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「さて、困ったことになったぞ」
 思わず口から滑り落ちた言葉に、答えてくれる者はいない。
 当然だ。ここは通行人のいるどこかの街中でも、酔った人で溢れる酒場でもない。
 人里離れた、どこかの山の、奥の、奥の、そのまた奥。それが、今マルセルが1人で突っ立っている場所。
 返ってくるのは、葉擦れの音と、爽やかな新緑の匂いだけ。マルセルはこの、人の気配どころか小鳥のさえずり1つしない山中で、たった1人途方に暮れていた。
 山慣れした人間でも山で迷えば命を落としかねないというのに、よりにもよって俺が道に迷うなんて。それも、街中ではなく、誰の助けの見込めない山中で。なんせこの場所は、手を差し伸べてくれる親切な人はおろか、めぼしい生き物といえば植物と虫しかいないのだ。
 はあーっ、とひとつ大きく溜息をつき、無意識に指を目元へと沿わす。指先に固くゴワゴワとした包帯の感触が触れた。もし、俺がこんな体でなければ。そう、例えば。『この目が見えていたとしたら』。そうしたら少しは状況が改善するのに。
 そう、マルセルは全盲だ。先の大きな戦争での負傷が原因で失明し、色や形はおろか、光ですら僅かも感じ取ることができない。全く困ったことだ。こんな目でさえなければ、今の窮状もどうにかなったのかもしれないのに。なんというか、本当に忌々しい。
 だが、今それを考えても詮無いことだ。真っ先にやるべき事は、全く目の見えない身の上なのに誰の助けも見込めない現状で、山に迷ってしまったこの絶望的状況をどう打開するか考えること。それしかない。手に持っていた触擦用の杖を握り直し、それで辺りを探る。
 あーあ、やってしまった。五感や四肢をどこも損なっていない健康な人間ですら、山で遭難すれば大抵は生きて帰れないというのに、ましてや目の見えない人間ならば、言わずもがな。自分は何をやっているんだ。
 山中ながらも確かに整備された道を、一歩一歩杖で確かめながら歩いてきたつもりだったのに、間抜けにも間違えるなんて! それもこれも、周りのことが分からなくなる程没頭して考え事なんてしながら歩くからだ。
 そうでなくても、マルセルはまだまだ盲人となってからの歴が浅い。杖で辺りを探る手つきも自分で分かる程まだ頼りなく、このままじゃ前にも後ろにも進めっこないと分かってしまう。世界が暗くなってからまだ半年と少ししか経っていないのと、今まで二十数年間目から入る視覚情報に頼って生きてきたせいで、視覚に頼らずに方向や周りのものの位置取りなどを得るための感覚にも乏しく、元来た道を戻ることすらままならない。
 本当、運命の女神は俺にどうしろってんだ。
 日が暮れてもめしいたこの目では暗闇に怯える心配はないが、問題はそんなことではない。やはり夜の山は冷えるだろうし、今は影も姿もないが、獣だって出る可能性だってある。
 かと言ってこのままここで夜を明かすのはあまりにも無謀だ。なにより今日中に山を下りてしまうつもりだったので、できるだけ身軽になれるよう山越えに必要最低限な荷物しか持っておらず、野宿するには準備が心ともない。
 多少体を鍛え様々な危機的状況に対処する仕事に就いていたが、それも最早かなり昔の話。今の自分が、果たしてどこまでこの過酷な山での遭難に耐えられるかは果てしなく未知数である。
 しかも、昔と違って今の自分は全く目が見えない。杖に縋った盲人が、どこともしれない山の奥深くに、人知れず1人きり。
 あ、詰んだわこれ。
 俺、完全に死にました。
 いや、別にあっさり生きることを放棄したわけじゃない。でも、どう考えても無理だろこれ。考えれば考えるほど無理無理無理。人の溢れる街中ですら物乞いをしてようやっと食いつないでいけるような類の人間が、誰の手助けもなくこんな山の中から生還できるはずがない。自然の摂理に従えば、生き物は弱った方から死ぬのだ。老いや病、怪我をその身に受けた順に動物は死んでいく。ならば俺は今、限り無く死に近しいところにいると言える。
 大自然の中、盲目の生き物、縋る相手もなにもない。
 な、もう死ぬしかないだろ?
