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最悪だ。俺は文字通り頭を抱え、ドン底の気分で沈みこんでいた。まるで世界の終わりが来たような気分、と言い替えてもいいだろう。いや、実際それは間違いではない。俺にとってはこの世が終わったに等しいことが起こったのだから。ショックから立ち直れず、まだ先日の事件で殴られた痣が残っているカラフルな自分の腹を撫でる。
あの時の暴力が原因で、不能になっていたりしないだろうか? いや、それはない。怪我をした時椎名が俺の体を徹底的に調べさせたと言っていたし、その時目立った後遺症はなさそうだったとも言っていた。現実逃避は止めよう。俺の腹は、子供を宿す能力を失っていない。この場合で言うと、椎名の子を宿す能力を。目の前の揺るぎようのない現実に打ちのめされ、取り返しのつかない事態に呆然としていると、風呂場を片付けてくれていた椎名が寝室へと帰ってくる。
「後片付け終わった。織部、気分はどうだ?」
「最悪だよ。見りゃわかるでしょ……」
ゴムが外れてしまったと分かった後。椎名と俺は慌てて風呂場に直行し、俺の中に零れた精をできる限り掻き出して、シャワーで洗い流した。なるだけ迅速且つ徹底的にやったつもりだが、油断はできない。なんせ本当かどうかは知らないが、発情期にαとヤったΩの妊娠率は100%と言われているのだ。ちょっとのことでも油断は禁物である。今この瞬間にも、椎名の精子が俺の卵子に受精しようとしている真っ最中かもしれないのだから。
だが、いつまでもこうしているわけにはいかない。以前した五十嵐との会話を思い出す。『最悪の事態を考えて先手を打て』。五十嵐は常々そう言っていた。避妊に失敗して、もう最悪の事態は起こってしまったとも言えるが、更に最悪の事態が起こるのを防ぐべく、行動を起こすなら今だ。ダラダラと落ち込んでいる暇はない。
よし、まずは落ち着こう。背筋を伸ばし、大きく息を吸って、吐く。深呼吸すれば気持ちが落ち着くと思ったんだ。だが、これは失敗だった。換気はしたが、空気中にそれでも残っていた2人分の発情フェロモンを思いっきり吸ってしまって、クラリとしてしまったのだ。
行為は途中で止めたが、発情期はまだ終わっていない。落ち着く為に抑制剤は飲んだがでそれもまだ効き始めな上、薬で無理矢理押さえ込もうとしているからなのか、まだまだ体が疼く。俺、発情期ってこんな重かっただろうか? 前は抑制剤を飲んでれば1人でも十分耐えられるくらいだったのに。椎名と寝る度に体がよりΩらしくなっていく気がする。思考の妨げになるようなら、もう少し抑制剤を飲もう。オーバードーズになるが仕方がない。
薬どこやったっけ、と記憶を探り、そこで俺はハッとあることを思い出した。薬……? そうだ、薬だ! この世には緊急避妊薬というものがあるではないか! 避妊率は100%ではないが、それでも何もしないよりはマシだ! 早速、椎名に手配してもらおう!
「椎名! 今すぐお医者さんに電話して!」
「なんだ、やっぱり具合が良くないのか?」
「そうじゃなくて、今すぐ用意して欲しいものがあるんだ!」
煩悶する俺を隣に座って心配そうに見守っていた椎名に、緊急避妊薬のことを話す。これさえあれば、お互いの不安がいくらかは解消できる。だが、何故かこの素晴らしい思いつきに意気揚々としているのは俺ばかりで、椎名の方は釈然としない顔でモゴモゴと何か言いたげだ。緊急避妊薬は時間との勝負なのに、手配しようとする気配もない。
「椎名、どうしたの? 早く薬手配しないと」
「あー、その事なんだが。……産んでもらうわけにはいかないか?」
「へっ?」
産む? 産むって……。俺が、椎名の子を?
そんなこと、考えもしなかった。てっきり俺は、椎名は俺の妊娠を望んでいないとばかり思っていたのに。でも、違うのか? まだどうともなっていないぺたんこの腹に手を当てる。膨らみも、胎動も、その存在を知らせるものは1つもない。でも、このまま何もしなければ、この場所にはほぼ確実に2人の血を分けた命が宿ることになる。子供を産んで、自分の家族を作る夢。Ωとして出来損ないなばっかりに、叶わぬものだとばかり思っていた。俺は、それを望んでもいいのか?
