味しい! すっごく味が染みてる!」
「だろう? 王都を出る時に有名な店で買ってきたんだ」
「へえ、そうなんですか! 王都はお菓子といい美味しいものがいっぱいありますよね。ロラン、もし良かったらこれで少し出汁を取ってコンソメスープに使おうか。味に深みが出るよ」
「ああ、いいなそれ。それなら私も食べられる」
3人の食事は結構和やかに過ごせた。さっきはちょっと険悪な空気が流れかけたが、基本的にロランとセヴランさんは仲がいい。今も、どちらかが冗談を言ったり片方がそれに笑ったりと仲良さげである。俺もその2人の会話の和に混ぜてもらって仲良く話しをした。最初はお互いの近況やセヴランさんの持ってきた外の世界の話題で盛り上がっていたが、やがて話題は鶏小屋のことに移っていく。
「さて、どうするか。木材と場所なら周りに腐るほどあるし、大工道具や釘なんかのその他の道具も屋敷が壊れたもしもの時のために用意がある。ただ、建てるのにある程度時間がかかるものだしな」
「建てるのは2人でやるとして、そんなに長い間鶏をあの狭い鳥籠に閉じ込めておくのは可哀想ですもんねえ」
うーん、と唸り声を上げてロランと2人で頭を働かせる。いくら結界のお陰で獣がいないから食べられる心配はないとしても、囲いのない外に出しておいたらどこかに行ってしまうし。かといって室内にあげたら鳥類はトイレの躾ができないから床が汚れる。どうしたものか。あーあ、一瞬で鶏小屋が建ってくれればいいんだけど。そうして悩む俺達に、セヴランが声を上げた。
「おいおい、なんで2人なんだよ。人手なら3人分あるじゃないか」
「いえ、流石にお客様を働かせるわけには」
「何を言ってるんだ、元はと言えば鶏を連れてきたのは俺だし、人が働いているのに1人自分だけノンベリダラリンするのは性にあわない。ぜひ俺にも手伝わせてくれ」
そう言って胸を張り、拳でドンッと叩くセヴランさん。頼もしい。でも、そもそもこの人が予め鶏を連れてくることを知らせてくれていたらこんなことにならなかったのだが、その事は今考えないものとする。
「それに、鶏を置いておくなら俺にいい考えがある。俺は王宮に務めている間に、物質遮断の結界の張り方を学んだんだ! 強度も持続時間も申し分ない。少しの時間さえくれれば、ニワトリに十分な広さの魔法の囲いを準備してやれる」
「それは本当か? 凄いじゃないか。魔物を遠ざけたりする呪術的なものと違って、現実世界に干渉する物質遮断の結界は、才能がなくては身につかないのだから、それを使えるなんて素晴らしいことだ」
成程。その素晴らしい高度な結界を鶏を閉じ込めておくなんてことに使ってもいいのか分からないが、取り敢えず当座の鶏の居場所を確保できたのはいいことだ。これで安心して鶏小屋造りに集中することができる。
「それなら、食事が終わったら早速準備していただいてもよろしいでしょうか? ピーちゃん達をいつまでも狭いところに入れておくのは可愛そうで」
「結局名前付けてる……」
「ああ、勿論さ! 食器を片付けたら早速取り掛かろう!」
任せてくれと言わんばかりに、エヘンと咳払いをしてセヴランさんがニッコリ笑う。こうして俺達3人の鶏小屋を建てる大仕事が始まったのだ。
使っているブラシは旅行先で買った猪毛の高級なもので、買った時からずっと使うのを楽しみにしていた物だ。獣人の毛並みの艶出しにピッタリという触れ込み通り、ただでさえ素敵なロランの毛並みがより艶々としている。やればやるだけ愛しい人の毛並みが綺麗になっていって楽しいし、ロランも尻尾をゆったりと左右に振って気持ちよさそう。
旅行で溜まっていた家事は全部終わらせたし、家を空けていた間の埃の掃除も済んでいて、畑の方は留守を任せていたゴーレムのお陰で貴重な薬草が豊作。天気も良く、山の中でも気温は過ごし易く、今日はいたって平和な日だ。大旅行の後だし、偶にはこうやって2人でのんびりまったり過ごすのも悪くない。
「ロラン、最後の仕上げに尻尾をブラッシングするから、一旦フリフリするの止めて」
