この腕の中で死ね

我利我利亡者

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後編

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花猫ファマオ(ブチ猫)! 一人そっち行ったぞ!」
 仲間のその掛け声を聞くか聞かないかの内に、自分でも驚く様な速さで物陰から飛び出す。そうして丁度目の前に走り込んで来た成员《チァンユァン》(構成員)の足元に、自らの足を差し出した。ただ我武者羅に前に向かって走って逃げる事だけしか考えていなかったらしい、今日の獲物である黑社会ヘイシャーホェイ(犯罪組織)の成员チァンユァンは、いっそ面白いくらい見事に俺の足に引っかかってその場にズベッとすっ転ぶ。
「確保!」
 誰かがそう叫んだ時にはもう、俺は成员チァンユァンの体を地面に押し付け捩じ伏せていた。成员チァンユァンは往生際悪くジタバタと暴れようとしたが、俺が抑え込む腕に力を込めたせいでキメられた自らの関節がギチリと音を立てると、ようやく観念して体から力を抜く。相手が完全に抵抗するのを諦めたのを確認してから俺は腰に下げていた捕縛用の簡易的な手枷を引き出して、素早くその手足の自由を封じた。そうしてちゃんと枷が付けれているのを確認している俺の横を、同僚達が足早に駆けていく。手枷を近くにあった鉄柵に固定し捕まえた成员チァンユァンは簡単にはこの場から移動できないようにして、俺も彼等の後を追ってまだ逃げている他の成员チァンユァン達の捕縛を続けた。
 やがて時刻が昼を回る頃には、俺と同僚達は辺り一帯の人が隠れられそうな物陰を探し終える。予めここら一帯の区画は封鎖してあったから、外に逃げ出せた成员チァンユァンはほぼ間違いなく居ないだろう。探し洩らしがなければ、これで成员チァンユァンは全員捕まえられた筈だ。しかし、ここで捜索を打ち切るには一つ問題があった。その為今も、俺達はあちこち立てかけてある廃材をひっくり返したり、細い路地の暗がりを覗き込んだりしている。
 何故そうまでして探すのを止めないのかって? なんということはない、事前に入っていた情報や踏み込んだ現場の情報から算出した、そこに居るべき捕まえなくてはならない人数に対して捕まえた成员チァンユァンの人数が少ないのである。足りないのはたった一人。数え間違いは有り得ない。これでもこっちはそれなりに場数を踏んでいる。少しの間違いもないようにそれぞれ知識や技術の研鑽は重ねていて、今回の捕物の裏取りも完璧な筈だ。それはつまりまだどこかに捕まえられていない成员チァンユァンが隠れているという事や、そいつを捕まえるまで俺達の仕事は終わらず帰れないという事を意味していて……。
「どこに居んだよ……さっさと出て来いや……。俺今日この後、女朋友ニュポンヨウ(彼女)と待ち合わせしてんだけど。これで情報収集分析係の間違いとかだったら、俺はそいつを無傷で居させられる自信がないぞ?」
「寄りにもよってこんな大捕物の予定が入ってる日に、自分の女と待ち合わせする方が悪い」
「だってさぁ! 女朋友ニュポンヨウが今日以の日は外他の客との予定が入ってて暇がないって言うからさぁ!」
 いつまで経っても居場所がわかるどころかその目星すら掴めず影も形も痕跡が見当たらない最後の成员チァンユァンに、厳しい訓練を重ね心身共に強靭な筈の同僚達からも、ポロポロと文句が出始めた。とうとう仕事に関係ない無駄話まで始まってきている。それもその筈捕物が始まったのは朝方、今はもうてっぺんを過ぎ日が傾き初め日差しが全体的に黄色くなりつつあっる時間帯。昼前には既に問題の一人を除いて成员チァンユァンは捕まえられていたから、あと残りたった一人の為だけにこれだけ長く成果が出なければ、そりゃあ多少の文句も出るというものだ。
「他の客って……。おい、まさかと思うがその女、職業は娼妓じゃないだろうな?」
「え? そうだけど?」
「……それ、完全に恋人関係じゃなくね? 他の客っていう言い方からしても、他の奴等と扱いが同列かそれ以下だって事からしても、お前もただの客じゃん」