胸の奥からフワン、とした幸せが顔を覗かせた。甘い予感で胸をトキメかせてから、はっと現実に引き戻される。待て待て、落ち着け自分。自分の家族ができるという素晴らしい未来予想図に惑わされかけたが、現実はそう甘くはない。家族とは何も俺と産まれてくる子供だけで完成するわけではないのだ。そこには父親の存在だってあるし、現実的に生きていくには金もかかる。産んではい終わり、ハッピーエンド、なんてことにはならないのだ。
「椎名……それは無理だよ。妊娠中や出産後落ち着くまでのことを考えると、残念だけど、俺の稼ぎと蓄えじゃ子供を産み育てられない」
「それなら、俺も協力する。大学ももうすぐ卒業だし、俺が働き出したらお前は家でゆっくり子育てに集中してくれればいい。俺の就職先なら行く行くは俺達2人と子供くらい余裕で食べていけるくらいの給料は貰える筈だ。それまでの蓄えも十分にある。俺に父親としての義務を果たさせてくれ」
「いや、その父親としての義務を果たさなくてもいいように、緊急避妊薬を飲もうって言ってんの。椎名さぁ、自分の立場を考えようよ。有名な会社の経営者一族の1人なら、当然結婚とかもそれに見合った相手としなきゃならなくなるよね? 相手に『俺は学生時代にウッカリ作った子供がいるけど気にしないでくれ』とでも言うつもり? 子供のことだってそうだ。婚外子なら色んな制約がある。同居だって難しい。本邸から別邸まで子供の所に通うわけ? まさか子供だけでも同居させるとか言わないよね? そんなの、あんまりにもバカげてる!」
「分かった。じゃあ、俺は織部と結婚する。それで父親として織部と同居して、子供を育てる」
なんてこった。バカもここまでくるとお手上げだ。椎名は自分が何を言っているのか理解できていないに違いない。子供を作るってのはそう簡単な事じゃないんだ。色々な制約だってあるし、時には自分以外の家族にも迷惑がかかる。そんな二つ返事でホイホイ決めていい事じゃない。まだ学生で社会に出てない椎名には分からない苦労が沢山あるんだ。
それに、『じゃあ』ってなんだよ『じゃあ』って。椎名は子供を手元で育てる為、消去法で仕方がないから俺と結婚するんだ? セフレに子供ができるだろうって予想だけで? それだけで、ただの遊びの相手と籍を入れるのか? お願いだからもう少し物事を深く考えてくれ!
「ふざけたこと言わないで。ちゃんと真剣に考えてよ。あのね、椎名。セフレとのセックスで避妊に失敗したからって、いちいち責任取ろうとしなくていいの。薬飲めばそれで済む話なんだから、話をややこしくしないでよ」
「でも、薬だって完璧じゃないんだろ? だったら、最初から産んだ方が」
「だから、どうしてそっちに話を持っていきたがるかなぁ? ……あんま言いたかないけど、妊娠しちゃっても後からどうにかする方法はいくらでもあるでしょ」
「……織部は、俺との子を産みたくないのか」
「……」
そんなわけない。俺だって椎名との子を産みたいよ。男の子でも、女の子でも、きっと凄く可愛い。この腕に抱いてみたいし、傍で成長を見守れたら、どんなに幸せか。でも、駄目だ。椎名と俺の関係は、ただのセフレでしかない。そんな関係の両親の間に子供を作ってどうするんだ。
俺は『生まれて来なければよかった』と思ってしまう様な暗い人生を知っている。それがどんなに辛く苦しく寂しいものなのかも。暖かい家庭を知らない俺には、自分の子供にこんな複雑な家庭環境で、そう思わせない様に育ててあげられる自信がない。万一子供が将来、自分はセフレだった両親の間に避妊に失敗してできた存在だと知ったらどうする? 俺はその子に自分は生まれてきてよかったと、心から思わせてあげられないかもしれないのだ。不幸になる可能性が高いと分かっていて、子供を産むような勇気は俺にはなかった。
「そういうことじゃなくて、俺は今常識の話をしているんだよ」
「常識って、なんだよ。愛し合った結果できた子供を堕ろすのが、織部の常識なのか?」
『愛し合った結果』? はっ、よく言うよ。言葉のあやだろうが、これだけは許せない。俺と椎名がいつ『愛し合った』っていうんだ。椎名はいつも生でヤれるかヤれないかとか、自分の装飾品として俺を連れ回したりだとか、そういうことしか考えてないじゃないか。セックスだって元はと言えば脅していうことをきかせてしているものだ。こんな関係のどこに愛があるっていうんだよ!