「むう、難しい相談だな。マルセルの手でブラッシングされると、どうしても気持ちが良くて尻尾が揺れてしまう」
「もう、ロランてば。煽てるのが上手なんだから」
擽ったいやり取りに益々振り幅が大きくなった尻尾を優しく捕まえ、ブラシを当てる。それでも動くのを我慢しきれず、手の中でもピクピクと動くのが可愛らしい。やり残しがないよう、丁寧に丁寧にブラッシングをする。
尻尾の手入れをしながら、こっそりとロランの逞しい体を盗み見た。全身をブラッシングする為、ロランは上半身は脱いで半裸だ。はあ、カッコイイ。本の虫で運動とは無縁なのに、どうしてこんなにもいい体しているのか。獣人の体の為せる神秘だな。気をつけていないとロランに見惚れて手が止まってしまう。ブラッシングという名目のお陰で、俺は今この体を全身触りたい放題だ。役得、役得。
「ロランの毛並みは触っていて気持ちがいいなあ。どこもかしこもブラッシングして艶々で、もっと惚れ直しちゃう。今日程山の中で2人暮しでよかったと思った日はないよ。こんな素敵な獣人、人の多い所に住んでいたら、きっと周りが放っとかないもの。そしたら困っちゃうな。魅力的な人達に囲まれて選択肢が増えたら、ロランは俺なんか選ばないだろうしね」
「山の中の2人暮らしでよかったなんて、私は毎日思っているぞ。私には勿体ない程の素晴らしい伴侶を得られたのはこの上ない幸せだが、それと同時にあまりにも魅力的すぎるのは悩みの種だ。人の多い所だったら毎日伴侶の色香にやられた輩を端から追い払わなければならないところだった。出会ってこの方、お前は心身共に日に日に美しくなる。目移りなんて、以ての外。どんな時もその美しさから目が離せない。心配しなくても、私はお前に釘付けだ」
ああ、ロラン。なんて嬉しいことを言ってくれるんだ! ロランはどんな時も俺に嬉しい言葉をくれる。俺を喜ばせる天才だ。こんな素敵な人と結ばれて、俺はなんて果報者なんだろう。胸の内に湧き上がった暖かい気持ちを抑えきれず、ブラシを置いて後ろからロランに抱きつく。
「この黒い毛並みも、賢い頭脳も、控えめな性格も、全部愛しい。ロラン、この広い世界であなたに出会えた奇跡は、運命の女神様に何度感謝しても足りないよ」
「私も、ヘーゼルの瞳も、強靭な精神も、優しい心も、お前の全部を丸ごと愛している。きっと運命の女神様は、私達の魂を1つの同じ材料から2つに分けてお作りになられたんだ。私達は産まれる前からこうして惹かれ合い、結ばれる運命だったんだろう」
「わあ。それって、すごく素敵な考えだ。ロランはいつも素晴らしいことに気が付くね」
黒い毛並みにスリッと頬を擦り寄せると、ロランは唸るように低く笑って自分の首に回された俺の手に自分の手を重ねる。その手には以前の様な分厚い手袋は付けられていない。ロランの何も付けない短い毛足の毛皮に覆われた手の感触で、ほんの数日前にこの手で暴かれ、抱かれたことを思い出す。
あれは到底言葉にできない程素敵な体験だった。長年の努力が実り、俺とロランは念願叶って遂に最後まで結ばれたのだ。今もこの腹の奥があの日の余韻を思い出して、時たま甘く疼く。その事をとても幸せだと感じる。あれ以来自分でも自覚する程、俺とロランの間に漂う空気が以前よりも更に親密なものになった。お陰で旅行中にスーラ一族から貰った生暖かい視線は記憶に新しい。多少はからかわれもしたっけ。
だが、周りからどれだけバカップルと思われようが、いい意味で何かあったとバレバレだろうが、お互い熱く見つめ合うのを止められない。俺とロランは今、幸せの絶頂にいるのだ。何がどうあってもこの幸せな気持ちには水をさせない。
「マルセル、1度手を離してくれ」
「えー、俺は離れたくないな」
「だが、このままではキスができない。そうだろう?」
「ロラン……」
「マルセル……」
腕を緩めると、ロランは座っていた背もたれのない丸椅子の上でクルッと回って、こちらを向く。蜂蜜のようにトロリと蕩けた黄金の瞳と間近に向き合うことになって、ドキリと心臓が跳ねた。ああ、ロラン。愛しい人。何よりも大切な、かけがえのない俺の宝物。この人の為なら、俺はなんだってできるし、なんにだってなれる。