「はぁ!? 何を失礼な! 俺達はちゃんとした恋人関係だ!」
「いやいや、どう考えても違うだろ」
「だから違うって! 俺と彼女は恋人関係で、固い愛と絆で結ばれてんの!」
「頑なに認めねぇし……。絶対向こうはお前の事ただの客の一人としか見てねぇって。話聞いててお前もそう思うだろ、花猫ファマオ?」
 話を振る為名前を呼ばれて振り返る。一度切ってから最近不精して結果的に切らずにまた伸ばしている、後頭部で纏めた自分の長くなった髪がサラリと流れるのを感じた。俺の名前は正確には花猫ファマオではない。今の名は虎嘯フーシアという。まあ、この名もより正確に言うのなら生まれた時に付けられたものではなく、仮称として呼ばれる内に定着したものなので、本名とは言い難いのだが……。そこら辺の事情は長くなるので割愛しよう。なんにせよ花猫ファマオというのは俺、虎嘯フーシアの通り名だ。今の仕事をする上で、現場の人間は本名から素性がバレないように通り名をつけるのが通例だから、と名付けられた。
 虎嘯フーシアを捩るのならそのまま虎猫フーマオ(トラネコ)でも良かったのだとおもうのだが、それじゃあ、あんまりにもそのまま過ぎる! ……と、花猫ファマオが俺の通り名となった。果たして、この捩りは必要性があったのだろうか。俺は普通に要らなかったと思うのだが……。まあ、そのまま過ぎると建前上駄目かとも思うし、何よりそこまで通り名なんかに拘りはないのでそのまま受け入れている。どうせ俺なんて前歴のせいで顔も本名も知れ渡っているのだから、そこら辺に辺に突っかかろうとも意味はない。
 話が逸れた。今はそれよりも、目の前の事に対処しないと。えーっと、なんだっけ? 他の客と同列の扱いしかしてくれない娼妓と、付き合ってるか付き合ってないかだったか? そんなの、勿論答えは決まってるだろう。
「何言ってんだ。当然向こうは、沢山居る客の一人としか思ってないだろうさ。もし本当に恋人ならむしろ、他の予定は何とか都合をつけてでもどうにかして会いたがるもんだろうからな。ていうか、そんなくだらない話をするより、今は見つからない最後の一人を発見する事に集中しろよ。一応仕事中だぞ」
「はぁ!? なんでそんな冷たくて酷い事言うんだよ! 俺達、友達だろう!? 自分にはアッツアツの恋人がいるからって、適当にあしらうなよな!」
「別にそういう訳じゃない。あくまでも客観的な視点から見た、一意見を言ったまでだ。でも、あながち間違っていないと思うぞ」
 友達、か。俺の事をそんな風に呼んでくれる相手ができるなんて、ほんの少し前までは考えた事もなかった。周りは一人残らず皆敵で、そんな信頼できない相手に友情が生まれる訳もない。こっちも向こうも互いに、表面的にだけ友好的に接してその実腹の探り合いや蹴落とし合いしかしていなかったもんだ。しかし、今の仕事に就いてからは違う。同僚達は俺の生まれ育ちや前歴を知らない訳ないし、なんなら立場上普通よりも嫌悪されると思ってすらいたのだが……。いさ蓋を開けてみれば一切そんな事はなかった。
 同僚達は皆まだ若い俺にとても良くしてくれて、お前は細いんだからと食べ物をくれたり、親睦を深めようと話しかけてくれたりと、何から何までとても親切だ。それこそ、俺のがいくらなんでも構われ過ぎだと嫉妬するくらいには。そんな恋人を見て大いに面白がり、揶揄う為にまた俺に構ってくるのだから、同僚達もなかなかいい性格をしている。まあ、それくらい俺だけじゃなく恋人も慕われてるという事だろう。別にそれは悪い事じゃない。恋人も揶揄われても多少むくれるだけで本気で嫌がってもいないみたいだし、俺も無理に止める事はないだろうから、この揶揄いは付き合いが続く限り一生終わらないような気がする。
 何にせよ、同僚達とこうして無駄話をするのは程々にしなくては。別に彼等と話をするのが嫌だとか、こっちの情報をほんの少しも渡したくないだとかそんな事はないが、だからって今は一応仕事中だ。別に俺が真面目な性格だから、そこら辺に拘っている訳じゃない。けど、こうして話していて時間が経つのを待っているだけで終わってくれる仕事ならまだいいが、悲しい事に成员チァンユァンの最後の一人が見つかるまで仕事は終わらず俺達も撤収できないんだぜ? ならば、さっさとやるべき事を片付けてしまった方がいいだろう。さっき話していた同僚に限らずこれから予定のある奴も居るし、俺だって負けず劣らず早く上がって恋人と同棲中の家に帰りたかった。
