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おまけ2 中編(攻め視点)
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「うわー、凄い、凄いよ、ロラン! 汽車ってこんなに速かったんだな!」
「軍人時代に移動で使わなかったのか?」
「使いはしたけど、移動は殆ど歩きの行軍だったし、たまに汽車に乗れてもすし詰めで、景色を楽しむ余裕なんてなかったからさ。こうやって上等な座席に座ってじっくり窓の外を眺めるなんて贅沢、初めてなんだよ! ほら、ロランもそうやって扉側に座ってないでさ、もっと窓の近くに来なよ。楽しいものが沢山見れるよ!」
両目をキラキラと輝かせたマルセルが、こっちこっちと俺を手招く。外からの光で逆光になったその姿が視覚的にも心情的にも眩しくて、私は少し目を細めた。まったく、こうしてみていると、この子供っぽい男が数日前に私の下であれ程淫らに乱れた人間と同一人物とは、とても思えないな。
「いや、私はここでいいよ」
「どうしてさ! こんなにも素晴らしい景色が目の前にあるのに、見なきゃ損だよ! 第一、ロランの方こそ汽車に乗るのなんて初めてなんだろう? どうしてそう冷静でいられるのさ!」
「どうしてって、そうだなあ。初めて乗る汽車に対する感動よりも、無邪気にはしゃぐお前の可愛らしい姿を見ていたいという感情の方が勝ってしまっているからかな」
何の気なしにそう答えれば、なぜかマルセルは窓の前で目を見開いて動かなくなってしまう。あんなに窓の外の景色に夢中になっていたのに、目線は真っ直ぐこちらに向けたままだ。
「マルセル、どうした? はしゃぎすぎて酔ったのか?」
「いいえ、別に……」
答える言葉も小さくて、酔ったのなら薬があるぞと声をかけるが、今度は返事がない。更に訝しんでいると、何故かマルセルはあれ程べったり引っ付いていた窓辺から離れ、私と反対側の座席に座っていたのに私の方の座席へと移ってきて、隣にちょこんと座った。
注意して見てみると、なんだかマルセルの顔が赤い気がする。ますます心配になってきて、再度言葉をかけようとした時、マルセルは私の腕に自分の腕を搦め、頭をポスンと肩に乗せかけてきた。体をもたせかけなければならないほど、体調が悪いのだろうか?
「マルセル? そんなに具合が悪いのなら、車掌を呼んで」
「いらないよ、そんなの」
「しかし、旅の途中で体調を崩してしまったら」
「だから、いいってば! もう、察しが悪いなあ。俺はただ、ロランがあんまりにもこっちを優しい目で見てきて、その上嬉しいことを言うもんだから、それであなたにくっつきたい気分になったの。それだけなの! だから、誰も呼ばなくていいし、寧ろ2人きりでいたいから呼んで欲しくないし……」
真っ赤な顔をしたマルセルは、堪らずといった様子で大きな声を上げる。それでもだんだん尻すぼみになり、最後は小いさくモゴモゴと喋るもんだからよく聞き取れなかったが、マルセルのその言葉で鈍い私もようやく彼が言わんとしていることを理解できた。何がマルセルの琴線に触れたのか分からないが、なんだかつられてこっちまで照れてしまって、自分の顔面が熱くなるのが分かる。
私たちのいる汽車のコンパートメント席内にムズムズする様な、妙に甘い空気が満ちていく。マルセルは先程大きな声を上げた拍子に私の方を向いたままで、私も彼の方を向いていた。こちらに向けられたヘーゼルの瞳があまりにも美しくて、それに吸い寄せられるように顔を近づければ、それに応えるようにマルセルも顔を寄せてくる。どんどん距離が短くなって、2人の唇がまさに今、触れ合おうとした、その瞬間。
「おーい、ロラン! マルセル殿! いるかーい!?」
扉の向こうから馬鹿でかい声と共に、それはそれは大きなノックが響いてきた。私たちは慌ててパッと体を離し、マルセルは真っ赤になった顔をパタパタ手で仰ぎ、私は彼の服のボタンにかけていた手を咄嗟に引っ込める。気まずさを誤魔化すために、真っ赤になって顔を仰ぎ続けるマルセルに代わって、扉に向かう。
突然現れて甘い空気を霧散させたその声の持ち主に対する苛立ちに任せて、乱暴に扉を開けた。
「なんなんですか、バスチアン兄さん! そんなに大きな声と音を上げて、周りの迷惑でしょうが!」
「何言っているんだ! この車両は今お前たち以外に客はいないし、なんならこの列車そのものが私たち家族で貸し切っているじゃないか! 同じ一族の者なら私の五月蝿さをとうに知っているから、多少騒いでも許してくれる! 誰の迷惑にもならないぞ!」
五月蝿くしている自覚があるのなら、お願いだから直してくれ。相変わらず声が大きくて、好意的にいえばおおらか、悪くいえば大雑把な兄の登場に頭が痛くなってくる。些かげんなりしながらも、とっとと用件を聞いてこの五月蝿い兄を追い返し、マルセルとさっきの続きをしようと口を開く。
「他に客が居なくても、私たち2人の迷惑なんです! さっさと用件を仰ってください! くだらないことだったら、情け容赦なく追い返しますよ!」
「なんだよそんなにカッカして。はっはーん。ロランさてはお前。マルセルさんといいことしていたな? それを邪魔されて怒っているんだろ! どうだ? 図星か? ん? ん?」
「この野郎……!」
ズバリ言い当てられた動揺と恥ずかしさから、思わず兄さんを蹴り飛ばそうとするが、身軽な動作でいとも簡単に躱されてしまう。それが益々頭にきて、追撃しようとするも、後ろから慌ててやってきたマルセルが腰に抱きついてきて動きを封じられ、それと同時に扉の陰から制止の声がかかった。
「わー! 叔父上! 待ってください! ストップ、ストップ!」