唇に、ロランの熱い息がかかった。もうあと少し顔を前に動かすだけで、キスができる。今からロランとキスをしない理由は何もないし、ロランも同じ思いなのだということがその瞳から読み取れた。目を閉じてゆっくりと顔を近づけ、正にキスをせんという、その瞬間。
ガサッ。
「あ、やべ」
ロランの後ろから、不信な物音と人の声がした。直ぐさまロランが獣人の脅威の反射神経で素早く半身を捻って振り返り、片手で俺を庇う。全身の毛がブワッと警戒で立ち上がり膨れ上がった。
「誰だっ!」
「あーあ。いいところだったのに、バレちまった」
そう言いながら、ガサガサと薮を掻き分け出てきて、服に着いた葉っぱや小枝を払うその人物。敵意などなく、柔和な笑みを浮かべてこちらを見ている。以前1度会ったことあるその人物に警戒をとき、しかしなぜその人がここにいるのか分からなくて、俺はロランの背中から顔を出して目を見開く。その人物とは。俺と同じ疑問を抱いたらしいロランが、警戒はそのまま口を開く。
「こんなところで何をしている、セヴラン」
「なんだ、俺の顔はまだ忘れていなかったみたいだな、兄弟。話の前に、水をくれないか? お前の目くらましの魔法に引っかかってあちこち歩き回ったから、もうヘトヘトだ」
そう言ってパタパタと手で顔を扇ぐセヴランさん。言葉の通り、相当長く山道を歩いてきたのだろう。今日は過ごしやすい気温だと言うのに、ダラダラと汗を流していて、それを手で拭っている。
だが、久しぶりに会った疲れ果てた様子の幼馴染にも、ロランは容赦しない。余っ程俺との良い雰囲気を邪魔されたのが気に食わないのだろうか。不機嫌も顕に警戒もとかず、セヴランさんに刺々しい声を投げつける。
「俺は、こんな山奥にお前のような王宮務めで忙しい筈の人間が、なんの用だと聞いているんだ、セヴラン。この程度の質問にも答えられないような礼儀知らずに飲ませる水はない」
「もう、そんな意地悪言っちゃいけませんよ、ロラン様。セヴランさんは見たところかなりお疲れのようですから、とにかく休んでいただかないと。あなたがお嫌なら私が屋敷の中から飲むお水と座る椅子を持ってきますからね」
「マルセル、こいつの為にそんなことしなくていい!」
「駄目です! せっかく来ていただいたお客様に失礼なことするなんて、絶対させません! ロラン様はここでセヴランさんをおもてなししていてください。放り出したりしたら、許しませんからね!」
追い縋るロランの腕を振りきり、屋敷の中に駆け込む。キツく言い含めたからか、ロランは追いかけてはこなかった。ただ、ロランはセヴランさんを凄く威嚇していたから、ロランが自分を押えられなくなって2人が喧嘩になる前に早く戻らなくては。まあ、意外とすぐ熱くなるロランと違って、セヴランさんはロランを軽くいなせるくらいには大人だから、ムキになったロランが余裕綽々のセヴランさんにキーキー嫌味を言うだけに終わりそうだけど。それでも急いで調理場で水を水差しに入れて調達し、コップも手に、ついでにそこにあった軽い木の椅子を腕に引っかけ持っていく。
2人の待つ玄関前に戻ると、案の定ロランがセヴランさんに対してさっきよりいっそう毛を逆立て、グルルルルッと唸り声を上げていた。ロランがいつものお得意の嫌味を何も言っていないところを見ると、大方俺の居なくなった間に、言い合いでセヴランさんに言い負かされた後なのだろう。ロランをからかうことに関しては、セヴランさんの方が1枚上手だと前回のスーラ家とセヴランさんとの集まりで証明されていた。セヴランさんといえば、威嚇してくるロランの様子を見て、楽しそうに腹を抱えて笑っている。牙も爪もないとはいえ、大人の獣人に威嚇されても動じないなんて、流石王家直属の騎士だ。かなり肝が座っている。
