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「か、可愛い……」
「見てよこの脂肪と水分で浮腫がちな赤ん坊なのに、ハッキリ分かるパッチリおお目々。目元は絶対椎名の遺伝だね」
「そうかぁ? 俺はこの本能に訴えかけるような全体の美しさは織部似だと思うんだがなぁ」
「椎名、俺に対してそんなこと思ってたの……」
 椎名はさっきからカメラ目線で指をしゃぶる息子の写真が表示された携帯を握って離さない。目線もバッチリ釘付けだ。椎名、こんなデレデレに蕩けた顔するんだ。俺に向けてたのとはまた別の蕩け具合っていうか。なんにせよ、さっきまで全力で泣いてた人間とは思えない。
「名前はなんていうんだ」
「俺達みたいにフワフワせずに、どんと構えたしっかりした人になって欲しいから、基礎の『基』って書いて『もとい』って名前にした」
「ヴッ、いい名前だが、由来が刺さるな」
「でも、俺達に似てあやふやなことしまくって、今回みたいな騒動起こす人間に育ったら困らない?」
「……否定できん」
 今の俺達は隣に座って肩を寄せ合いながら1つの携帯を覗き込み、息子の写真を見ている。こうしているとギスギスする前の仲の良かった頃に戻ったみたいだ。傍から見ている五十嵐はやきもきして仕方ないみたいだが、俺は椎名とのこの距離感、正直落ち着く。
「それでね、これが初めて保育器から出れた記念に撮った写真」
「おぉ、帽子かぶってる! これはこれでなかなか……!」
「お前等、基が可愛いのは分かったから、いい加減話し合いを始めろ」
 あまりにも息子の写真ばかり見ているものだから、とうとう痺れを切らした五十嵐に注意されてしまった。まあ、五十嵐の言っていることはもっともなので、椎名は渋々携帯を返し、俺もそれをしまう。そうしてさあ話すぞ、と意気込んだはいいものの、2人とも何も喋らない。『息子の写真』という潤滑油をなくしてしまった俺達は、何を話せばいいのかわからなくなってお互い黙り込んでしまったのだ。なんとか勇気を振り絞り、先に気まずい沈黙を破ったのは椎名だった。
「あの、子供を……基を産んでくれてありがとう」
「あ、うん。どういたしまして」
 再び訪れる、沈黙。おい、俺! そこはもっとこう、なんとかして話題を脹らますところだろう! 昔のこととか、これからのこととか、話し合わなきゃ行けないことは山程あるんだぞ! こんなところで躓いてる場合か!
 と、そこで椎名が目を擦る。ギャン泣きしたせいで腫れてきて気になるんだろう。結構顔も汚れてるし、どうにかした方がいいかも。
「椎名、そこに洗面所があるから、顔洗ってくる?」
「ん、ああ、そうだな。そうさせてもらう」
 椎名は席を立ち、洗面所へと消えていった。すぐに戻ってきて、俺の隣に座り直す。顔がまだ少し濡れていたので、ハンカチを取り出して拭ってやった。
「ありがとう」
「いえいえ。サッパリした?」
「泣いたせいでまだ目は腫れぼったいけど、大分マシになった」
「アハハ、凄い泣きっぷりだったもんね」
「仕方ないだろう。本気で辛くて悲しくて、涙が止められなかったんだから。特に、今時分膨らんでる筈の織部の腹が凹んでるのを見た時は、マジで絶望で死ぬかと」
「椎名、そんなに子供好きだったんだ。そこそこ長く深い付き合いがあったのに知らなかったな」
 だからあんなに子供を産むことに拘ったのか。そういえば避妊失敗の翌日にはもう、ベビーグッズのカタログを持ってきてたっけ。ただのオラついたボンボンだと思ってたのに、意外と子煩悩なタイプだったらしい。だが、そんな俺の予想を椎名は易々と裏切る。
「子供が好きというか……。お前と俺の子供だからな。だから、産んでくれたって知った時は、嬉しくて嬉しくて」