言葉と共に兄さんの前に飛び出して来た小さな影……私の甥であり、バスチアン兄さんの長子のクロヴィスが手を広げて私たちの間に立ふさがる。マルセルを振り払い、クロヴィスを蹴散らして兄さんに向かっていくことはできるが、流石にそんな非道を働く訳にはいかないし、どの道そうまでしてもこっちからしてみれば身体能力で負けている兄さん相手に1発お見舞いできるとも思えないので、私はそこで清く攻撃を諦めた。兄さんのからかいに腹が立っていると言えば立っているが、ここで下手に醜態を晒してマルセルに幻滅されたくなかったというのもある。悔しさで歯噛みしながらも、持ち上げていた足を下ろす。取り敢えず矛を納めた私に、マルセルとクロヴィスがホッと息を吐くのが分かった。
「申し訳ありません、叔父上。我が父の非礼を僕が代わってお詫び致します。もう、父上! いつも注意しているではありませんか! どうしてあなたはそう無神経に他人に茶々を入れるのですか! 余計な不和を起こさないでいただきたい!」
「無神経とは、失礼な! 私はただロランがやけに反発してくるから、ちょっとからかって肩の力を抜いてやろうとしただけで」
「それが無神経だと言うんです! だいたい叔父上とマルセルさんは付き合いたてで、今1番楽しい時期なんですよ? 突然訪ねてきてお2人のお邪魔をしたのはこちらなのに、からかうなんて以ての外です! そうやって父上はいつもいつもいつも……」
目の前で親が子供に叱られるという、なんともあべこべで頭の混乱する光景が繰り広げられる。クロヴィスの注意は今回のことに留まらず、昨晩バスチアン兄さんがアルノー兄さんを食事中に笑わせて水を吹き出させた話や、普段からずっとくだらない洒落を言い続けること、果てはクロヴィスの1番古い記憶が父親に変な仮装をさせられたことだったという話にまで遡り、その説教は一向に終わる気配がみられない。私はそれをあっけに取られてポカンと見つめるのみだったが、説教がいよいよ盛り上がってクロヴィスが溢れる怒りのあまり地団駄を踏み始めた頃、私の後ろからマルセルが恐る恐るといった様子で口を挟んだ。
「えー、オホンッ。クロヴィス君、まあ、お父上を注意するのはそこら辺にして、そろそろ君たちが私たちを訪ねてきた理由を聞いてもいいかな?」
「あっ! こ、これは失礼しましたマルセルさん! 父上への怒りのあまり、ついつい我を忘れてしまって……」
マルセルの言葉にクロヴィスは慌ててこちらに向き直り、ピシリと背筋を伸ばす。次に上着の内側に手を入れ、何かを取りだし、こちらに差し出した。目の前にかざされたそれを、私は反射で受け取る。それはどうやらやけに細長い封筒のようで、金色の箔押しで装飾された高級感のあるものだ。
「これは?」
「眺めのいい丘の上に建っていて部屋から海が見えるという、小さいけれど豪勢な宿の2泊3日分の宿泊券です。さっき僕が食堂車でやっていた、キャンペーン中限定特製プレートに着いていたクジで当てました。叔父上とマルセルさんに差し上げます」
「えっ、どうして! これはクロヴィスが当てたんだろう?」
「いいんですよ、その券2人までしか泊まれないから、僕は使いません。それに、この宿泊券の使える宿、これから行くエスエラス地方にあるんです。叔父上はここ数日の馬車移動や観光地で人波に揉まれることで、随分お疲れでしょう? 皆で心配していたんです。運命の女神様の思し召しか、こういった券を当てられたことだし、急なことではあるけれど折角だから2泊くらいマルセルさんと一緒に思い切ってガッツリ休んでいただいたらどうかと思いまして。元々エスエラス地方ではこれまでの観光地でしていたように一族皆で行動せず、各家庭単位で観光をしようという話でしたでしょう? 叔父上たちは旅の折り返し地点だからゆっくりと体を休める意味も含めて、3日間で1つ2つ人の少ない地方の資料館を見て回る予定だけでしたよね。でしたら、丁度こういった宿泊券を当てたことですし、私の父のように余計な茶々を入れる人間のいない静かな場所で、とことん体を休めていただこうと思ったんです」
確かに、この旅行中は小さな子供に合わせて動物園に行ったり、親世代が見たいと言った有名な花畑に行ったり、スポーツの観戦をしたりして、人混みの多いところにばかりに行き通しだった。正直、静かな山でのマルセルとの2人暮らしに慣れている私には、キツイところがあったのは認めざるを得ない。自分では上手く隠せているつもりだったが、まさか周りに気が付かれ心配をさせてしまっていたとは。
実のところマルセルにも申し訳ないが資料館は自分は行けそうにない、お前だけで行ってきても構わないから、私は宿で休ませてくれと今日にでも言おうと思っていたのである。そんな私からすれば、クロヴィスの話はとても有難い申し出だ。親族たちは皆揃いも揃って明るい人間で一緒に居て退屈することはなかったが、矢張りマルセルと2人きりで居る時の安らぎにはどうしてもかなわない。そうして諸々のことが積み重なり、旅程が半分にもいっていないのに、もうはや私はマルセルとの静かな山の中の暮らしが恋しくなり始めていたのである。
「だが、泊まる予定だった宿のことがあるだろう。勝手に私たちだけ宿泊先を変えては皆に迷惑がかかるんじゃないか?」
「それについては心配ありません。この宿泊券を当てた後、叔父上たちにお譲りするのは余計なお世話で寧ろご迷惑になるんじゃないかと心配になって、一族の皆に相談して回ったんです。1度も反対意見を聞くことなく、皆満場一致で券をさしあげることに賛成でした! 宿も元々僕たち一族でワンフロア貸切って泊まる予定でしたので、今更部屋がひとつ空いたところで荷物置き場にするか、部屋を広々と使いたい家庭が別れて泊まるために使うかするし、食事も全部レストランで摂る予定だったので、なんの問題もないそうです」