だが、だからといって滅多矢鱈セヴランさんを威嚇していい筈もない。俺は玄関扉から外に飛び出した勢いもそのままに、セヴランさんを威嚇するロランの背中に思いっ切り膝を入れてどついた。背骨を外して打撃したのはせめてでもの情けだ。全神経を目の前のセヴランさんに向けていたロランは、呆気なく椅子から転げ落ち、よろめいて鑪を踏む。やり過ぎに思われるかもしれないが、これくらいしないと強靭な獣人相手では何にもならないのだ。
「コラッ! ロラン! 私はお客様をおもてなししてくださいとお願い申し上げた筈ですよ!? それだというのに、なんですか! そんなに威嚇して! 紳士にあるまじき行為です。セヴランさんに謝罪してください!」
「し、しかしだなあ、マルセル。セヴランの奴、お前がいなくなった後に『よく気が利いてお前には勿体ないくらいの嫁さんだな。本当、街中に住んでいたら、お前は嫁さんを賭けて毎日最低5回は決闘を申し込まれていたところだ』と言ったんだぞ! この発言といい、直前の不振な物音や声といい、こいつが私達の会話を盗み聞いていたのは明白! 親密な仲の2人のやり取りを盗み見るなんて、とんでもない! こんな不埒なピーピングトムには、二度と馬鹿な真似ができないようにキツく言い含めなくては!」
まあ、恋人とのイチャイチャする時間を邪魔をされたのも、それを盗み見られていたのが恥ずかしいのも、どっちも俺は同じだから、ロランの気持ちが分からんでもない。でも、だからって折角ここまで遠路遥々来てくれた客人に失礼な態度をとっていいかと言うと話が別だ。例えそれが熱々の俺達の仲をからかう気満々の客人でも、である。
「ほら、ロラン」
「むう……。失礼な態度をとって、すまない、セヴラン」
「私からも謝罪致します、セヴランさん。ロランがとんだ失礼を。お水と椅子をお持ちしました。どうぞ足を休めてください」
「いやいや、気にしなくていいんだ。俺の方こそいい時に邪魔して悪かったよ。事前の連絡もなく驚かしてすまないね。心から謝罪する」
「いえいえ、私達とあなたの仲じゃないですか。お気になさらないでください」
「そうかい? ロランの嫁さんは心が広いなあ。許してくれて嬉しいよ。やあ、それにしても、喉がカラカラだ! ご好意に甘えて、早速その水をいただこう」
俺の持ってきた品々を受け取り、セヴランさんが椅子にドッカリと腰を下ろす。余程喉が渇いていたのだろう。水差しの水をなみなみとコップに注ぎ、一息に飲み干した。
「おっ、なんだか少しスッとして美味しいな、この水。味も爽やかで体の疲労が取れるようだ」
「薄めのミント水に、魔法を注ぎ込んで疲労回復効果を高めたものです。今朝作ったばかりなんですよ。お口にあったようでなによりです」
「いやー、本当にロランのお嫁さんは気が利くなあ。独り身の俺にとっては羨ましい限りだよ」
そう言いながら、セヴランさんは水をまた1杯飲む。ミント水は所詮ハーブを使った水なので大量に飲むのには向いていないが、薄めに作ってあるのと魔法で体に優しくなるよう効能を弄ってあるからまあ大丈夫だろう。あっという間に、セヴランさんは水差しいっぱいのミント水を飲み干した。
「それで? 結局お前はなんでここにいるんだ。まさか私たちを冷やかすためだけにこんな山奥まで来たわけではあるまいし」
「まあまあ、それに関しては後で話すから、それよりも今はこれを見てくれないか? 今朝この山にはいる時に麓で買ったものだからまだ元気だと思うけど、あまり長い間狭い所へ閉じ込めていたら可哀想だ。俺からロランとマルセルさんに心ばかりの贈り物だ」
「贈り物?」
そういえば、セヴランさんは背中に軽く布をかけた長方形の何かを背負っていた。今は地面に下ろしていて、布の下から僅かに見えるそれは、籐かなにかの植物で編まれた繊細な作りの籠のようなものに思える。
あれが、贈り物? 確かに籠なら薬草の保管にいくらあっても足りないから助かるけど、それにしてはやけに大きくないか? ……ん? 今、あの籠動かなかったか? うわっ、やっぱりそうだ。また動いた。えっ、てことは、籠が勝手に動くわけないし、生き物が入ってんのか? あんまり長い間閉じ込めていたら可哀想だって言ってたし、そうだよな? えっ、ちょっと、セヴランさん、何持ってきたんだよ。