 はあ。なかなかつまらない人生だったな。貧乏、飢餓、戦争。思い返してもいつもいつも目の前に現れた過酷な現状を生き抜くのに必死で、ろくな思い出が浮かんでこない。最後に思い浮かべる相手すらいないとは。なんと虚しい人生か。幼くして飢饉で失ったり逃げ出したりしたせいか、今や親の顔や故郷の景色ですら朧気で、虚しさすら通り越してその向こう側に行けそうだ。果たして、俺が生きていることになにか意味はあったのだろうか。無かったんだろうな。辛い思いばかりして、意味までないとは。悲惨の一言に尽きる。
 それならせめて、最後は楽に死にたい。確か、水が無いと人は1日も持たないんだっけ。新兵訓練の時、鬼教官が唾を飛ばしながらそうがなっていた。ここら辺は水辺もなさそうだし、せっかく持っている水筒は空。このままいくと、俺の死因は脱水で決定。せめて最後は脱水で意識が朦朧としてくれるといいな。何もかもわからなくなったまま、苦しまずに死ぬのが第1希望である。それぐらいの小さな願いなら、叶えてくれたっていいだろう。なあ、女神様?
 今更じたばた足掻いて無駄に体力を消耗し、疲れるのも嫌だ。とりあえずどこか適当なところに座して、そこで最後の時を待とう。そう決めて、やや投げやりに杖で辺りを探りながら、座り心地の良さそうな木の根元でもないかとゆっくり歩き始める。
 あっちに進んでは立ち止まり、こっちに進んでは振り返り、どれくらいそうしていただろう。なかなか最後の瞬間にふさわしい場所は見つからない。
 そりゃそうだ。ここは人の手のついていない原生林。人間に都合のいい場所がそこら辺にポンッと用意されているものか。整備されてない自然なんてそんなもんだ。誰かの家ん中じゃないんだから、そう簡単に居心地のいい場所なんて見つかる筈もない。
 それでも俺は、数打ちゃ当たるの博打精神で、狭くてもいいからせめて地面に小石が少なくて、平らな場所を、そしてできれば背中を凭れさせられるだけの太い木の幹を、と引き続き安住の地探し求める。悲しいかな、この山は広大なんだ。そこに俺がたどりつけるかどうかは別として、奇跡的にどこかに俺に都合のいい場所だってあるだろう。
 そうしてもう何本目かの木を杖で探っていた時、突然、俺はこの場にふさわしくないある感覚に襲われた。素早く前に伸ばしていた杖を手元に引き戻し、その感覚の襲ってきた方向へと構える。もちろん、盲たこの身では存分に戦えないが、これは兵士として生きてきて骨身に染み付いた長年の習慣だ。最早反射に近い。
 俺に思わず武器を向けさせたその感覚。人っ子1人居ないはずのこの山中に、似つかわしくない、全身に感じるそれ。
 これは、『誰かの視線』だ。
 木を切りに来たきこりか、はたまた山奥まで獲物を求めてきた狩人か? いや、それならなぜ俺に声をかけない。山奥で遠くに杖で辺りを探る盲人を見たら、訝しがって誰だって声をかけるだろう。
 ならば、言葉を持たない獣か。
 ここまできて、なんと運が悪い。運命の女神様は本格的に俺の事をお見限りになられたらしい。人であるならば近づいてくる気配が感じられなかったことがおかしいし、十中八九気配を殺して近づいてきた獣だな。態々気配を殺して寄ってくるのは、それくらいだろう。元とはいえ俺は軍人であったし、盲人となり視覚以外の感覚が研ぎ澄まされている今、それくらい察知できるつもりだ。
 死ぬ覚悟はできていたが、痛い思いをして獣に食い殺される最後だなんて、あまりにもゾッとしない死に方じゃないか。これがさんざ戦場で人を殺した報いというのか。なんともはや、この感情は言葉にはならないな。貧乏に耐えあぐねて食いっぱぐれぬよう志願した俺のような一兵卒でこの有様なら、俺の目を潰し、戦友達の命を奪っていった魔法兵器を開発した敵国の英雄様達は、死後さぞやひどい地獄に落ちるに違いない。
 いや、もう落ちてるか。先の戦争は我が国の勝利に終わり、敵国の名だたる軍人や魔法使いたちはあらかた縛り首になったと聞いた。なるほど、ならば俺は、奴らに地獄から恨みを込めて呼ばれたのかもしれないな。要は運が悪かったという事だ。仕方がない、悪足掻きに現実逃避してもみっともないだけだ。覚悟を決めよう。男に生まれたからには、戦って死ぬのも悪くないと、そう思うしかなさそうだ。