 そう言ってまた顔を蕩けさせる椎名。さっき見せた基の写真でも思い出しているんだろう。こんな分かりやすいやつだったっけ。夢見る上に恋までしてる乙女みたいになってるぞ。この様子だと、椎名が基のことを邪険に思う可能性はかなり低そうだ。ホッと息を吐く。
「よかった。椎名は最初から子供を産むようにばっかり言ってたからあまり心配してはいなかったけど、万が一後から気が変わって『なんで産んだんだ』なんて言われたらどうしようかと思ってたから」
「そんなこと言うわけあるか! 俺はずぅーっとお前との子供が欲しかったんだ。事故とはいえ、ようやくできた子供を産んでくれと言うことはあっても、産むなと言うわけがねぇだろ!」
 俺の言葉に眉を吊り上げて反駁する椎名。その目は真剣そのもの。その真面目な様子に俺はふと、ある可能性を思いつく。
「もしかして『生でヤりたい』って言ってたのも……?」
「……その通りだ。あの時は俺が世間の常識を知らないあまり、失礼なことを言ってすまなかった。お前の気持ちも考えず、俺は兎に角生でヤれば俺達の子供を授かれるということしか考えてなかった」
 ああ、やっぱり。そういう事だったのか。あの無礼な言い草にも椎名なりにちゃんとした真面目な理由があったことと、真摯に謝ってもらえたことで少し腹の虫が収まる。寧ろ、俺や息子の存在を求めてもらってるみたいで嬉しいかも。
「ふーん、俺との子供、そんなに欲しかったんだ」
「ああ、純粋に織部との子供が欲しかったのは勿論だが、子供さえできればお前と結婚できると固く信じて疑わなかったからな」
「へっ!? けっ、けっ、結婚!? 椎名俺と結婚したかったの!?」
 ちょっ、マジ!? それは聞いてないぞ! ていうか物凄い話が飛躍しなかったか今!? どういうこと!?
「で、でも、俺と椎名ってただのセフレだったんじゃ……?」
「やっぱり、そう思ってたか。いや、織部にそう思わせてしまったのは、きっと俺のせいだな。俺、そういうのダセェと思い込んでそれらしい言葉も態度もお前に示さなかったから。俺になんにも文句言わないお前の優しさに甘えて、勝手に1人で恋人気分に浸ってた」
「えっ、てことは椎名の中では俺達はずっと付き合ってることになってたの?」
「まあ、そうだな」
 えぇーっ! 寝耳に水ぅーっ! あまりにも言葉足らず過ぎるだろ! 絶句する俺に気がついていないのか、椎名は勝手に思いの丈を喋り始める。
「正直に言うと、織部と出会うまでの俺は女もΩも取っかえ引っ変えで、恋人なんていらないと思ってた。俺の立場上相手を選べるとは思えなかったし、選びたいと思えるような相手もいなかったからな。適当な相手と結婚して、適当に子供を作って、一族の義務から解放されたら後は一生遊んで暮らすつもりですらいた。けど、そんなあまりにも無責任な考えは、織部と出会って覆されたんだ。鼻血を垂らしてカッコつかないお前を一目見た瞬間、どうしても俺のものにしたくてしょうがなくなった。今にして思えばあの時から惹かれていたんだと思う。1度断られても去るもの追わずのそれまでと違って諦められなくて、ハメ撮りなんて嘘ついてまで無理矢理にでもセックスできたらあとはもう有頂天になって、それからはあっという間。他のセフレのことはすっかり忘れてズブズブお前にのめり込んで、これだけ毎日一緒にいてあちこち連れ回したら、言わずとも織部は俺とは恋人同然だと察するだろうと思ってた」
 成程、それまであまりにも相手に困ったことがなくて、俺が椎名のこと好きかどうかすら悩まなかったわけね。告白の文化がないとか、欧米かよ。『正式な恋人になるか?』と聞いてきた時あまり拘ってなかったのは、もう既に恋人気分だったからなのね。椎名が他の相手を切って俺にだけ搾ってるって椎名の友達の意見は正しかったわけだ。まあ、俺も言葉にこだわりすぎたかな? でも、やっぱり始まり方が始まり方だったから、一言くらいないと分かんねぇよ。
 てか、ハメ撮り嘘だったのか。正直俺も忘れかけてたけど、なんて嘘つきやがる。お前ホント、そういうところだぞ!