「そうだぞ、ロラン! ぶっちゃけこの券使用期限が近いし、一族の中ですぐに予定を空けられる2人ペアなんて自由業のお前たち若夫婦くらいしかいない! ここは素直に受け取ってこちらに恩を売っておけ!」
「ちょっと、父上! ぶっちゃけ過ぎです!」
バスチアン兄さんとクロヴィスがまたさっきと同じようなやり取りを繰り広げ始めた。ギャンギャン騒ぐ2人のことはとりあえず置いておいて、私は先程の騒動から私の腰に縋りついたままの、マルセルの方を向く。マルセルも私の顔を見上げていて、その顔には突然の展開に対する戸惑いはあれど、拒絶の表情はなかった。
「ロラン様、ここは有難くクロヴィス君のお言葉に甘えませんか? あなたの体調については、私も心配していたんです。対人恐怖症もまだ徐々に慣らして言っている段階で、完全に治った訳ではないですし、ここのところ人の群れに耐えて頑張ったのですから、少しくらい休憩をとっても誰にも咎められるいわれはありません。無理のし過ぎで倒れてしまったらそれこそ目も当てられませんし、思い切って2人でゆっくりいたしましょう」
「だが、お前まで私に付き合わせてしまうのもなあ」
「何を仰います、他でもない私とあなたの仲ではありませんか。今更遠慮など無用ですよ。私1人で観光をしてもつまらないし、今から他のご家庭の予定にご一緒させていただいたとしても、お邪魔になるだけです。それに、私にとってあなたのご家族と仲良くするのは大切なことですが、あなたの側に居ることはもっと大切なことなんです。私は常にあなたの隣にいたいんですよ。これは私の我儘ですから、何も気に病むことはありません」
穏やかな口調でそう言って、マルセルは微笑む。そこにこちらに恩を売ろうと媚びへつらう様子はなく、純粋に私のことを思ってくれているのだということが伺い知れた。
視線を戻せば、バスチアン兄さんとクロヴィスも言い合いを止めて優しい目をしてこちらを見ている。クロヴィスは私の決断を促すように、大きく1度頷いた。本当に私の周りには私のことを大切に思ってくれている人が沢山いる。これから少しずつでもいいから、受けた恩は返していかないと。そのための第1歩として、変に遠慮はせずに、相手の好意を素直に受け取ろうじゃないか。
「……分かった。クロヴィス、有難くこの券は使わせてもらうよ。またいつか、何かしっかり礼をさせてくれ」
「わあ! それなら僕、叔父上が作ってくださった木の玩具がもっと欲しいです! 叔父上の作る木の乗り物や動物たちはとっても精巧で素敵だから、沢山揃えておきたいんです。あと、僕が大人になった時のためにお酒を作ってください! 成人したら、記念に皆で飲むんです」
「そんなことでいいのか?」
「そんなことなんかじゃありません! 僕にとってはとっても大切なことです!」
「あ、ロラン! 酒は今すぐ飲めるやつも用意してくれるともっと嬉しいな!」
「ちょっと父上! それ自分が飲む用でしょう! ちゃっかりせしめようとしないでください!」
「ははは、問題ない。欲しい分だけ、いくらでも作るさ」
こうして、私とマルセルは思いがけぬ贈り物を受け取ったのだった。
ポーターが荷物を置き、ごゆっくりとこちらに声をかけて退室する。扉がパタンと閉じて、ポーターの足音が遠ざかり聞こえなくなると、マルセルは待ちかねた様に部屋の真ん中へと歩み出した。両手を広げ、軽やかにクルリとその場で一回転する。
「ああ、なんて素敵な宿なんだろう! クロヴィス君に感謝しなきゃね!」
確かに、マルセルの言う通りだ。鉄道会社の企画だから大当たりと言ってもそうたいしたことはないものだと思っていたのだが、なかなかどうして、侮れない。
小さいと聞いていた宿の建物は見上げるほどではないがそれなりに大きく、中も掃除が行き届いていて清潔。従業員の人数も僻地の宿とは思えないほど揃っており、教育も万全。量より質を方針に客を取っているようで、見たところ部屋数は少なく、客同士互いに干渉しなくても済むように、広々とスペースが設けられているようだ。人との関わりをなるだけ避けたい今の私にとっては嬉しいことである。
通された部屋の内装も華美過ぎず、質素過ぎず、程よい塩梅の趣味の良さで心地良い。少しクラシックな家具はよく見ればアンティークらしく、手入れの手間と用意の金を惜しまない、宿側の拘りが窺えた。
「わあ、ロラン、見てご覧よ。クロヴィス君や宿の人の言っていた通り、本当に海が見える! 凄いなあ、空と海の青の濃淡のコントラストがとっても綺麗だ! ロランは海に行ったことがないだろう、後で2人で行かないか? 浜辺を歩くだけでもきっと楽しいよ」
「ああ、それはいいな。夕食の前にでも行こう」
私は楽しそうに部屋をくまなく探検しているマルセルを見て、頬を緩ませる。マルセルは何か見つける度に本当に嬉しそうにするので、一緒に居るこっちまで幸せな気分にさせてもらえるのだ。
「マルセル、少し休んだら荷解きをして、それから海にしないか」
「そうだな、ウェルカムドリンクも用意されている事だし、そうしよう」
窓辺で外の景色に夢中になっていたマルセルが、先にソファに腰かけていた私の方までパタパタと戻ってくる。私の隣にストンと腰を下ろし、ウェルカムドリンクに手を伸ばした。
「これ美味しいね、ロラン。特産のフルーツのミックスジュースだっけ? これ、帰りにクロヴィス君たちへのお土産に買っていこうよ。甘くて子供にも飲みやすいし、きっと喜ぶよ」
マルセルがジュースを小さく一口含み、口の中で転がし、味わってから飲み込む。マルセルの喉仏が上下して、何故か私はそれをじっと見つめてしまった。また一口、マルセルがジュースを飲み、その途中で私の視線に気がついてこちらに目を向けてくる。どうしたのと問いかける代わりに、マルセルは私を見たまま小首を傾げて目を細めた。