「ほら、恋愛相談なら後でいくらでも乗ってやるから、今は兎に角目の前の仕事をしな。早く終わらせれば終わらせるだけ、自由時間が増える。ただでさえ俺達は激務で休みもままならないんだし、仕事は山積みだ。のんびりしてたら休みを取る前に次の仕事が始まっちまうぞ」
「うげぇ、嫌な事思い出させるなよな。でも、花猫ファマオの言う通りだ。この仕事を片付ける前に、急ぎだから仕方がないんだとか何とか言ってまた別件を背負わされたくない。前みたいに事件捜査を五件同時進行とかになったら、俺は今度こそ仕事を振ってくる糞上層部の誰かを腹立ち紛れに殺しちまうかもしれん」
「全くだ。あの頃の事はキツ過ぎて記憶ねぇもん、俺。絶対に、あんな忙しさは二度と味わいたくない」
「だろう? だから口よりも手とか足とかを率先して動かして、早く仕事を片付け……っ!?」
 突如足元に影が差し、その事を頭で理解するよりも先に体が反射でバッと後ろに飛びずさる。俺がそれまで居た場所から退いたのとほぼ同時かそれよりほんの少し遅いくらいの感覚で、そこに上から人が降ってきた。その人間は手に大ぶりの刃物を持っており、しかもそれを真下に切っ先を向ける様にして構え、両の腕でガッチリと動かないように固めて突き出している。上から降ってきた大の男が勢いもそのままに思いっ切り体重をかけていたので、刃物の先は土とは言え固く踏み固められた地面にグサリと突き刺さった。
「チッ! 避けやがった!」
「お前っ!」
 間一髪で襲撃を避けた俺を、男は忌々しげに睨みつける。俺の方からも、負けじと今しがた不意打ちで攻撃をしてきた男の事を強く睨みつけた。徹底的な人払いと封鎖がされていて、黑社会ヘイシャーホェイやそいつ等を捜査する俺達以外の無関係な一般人はここには出入りできない。そして、俺はこの男の顔に見覚えがなく、それ即ちこの男は俺が今所属している組織の関係者でもない事になる。と、言う事は。男がいきなり俺を仕留めようと攻撃してきた事からも伺える通りこの男は俺の敵で、更に言えば状況から見るに今日捜査をしている黑社会ヘイシャーホェイの逃亡中である成员チァンユァンの最後の一人で……。
「クソッ!」
「あ! 待て!」
 どうも不意打ちで適当に狙いをつけた俺を負傷させるなり殺すなりして、こっちが動揺して後始末に奔走し混乱に陥っている間に、その隙をついて逃亡するつもりだったらしい。だが、俺がその攻撃を躱してしまった事で、その企てが狂った。不意打ち故に向こうは避けられると思っていなかったらしいのは勿論、結果的に折角隠れていたのにただ隠れ場所から敵前に身を晒してしまう事となったのは、全くの想定外なのだろう。更に言えば、こっち陣営の足止めに使うつもりだった相手にこうして瞬時に追いかけられてしまうのも、予想外中の予想外に違いない。少し遅れてさっきまで話していた同僚達の足音と何か叫ぶ怒鳴り声が追いかけてくるの後ろにを聞きながら、目の前の成员チァンユァンの背中ひたすらに追いかける。どこか遠くで、緊急事態を知らせる音程の笛の音が聞こえた。
「……!」
 荒々しい足音を立てて、成员チァンユァンが狭い路地を右に左と曲がりながら逃げていく。時折こちらを振り返り、その度に俺との距離が開くどころか近づいていっている事に苛立っている様な、絶望している様な顔を見せた。別に元々足が早い訳じゃないが、こちとらしょっちゅうお前みたいな輩相手にこういったこみごみした場所で追いかけっこしてんだ。そりゃあ慣れて手際も良くなるし、その結果相対的に足が早くもなるさ。ただただ足を早く捌く事にだけ集中し、追いかける先を一点見つめ先へと進み続ける。いよいよあと少し、それこそ思い切って踏み込み飛びかかれば捕まえられそう……なんて距離まで来た時。もう時期に捕まえられるだろうという、その一瞬の油断が良くなかったのだろうか? 今正に飛びかかろうとした寸前に、それは起こった。