そんな安っぽい間に合わせの言葉なんかじゃなくて、俺は椎名の本当の気持ちが欲しかった。そして、都合よく言うことを聞くΩでもなく、性欲発散の為の穴でもない、1人の『織部 理』という人間として自分を見てもらいたかったんだ。
椎名のフェロモンを嗅いでいるだけで気持ちが安らぐし、笑顔を見れば胸が暖かくなった。無邪気なところや年相応に子供っぽい所なんかに、だんだん惹かれている自分がいるのも分かっている。今だって若しかすると椎名の子供が自分のお腹にできたかもしれないという喜びで、叫びだしそうなのに。
こんな気持ちが湧き起こる根源たる感情の名前を、俺は1つしか知らない。ああ、そうか。俺、椎名の事が……。
ポロリ、と涙が頬を伝った。咄嗟に手で拭うが、涙は次から次へと溢れて止まってくれない。歯を食いしばり、鼻を啜り上げる。なんて最悪な気持ちの自覚の仕方なんだろう。
俺は椎名のセフレだ。恋人ではない。せめて2人の間に愛があったのなら、何もかも違っていただろう。でも、それはもしもの話。俺達の間にあるのは脅しから始まった性的な関係だけで、あとは何も無い。そんな2人の間に子どもを作って何になる。
いつか椎名が俺に飽きた時、俺はきちんと自分の手元に残されたその子を愛してあげられるのか、椎名の身代わりにその子に執着し過ぎて人生を滅茶苦茶にしてしまわないだろうか、自分を捨てた椎名への怒りを理不尽に八つ当たりしてしまわないだろうか。そうならない自信はない。今回避妊に失敗したのは完全に俺の落ち度だが、後先考えず、無責任に産んでくれとしか言わない椎名が頼りにならない今、俺だけがこの腹に授かったかもしれない子供のことを唯一真剣に考えてやれる人間だった。
「俺は産みたくない。だから、結婚もしない。椎名がなんと言おうとも、この決意は揺らがない。それと、今回のことに限らず、俺は椎名との間には絶対に子供は作らないよ」
「……それが、お前の出した答えなのか」
「ああ、そうだ」
涙でぼやける視界で、それでも椎名を真っ直ぐ見つめる。椎名は不思議な程凪いだ表情をしていた。重苦しい沈黙が2人の間を流れる。先に動いたのは椎名だった。突然スクッと立ち上がり、静かに部屋を出ていく。諦めたのだろうか? そのまま薬の手配でもしてくれたらいいのだが。
椎名が目の前に居なくなったことで緊張の糸が切れ、一気にどっと疲れが押し寄せてきた。発情を途中で無理矢理中断させられた体も辛い。精神的にも肉体的にも限界だった。ちょうどここにはベッドがある。暫く横になって休んでいても、バチは当たらないだろう。ヨロヨロと掛け布団の下に潜り込み、俺は気を失うように眠りについた。
ユラユラと意識が浮上して、パカリと目が覚める。やはり薬を飲みすぎたのか、頭が痛い。体も重くて、あまり休んだ気がしなかった。眠りについたのはまだ明るい時間だったのに、窓の外はもう薄暮の空だ。どれほど眠っていたのだろう。音はしないが、椎名はいないのか? なんだか言い知れぬ不安のようなものを感じて、俺はベッドから降りた。
「椎名……?」
声をかけながら、リビングのドアを開ける。リビングは静まり返っていて、誰もいなかった。同じように次々と他の部屋、トイレや風呂場まで探すが、椎名の姿はどこにもない。出かけたのだろうか? どうしたものかと玄関からリビングまで直通で、様々な部屋への出入りのドアがある廊下に立ちすくみ、思案する。
椎名の姿はどこにもない。薬を用意してくれた様子もなかった。まさか、怒って出ていって、粘り勝ちを狙っているのだろうか。いや、そんな子供っぽい真似する筈が……あるわ。椎名ならやりかねない。ああ、畜生! そうだよ、椎名はそういう奴だよ!