マルセルの目の周りには、よく見るとまだケロイドの跡が薄く残っている。眼球を治して視力を取り戻すことを優先させたので、肌の方の治療がまだ途中なのだ。今も治療は続けているし、いずれこの跡は完全に消え去るのだろうが、今はまだ先の話であろう。他にもマルセルの体には軍人時代についた大小の傷もあり、それがしつこく彼の肌にこびりついている。それは、マルセルの人生が決して穏やかなものではなかったという証だ。
だが、それでも彼は美しい。濃い栗色の髪に、光に富んだヘーゼルの瞳、細く器用な指、靱やかな身体、傷はあれどシミ1つ無い肌。何もかもが私を夢中にさせて、離さない。体は過酷な治療のせいで1度は酷く痩せてしまったが、私と一緒に療養し、マルセル自らの努力で鍛え直したおかげで最近では目に見えて筋肉がついてきた。手で触れればそれにはしっかりとした弾力があるのも、私は知っている。
本当に、初めて会った時のことを思うと大変な進歩だ。マルセルと初めて邂逅した時は、そのみすぼらしい身なりにこんな山中に物乞いの幽霊でも出たのかと思ったものだった。生きた人間と分かったあとも、全身土で汚れ、擦り切れた衣服を身に纏い、杖を片手に異様なほど大きく顔を覆う包帯を身につけたその時のマルセルは、人恋しささえなければお世辞にも決して係わりあおうとは思えるような風体の人間ではなかったのだ。
その出会いに運命的な予感などありはせず、ただひたすらに自らの孤独を埋めるためだけに私はマルセルを屋敷に招いた。こんな怪しげな男、孤独を癒すために少し話をして、代わりに一泊分の世話をしてやったら、お互いに目的が達成されてそれだけで十分だろう、目が見えないのならこの忌々しい姿を見られずに済んで都合がいいというものだ、そんな軽い考えでマルセルと私の関係は始まったのだ。
だが、マルセルを屋敷に招いたはいいけれど、私は長年の人との関わりを絶っていた暮らしのせいで彼にどう接していいか分からず、大いに混乱した。そのせいでぶっきらぼうに話してしまったり、緊張が一周回って吐き気を催すまでになり、いっぱいいっぱいになってもう人との接触は懲り懲りだと彼に早く屋敷を出るように促してしまったりと、マルセルに対する対応は我ながら最悪だったと思う。
そのくせマルセルが優しく言葉を返してくれる度に、久しぶりに人と話しができていると私は密かに舞い上がり、何度も胸中で彼の言葉を繰り返した。嵐に阻まれマルセルが屋敷を出て行けなくなった時には、もう少しだけでも彼と一緒にいられる、人との関わりを持てると、不謹慎にもそう思ったのも事実だ。
マルセルの話を聞くようになってからは、更に彼と一緒に居たいという欲が強くなった。マルセルの話す医術にまつわる話に興味があったのは勿論だが、彼は話し上手で気がつけばそれ以外の雑多な話にも引き込まれていったのだ。また、その過程でマルセルの人柄に触れ、もっと彼について知りたいという欲求も生まれた。だからこそ、マルセルの目の治療を言い訳に彼を引き止めて、少しでも一緒にいられる時間を長引かせようとしたのだ。
結局、それからマルセルの目の回復、ちょっとした行き違い、魔物の襲撃と、様々なことがあり、紆余曲折を経て今ではこんな風にいつも2人隣りあって居る仲にまでなった。本当に色々なことがあったものだ。なんだか次から次へと2人に纏わる様々な記憶が呼び起こされ、ふと、つい先日のマルセルの痴態をも思い出してしまう。
あ、これはまずい。旅行中で我慢して溜まっているから、ついついそういう気分になって……。
私の様子が少しおかしくなったのを、敏感に感じとったのか。マルセルがグラスをテーブルに置いて、体をこちらに向けた。
「ロラン、どうしたんだ? 疲れちゃった? そうだよな、ここまでの道程はちょっと長かったもんな。やっぱり海は、明日にしようか」
列車の中の時とはあべこべに、私の顔を心配そうに覗き込むマルセルの仕草にすら、欲情が誘われる。熱のやり場に困ってついついマルセルの方を見返せば、そんな私から何かを敏感に感じとったらしく、彼の方もフッと息を飲み込む音が聞こえた。
「あー……。いやこれはな、違うんだ。最近ちょっと禁欲中だったから、溜まっていたというか」
「そういえば屋敷を出る前日にやったきりで、暫くしていなかったものな。……どうする、ここでしちゃおうか?」
「えっ、でもここ普通の宿だし、道具もないだろう」
「風呂場でやれば掃除は楽だし、道具は持ってる」
「はっ!? 持ってる!? なんで!?」
「いや、だってさ。この間した時にご無沙汰でキツくなってたし、あと少しだけ慣らし足りないからって、入れてくれなかったろ。今回の旅行は長いし、その間なんにもしなかったらますますキツくなって本番が遠ざかってしまうと思ったから、それならこっそり慣らそうと思って……」
あはっ、と照れくさそうに頭を掻きながらマルセルは衝撃の発言をぶちかます。確かに、マルセルの体を気遣って今まで最後まではしたことがなかった。それに、あと少しで繋がれそうなのに、旅行で間が空いてしまえばまたいくらかやり直しになるなとも思っていたことも確かだ。
だが、だからってマルセルがこんな思い切った行動に出るなんて、思いもしなかった。それだけマルセルは私と深く繋がることを強く望んでいたのか。その事実に、ゴクリと喉が鳴る。
「ロラン、固まってるけど、やっぱり引いたか? そうだよな、自分でもちょっとやり過ぎかと思」
「やり過ぎじゃないし、引いてもいない。少し驚いていただけだ。むしろ、そこまでマルセルが私とのことを心待ちにしてくれていたなんて、嬉しくて堪らない」
見つめ合った目を逸らさず、マルセルの膝に自分の手を添えた。ゆっくりと横にスライドさせ、腿を上へと辿り、柔らかくソコに触れる。それに反応してマルセルの目が、僅かに細められた。
「いいよ、マルセル。しよう。お前を早くグチャグチャにしたい」