「子供ができたら結婚できると思ったのはなんで?」
「俺は実家があんなんだから、後ろ盾のない織部と一緒になるには先に子供作って、無理矢理にでも『責任取って結婚する』って流れにしねぇと結婚の許可がおりないと思って。結局、それは俺の楽天的な思い込みだったけどな」
「若しかして、お母さんが俺に何したか知ってる?」
「ああ。その節は本当にすまなかった。あの時織部が逃げ切れてなかったらと思うと、心の底からゾッとする」
 あれも椎名なりに俺と結婚するための努力だったんだな。手法としてはかなり間違ってるし、発想がアホのソレだけど、椎名はいたって真面目だったんだろう。椎名の母親のことに関しては、椎名に怒っても仕方のないことだし、それで椎名に責任を追求どうこうは思っていない。というか、元々俺は怒りが長続きしないタイプだし、息子が生まれて気持ちが充実しているので、それに関わらず今はどうも怒りのボルテージがどうも低かった。
「いいよ、別に。もう終わった事だし、俺はこうして無事に子供も産めたんだから。あ、でも後で五十嵐にお礼言っといてね。アイツがいなかったら俺、絶対逃げ切れてなかった」
「ああ、この度は……」
「ちょちょちょ、待て待て待て!」
 言葉と共に五十嵐の方を示すと、椎名は躊躇いもなく五十嵐に土下座しようとするもんだから、慌てて止めた。土下座に躊躇いが無さすぎる。えっ、椎名そこまで腰低かったっけ? 土下座は昨今ネタ化が進んで巫山戯てると思われかねないぜ? 五十嵐はそういうのあんま好きじゃないと思う。なおも謝意を示そうとする椎名の気を逸らすべく、慌てて話題を変える。
「それにしても、なんというか、椎名は随分変わったね。ものの考え方が前より……あー、常識的だ。俺がいなくなってから、椎名がどうしてたか聞いてもいい?」
「ハッキリ『まともになった』って言ってくれて構わないぜ。今にして思うと昔の俺は悪い意味でかなりヤバかったからな」
 おおう、コッチが言い難いことをサラッと言うねぇ。というか昔を省みてヤバいと思う理性が今はあるのか。成長したなぁ。取り敢えず姿勢を正し、椎名の話を聞く体制をとる。俺のその様子を見てから、椎名も背筋を伸ばして滔々と経緯を語り始めた。
「織部が姿を消した後、俺はそりゃぁもう半狂乱になってお前を探したさ。ただし、実家の力を使ってな。その時は素人の俺が下手に人探しするより、実家の権力と人脈、人手を使って探した方が早くカタがつくと思ったんだ。俺は呑気にお前が帰ってきた時のために家で寝ずの番だ。今思うと織部がいなくなったってのに自分は待つだけなんて、頭がおかしいな」
 いや、真っ当な判断だと思うけどな。技術やその他力がいるところはプロに任せて、自分はできることを精一杯やる。至極当然の対処法だ。そもそも寝ずの番も呑気からは程遠い行為である。俺が突然いなくなるというトラブルに対して、椎名の初動は悪くなかったと思う。頼った先の実家が本当に頼りになれば、の話だが。次に椎名が続けた椎名の実家の話を聞いたら、案の定だ。
「けど、待てど暮らせど実家から捜索の成果は上がってこねぇ。せっついてものらりくらり躱されて、梨の礫だ。母親なんてあれやこれやおためごかしなことを言って、釣書を見せてくる始末。流石に何かおかしいと思って探ってみたら、実家の連中は織部のことなんか探してないし、それどころか俺の見合い相手を探してるじゃねぇか! どういうことだと詰め寄ったら『お前が碌でもない安いΩのことを早く忘れられるよう、相応しい相手を探してやってるんだから感謝しろ』ときたもんだ。そこからはもう怒りに任せて大乱闘よ」
「えっ、椎名暴れたの?」
「多勢に無勢で直ぐ取り押さえられたけどな」