 そう、それが例え、盲た目を抱え細い杖1本を唯一の武器に、獣の鋭い爪牙で一方的に蹂躙されるであろう悲惨な運命だと分かっていても。この勇姿を目にとめ俺の最後を見とってくれる美女の1人でもいればあとはもう文句なしだったのだが、この際それは言いっこなしだ。そもそもどんな絶世の美女でも、目の見えていない今の俺には意味が無い。
 俺は杖を正眼に構え、対峙しているであろう獣に意識を集中させる。相手が動く気配はない。だが、油断は禁物だ。こちらが隙を見せるのを待っているに違いない。杖を握る手に力を込め、地面を踏みしめる足に更に体重をかけた。相手はまだ、動かない。距離は5……いや、3か? クソッ、これだから中途盲というのは困る。人生の途中で光を失ったのだから、生まれつきの盲人と違って驚異的な空間把握能力というものもない。
 目が見えないというハンデを持ったまま人より素早い獣と戦おうというのは最早無謀を通り越して自殺と言うべきだろう。勝てはしないまでも、せめて相手に一矢報いてから死にたい。その為にはまず、少しでも相手のことを把握することだ。
 集中しろ。感覚を研ぎ澄ませ。全身の神経を張りつめさせ、視覚以外の残った五感を自分のできうる限り、最大限まで張り詰めさせる。
 集中、集中、集中……。
 そこでおれは、ふとおかしなことに気がつく。なんか、おかしくないか? なぜ相手はさっさと襲ってこない。
 獣とはいえ、なにも俺が狙いやすい獲物だということが分からないというほど間抜けではないだろう。こんな膠着状態に持ち込まず、さっさと襲ってきてもいいようなものを。かと言って害のない草食動物と言うには、相手はあまりにも警戒心が無さすぎる。捕食される側の奴らなら、こちらに近づいて来たりせずいの一番に逃げているはずだ。
 なんにせよ、いつまでも動かない意味が分からない。向こうは何を考えているんだ?
 違和感はそれだけではない。そこらに居る並の盲人よりは鈍いが、俺だってこの見えない目と付き合ってそれなりの時間が経っているのだ。視覚以外の五感は、普通の人間よりも鋭い自信がある。そのなけなしの鋭さを使って分かったことがあった。それは何か。
 どうも、獣にしては相手が大きすぎる気がするのだ。相手から発せられる全体の気配。より正確に言うと僅かに聞こえる息遣いの位置。
 それがなんと、俺の頭より高い位置から聞こえてくる。俺だってこの国の人間の平均身長よりは多少高いだけの身長はあるのだから、それよりでかい獣とは何事だ。一瞬、まさか魔物かとも思ったが、それにしてはやはり大人し過ぎる。魔物と言えば人間と見れば、その体内の魔力を狙ってすぐさま飛び掛ってくるものと決まっているのだ。こんな所で目の見えない俺と無駄に睨み合うようなことはしないだろう。
 なにより魔物にしては全体の体の気配が小さいような。相手の魔力を探知して判断しようとしたが、それもなぜか上手くできない。なんだか、ここは空気中に漂っている魔力が多すぎるのだ。まるで誰かの術中にいるみたいに。
 ああ、目が見えないのがもどかしい。この目が見えていたのなら、魔物だろうが獣だろうが立ち向かうなり逃げるなりできるだろうし、そもそも道に迷ってこんな所にいなくて済んだのに。
 この目さえ、目さえまともだったなら。謎の相手に一分いちぶの隙も見せずに杖を構えたまま、歯痒さでギリッと歯噛みをする。このままお互い何もせず、消耗戦に持ち込まれたら視覚の塞がれた俺は圧倒的に不利だ。見えない相手と感覚を限界まで研ぎ澄ませ続けながら対峙し続けるというのは、戦法としてあまりにも現実味がない。
 どのみち俺に明日は無いだろうし、いっそこちらから打ち込んでやろうかと、一瞬全身の緊張を高めた次の瞬間。俺は度肝を抜かれることになる。
「おい、お前。……こんな所で何をしている」
 なんと、俺が杖を構えた先、獣がいると思っていた方向から、腹に響くような朗々とした低い声が聞こえてきたではないか!
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