ソコに触れた手にグッと力を込める。はあっ、という吐息と共に薄く開かれたマルセルの唇に、私は思いっ切りかぶりついた。
「軍人時代に移動で使わなかったのか?」
「使いはしたけど、移動は殆ど歩きの行軍だったし、たまに汽車に乗れてもすし詰めで、景色を楽しむ余裕なんてなかったからさ。こうやって上等な座席に座ってじっくり窓の外を眺めるなんて贅沢、初めてなんだよ! ほら、ロランもそうやって扉側に座ってないでさ、もっと窓の近くに来なよ。楽しいものが沢山見れるよ!」
両目をキラキラと輝かせたマルセルが、こっちこっちと俺を手招く。外からの光で逆光になったその姿が視覚的にも心情的にも眩しくて、私は少し目を細めた。まったく、こうしてみていると、この子供っぽい男が数日前に私の下であれ程淫らに乱れた人間と同一人物とは、とても思えないな。
「いや、私はここでいいよ」
「どうしてさ! こんなにも素晴らしい景色が目の前にあるのに、見なきゃ損だよ! 第一、ロランの方こそ汽車に乗るのなんて初めてなんだろう? どうしてそう冷静でいられるのさ!」
「どうしてって、そうだなあ。初めて乗る汽車に対する感動よりも、無邪気にはしゃぐお前の可愛らしい姿を見ていたいという感情の方が勝ってしまっているからかな」
何の気なしにそう答えれば、なぜかマルセルは窓の前で目を見開いて動かなくなってしまう。あんなに窓の外の景色に夢中になっていたのに、目線は真っ直ぐこちらに向けたままだ。
「マルセル、どうした? はしゃぎすぎて酔ったのか?」
「いいえ、別に……」
答える言葉も小さくて、酔ったのなら薬があるぞと声をかけるが、今度は返事がない。更に訝しんでいると、何故かマルセルはあれ程べったり引っ付いていた窓辺から離れ、私と反対側の座席に座っていたのに私の方の座席へと移ってきて、隣にちょこんと座った。
注意して見てみると、なんだかマルセルの顔が赤い気がする。ますます心配になってきて、再度言葉をかけようとした時、マルセルは私の腕に自分の腕を搦め、頭をポスンと肩に乗せかけてきた。体をもたせかけなければならないほど、体調が悪いのだろうか?
「マルセル? そんなに具合が悪いのなら、車掌を呼んで」
「いらないよ、そんなの」
「しかし、旅の途中で体調を崩してしまったら」
「だから、いいってば! もう、察しが悪いなあ。俺はただ、ロランがあんまりにもこっちを優しい目で見てきて、その上嬉しいことを言うもんだから、それであなたにくっつきたい気分になったの。それだけなの! だから、誰も呼ばなくていいし、寧ろ2人きりでいたいから呼んで欲しくないし……」
真っ赤な顔をしたマルセルは、堪らずといった様子で大きな声を上げる。それでもだんだん尻すぼみになり、最後は小いさくモゴモゴと喋るもんだからよく聞き取れなかったが、マルセルのその言葉で鈍い私もようやく彼が言わんとしていることを理解できた。何がマルセルの琴線に触れたのか分からないが、なんだかつられてこっちまで照れてしまって、自分の顔面が熱くなるのが分かる。
私たちのいる汽車のコンパートメント席内にムズムズする様な、妙に甘い空気が満ちていく。マルセルは先程大きな声を上げた拍子に私の方を向いたままで、私も彼の方を向いていた。こちらに向けられたヘーゼルの瞳があまりにも美しくて、それに吸い寄せられるように顔を近づければ、それに応えるようにマルセルも顔を寄せてくる。どんどん距離が短くなって、2人の唇がまさに今、触れ合おうとした、その瞬間。
「おーい、ロラン! マルセル殿! いるかーい!?」
扉の向こうから馬鹿でかい声と共に、それはそれは大きなノックが響いてきた。私たちは慌ててパッと体を離し、マルセルは真っ赤になった顔をパタパタ手で仰ぎ、私は彼の服のボタンにかけていた手を咄嗟に引っ込める。気まずさを誤魔化すために、真っ赤になって顔を仰ぎ続けるマルセルに代わって、扉に向かう。
突然現れて甘い空気を霧散させたその声の持ち主に対する苛立ちに任せて、乱暴に扉を開けた。
「なんなんですか、バスチアン兄さん! そんなに大きな声と音を上げて、周りの迷惑でしょうが!」
「何言っているんだ! この車両は今お前たち以外に客はいないし、なんならこの列車そのものが私たち家族で貸し切っているじゃないか! 同じ一族の者なら私の五月蝿さをとうに知っているから、多少騒いでも許してくれる! 誰の迷惑にもならないぞ!」
五月蝿くしている自覚があるのなら、お願いだから直してくれ。相変わらず声が大きくて、好意的にいえばおおらか、悪くいえば大雑把な兄の登場に頭が痛くなってくる。些かげんなりしながらも、とっとと用件を聞いてこの五月蝿い兄を追い返し、マルセルとさっきの続きをしようと口を開く。
「他に客が居なくても、私たち2人の迷惑なんです! さっさと用件を仰ってください! くだらないことだったら、情け容赦なく追い返しますよ!」
「なんだよそんなにカッカして。はっはーん。ロランさてはお前。マルセルさんといいことしていたな? それを邪魔されて怒っているんだろ! どうだ? 図星か? ん? ん?」
「この野郎……!」
ズバリ言い当てられた動揺と恥ずかしさから、思わず兄さんを蹴り飛ばそうとするが、身軽な動作でいとも簡単に躱されてしまう。それが益々頭にきて、追撃しようとするも、後ろから慌ててやってきたマルセルが腰に抱きついてきて動きを封じられ、それと同時に扉の陰から制止の声がかかった。
「わー! 叔父上! 待ってください! ストップ、ストップ!」