「は!? えっ!? な、何!?」
 成员チァンユァンが丁度、とある十字路に差し掛かった時だ。横合いの道から、早足に一人の男が飛び出してきた。その顔には見覚えがある。俺と同じ年に俺よりも何月か遅く同じ組織の同じ部署に配属された、後輩の様な同輩の様な微妙な立ち位置の同僚だ。生まれ育ちのせいで元々裏稼業に長く属していてある程度荒事や現場慣れしていた俺とは違って、こいつは何もかもが初めてで拙い。だからと言って現場に配属されているのだから何もできない訳ではないし、むしろ他の同年代よりは秀でている面も多いのだが、それでもそいつが下っ端中の下っ端である事は変わりなかった。今日は大勢人手が要るのもあって駆り出された奴はこれで何度目かの現場仕事で、流れから見て周囲と一緒になって慣れないなりに一生懸命最後の一人を探していた筈だが、なんでここに? 騒ぎを聞き付けて駆けつけてきたのか? 何にせよ、その同僚は横から飛び出してきて俺が追いかけている成员チァンユァンとぶつかりかけ、そして……。
「近づくな! 近づいたらこいつ殺すぞ!」
 あっという間の早業だった。突然目の前に現れた光景を上手く理解できずに固まった同僚と、反対に瞬時に場の流れを読んで目にも止まらぬ早さで腕を伸ばし、同僚を捕まえてその首に刃物を突きつけた成员チァンユァン。その腕の中で同僚は未だに理解が追いついていないらしく、目を白黒させて緊張した場にそぐわない間抜け面を晒している。成员チァンユァンが同僚の首筋に震える切っ先を僅かにめり込ませると、そこには薄らと鮮やかな赤が滲んだ。チッと低く舌打ちを打つ。そうしてそのまま、場は膠着状態に陥た。
「おい。無駄な抵抗は止めて、そいつを離しな。ここで変に粘っても、後が辛くなるだけだぜ?」
「五月蝿ぇ! 賢ぶって分かったような口利きやがって! 俺を捕まえて締め上げるつもりらしいがな、そうはいくか!」
 当然の事だが、俺の言葉は興奮した成员チァンユァンには届かない。向こうはこちらの言葉には耳も貸さず口角泡を飛ばして、苦しそうな表情をした俺の同僚の喉元をふん掴み、思う存分振り回している。その間同僚を捕まえているのとは反対の手で握った刃物の刃を同僚の首筋にビタ付けしたままなのだから変なところで器用だ。まあ、そのせいでこっちは一切身動きができないのだから、全く褒める気になれないが。
「手前ぇ等よく聞け! こいつを殺されたくなかったら大人しくしてろ! いいか、今後の俺の行動を一切邪魔すんなよ!? さもなきゃここに、こいつの血の雨が降る事になるからな!?」
「分かった、分かったから。取り敢えず落ち着け」
 同僚を人質に取った成员チァンユァンと俺、そして背後に存在を感じる他の同僚達。双方一定の距離を保って睨み合う。逆上されては困るので口には出さないが、いくら人質を取ろうが成员チァンユァンはもうこれ以上どこにも逃げられない。当然相手もそれは分かってる。無駄と分かった上でそれでも足掻くのを止めないのは、この極限状態下でもう後には引けず適正な判断も下せぬ程に興奮してしまっているからだろう。手に持った刃物と、腕の中の人質、そして大勢の敵に囲まれたこの状況、何もかもが成员チァンユァンを追い詰めていた。追い詰められた獣は、どこまでも興奮して見境がなくなっていく。
「いいか、俺がここから立ち去る間、お前達はそこを動くなよ! 許されるのは呼吸と瞬きだけ、その他は指先一つ動かすな!」
「逃げる気か? 俺の仲間に包囲されたこの場から? 止めておけ、足掻けば足掻くだけ罪状が重くなるぞ。今から罪の全てを雪ぐ事はできないが、せめて人質を解放して自ら投降すれば、悪い様にしないと約束できる。重大な事は起きていない今なら、まだ間に合うんだ」
「五月蝿ぇ! 俺はどうせ掴まりゃよくて重刑、それか死刑に決まってる! そんなのごめんだ! だったらせめて、できる限りの抵抗をして自由を勝ち取ろうとするのみだ!」