「セヴランさん、贈り物って、いったい……?」
「ああ、気になるか? まあ勿体ぶるものでもないしな。これだよ、これ」
「……うわあ! 凄い!」
セヴランさんが布を除け、俺達の目の前に押し出したそれを見て、俺は感嘆の声を上げる。セヴランさんが籠に入れて持ってきたのは、まだヒヨコを卒業したばかりの、10余匹の初々しい若鶏だった。目隠しの布を取られて驚いたのか、ピイピイと鳴き声を上げて籠の中を体をぶつけ合いながら動き回るのがなんとも可愛らしい。
「ほら、前にロランの家にお邪魔させてもらって話した時、マルセルさんは肉の苦手なロランに付き合って草食の食事ばっかりだって言ってたろう。偶には動物も食べたいだろうから、卵や潰して鶏肉にする用の鶏を持ってきたんだ」
「それで、麓からこんなに鶏を連れてきたのか」
「ああそうさ。俺はあまり詳しくないが、ある程度増やすには少し数がいると思ってね。ロランみたいに魔力で一定量生命力を補える高魔力の獣人なら草ばっか食べててもいいが、俺やマルセルさんみたいな人間は違う。獣人と比べるとそこまで魔力は高くないし、体も虚弱だ。偶には動物も食べないと栄養が足りなくなって病気になっちまうぜ。この鶏だけじゃなく今日直ぐに肉を食べられる様に干し肉だって持ってきた。どうだい、ロラン、マルセルさん。俺の贈り物はお気に召したかな?」
「ええ、とっても!」
ロランは医術に精通した人だ。当然、俺の体の健康の維持に肉が必要なことを知っていた。食料を調達する時に俺が食べる用の肉も一緒に仕入れてくれたし、普段の菜食の食事で足りなくなる栄養素を補うために大豆なんかの植物を畑で育ててくれてもいる。それでも必要な栄養が足りないと思われる時は強制的にロランの魔力を俺に流し込んでエネルギーを与えてくれたりもしていたくらいなのだから、決して俺の健康に関心がないわけでも、自分が苦手なだけで他人の肉食に理解がなく、反対なわけでもない。
それでも、わざわざ俺の為だけに余計な金をかけて肉を買うことも、ロランの魔物や動物避けの結界と香を超えて遠出してまで山の野生動物を捕りに行くのも、あまり意欲的でなかったのはむしろ俺の方。俺だってポプリやリキュールなどを作ってそれを麓で売り、活計を稼いではいるが、俺の拙い腕ではそれも額としてはまだまだ心ともない。高名な医学雑誌に論文やなんかを寄稿して原稿料を得ているロランの方がよっぽど稼いでいる。殆どロランに養ってもらっているような現状で、俺だけしか恩恵を受けられない『肉』というものに金や労力のリソースを割くことはあまりしたくなかった。
だが、家で家禽を飼うなら話は別だ。これなら餌と糞の掃除をするだけであとは基本的に勝手に増えていくし、卵ならスーラ家にお邪魔せていただいた時に朝食で出たのをロランも食べていたから、2人で同じものが食べられるだろう。鶏は雑食だから、余った野菜の切れ端や菜っ葉の屑を与えてやれば無駄もない。正に、理想の贈り物! そして、なにより……。
「あー、可愛いー! 癒されるー! 名前どうしようかな……」
「えっ、名前つけるの!? 食べるのに!? もしかして飼う気!?」
「マルセル、ペットが飼いたいなら今度どこかで仔犬か仔猫を貰ってくるから、食糧の鶏に情をかけるのはやめなさい」
「やだな、冗談ですよ。情があっても食べられる分には食べられますが、流石にこれだけの数の鶏に名前を付けるのは骨ですからね」
「大変じゃなかったら名前つけて食べるんだ……」
漸く落ち着いた様子で籠の中をモソモソと動く鶏を見て、どうやって食べようかと献立を考える。普通にスープにしてもいいけど、ソテーもいいな。手間はかかるけど、ガランティーヌも。ああ、お腹空いてきた。お昼まだだもんなあ。そうだ、今日はセヴランさんがいらしたから、お昼多めに作らないと。取り敢えず屋敷に戻って残りの食糧の数を確認して……。
「あ」
「どうした、マルセル? 何か問題でも?」
「いや、今気がついたんですけど、鶏小屋どうしましょう。まさか外の物置に押し込めるわけにもいきませんし」
「ああ、確かに。そこまで考えてなかったな」