 それでも、なかなか日常会話で自分を主体に『大乱闘』なんかなかなか聞かないぞ。椎名って今時の若者らしく『ちょっとタルそうな方がカッコイイ』って考え方の人間だったから、怒りに任せてとはいえアグレッシブに大乱闘する姿が想像つかない。そんなに俺に会いたかったのか。暴力行為に男らしさを感じる様なお年頃じゃないけど、熱意を感じてちょっとグッとくるな。
「そこで取り押さえられた俺を見て、調子に乗った母親が『あの野良犬にはきつく灸を据えておいたから、もう俺の目の前には姿を表さないだろう』ってゲロったんだ。どういうことだと聞いたら、あとは勝手にベラベラ喋りやがったよ。あー、あの自慢気な顔、今思い出してもムカつく」
 ああ、あの女性ならやりかねない。目に浮かぶよ。それで椎名は俺に何があったのか知っていたわけね。拳を握り、怒った顔をする椎名。まあ、憤懣やるかたないわな。ところが、椎名はスッと怒りを抑えて真顔になる。そしてどこか呆気からんとした表情で、こう言った。
「ま、そこで俺は悟ったわけだ。『このままじゃ一生織部に会えないし、今の俺には会う資格もない』って。そこで一念発起して、先ずはバイトを始めた。それから卒業後SGFに就職する予定だったのを蹴って、他の会社に就職した。実家の圧力で直ぐ辞めさせられたけどな。それでも諦めず、また他のところに就職して、首になってを繰り返して、織部のことを探す為の活動資金をちょっとずつ貯めたんだ。いやー、最後は水商売から運送業、土方までやれることは全部やったぜ。お前を探すためと思ったら、何でもやれたよ」
 えっ、あの成金クソ坊ちゃんがそんな苦労を? 嫌なこと辛いこと面倒なことは全部実家に丸投げすればいいと思ってた、甘ったれのお前が? にわかには信じ難いが、成程、言われてよく見れば椎名の印象がシャープになったのは苦労からか痩せてスリムになったからだし、指先も爪が平らで短くなって荒れている。以前のものとは違う、労働者の手だ。椎名、本当に全身全霊をかけて俺のことを探してたのか。ちょっと、ジーンとした。
「で、ある程度金が溜まったら興信所に頼んだり、自分の足で探したり、金が尽きるまで活動して、また資金集めに働く、それをエンドレスループだ。あとは知っての通り。ある日織部の幼馴染の五十嵐って名乗る人間から織部が俺に会いたがってるって連絡が来て、取るものも取らず慌ててスーツ買って身なり整えてここに来たってわけ」
 それでスーツの趣味が変わったのか。よく見ると、椎名のスーツは以前の贅沢三昧で着ていた仕立てだけはいいが柄や色の趣味が悪いオーダーメイドのスーツではなく、明らかに吊しのスーツだ。それも、上下で合わせて数千円の、安いだけが取り柄のやつ。下は足の長い椎名には丈が足りてないし、上も肩幅と身頃があってない。ある金は全部俺の捜索へと当ててしまって、それでも何とか俺に会うために体裁を整えようとしたのだろう。その姿だけででも、椎名の苦労が推し量れるというものだ。
「なんというか、すっごく苦労したんだね」
「全然。全ては織部にもう一度会うためだ。苦労だなんてとんでもない。お陰で社会経験がつめて常識を学べたし、人格も矯正できた。織部に再会する前に真人間になれて良かったよ」
 そう言って笑う椎名の顔はとても晴れやかで、苦労なんて微塵も感じさせてくれない。本当に俺と会っただけで全て報われた気になってくれているのだろう。その晴れやかな表情のまま、椎名は歌い出しそうな程軽やかな調子で言葉を続ける。
「いやぁ、それにしても今日はとてもいい日だ。織部には会えた。子供も産まれてた。こんなに嬉しいことはない。一生懸命探した甲斐があったもんだ。これで肩の荷が少し降りたぜ。明日からもまた頑張れる。それで、織部。ものは相談なんだが、慰謝料と養育費はちゃんと払うから、基との面会は許してくれないか」
「え、椎名俺と結婚してくれないの?」
「へ?」
 へ? ってなんだよ。へ? って。こっちが、へ? だわ。なんだよ、これだけ一生懸命探しておきながら、俺のことはもう愛してないってのか?