しょうがない、こうなったら自分1人で病院に行こう。避妊に失敗したΩが病院に行くのはよくある話だ。本当は『椎名の子を孕んだかもしれない』という可能性を捨てたくないが、背に腹は変えられない。苦しさにキュッと唇を噛み締め、腹を撫でる。いるかどうかもしれない我が子のためにここまで心が苦しくなるなんて、予想もしてなかった。未練を断ち切るかの様に、玄関へと1歩を踏み出す。
この家に連れてこられてから、ベランダ以外まともに外に出ていないが、俺もいい大人だ。どうにでもできる。俺の家の鍵が下駄箱の上に椎名の手によって置かれている筈だから、1度家に戻って費用や入院なんかの準備をしてから病院に行こう。そして靴を履き、ドアノブに手をかけようとした、その時。俺はあることに気がついた。
なんだ、これ? 扉によくわからない金具がついている。それも1個や2個じゃない。スペースの許す限り、所狭しとあらん限りにだ。不審に思いつつも今はそれどころじゃないと内鍵を開けドアノブに手をかける。が、扉はビクともしない。えっ、なんで。ガチャガチャと揺すってみても駄目だ。鍵を開けたはずなのに、扉は完全にロックされている。
心当たりといえば突如扉に出現した金具の数々。まさかこれ、後付けの鍵か? どういう事だと蹴飛ばすように靴を脱ぎ、部屋の中にとって返す。焦って手がかりを探す途中、リビングの机の上に、先程は椎名を探すのに夢中で気が付かなかったメモ書きが置いてあるのに気が付いた。瞬時にメモ書きを取り上げ、読み始める。
『何日か出かけてくる
その間お前が逃げ出さないよう、鍵をかけておいた
あれは俺しか開けられないようになってるから、無駄な努力はするなよ
水も食料もたっぷりあるし、電気も通ってるから心配しなくていい
いつも通り過ごしてくれ
子供は絶対産んでもらう
結婚もする
帰ってきたらまた話し合おう』
「あの野郎、やりやがった……!」
一瞬でも椎名を信じた俺が馬鹿だった。椎名は俺の話なんか聞く気がない。何がなんでも自分の意思を押し通すつもりだ。今にして思えば扉の鍵は、扉付近の工事をすると俺に嘘をついて取り付けたのだろう。それから考えるに椎名は、俺がここを出ていくと言い出した時にはもう、俺を閉じこめることを計画していたのかもしれない。まったく、なんて奴だ! 苛立ちに任せメモ書きをビリビリに破り放り捨てる。
五十嵐の言う通りだった。俺は、できるうちにもっと賢く立ち回って対策をしておくべきだったのだ。マンションの上階でベランダから出る足掛かりはなし、窓は基本はめ殺し、部屋の唯一の出入口には開けられない鍵。今となっては全て先手を打たれてしまって、もう何もできることがない。ただ、この部屋で椎名の帰りを待つことだけ。それだけが、今の俺に許されたことだ。傍らの椅子にヨロヨロと座り込み、俺は本日二度目のドン底の気分を味わった。
あの時の暴力が原因で、不能になっていたりしないだろうか? いや、それはない。怪我をした時椎名が俺の体を徹底的に調べさせたと言っていたし、その時目立った後遺症はなさそうだったとも言っていた。現実逃避は止めよう。俺の腹は、子供を宿す能力を失っていない。この場合で言うと、椎名の子を宿す能力を。目の前の揺るぎようのない現実に打ちのめされ、取り返しのつかない事態に呆然としていると、風呂場を片付けてくれていた椎名が寝室へと帰ってくる。
