女官になるはずだった妃

夜空 筒

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第一章

第八話

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◇◇◇





一室でものすごい音を立てて、暴れていた女がいた。
衫裙を振り乱し、結わえられていた髪もボロボロで、床には陶器の破片や花が散らばっていた。
化粧を施されていたであろう顔には、憎悪と憤怒がありありと浮かんでいた。

侍女たちは遠くからそれを見て、泣きそうな顔をしている。
甲高い怒声に、物が悲しいほど無残に壊されていくその光景は後宮の華々しさには程遠く、また逸していた。

肩で息をする彼女は莉淙宮の主で、海沄はいゆんの妃である蘇彪霞そひゅうか
その過激な性格を上手く隠し、海沄に取り入ろうと奮闘する強かな女人。
入内をしたその時から、海沄に心を囚われてしまった哀れな修羅。
皇后の座に一歩も近付けたことがない彼女は、藍洙を厭い憎んでいた。

藍洙に対する数々の嫌がらせは、すべて彼女の仕業。

だが、今日その口から呪詛のように呟かれた名前は


「仙詩涵しーはん…!女狐が…!!」


蘇家とは比べ物にならない家柄の女。

侍女にも他の妃にも、馬鹿にされる本の虫。通称 紙魚姫。
ただ一人、藍洙らんずだけは我関せずを貫いている。
その余裕もまた気に食わないが、陛下の傍に侍るようになったあの女の方が憎くてたまらない。

これまで何度も、褥を断られたのに…!
なぜ、三月もほったらかしていた女と褥を共にしたのか…!

矜持ばかりが高い蘇家に違わず、彼女もまた皇后というものに執着している。
だからこそ、皇后に近しくなる者全てが憎いのだ。

邪魔だ、後宮にいるすべての妃が。


「あぁ…後宮に居られないようにしてしまいましょう」


艶然と微笑んだ彼女は、やはり見目だけは美しかった。


侍女たちに片付けるように言付けて、彼女は海沄を迎える準備を始めた。

先ほどとは一転して、恋い慕う女人の顔つきに変わる。






***






雅鹿殿の庭を抜けて、甘い香りが風に乗って運ばれてくる。
後ろをついて来ているであろう弦沙は、もうずっと気配を消している。
気を利かせているのかもしれない。


「あなたは、桃が好きか?」
「果物の中では、二番目くらいでしょうか」
「一番は?」
茘枝れいしを好んで食べますね」
「そろそろ季節だな、今度送ろう」
「あら、それなら何かお返ししなくては。陛下は何がお好きですか?」
「俺は、苹果へいかが好きだ」


さくさくと草を踏みしめる。
歩くのが遅いと言ったくせに、彼は歩幅を合わせてくれている。
さっきのように手を引けば済んでしまうことなのに。


「季節が過ぎてしまってますね…花はそろそろ咲く頃ですけれど」
「あぁ、だからお返しはその時でいい」


ふふん、と笑った彼に目を瞬かせる。


「…おい、なんだその顔」
「いえ、ふふ…。冬が楽しみだなと思いまして」
「嘘を吐くな、嘘を」
「誤魔化されてくださいよ。ただ、それまで陛下といるのかぁーと思っただけです」
「おい、どういう意味だ」


言及されては敵わないと、話題をすり替える。
恨みがましい視線を貰っているがやがて、仕方ないなと笑って花が咲く。


「あなたには振り回されてばかりだ」
「…そうでしょうか」
「まぁ、それも悪くない。あなたといる時が楽しいから」


それは心からの言葉だった。
気を許した顔で、あまりにも嬉しそうに笑うから、少しだけグッときてしまう。


無防備な美丈夫の笑顔は、可愛いということが分かった。
そして心臓によろしくない。





◇◇◇






「まさか、大家があんなに娘娘を好いていたとは…見ていて照れちゃいますね」
「他人事ね」
「いや他人ですし、第三者ですし」


そう言われて、それもそうかと思った。
当事者の護衛は、第三者。他人事。


「顔に出やすいなら弦沙も相当よね」
「うわ、なんか火の粉が飛んできてる気がします。よからぬことを言いそうで、これ以上口を開かせたくないです」
「曲がりなりにも主人に、なんてことを」
「主人を思ってこそ、変なことを言わせたくありません」


後宮に帰って来たはいいものの、弦沙がわざわざあんなことを言って他の妃の侍女を刺激しようとするから、こっちも応戦しただけなのに。

自分の宮に着くころには、弦沙はすっかりおしゃべりになっていて侍女たちに聞かれるがまま話をしていた。


それをほっそい目で見つめる。
(怨)念を送り付けているのだ。

室に戻って、凌梁りょうりゃんにお茶を入れてもらう。
未だに少し騒がしい庭を見て、はぁとため息を吐く。


「ずっと着飾られる羽目になりそう…読書もあまりできなくなるし、ゆっくり怠けることも難しそう」
「それが普通なのでは?娘娘の今までが、おかしかったのかと」
「凌梁、今夜も陛下が来るの。何しに来ると思う?」
「また本を読んでもらうのでは?」
「正解、でももう半分あるの」


分からないというように首を傾げて、茶を淹れた杯を渡してくれる。
こく、と一口飲んでから


「…寝に来るって」
「え!」
「驚きよね。しかも他の妃の宮に行った後よ?これって、後宮では当たり前なの?私が他の妃に嫌われる一方よね」
「…娘娘を気に入られたのなら、それは僥倖。他の妃には出来なかった大義です。誇るべきことですよ」
「皇后になるためにやっているわけじゃないのよ。むしろその責を負いたくないし」
「そのようなことを仰るのも娘娘だけです」
「そう、こんな型破りで奇怪な女に安心を求めるのよ。それだけ疲れているの…だから、少し力になりたいだけなのよ私は」



凌梁はそう言って、笑った主の顔に、計り知れない温もりと優しさがあることに気付いた。
母、とはまた違うそんな優しさ。
確かに娘娘の傍は居心地がいい。
ずっと傍にいたら、荒れ果てた心すらも凪ぐような気さえする。

なのに、娘娘はいつも遠くを見ている。
それがたまに悲しさを覚えさせることも確かだ。

振り回される、という言葉にひどく納得する。
娘娘は何もしていないのだ。特別なことは何もしない。
だからその特別が欲しくなってしまったり、気を惹きたくもなるのだ。
だって一向にこっちを見てくれないから、いつもどこか遠くを見て、いなくなることしか考えていないから。



大家は、なんて人を好きになってしまったのだろう。
少しだけ同情する。


「私は大家を応援します。娘娘は、流されてしまえばいいんです」
「え、そんな!陛下の味方につくなんて!」


不憫でならない大家に、侍女一行は応援します!と手を組んだ。
娘娘には申し訳ないが、真っすぐな大家の思いが報われることを祈るのだった。
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