「セヴラン……」
呆れ顔のロランにうっかりうっかり、とおどけるセヴランさん。あなたねえ……。まあ、元はこちらを喜ばそうという気持ちから生じたことだ。わざとでもないし、怒る気にはなれない。
鶏の今後に関しては、取り敢えず腹が減っていては上手い案も思い浮かばないから、と鶏の詰まった籠を風通しのいい涼しい日陰に移動させ、当座の水と餌を与えて俺達は食事の為に屋敷内に入る。3人分のスープを作りパンを出して、山道を歩いてきて疲れているであろうセヴランさんの為に干し肉を切り分けた。俺も味見の為にちょっと貰う。カラトリーに食事をよそって、席に着く。食前の祈りを捧げてから、食事を始める。
「んっ! この干し肉美味しい! すっごく味が染みてる!」
「だろう? 王都を出る時に有名な店で買ってきたんだ」
「へえ、そうなんですか! 王都はお菓子といい美味しいものがいっぱいありますよね。ロラン、もし良かったらこれで少し出汁を取ってコンソメスープに使おうか。味に深みが出るよ」
「ああ、いいなそれ。それなら私も食べられる」
3人の食事は結構和やかに過ごせた。さっきはちょっと険悪な空気が流れかけたが、基本的にロランとセヴランさんは仲がいい。今も、どちらかが冗談を言ったり片方がそれに笑ったりと仲良さげである。俺もその2人の会話の和に混ぜてもらって仲良く話しをした。最初はお互いの近況やセヴランさんの持ってきた外の世界の話題で盛り上がっていたが、やがて話題は鶏小屋のことに移っていく。
「さて、どうするか。木材と場所なら周りに腐るほどあるし、大工道具や釘なんかのその他の道具も屋敷が壊れたもしもの時のために用意がある。ただ、建てるのにある程度時間がかかるものだしな」
「建てるのは2人でやるとして、そんなに長い間鶏をあの狭い鳥籠に閉じ込めておくのは可哀想ですもんねえ」
うーん、と唸り声を上げてロランと2人で頭を働かせる。いくら結界のお陰で獣がいないから食べられる心配はないとしても、囲いのない外に出しておいたらどこかに行ってしまうし。かといって室内にあげたら鳥類はトイレの躾ができないから床が汚れる。どうしたものか。あーあ、一瞬で鶏小屋が建ってくれればいいんだけど。そうして悩む俺達に、セヴランが声を上げた。
「おいおい、なんで2人なんだよ。人手なら3人分あるじゃないか」
「いえ、流石にお客様を働かせるわけには」
「何を言ってるんだ、元はと言えば鶏を連れてきたのは俺だし、人が働いているのに1人自分だけノンベリダラリンするのは性にあわない。ぜひ俺にも手伝わせてくれ」
そう言って胸を張り、拳でドンッと叩くセヴランさん。頼もしい。でも、そもそもこの人が予め鶏を連れてくることを知らせてくれていたらこんなことにならなかったのだが、その事は今考えないものとする。
「それに、鶏を置いておくなら俺にいい考えがある。俺は王宮に務めている間に、物質遮断の結界の張り方を学んだんだ! 強度も持続時間も申し分ない。少しの時間さえくれれば、ニワトリに十分な広さの魔法の囲いを準備してやれる」
「それは本当か? 凄いじゃないか。魔物を遠ざけたりする呪術的なものと違って、現実世界に干渉する物質遮断の結界は、才能がなくては身につかないのだから、それを使えるなんて素晴らしいことだ」
成程。その素晴らしい高度な結界を鶏を閉じ込めておくなんてことに使ってもいいのか分からないが、取り敢えず当座の鶏の居場所を確保できたのはいいことだ。これで安心して鶏小屋造りに集中することができる。
「それなら、食事が終わったら早速準備していただいてもよろしいでしょうか? ピーちゃん達をいつまでも狭いところに入れておくのは可愛そうで」
「結局名前付けてる……」
「ああ、勿論さ! 食器を片付けたら早速取り掛かろう!」
任せてくれと言わんばかりに、エヘンと咳払いをしてセヴランさんがニッコリ笑う。こうして俺達3人の鶏小屋を建てる大仕事が始まったのだ。
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