「後片付け終わった。織部、気分はどうだ?」
「最悪だよ。見りゃわかるでしょ……」
ゴムが外れてしまったと分かった後。椎名と俺は慌てて風呂場に直行し、俺の中に零れた精をできる限り掻き出して、シャワーで洗い流した。なるだけ迅速且つ徹底的にやったつもりだが、油断はできない。なんせ本当かどうかは知らないが、発情期にαとヤったΩの妊娠率は100%と言われているのだ。ちょっとのことでも油断は禁物である。今この瞬間にも、椎名の精子が俺の卵子に受精しようとしている真っ最中かもしれないのだから。
だが、いつまでもこうしているわけにはいかない。以前した五十嵐との会話を思い出す。『最悪の事態を考えて先手を打て』。五十嵐は常々そう言っていた。避妊に失敗して、もう最悪の事態は起こってしまったとも言えるが、更に最悪の事態が起こるのを防ぐべく、行動を起こすなら今だ。ダラダラと落ち込んでいる暇はない。
よし、まずは落ち着こう。背筋を伸ばし、大きく息を吸って、吐く。深呼吸すれば気持ちが落ち着くと思ったんだ。だが、これは失敗だった。換気はしたが、空気中にそれでも残っていた2人分の発情フェロモンを思いっきり吸ってしまって、クラリとしてしまったのだ。
行為は途中で止めたが、発情期はまだ終わっていない。落ち着く為に抑制剤は飲んだがでそれもまだ効き始めな上、薬で無理矢理押さえ込もうとしているからなのか、まだまだ体が疼く。俺、発情期ってこんな重かっただろうか? 前は抑制剤を飲んでれば1人でも十分耐えられるくらいだったのに。椎名と寝る度に体がよりΩらしくなっていく気がする。思考の妨げになるようなら、もう少し抑制剤を飲もう。オーバードーズになるが仕方がない。
薬どこやったっけ、と記憶を探り、そこで俺はハッとあることを思い出した。薬……? そうだ、薬だ! この世には緊急避妊薬というものがあるではないか! 避妊率は100%ではないが、それでも何もしないよりはマシだ! 早速、椎名に手配してもらおう!
「椎名! 今すぐお医者さんに電話して!」
「なんだ、やっぱり具合が良くないのか?」
「そうじゃなくて、今すぐ用意して欲しいものがあるんだ!」
煩悶する俺を隣に座って心配そうに見守っていた椎名に、緊急避妊薬のことを話す。これさえあれば、お互いの不安がいくらかは解消できる。だが、何故かこの素晴らしい思いつきに意気揚々としているのは俺ばかりで、椎名の方は釈然としない顔でモゴモゴと何か言いたげだ。緊急避妊薬は時間との勝負なのに、手配しようとする気配もない。
「椎名、どうしたの? 早く薬手配しないと」
「あー、その事なんだが。……産んでもらうわけにはいかないか?」
「へっ?」
産む? 産むって……。俺が、椎名の子を?
そんなこと、考えもしなかった。てっきり俺は、椎名は俺の妊娠を望んでいないとばかり思っていたのに。でも、違うのか? まだどうともなっていないぺたんこの腹に手を当てる。膨らみも、胎動も、その存在を知らせるものは1つもない。でも、このまま何もしなければ、この場所にはほぼ確実に2人の血を分けた命が宿ることになる。子供を産んで、自分の家族を作る夢。Ωとして出来損ないなばっかりに、叶わぬものだとばかり思っていた。俺は、それを望んでもいいのか?