「若しかして椎名、他に好い人が」
「まさか! 俺は織部にぞっこんだし、毎日お前を探すのに忙しくてそんな暇も金もなかった! 信じてくれ!」
「じゃあなんで結婚のけの字も頭にないの? 孕ませてでも結婚したくてたまらなかった相手を、ようやく探し出したんでしょ? 普通考えない?」
「だ、だって……今の俺は定職に付かず稼ぎもないし、実家とも縁を切っちまって後ろ盾もない。世間知らずなばっかりに、織部に酷いことだって沢山した。俺と結婚したって、お前にメリットがねぇよ」
 椎名の言葉に俺は呆れて眉を顰める。世間の荒波にに揉まれて常識を身につけたと思ったら、身につけすぎてなんだかお手ごろに収まりやがって。ちょっと卑屈になり過ぎじゃないか? そんな無駄な遠慮は今は必要ないぜ。
「あのねぇ、椎名。俺は札束や権力と結婚したいんじゃなくて『椎名 頼比古』っていう1人の男と結婚がしたいの。ちょっとくらい甲斐性がないからって、それが何さ。金が欲しいのなら俺だって働くし、権力なんて欲しくもない。俺だって親に捨てられてるから、そこはお互い様だ。酷い事ったって全部俺のことが好きだからってのが原動力になってんだろ? 反省もしてるみたいだし、俺は優しいから許してやるさ。むしろ、悪いと思ってるならこれから一生かけて、全力で俺と子供を幸せにすることで償って欲しいね。これで主な問題はオールクリア。あとは気持ちの問題だけ。俺が思うに、一緒になる理由なんて、相手がこっちに惚れててこっちも相手に惚れてる、それだけで十分だよ」
「ほっ、惚れっ……!? えっ……!? はっ……!?」
「あれっ。まだ言ってなかったっけ?」
「聞いてない!!!」
 ああ、椎名。そんなに目ぇ見開いて、目ん玉落ちちゃうよ。俺が子供を産んだって聞いた時と、いい勝負の驚き具合だ。だったら、これから俺が言うことを聞いたら、もっと驚くかも。精々その綺麗な目ん玉落っことさないようにしろよ、椎名。
「前は『産まない』なんて言い張ってごめんよ。俺が間違ってた。正直言うと、怖かったんだ。なんの覚悟もなく親になることも、椎名の気持ちが分からないまま子供を作るのも、全部。でも、改めてよく考えて思ったんだ。『俺は椎名を愛せて幸せだった。その結果としてできた子供を、なかったことになんてできない』って。だから、勝手な話だけど子供を産んだ。自分の価値観や生き方を見つめ直して変えてしまう程、椎名のことを愛してた。いいや、今も愛してる。どうかこの思いが、一方通行じゃないと嬉しいな」
 俺の人生には3つの『奇跡』があった。1つ目は、五十嵐と幼馴染になれたこと。おかげで今日この日まで生きる希望がもてた。2つ目は、椎名に出逢えたこと。自分が誰かを自分の半身として愛することができることを知れた。3つ目は、基を授かったこと。前向きに自分の未来を見つめ直し幸せになろうと考える切っ掛けを持つことができた。
 どれも誰かが俺に齎してくれた奇跡だ。例え天が基に奇跡を授けてくれなかろうとも、それがなんだというのだ。その時は今度は俺が息子に『奇跡』を与えればいい。あの子が俺にくれた祝福を、今度は俺があらん限り与え続けるのだ。
 そして、俺に奇跡を与えてくれ、俺が奇跡を与え返したいと思うのはなにも基にだけではない。目の前で泣きそうな顔をして俺を見つめる、この男も同じなのだ。澄み切った思いでニッと笑いかけると、椎名はグッとなにか堪える顔になった。俺が膝の上に載せていた手を、恐る恐る優しく取られる。
「本当に、本当にいいのか?」
「何? 今更取消しはなしだよ」
「だって、俺、織部に幻滅されるようなことばっか……。いい所なんて1つも……」
「それでも俺は椎名がいいんだ。諦めてよ」
「うっ、ぐすっ、織部、愛してる。俺と……結婚、してくれるか?」
「喜んで、泣き虫な旦那様! いや、パパって言った方がいいかな?」
 椎名の目から、大粒の美しい涙がポロリと落ちた。両手は握られて塞がっているので、それをキスで優しく舐めとる。椎名がそれに、照れくさそうに笑う。あの別れ際のギスギスした空気からは考えられないやり取りだ。
 あの頃の俺達は、お互い相手しか見えていないのに、相手の本心を知るのが怖くて決して心にまでは触れようとはしなかった。2人の距離は、見つめ会える程近く、けれど触れられない程遠い微妙なものだったのだ。そのせいで、ただお互いの気持ちを自覚し『愛してる』と伝えるだけのことにとんでもなく遠回りをしてしまった。けど、それは必要な工程だったと思う。お互いに自分を見つめ直す時間と機会を得られて、俺は親になる覚悟ができたし、椎名は見違える程真っ当になった。すれ違っていたあの頃のままじゃきっと、俺達は遠からず駄目になってただろう。
 けど、もう違う。今や互いに気持ちを確かめあって、思いの丈も知ることができた。もう2人がすれ違うことはない。俺への愛のあまり、今までの生き方を捨て、途方もない努力をしてここまで辿り着いた椎名を、何より愛しく思う。暖かい気持ちを抱えながら、今度は唇に、優しい優しいキスをした。
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