言葉と共に兄さんの前に飛び出して来た小さな影……私の甥であり、バスチアン兄さんの長子のクロヴィスが手を広げて私たちの間に立ふさがる。マルセルを振り払い、クロヴィスを蹴散らして兄さんに向かっていくことはできるが、流石にそんな非道を働く訳にはいかないし、どの道そうまでしてもこっちからしてみれば身体能力で負けている兄さん相手に1発お見舞いできるとも思えないので、私はそこで清く攻撃を諦めた。兄さんのからかいに腹が立っていると言えば立っているが、ここで下手に醜態を晒してマルセルに幻滅されたくなかったというのもある。悔しさで歯噛みしながらも、持ち上げていた足を下ろす。取り敢えず矛を納めた私に、マルセルとクロヴィスがホッと息を吐くのが分かった。
「申し訳ありません、叔父上。我が父の非礼を僕が代わってお詫び致します。もう、父上! いつも注意しているではありませんか! どうしてあなたはそう無神経に他人に茶々を入れるのですか! 余計な不和を起こさないでいただきたい!」
「無神経とは、失礼な! 私はただロランがやけに反発してくるから、ちょっとからかって肩の力を抜いてやろうとしただけで」
「それが無神経だと言うんです! だいたい叔父上とマルセルさんは付き合いたてで、今1番楽しい時期なんですよ? 突然訪ねてきてお2人のお邪魔をしたのはこちらなのに、からかうなんて以ての外です! そうやって父上はいつもいつもいつも……」
目の前で親が子供に叱られるという、なんともあべこべで頭の混乱する光景が繰り広げられる。クロヴィスの注意は今回のことに留まらず、昨晩バスチアン兄さんがアルノー兄さんを食事中に笑わせて水を吹き出させた話や、普段からずっとくだらない洒落を言い続けること、果てはクロヴィスの1番古い記憶が父親に変な仮装をさせられたことだったという話にまで遡り、その説教は一向に終わる気配がみられない。私はそれをあっけに取られてポカンと見つめるのみだったが、説教がいよいよ盛り上がってクロヴィスが溢れる怒りのあまり地団駄を踏み始めた頃、私の後ろからマルセルが恐る恐るといった様子で口を挟んだ。
「えー、オホンッ。クロヴィス君、まあ、お父上を注意するのはそこら辺にして、そろそろ君たちが私たちを訪ねてきた理由を聞いてもいいかな?」
「あっ! こ、これは失礼しましたマルセルさん! 父上への怒りのあまり、ついつい我を忘れてしまって……」
マルセルの言葉にクロヴィスは慌ててこちらに向き直り、ピシリと背筋を伸ばす。次に上着の内側に手を入れ、何かを取りだし、こちらに差し出した。目の前にかざされたそれを、私は反射で受け取る。それはどうやらやけに細長い封筒のようで、金色の箔押しで装飾された高級感のあるものだ。
「これは?」
「眺めのいい丘の上に建っていて部屋から海が見えるという、小さいけれど豪勢な宿の2泊3日分の宿泊券です。さっき僕が食堂車でやっていた、キャンペーン中限定特製プレートに着いていたクジで当てました。叔父上とマルセルさんに差し上げます」
「えっ、どうして! これはクロヴィスが当てたんだろう?」
「いいんですよ、その券2人までしか泊まれないから、僕は使いません。それに、この宿泊券の使える宿、これから行くエスエラス地方にあるんです。叔父上はここ数日の馬車移動や観光地で人波に揉まれることで、随分お疲れでしょう? 皆で心配していたんです。運命の女神様の思し召しか、こういった券を当てられたことだし、急なことではあるけれど折角だから2泊くらいマルセルさんと一緒に思い切ってガッツリ休んでいただいたらどうかと思いまして。元々エスエラス地方ではこれまでの観光地でしていたように一族皆で行動せず、各家庭単位で観光をしようという話でしたでしょう? 叔父上たちは旅の折り返し地点だからゆっくりと体を休める意味も含めて、3日間で1つ2つ人の少ない地方の資料館を見て回る予定だけでしたよね。でしたら、丁度こういった宿泊券を当てたことですし、私の父のように余計な茶々を入れる人間のいない静かな場所で、とことん体を休めていただこうと思ったんです」
確かに、この旅行中は小さな子供に合わせて動物園に行ったり、親世代が見たいと言った有名な花畑に行ったり、スポーツの観戦をしたりして、人混みの多いところにばかりに行き通しだった。正直、静かな山でのマルセルとの2人暮らしに慣れている私には、キツイところがあったのは認めざるを得ない。自分では上手く隠せているつもりだったが、まさか周りに気が付かれ心配をさせてしまっていたとは。
実のところマルセルにも申し訳ないが資料館は自分は行けそうにない、お前だけで行ってきても構わないから、私は宿で休ませてくれと今日にでも言おうと思っていたのである。そんな私からすれば、クロヴィスの話はとても有難い申し出だ。親族たちは皆揃いも揃って明るい人間で一緒に居て退屈することはなかったが、矢張りマルセルと2人きりで居る時の安らぎにはどうしてもかなわない。そうして諸々のことが積み重なり、旅程が半分にもいっていないのに、もうはや私はマルセルとの静かな山の中の暮らしが恋しくなり始めていたのである。
「だが、泊まる予定だった宿のことがあるだろう。勝手に私たちだけ宿泊先を変えては皆に迷惑がかかるんじゃないか?」
「それについては心配ありません。この宿泊券を当てた後、叔父上たちにお譲りするのは余計なお世話で寧ろご迷惑になるんじゃないかと心配になって、一族の皆に相談して回ったんです。1度も反対意見を聞くことなく、皆満場一致で券をさしあげることに賛成でした! 宿も元々僕たち一族でワンフロア貸切って泊まる予定でしたので、今更部屋がひとつ空いたところで荷物置き場にするか、部屋を広々と使いたい家庭が別れて泊まるために使うかするし、食事も全部レストランで摂る予定だったので、なんの問題もないそうです」
「そうだぞ、ロラン! ぶっちゃけこの券使用期限が近いし、一族の中ですぐに予定を空けられる2人ペアなんて自由業のお前たち若夫婦くらいしかいない! ここは素直に受け取ってこちらに恩を売っておけ!」
「ちょっと、父上! ぶっちゃけ過ぎです!」