胸の奥からフワン、とした幸せが顔を覗かせた。甘い予感で胸をトキメかせてから、はっと現実に引き戻される。待て待て、落ち着け自分。自分の家族ができるという素晴らしい未来予想図に惑わされかけたが、現実はそう甘くはない。家族とは何も俺と産まれてくる子供だけで完成するわけではないのだ。そこには父親の存在だってあるし、現実的に生きていくには金もかかる。産んではい終わり、ハッピーエンド、なんてことにはならないのだ。
「椎名……それは無理だよ。妊娠中や出産後落ち着くまでのことを考えると、残念だけど、俺の稼ぎと蓄えじゃ子供を産み育てられない」
「それなら、俺も協力する。大学ももうすぐ卒業だし、俺が働き出したらお前は家でゆっくり子育てに集中してくれればいい。俺の就職先なら行く行くは俺達2人と子供くらい余裕で食べていけるくらいの給料は貰える筈だ。それまでの蓄えも十分にある。俺に父親としての義務を果たさせてくれ」
「いや、その父親としての義務を果たさなくてもいいように、緊急避妊薬を飲もうって言ってんの。椎名さぁ、自分の立場を考えようよ。有名な会社の経営者一族の1人なら、当然結婚とかもそれに見合った相手としなきゃならなくなるよね? 相手に『俺は学生時代にウッカリ作った子供がいるけど気にしないでくれ』とでも言うつもり? 子供のことだってそうだ。婚外子なら色んな制約がある。同居だって難しい。本邸から別邸まで子供の所に通うわけ? まさか子供だけでも同居させるとか言わないよね? そんなの、あんまりにもバカげてる!」
「分かった。じゃあ、俺は織部と結婚する。それで父親として織部と同居して、子供を育てる」
なんてこった。バカもここまでくるとお手上げだ。椎名は自分が何を言っているのか理解できていないに違いない。子供を作るってのはそう簡単な事じゃないんだ。色々な制約だってあるし、時には自分以外の家族にも迷惑がかかる。そんな二つ返事でホイホイ決めていい事じゃない。まだ学生で社会に出てない椎名には分からない苦労が沢山あるんだ。
それに、『じゃあ』ってなんだよ『じゃあ』って。椎名は子供を手元で育てる為、消去法で仕方がないから俺と結婚するんだ? セフレに子供ができるだろうって予想だけで? それだけで、ただの遊びの相手と籍を入れるのか? お願いだからもう少し物事を深く考えてくれ!
「ふざけたこと言わないで。ちゃんと真剣に考えてよ。あのね、椎名。セフレとのセックスで避妊に失敗したからって、いちいち責任取ろうとしなくていいの。薬飲めばそれで済む話なんだから、話をややこしくしないでよ」
「でも、薬だって完璧じゃないんだろ? だったら、最初から産んだ方が」
「だから、どうしてそっちに話を持っていきたがるかなぁ? ……あんま言いたかないけど、妊娠しちゃっても後からどうにかする方法はいくらでもあるでしょ」
「……織部は、俺との子を産みたくないのか」
「……」
そんなわけない。俺だって椎名との子を産みたいよ。男の子でも、女の子でも、きっと凄く可愛い。この腕に抱いてみたいし、傍で成長を見守れたら、どんなに幸せか。でも、駄目だ。椎名と俺の関係は、ただのセフレでしかない。そんな関係の両親の間に子供を作ってどうするんだ。
俺は『生まれて来なければよかった』と思ってしまう様な暗い人生を知っている。それがどんなに辛く苦しく寂しいものなのかも。暖かい家庭を知らない俺には、自分の子供にこんな複雑な家庭環境で、そう思わせない様に育ててあげられる自信がない。万一子供が将来、自分はセフレだった両親の間に避妊に失敗してできた存在だと知ったらどうする? 俺はその子に自分は生まれてきてよかったと、心から思わせてあげられないかもしれないのだ。不幸になる可能性が高いと分かっていて、子供を産むような勇気は俺にはなかった。
「そういうことじゃなくて、俺は今常識の話をしているんだよ」
