大人の恋愛の始め方

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【第1部】5.誕生日

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***

「ミヅキ、ちょっといい?」
 先輩ホステスがテーブルに来て、耳打ちをした。
「あの、ちょっと失礼します」
「ええ、どうぞ」
 聡子は立ち上がり、彼女の後を付いていった。
「影山様がお見えらしいわ」
「トモさ……影山様が?」
 聡子は驚き、入口を見たが、トモの姿はない。
 先輩ホステスもそちらを見やり、
「帰られたみたいだけど……」
 姿がないことを確認してそう伝えた。
「ありがとうございます。あの、少しだけ川村様のお相手をお願いできないでしょうか?」
「うん、いいよ」
「ちょっと影山様に声をかけてきます」
 入口でママとボーイにも同じことを伝える。
「ちょっと不機嫌そうになってたな。怒らせるなよ」
 ボーイの佳祐が言う。
(怒らせるな、なんて……そんなひどいことしたりしないよ……)
 聡子は外に出た。
(どうしよう、せっかくトモさんが来て下さったのに……)
 どっちかな、とトモがいつも帰っていく方向に駆け出す。外はいつの間にか雨が降っていた。
 傘を差して行く人たち、駆け足で行き過ぎる人たち、軒下で雨宿りをする人たち……。トモがいないか目を凝らす。
(いた!)
 濡れるのも構わず歩いて行く男性、あれはトモだ。
「あの! 帰られるんですか!」
 ヒールのある靴で走った。トモの近くまで行き、声をあげる。
 彼が聡子に気づき、驚いた顔で立ち止まった。
「なっ……! 何してる、おまえは接客中なんだろ」
 雨が降ることを気にしてか、トモは聡子の腕をひいて近くの店の軒下に移った。
「ちょっと抜けてきました。トモさんが来られたって聞いて。あの、帰っちゃうんですか……」
「知らない別のホステスに相手してもらってもしょうがねえし、帰るんだよ」
「それって……」
(わたしがいいってこと……?)
 聡子の胸が高鳴る。
 嬉しい、そんな気持ちが溢れそうだ。
「じゃあな」
「待って下さい!」
「なんだよ」
「ちょっと待って下さい、替わってもらいます! せっかく来て下さったんですから」
「馬鹿、そんなことするな。中途半端で投げ出したら、相手に失礼だろ。……俺以外の客に指名されるようになったんだろ。指名料も入るし、よかったじゃねえか」
「……でもわたしは見習いで、トモさんだけ特別に指名を受けていいって言われてて」
「でも今日は指名されて受けたんだろ」
「そうですけど……」
 どう言ったらいいのかと俯いた途端、
「またな」
 トモはその場を立ち去ろうとした。
(えっ)
 トモはすたすたと帰っていく。
 聡子は再び追いかけ、袖を掴んだ。
「待って……待って下さい……」
 トモは振り返り、睨むように聡子を見下ろした。
 聡子はトモを見上げ、無言で見つめる。
「あのっ……今日は……諦めます。でも、また、来てくれませんか……」
「…………」
「またな、って……今おっしゃいましたよね。だから……」
 トモの正面に回り、聡子は両腕を掴む。トモにじっと見下ろされ、かっと身体が熱くなっていくのがわかった。
「次、また来て下さるって、思って、いいですか」
 言葉を紡ぐのが苦しい。胸がドキドキする。いつものように強気に茶化すように言えばいいのに言えない。
 頬に手を添えられ、身体をびくりと震わせた。
「客の相手してんだろ。早く戻れ。仕事を投げ出すな」
 と腕を振りほどいて背を向けた。
「また……来てほしい……んです……。トモさんに会いたいから……」
 トモの背中に向かって呟いた。 
「くしゅん」
 ふいにくしゃみをしてしまう。考えてみれば、こんな冬の雨の夜に肩を出した格好で走ってきたのだ。何も着ずに、間抜けとしか言い様がない。
 涙が零れた。
(トモさんが来てくれたのに……来てくれるのを楽しみにしていたのに……)
 トモは振り向いた。
 ばさりと上半身に何かがかけられた。トモのジャケットがかけられたのだとわかる。顔をあげると、白いシャツ一枚のトモがこちらを見下ろしていた。
「あの……これ……」
「そんな薄いカッコで出てきたら風邪ひくだろ、バカ野郎が」
「だって、慌てていて……」
「慌てて追いかけるような相手でもないだろうが」
「そんな……」
 慌てて追いかけないといけない人だもん、とぼそりと言ってしまったが、それがトモに聞こえたのかどうかはわからない。
(いつ会えるかわからないし、ここでしか会えないんだもん……)
「それ着てろ」
「そんな。ト……影山様のほうが……」
 名前を呼びそうになり、思いとどまる。トモさん、と言ってしまったらこみ上げてくる思いまで溢れてしまいそうな気がしたのだ。
「トモでいい」
「え……」
「それ、次に……店に行った時に返してくれたらいい」
「あの……」
「それまで預かっといてくれ」
「それって……また」
「ああ、行くよ。そんな顔されちゃ、行かないわけにはいかねえだろ」
 雨と涙に濡れた聡子の頬を、トモが右手の親指で拭った。
(!)
 心臓の音がうるさい。
「また泣いたのか」
「泣いてません」
「相変わらず気が強いな」
「ほっといて下さいっ」
 トモは苦笑している。
「……あの、ほんとに、また来て下さいますか」
「ああ。今日は先客がいたから諦めるだけだ。また行くよ、約束する」
「よかった……」
「だから今度はおまえが約束、守れよ」
 ふいにトモが身体を曲げ、顔を近づけてきた。
「!」
 唇が近づき、触れそうな距離で止まった。
「悪い」
 慌てたように体勢を戻し、手で口元を覆っている。
「え」
(これって……き、キスしようとしてた!?)
「おまえは他の女とは違うな」
 頭をぽんぽんと撫で、離れた。
「じゃあな」
 呆然としてしまった。
 至近距離にトモの顔があった。
(ほかの女とは違うな、ってどういうこと? ほかの人には……別れ際にキスしてるってことなのかな)
 そんなことを考えているうちに、トモの姿は見えなくなってしまった。
(トモさん……)
 聡子はなんだか嬉しくなった。
(よかった、また来てくれる……)
 トモの匂いのするジャケットを身に纏い、踵を返した。

 店に戻り、接客を再開した。
(あの時のトモさん……どうしてわたしの頬に触れたのかな……ほかにも色々トモさんのこと訊いてみたかったのにな)
 特定の人は作らないって言ってた。
 まだまだ知りたいことがあるのに。
「お待たせしてすみませんでした」
 聡子はしれっとテーブルについた。
「ミヅキ」を指名した川村光輝が何か話していたが、聡子は上の空だった。
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