 そう叫びながら手に持った刃物を更に人質に強く突きつける成员チァンユァン。興奮してはいるがやはり立場上荒事……つまりはこういった人質を盾にして振る舞う事に慣れているらしく、その動きにはやっぱり隙がない。向こうもこちらも引く気はなく、かといってこの良くない流れを打開する咄嗟の一手も直ぐには思いつかず。状況は完全に膠着していた。いつまでもこうしている訳にはいかない。時間が流れれば流れるだけ人質は衰弱するし、成员チァンユァンはどんどん興奮していく。完全に包囲しているので逃す事はないにせよ、状況は悪くなる一方だ。なにか、なにか行動を起こさねば……。そう考えた俺は、瞬時の判断で素早く動いた。
 人質に取られている同僚にこっそり目配せをする。唯一運が良かったのは人質になったのがなんの心得もない一般人ではなく、ある程度専門的な訓練を受けた同僚だった事だ。そのお陰でこうして目を合わせ多少合図を送るだけで、少なからず意思疎通をするのが可能となる。こういった時にどんな行動を取れば救助しやすいか人質が委細承知しているというのも、やりやすくてなかなかいい。普段一緒に訓練を受けているお陰で、互いの考える事や手の内は大体把握できているしな。瞬きの合間に必要なだけ思考を通わせた俺と人質になった同僚は、呼吸を合わせ機会を見計らった俺が合図を出すのを密かに待つ。そして……。
「オラッ! 何をボーッと突っ立ってやがる!? 早くそこを退け……っ!?」
 成员チァンユァンが一層激昂して大きく乱雑な動きをしたその僅かな隙を見逃さず、人質になっている同僚が自らの喉元に突きつけられた刃物とそれを持つ成员チァンユァンの手に飛び付き、そのまま全体重をかけ前方に転ぶ様にして思いっ切り踏み出した。当然周囲を取り囲んでいる俺等に意識を集中させていて人質に反撃されるとは思っていなかった成员チァンユァンはこれに対応しきれず、大きく体勢を崩す事となる。この隙を俺が逃す訳もなく……。成员チァンユァンが平衡感覚を失うか失わないかの時にはもう、俺は既に相手に向かって飛びかかっていた。
「クッ、こ、この……!」
 刃物を取り合って成员チァンユァンと俺が揉み合う内に、人質になっていた同僚は逃げる事ができたようだ。視界の端で別の同僚に保護されているのを確認する。その事に安心する間もなく、血走った目に必死の形相で抵抗を続ける成员チァンユァンにこっちも必死で相対した。まあそうなるのも当然だ。だって向こうはここが正念場。捕まってしまえばもう一巻の終わりなのだから。例えもう行き着く先が大方見えてしまっていても、それが破滅ならば最後の最後まで抵抗を止められないのが生に執着する人の性というものだろう。相手は手に持った刃物を俺に取られないようにしつつも何とか切りつけて怯ませる事ができやしないかと奮闘し、こっちはこっちで刃物を取り上げ制圧しようと大立ち回り。場馴れ加減は同じくらい、体格は向こうは上、力はこっちの方が上、周囲の仲間は薮蛇にならないように下手に手が出せず、全ての要素が拮抗しなかなか勝負がつかない。ジリジリと互いに相手の隙を狙い、攻防を続け……そして。
「オラァッ!」
 そんな掛け声とともに渾身の力を発揮して、成员チァンユァンの手を捻り上げる。取り落とされた刃物が地面に落ちるのと、完璧に動きを封じ俺が相手を制圧したのはほぼ同時だった。
「よし! よくやった、花猫ファマオ!」
「人質は!? 無事か!?」
「ああ、怪我一つしてねぇよ」
 成员チァンユァンを押え付ける腕に込めた力は緩めないまま、安心してホッと息を着く。視線を向ければその先で、人質になっていた同僚が未だ顔は青褪めていたがそれなりに元気そうにぎこちなく笑っていた。どうやら先程脅しで首筋につけられたもの以外、怪我らしい怪我はしていないらしい。よかったよかった。自力で逃げ出し隙を作るのにも一役買ったのだし、これなら人質にされたことに対する心配のお小言を貰うだけで済むだろう。色々ドタバタしたが、全て上手く片がついたみたいだ。緊急事態の知らせを受けて駆けつけたらしい同僚達がチラホラ増えてきたが、そいつらも到着した時にはもう全て終わっているのを確認して気が抜けたような顔をしている。
花猫ファマオ。後始末は俺達でやっておくから、お前はもう帰れ」
