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第4章 菖蒲と紫陽花

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島原の置屋の門を叩いた。

まだ日も昇りきっていない頃だったから、木戸から初老の女性が顔を出す。

土方に言われた通り、花君太夫の名前を出すと中に案内されキシキシと歪む階段を上った。


花君太夫どす、と頭を下げた女性はとても可憐で美しかった。

「土方はんから話は聞いとおやす。」

花君の鳥のさえずりのような美しい声に聞き入ってしまう。

薫は背筋を伸ばして、畳に擦り付けるように頭を下げた。

「し、東雲薫と申します!未熟者ですが、ご教授、ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします!」

傍にいる禿達がヒソヒソと袖の後ろで何やら話をしているようであったが、頭を下げたままの薫にはわからない。

「頭を上げておくれやす。」

静かに頭を上げると無邪気にほほ笑む花君太夫の姿があった。

「そんなに心配せえへんでも、取って食べたりしまへんえ。」

「あ、はい!」

禿達はとうとう堪えきれずに声を上げて笑い出した。

「ほな、名前を決めまひょか。」


東雲薫、という名前以外を名乗ったことがないから、いい名前など思いつくはずもなく。

こういう時は源氏物語や昔から使われている名前を踏襲するのが一番ではあるらしいのだが。

あいにく、源氏物語は授業で教わった花散里くらいしか知らないし、
これまでお茶屋遊びはこの前の一回だけだからよくある名前も知らない。

冷汗が背中を伝う。


「は、花散里とかどうでしょう。」

「あら、ええね。花散る、は縁起が悪いさかい、うちの一文字を取って花里はどうやろ。」

「はなさと。…素敵です。」

「ほんなら、決まりや。」


それからこの島原での決まり事や所作について花君太夫、否花君さん姐さんにレクチャーしてもらった。

覚えることの多いことと言ったらたまったものではない。

会社の新人研修も中々大変だったことを思い出すけれど、
一日でも早くお座敷に上がるためには詰め込み修行を受けるのは必須である。

山南からもらった紙と筆の入った矢立が日の目を浴びるときがようやく来たようだ。

ミミズのような文字で花君太夫の教えを必死に書き留めていく。

「ここまでよろしおすか。」

「はい。」

「花君、一番肝心なのは言葉や。京の言葉を身につけな、お座敷には上げられへんよ。」

「へ、へえ!」


私が長州藩の動向を探るべく座敷に上がる前に、
長州藩の方が先に動きを見せるのではないかと心配になる薫であった。


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