「常識って、なんだよ。愛し合った結果できた子供を堕ろすのが、織部の常識なのか?」
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そんな安っぽい間に合わせの言葉なんかじゃなくて、俺は椎名の本当の気持ちが欲しかった。そして、都合よく言うことを聞くΩでもなく、性欲発散の為の穴でもない、1人の『織部 理』という人間として自分を見てもらいたかったんだ。
椎名のフェロモンを嗅いでいるだけで気持ちが安らぐし、笑顔を見れば胸が暖かくなった。無邪気なところや年相応に子供っぽい所なんかに、だんだん惹かれている自分がいるのも分かっている。今だって若しかすると椎名の子供が自分のお腹にできたかもしれないという喜びで、叫びだしそうなのに。
こんな気持ちが湧き起こる根源たる感情の名前を、俺は1つしか知らない。ああ、そうか。俺、椎名の事が……。
ポロリ、と涙が頬を伝った。咄嗟に手で拭うが、涙は次から次へと溢れて止まってくれない。歯を食いしばり、鼻を啜り上げる。なんて最悪な気持ちの自覚の仕方なんだろう。
俺は椎名のセフレだ。恋人ではない。せめて2人の間に愛があったのなら、何もかも違っていただろう。でも、それはもしもの話。俺達の間にあるのは脅しから始まった性的な関係だけで、あとは何も無い。そんな2人の間に子どもを作って何になる。
いつか椎名が俺に飽きた時、俺はきちんと自分の手元に残されたその子を愛してあげられるのか、椎名の身代わりにその子に執着し過ぎて人生を滅茶苦茶にしてしまわないだろうか、自分を捨てた椎名への怒りを理不尽に八つ当たりしてしまわないだろうか。そうならない自信はない。今回避妊に失敗したのは完全に俺の落ち度だが、後先考えず、無責任に産んでくれとしか言わない椎名が頼りにならない今、俺だけがこの腹に授かったかもしれない子供のことを唯一真剣に考えてやれる人間だった。
「俺は産みたくない。だから、結婚もしない。椎名がなんと言おうとも、この決意は揺らがない。それと、今回のことに限らず、俺は椎名との間には絶対に子供は作らないよ」
「……それが、お前の出した答えなのか」
「ああ、そうだ」
涙でぼやける視界で、それでも椎名を真っ直ぐ見つめる。椎名は不思議な程凪いだ表情をしていた。重苦しい沈黙が2人の間を流れる。先に動いたのは椎名だった。突然スクッと立ち上がり、静かに部屋を出ていく。諦めたのだろうか? そのまま薬の手配でもしてくれたらいいのだが。
椎名が目の前に居なくなったことで緊張の糸が切れ、一気にどっと疲れが押し寄せてきた。発情を途中で無理矢理中断させられた体も辛い。精神的にも肉体的にも限界だった。ちょうどここにはベッドがある。暫く横になって休んでいても、バチは当たらないだろう。ヨロヨロと掛け布団の下に潜り込み、俺は気を失うように眠りについた。
ユラユラと意識が浮上して、パカリと目が覚める。やはり薬を飲みすぎたのか、頭が痛い。体も重くて、あまり休んだ気がしなかった。眠りについたのはまだ明るい時間だったのに、窓の外はもう薄暮の空だ。どれほど眠っていたのだろう。音はしないが、椎名はいないのか? なんだか言い知れぬ不安のようなものを感じて、俺はベッドから降りた。
「椎名……?」
声をかけながら、リビングのドアを開ける。リビングは静まり返っていて、誰もいなかった。同じように次々と他の部屋、トイレや風呂場まで探すが、椎名の姿はどこにもない。出かけたのだろうか? どうしたものかと玄関からリビングまで直通で、様々な部屋への出入りのドアがある廊下に立ちすくみ、思案する。
椎名の姿はどこにもない。薬を用意してくれた様子もなかった。まさか、怒って出ていって、粘り勝ちを狙っているのだろうか。いや、そんな子供っぽい真似する筈が……あるわ。椎名ならやりかねない。ああ、畜生! そうだよ、椎名はそういう奴だよ!