「はぁ? 何言ってんだ? 気持ちは有難いが、当事者の俺がやった方が色々都合がいいだろう」
「いやいや、後始末も大事だが、お前怪我してるじゃねぇか。いいから手当して貰ってこいって!」
「は? 怪我?」
 何を言ってるんだ? とこ首を傾げた俺に、気がついていないのかと脇腹を指さされた。その先を見ると、成程確かにそこには服が切れて薄らと血が滲んでいる。どうやらさっきの乱闘中についたらしい。気が昂っているからというのもあるだろうが、傷が浅いので全く気が付かなかった。試しに服の裾を捲って見てみたが、そこまで酷いものでもない。精々猫に引っ掻かれたのよりほんの少し深い程度。今の自分の体調から考えるに毒も塗られていないようだし、放っておいてもいいものだ。特に気にしなくていいだろう。
「こんなもん唾つけときゃ治るだろ。それよりも皆早く帰りたいんだし、俺も協力して後始末を」
「いやいやいや! お願いだからお前は早く帰ってくれ! 傷も絶対医官に見せろ! いいか、絶対だぞ!?」
「はぁ? 執拗いぞ、お前。何をそんなに必死になってるんだ?」
「だって花猫ファマオ、お前……」
花猫ファマオ!」
 聞こえてきた俺の名を呼ぶ声にそちらを振り返る。そこには、焦った表情でこちらに駆け寄ってくる恋人……いやいや、今は職務中だから上司か。何にせよ、俺の恋人兼上司の竜吟ロンインが居た。組織内ではそこそこ高位であるという立場や、顔が知れていて恨みもそこそこ買っており、積極的に狙われる危険性があるという事から普段はあまり現場には出してもらえないのに今日は出てくるなんて。珍しい事もあるもんだ。まあ、下っ端だろうと誰か人質になったら出てこざるを得ないか。一応竜吟ロンインはこの現場の責任者だし。因みに、顔と名が知れ渡っている竜吟ロンインだったが、俺と同じく一応四脚蛇スゥヂィアォシゥー(トカゲ)という通り名が着いている。素性は全部バレているのに意味があるかどうかは知らないが、一人一つの通り名は慣例なのだそうだ。
「あ、四脚蛇スゥヂィアォシゥー。最後の一人捕まえたぞ、これで皆やっと家に帰れ」
花猫ファマオ! お前……怪我……!」
 切羽詰まった様子で全身を戦慄かせながら、深刻そうな表情で俺の傷を注視する竜吟ロンイン。ああ、これ? 少しドジっちまったわ。そう、笑って流そうとしたのだが……。
「おい、医官は!? どこにも見当たらんがどういう事だ!? まさか呼んでないとは言わせんぞ!?」
「は、はい! 今人をやって呼んでる最中で」
「チッ! 待ってられん! 花猫ファマオ、こっちからも出向くぞ!」
「えっ!? ちよ、四脚蛇スゥヂィアォシゥー!? 何言ってんだ、これくらいの傷でそんないちいち大騒ぎしなくても」
……?」
 グリンッ、と凄まじい勢いで首をこちらに向けてきた竜吟ロンインに、悲鳴は上げないまでも思わずヒッと喉奥が引き攣る。おいおいおい。荒事的な恐怖には慣れているが、心霊的な恐怖には人並みにしか耐性がないんだが。そう言ってしまいたくなる程、その時の竜吟ロンインの様子はどこか鬼気迫るものがあり下手に口出しができない雰囲気があった。そう感じたのは周りも同じだったようで、俺達を囲む人垣がジリッと大きく広がる。まずい、この空気をどうにかしなくては。皆脅えてる。でも、どうやって? 焦りと恐怖感で訳が分からなくなりつつも、何とかしなくてはという使命感で、口から勝手に言葉が滑り出していった。
「す、四脚蛇スゥヂィアォシゥー? 何をそんなに怖い顔をしているんだ?」
「何って? そんなの決まってる。お前が怪我してるからだろうが!」
「そんな、こんなたかが掠り傷に大袈裟な」
「たかがじゃない! 見ろ! 肌が切れて血が出てる! これが掠り傷だって? そんな訳あるか!」
「いや、この程度なら傷口消毒して放置だろ。縫い合わせるまでもないんだし、そんな大騒ぎする程の事じゃ」
「馬鹿を言うな! 浅かろうががなんだろうが、傷は傷だろう! 万一刃物に毒でも塗られていたらどうする!? 当然毒物検査は受けさせるからな! それとは別に医官にだって見せる! お前が血を一滴流すだけでもこっちは耐え難いのに……!」