バスチアン兄さんとクロヴィスがまたさっきと同じようなやり取りを繰り広げ始めた。ギャンギャン騒ぐ2人のことはとりあえず置いておいて、私は先程の騒動から私の腰に縋りついたままの、マルセルの方を向く。マルセルも私の顔を見上げていて、その顔には突然の展開に対する戸惑いはあれど、拒絶の表情はなかった。
「ロラン様、ここは有難くクロヴィス君のお言葉に甘えませんか? あなたの体調については、私も心配していたんです。対人恐怖症もまだ徐々に慣らして言っている段階で、完全に治った訳ではないですし、ここのところ人の群れに耐えて頑張ったのですから、少しくらい休憩をとっても誰にも咎められるいわれはありません。無理のし過ぎで倒れてしまったらそれこそ目も当てられませんし、思い切って2人でゆっくりいたしましょう」
「だが、お前まで私に付き合わせてしまうのもなあ」
「何を仰います、他でもない私とあなたの仲ではありませんか。今更遠慮など無用ですよ。私1人で観光をしてもつまらないし、今から他のご家庭の予定にご一緒させていただいたとしても、お邪魔になるだけです。それに、私にとってあなたのご家族と仲良くするのは大切なことですが、あなたの側に居ることはもっと大切なことなんです。私は常にあなたの隣にいたいんですよ。これは私の我儘ですから、何も気に病むことはありません」
穏やかな口調でそう言って、マルセルは微笑む。そこにこちらに恩を売ろうと媚びへつらう様子はなく、純粋に私のことを思ってくれているのだということが伺い知れた。
視線を戻せば、バスチアン兄さんとクロヴィスも言い合いを止めて優しい目をしてこちらを見ている。クロヴィスは私の決断を促すように、大きく1度頷いた。本当に私の周りには私のことを大切に思ってくれている人が沢山いる。これから少しずつでもいいから、受けた恩は返していかないと。そのための第1歩として、変に遠慮はせずに、相手の好意を素直に受け取ろうじゃないか。
「……分かった。クロヴィス、有難くこの券は使わせてもらうよ。またいつか、何かしっかり礼をさせてくれ」
「わあ! それなら僕、叔父上が作ってくださった木の玩具がもっと欲しいです! 叔父上の作る木の乗り物や動物たちはとっても精巧で素敵だから、沢山揃えておきたいんです。あと、僕が大人になった時のためにお酒を作ってください! 成人したら、記念に皆で飲むんです」
「そんなことでいいのか?」
「そんなことなんかじゃありません! 僕にとってはとっても大切なことです!」
「あ、ロラン! 酒は今すぐ飲めるやつも用意してくれるともっと嬉しいな!」
「ちょっと父上! それ自分が飲む用でしょう! ちゃっかりせしめようとしないでください!」
「ははは、問題ない。欲しい分だけ、いくらでも作るさ」
こうして、私とマルセルは思いがけぬ贈り物を受け取ったのだった。
ポーターが荷物を置き、ごゆっくりとこちらに声をかけて退室する。扉がパタンと閉じて、ポーターの足音が遠ざかり聞こえなくなると、マルセルは待ちかねた様に部屋の真ん中へと歩み出した。両手を広げ、軽やかにクルリとその場で一回転する。
「ああ、なんて素敵な宿なんだろう! クロヴィス君に感謝しなきゃね!」
確かに、マルセルの言う通りだ。鉄道会社の企画だから大当たりと言ってもそうたいしたことはないものだと思っていたのだが、なかなかどうして、侮れない。
小さいと聞いていた宿の建物は見上げるほどではないがそれなりに大きく、中も掃除が行き届いていて清潔。従業員の人数も僻地の宿とは思えないほど揃っており、教育も万全。量より質を方針に客を取っているようで、見たところ部屋数は少なく、客同士互いに干渉しなくても済むように、広々とスペースが設けられているようだ。人との関わりをなるだけ避けたい今の私にとっては嬉しいことである。
通された部屋の内装も華美過ぎず、質素過ぎず、程よい塩梅の趣味の良さで心地良い。少しクラシックな家具はよく見ればアンティークらしく、手入れの手間と用意の金を惜しまない、宿側の拘りが窺えた。
「わあ、ロラン、見てご覧よ。クロヴィス君や宿の人の言っていた通り、本当に海が見える! 凄いなあ、空と海の青の濃淡のコントラストがとっても綺麗だ! ロランは海に行ったことがないだろう、後で2人で行かないか? 浜辺を歩くだけでもきっと楽しいよ」
「ああ、それはいいな。夕食の前にでも行こう」
私は楽しそうに部屋をくまなく探検しているマルセルを見て、頬を緩ませる。マルセルは何か見つける度に本当に嬉しそうにするので、一緒に居るこっちまで幸せな気分にさせてもらえるのだ。
「マルセル、少し休んだら荷解きをして、それから海にしないか」
「そうだな、ウェルカムドリンクも用意されている事だし、そうしよう」
窓辺で外の景色に夢中になっていたマルセルが、先にソファに腰かけていた私の方までパタパタと戻ってくる。私の隣にストンと腰を下ろし、ウェルカムドリンクに手を伸ばした。
「これ美味しいね、ロラン。特産のフルーツのミックスジュースだっけ? これ、帰りにクロヴィス君たちへのお土産に買っていこうよ。甘くて子供にも飲みやすいし、きっと喜ぶよ」
マルセルがジュースを小さく一口含み、口の中で転がし、味わってから飲み込む。マルセルの喉仏が上下して、何故か私はそれをじっと見つめてしまった。また一口、マルセルがジュースを飲み、その途中で私の視線に気がついてこちらに目を向けてくる。どうしたのと問いかける代わりに、マルセルは私を見たまま小首を傾げて目を細めた。
マルセルの目の周りには、よく見るとまだケロイドの跡が薄く残っている。眼球を治して視力を取り戻すことを優先させたので、肌の方の治療がまだ途中なのだ。今も治療は続けているし、いずれこの跡は完全に消え去るのだろうが、今はまだ先の話であろう。他にもマルセルの体には軍人時代についた大小の傷もあり、それがしつこく彼の肌にこびりついている。それは、マルセルの人生が決して穏やかなものではなかったという証だ。