しょうがない、こうなったら自分1人で病院に行こう。避妊に失敗したΩが病院に行くのはよくある話だ。本当は『椎名の子を孕んだかもしれない』という可能性を捨てたくないが、背に腹は変えられない。苦しさにキュッと唇を噛み締め、腹を撫でる。いるかどうかもしれない我が子のためにここまで心が苦しくなるなんて、予想もしてなかった。未練を断ち切るかの様に、玄関へと1歩を踏み出す。
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なんだ、これ? 扉によくわからない金具がついている。それも1個や2個じゃない。スペースの許す限り、所狭しとあらん限りにだ。不審に思いつつも今はそれどころじゃないと内鍵を開けドアノブに手をかける。が、扉はビクともしない。えっ、なんで。ガチャガチャと揺すってみても駄目だ。鍵を開けたはずなのに、扉は完全にロックされている。
心当たりといえば突如扉に出現した金具の数々。まさかこれ、後付けの鍵か? どういう事だと蹴飛ばすように靴を脱ぎ、部屋の中にとって返す。焦って手がかりを探す途中、リビングの机の上に、先程は椎名を探すのに夢中で気が付かなかったメモ書きが置いてあるのに気が付いた。瞬時にメモ書きを取り上げ、読み始める。
『何日か出かけてくる
その間お前が逃げ出さないよう、鍵をかけておいた
あれは俺しか開けられないようになってるから、無駄な努力はするなよ
水も食料もたっぷりあるし、電気も通ってるから心配しなくていい
いつも通り過ごしてくれ
子供は絶対産んでもらう
結婚もする
帰ってきたらまた話し合おう』
「あの野郎、やりやがった……!」
一瞬でも椎名を信じた俺が馬鹿だった。椎名は俺の話なんか聞く気がない。何がなんでも自分の意思を押し通すつもりだ。今にして思えば扉の鍵は、扉付近の工事をすると俺に嘘をついて取り付けたのだろう。それから考えるに椎名は、俺がここを出ていくと言い出した時にはもう、俺を閉じこめることを計画していたのかもしれない。まったく、なんて奴だ! 苛立ちに任せメモ書きをビリビリに破り放り捨てる。
五十嵐の言う通りだった。俺は、できるうちにもっと賢く立ち回って対策をしておくべきだったのだ。マンションの上階でベランダから出る足掛かりはなし、窓は基本はめ殺し、部屋の唯一の出入口には開けられない鍵。今となっては全て先手を打たれてしまって、もう何もできることがない。ただ、この部屋で椎名の帰りを待つことだけ。それだけが、今の俺に許されたことだ。傍らの椅子にヨロヨロと座り込み、俺は本日二度目のドン底の気分を味わった。
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【続篇完結】第四皇子のつがい婚―年下皇子は白百合の香に惑う―
熾月あおい
BL
嶌国の第四皇子・朱燎琉(α)は、貴族の令嬢との婚約を前に、とんでもない事故を起こしてしまう。発情して我を失くし、国府に勤める官吏・郭瓔偲(Ω)を無理矢理つがいにしてしまったのだ。
その後、Ωの地位向上政策を掲げる父皇帝から命じられたのは、郭瓔偲との婚姻だった。
納得いかないながらも瓔偲に会いに行った燎琉は、そこで、凛とした空気を纏う、うつくしい官吏に引き合わされる。漂うのは、甘く高貴な白百合の香り――……それが燎琉のつがい、瓔偲だった。
戸惑いながらも瓔偲を殿舎に迎えた燎琉だったが、瓔偲の口から思ってもみなかったことを聞かされることになる。
「私たちがつがってしまったのは、もしかすると、皇太子位に絡んだ陰謀かもしれない。誰かの陰謀だとわかれば、婚約解消を皇帝に願い出ることもできるのではないか」
ふたりは調査を開始するが、ともに過ごすうちに燎琉は次第に瓔偲に惹かれていって――……?
※「*」のついた話はR指定です、ご注意ください。
※第11回BL小説大賞エントリー中。応援いただけると嬉しいです!
薬師は語る、その・・・
香野ジャスミン
BL
微かに香る薬草の匂い、息が乱れ、体の奥が熱くなる。人は死が近づくとこのようになるのだと、頭のどこかで理解しそのまま、身体の力は抜け、もう、なにもできなくなっていました。
目を閉じ、かすかに聞こえる兄の声、母の声、
そして多くの民の怒号。
最後に映るものが美しいものであったなら、最後に聞こえるものが、心を動かす音ならば・・・
私の人生は幸せだったのかもしれません。※「ムーンライトノベルズ」で公開中
【完結】婚活オメガはNTRれアルファと結ばれる
爺誤
BL
オメガの権利が保障されたオリアン国で、庶民出のテディ・バーリは三年目の官僚として働いていた。そろそろ結婚したいと思っても、ほかのオメガのように容姿端麗ではないし、出会い方がわからない。そんな日々から憧れていた近衛騎士と下町の食堂で偶然居合わせたり、王太子殿下(オメガ)の婚約者(アルファ)と急接近したり、唐突な出会いの連発についていけない!?
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