 あー、これは……。どうも、というか、的なものかな……? 竜吟ロンインの勢いに冷や汗をかきながらも、こっそり周囲に目配せして『ここは俺に任せてくれ』と目顔で伝えた。それを察した同僚達は……というか、どちらかと言うと触らぬ神に祟りなし的な判断だったのかもしれないが、何にせよテキパキと撤収の準備を始めた。三々五々後片付けをする同僚達の中心から外れるように手を引いて竜吟ロンインを誘導し、歩きつつ話を聞く事で彼を宥めようとする。
 竜吟ロンインは俺に過保護だ。それこそ、最初はお熱いねーなんてにやけ面で揶揄ってた周囲が、ドン引きして引き攣り笑いを浮かべながらお願いだからこっちに飛び火させてくれるなと懇願してくるくらいには。俺は一切気にしていないのに、今の仕事に就くに至った経緯や微妙な立場、危険の多い生活、後ろ盾のない俺ばかりが現場に回される事等を竜吟ロンインは酷く気にしている。どうもそれ等全てを竜吟ロンインと一緒に居る事の引き換えとして、俺に選ばせてしまったという負い目が彼の中にはあるらしい。何を言ってるんだか。全てを忘れ何もかも捨てて心機一転別の国でやり直す道だって、俺は選べた。それでもこの国に留まり厳しい環境を強いられようとも竜吟ロンインと共にありたいと願ったのは他でもない俺自身だ。そこに竜吟ロンインの意思は介在していないし、無理強いなんて一度もされていない。
 それだというのに竜吟ロンインは、いつまでもいつまでも俺の人生に責任を感じて、挙句これ以上どんな不幸や苦労も俺に味わって欲しくないと本人以上に気にしている。その結果がこれだ。周囲の手前普段は何とか抑えさせているのだが、ちょくちょく心配が大爆発して暴走し、こうして過剰に俺を慮ってくる。まあ、俺を思っての事だし彼の優しさ故の行動だと分かっているので、変に咎めず気が済むまで心配させて宥めるのがお決まりの対処法だ。嫌な考え方かもしれないが、正直心配されて嬉しくない訳でもないしな。だって、心配されればされるだけ、竜吟ロンインの頭の中が俺の事で一杯になるじゃんか。意地悪な思考かもしれないが、それって結構ゾクゾクする。あーあ、俺って結構根性捻じ曲がってるな。
四脚蛇スゥヂィアォシゥー、怪我の心配してくれて有難う。これ以上迷惑かけるのは嫌だしちゃんと医官には見せるから、確認の為にも着いてきてくれるか?」
「迷惑だなんてこれっぽっちも思っちゃいないが、心配なのは事実だから一緒に行く」
「本当か? 四脚蛇スゥヂィアォシゥーは優しいな、有難う」
 柔らかく笑いかけ同時に繋いだ手に少し力を込めれば、俺の言葉に安心したのかピリついていた竜吟ロンインの雰囲気がほんの少し和らいだ。上からも下からも一目置かれる程優秀で、どんな困難にも眉一つ動かさず冷徹に対処するこの男が、唯一心乱される対象が俺だなんて。優越感とも依存心とも言えるような、仄暗く甘い感情が胸に満ちた。感情を堪えきれずに唇に笑みを乗せると、それに気がついた竜吟ロンインが優しく微笑み返してくれる。それにまた、体の奥底から多幸感が湧いてきた。そうして二人して微笑みあっている内に、こちらに向かっている途中だった医官と行き合う。竜吟ロンインの厳しい監視の元俺の手当をしなくてはならなくなった医官は冷や汗をかいていたが、竜吟ロンインのその行動にまた彼の気持ちの丈を感じてしまって、俺はウットリと溜息を吐いた。
「ふむ。刃物に毒は塗られていなかったようですし、この傷の深さなら痕も残らず治るでしょうね。念の為に化膿止めだけ処方しておきますね」
「ああ、有難う。さて、診察も終わったし俺も後片付けの手伝いを」
「はぁ!? 何を言ってるんだ花猫ファマオ!? ここはいいからお前は四脚蛇スゥヂィアォシゥーさんと一緒に帰れ!」
「は? でも、撤収作業が」
「いいから、帰れって! ……お前に怪我させた上に傷に配慮せずに働かせたら、俺達の方が四脚蛇スゥヂィアォシゥーさんにどんな目に遭わされるか……」
「あー……、成程……」