だが、それでも彼は美しい。濃い栗色の髪に、光に富んだヘーゼルの瞳、細く器用な指、靱やかな身体、傷はあれどシミ1つ無い肌。何もかもが私を夢中にさせて、離さない。体は過酷な治療のせいで1度は酷く痩せてしまったが、私と一緒に療養し、マルセル自らの努力で鍛え直したおかげで最近では目に見えて筋肉がついてきた。手で触れればそれにはしっかりとした弾力があるのも、私は知っている。
本当に、初めて会った時のことを思うと大変な進歩だ。マルセルと初めて邂逅した時は、そのみすぼらしい身なりにこんな山中に物乞いの幽霊でも出たのかと思ったものだった。生きた人間と分かったあとも、全身土で汚れ、擦り切れた衣服を身に纏い、杖を片手に異様なほど大きく顔を覆う包帯を身につけたその時のマルセルは、人恋しささえなければお世辞にも決して係わりあおうとは思えるような風体の人間ではなかったのだ。
その出会いに運命的な予感などありはせず、ただひたすらに自らの孤独を埋めるためだけに私はマルセルを屋敷に招いた。こんな怪しげな男、孤独を癒すために少し話をして、代わりに一泊分の世話をしてやったら、お互いに目的が達成されてそれだけで十分だろう、目が見えないのならこの忌々しい姿を見られずに済んで都合がいいというものだ、そんな軽い考えでマルセルと私の関係は始まったのだ。
だが、マルセルを屋敷に招いたはいいけれど、私は長年の人との関わりを絶っていた暮らしのせいで彼にどう接していいか分からず、大いに混乱した。そのせいでぶっきらぼうに話してしまったり、緊張が一周回って吐き気を催すまでになり、いっぱいいっぱいになってもう人との接触は懲り懲りだと彼に早く屋敷を出るように促してしまったりと、マルセルに対する対応は我ながら最悪だったと思う。
そのくせマルセルが優しく言葉を返してくれる度に、久しぶりに人と話しができていると私は密かに舞い上がり、何度も胸中で彼の言葉を繰り返した。嵐に阻まれマルセルが屋敷を出て行けなくなった時には、もう少しだけでも彼と一緒にいられる、人との関わりを持てると、不謹慎にもそう思ったのも事実だ。
マルセルの話を聞くようになってからは、更に彼と一緒に居たいという欲が強くなった。マルセルの話す医術にまつわる話に興味があったのは勿論だが、彼は話し上手で気がつけばそれ以外の雑多な話にも引き込まれていったのだ。また、その過程でマルセルの人柄に触れ、もっと彼について知りたいという欲求も生まれた。だからこそ、マルセルの目の治療を言い訳に彼を引き止めて、少しでも一緒にいられる時間を長引かせようとしたのだ。
結局、それからマルセルの目の回復、ちょっとした行き違い、魔物の襲撃と、様々なことがあり、紆余曲折を経て今ではこんな風にいつも2人隣りあって居る仲にまでなった。本当に色々なことがあったものだ。なんだか次から次へと2人に纏わる様々な記憶が呼び起こされ、ふと、つい先日のマルセルの痴態をも思い出してしまう。
あ、これはまずい。旅行中で我慢して溜まっているから、ついついそういう気分になって……。
私の様子が少しおかしくなったのを、敏感に感じとったのか。マルセルがグラスをテーブルに置いて、体をこちらに向けた。
「ロラン、どうしたんだ? 疲れちゃった? そうだよな、ここまでの道程はちょっと長かったもんな。やっぱり海は、明日にしようか」
列車の中の時とはあべこべに、私の顔を心配そうに覗き込むマルセルの仕草にすら、欲情が誘われる。熱のやり場に困ってついついマルセルの方を見返せば、そんな私から何かを敏感に感じとったらしく、彼の方もフッと息を飲み込む音が聞こえた。
「あー……。いやこれはな、違うんだ。最近ちょっと禁欲中だったから、溜まっていたというか」
「そういえば屋敷を出る前日にやったきりで、暫くしていなかったものな。……どうする、ここでしちゃおうか?」
「えっ、でもここ普通の宿だし、道具もないだろう」
「風呂場でやれば掃除は楽だし、道具は持ってる」
「はっ!? 持ってる!? なんで!?」
「いや、だってさ。この間した時にご無沙汰でキツくなってたし、あと少しだけ慣らし足りないからって、入れてくれなかったろ。今回の旅行は長いし、その間なんにもしなかったらますますキツくなって本番が遠ざかってしまうと思ったから、それならこっそり慣らそうと思って……」
あはっ、と照れくさそうに頭を掻きながらマルセルは衝撃の発言をぶちかます。確かに、マルセルの体を気遣って今まで最後まではしたことがなかった。それに、あと少しで繋がれそうなのに、旅行で間が空いてしまえばまたいくらかやり直しになるなとも思っていたことも確かだ。
だが、だからってマルセルがこんな思い切った行動に出るなんて、思いもしなかった。それだけマルセルは私と深く繋がることを強く望んでいたのか。その事実に、ゴクリと喉が鳴る。
「ロラン、固まってるけど、やっぱり引いたか? そうだよな、自分でもちょっとやり過ぎかと思」
「やり過ぎじゃないし、引いてもいない。少し驚いていただけだ。むしろ、そこまでマルセルが私とのことを心待ちにしてくれていたなんて、嬉しくて堪らない」
見つめ合った目を逸らさず、マルセルの膝に自分の手を添えた。ゆっくりと横にスライドさせ、腿を上へと辿り、柔らかくソコに触れる。それに反応してマルセルの目が、僅かに細められた。
「いいよ、マルセル。しよう。お前を早くグチャグチャにしたい」
ソコに触れた手にグッと力を込める。はあっ、という吐息と共に薄く開かれたマルセルの唇に、私は思いっ切りかぶりついた。
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