 何事かを医官と話している最中の竜吟ロンインに聞こえないようにコソコソと小声で告られた内容に、納得する。確かに、俺に甘い竜吟ロンインの事だ。俺の怪我を理由に気が立っているみたいだし、これ以上ここに居させても周りは堪ったもんじゃないだろう。普段の仕事中は恋人の俺にも他の部下にも区別は付けず平等に厳しく接している竜吟ロンインだったが、一度なにか俺に危害が加わるとこうして箍が外れてしまう所がある。周囲に気を使わせてしまうのも嫌だし、そこまでして無理に働きたいと思う程の勤労意欲もない。皆には悪いが一足早く休ませてもらおう。……と、思っていたのだが。
「それに、正直四脚蛇スゥヂィアォシゥーさんとお前が繰り広げるイチャイチャ劇場に巻き込まれたくない……! 独り身には辛過ぎる……!」
「へ? な、何を言って」
「分からないとは言わせないぞ? 恋人が怪我して騒ぐ分四脚蛇スゥヂィアォシゥーさんの方がわかりやすいが、お前も大概だ」
「た、大概って? 何がだ?」
四脚蛇スゥヂィアォシゥーさんに怪我を心配されたり、少しでも障りはないかと一喜一憂されたり、そうして執着されて喜んでいるのを周りに気が付かれていないとでも? 普段しっかりしてる奴のお惚気けを見せられるのは、ハッキリ言ってこっちもキツいんだ。お願いだから家に帰って思う存分いちゃついて冷静になるまで出勤してくるな!」
 おっと……、まさかバレていたとは。これでも心情を他人に悟らせない術には長けているつもりだったんだが。ちょっとやそっとじゃ抑えきれない程に俺の竜吟ロンインに対する思いも、それなりに大きかったらしい。他人に指摘されてまたうっかり喜んでニヤけてしまった俺を、ドン引きした顔で指摘してきた同僚が見ている。その後ろでは通りすがりに呆れた視線を寄越すのが何人か行き交っていた。し、仕方ないだろう。俺の方だってそれだけ竜吟ロンインの事が好きなんだから!
「ま、何にせよ軽くとも怪我は怪我だ。多少療養休暇も出るだろうし、俺達よりももっと働き詰めの四脚蛇スゥヂィアォシゥーさんの休暇も今回はいつもより長く取れるだろう。これを機に思う存分イチャついて、休み明けには冷静になって出できてくれよ?」
「あー、うん。気遣い有難う。善処する」
「お礼はこれ以上その甘々な空気を周りに振りまかない事で返してくれ。それじゃあ、俺はこれで。これ以上お前と長話してたら、嫉妬した四脚蛇スゥヂィアォシゥーさんに消されそうだ」
 そう言って同僚は足早にその場を立ち去る。それと同時に後ろから手を引かれ、竜吟ロンインの腕の中に抱き込まれた。そのままグリグリと肩に頭を擦り付けられる。どうやら竜吟ロンインは、ちょっとの間俺が同僚と話しているのも嫉妬で辛かったらしい。可愛い人だ。それだけ自分が愛されているのだと思うと、優越感が凄いな。これ以上見せつけてくれるなという願いと共に俺達に時間をくれた周囲の為にも、家に帰りタップリ時間をかけて、彼を思う存分甘やかそう。近くに降りてきている彼の耳に唇を寄せ、ソッと小声で言葉を吹き込んだ。
「さ、竜吟ロンイン。俺達の家に帰ろう。俺、今日はあなたに沢山甘えたい気分だ」
「奇遇だな、俺も虎嘯フーシアをタップリ甘やかしたい気分なんだ。覚悟しろよ?」
 同じように小声で返してきた竜吟ロンインの吐息に耳を擽られ、少し肩を竦める。背筋が震えたのは、何もそのくすぐったさのせいではないだろう。だってその中には、もっと甘い疼きの様なものが含まれていた。ああ、家に早く帰りたい。今からとっても楽しみで、ソワソワと浮き足立ってしまう。そのまま俺達は手に手を取り合い指を絡めて、引っ付きながら家路を急ぐのだった。その時、周囲が遠い目付きで必死に視線を逸らしていたのには勿論気がついていたが、まあ気にするような事じゃない。長く取れた休みを存分に使い、自分の死に場所は竜吟ロンインの腕の中だけだと改めて思い知らされた俺と自分だけに向けられる俺の執着を再確認した竜吟ロンインは、とても満たされた時間を過ごせた。そうして休み明けになって、以前にも増して甘ったるい空気の下仲睦まじい俺達の様子に、同僚達が泡を吹いて白目を剥く様子が見られたとか見られなかったとか……。
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