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第二章 人外の思い

開幕

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 そんなフィンランドと交渉が決裂する二ヶ月前、一九三九年九月一日。
 独ソ不可侵条約が結ばれて僅か一週間と一日で、第二次世界大戦が始まった。
 最初の射程に入ったのはどの国だったかな。ソ連もソ連で血の気が多いったらありゃしないよね。

 その三ヶ月後、十一月三十日。
 僕らは岩の覆い尽くす洞窟の中で訓練を受けていた。
 騎乗の訓練こそないものの、僕も軍の仲間入りはしている為、他のメンバーと同じ訓練を受けている。
 シモナは毎回褒めてくれて、僕も僕で嬉しくてしょうがなかった。

 そんなシモナを見ていると、頭の中で思い出す人物がいる。
『あの景色の男性』だ。
 僕とシモナがコッラーを挟んでソ連軍を全滅させた時、突如思い出したあの時の光景にいた男性。
 僕を姫だなんて言葉で呼んでいたのはともかく、あの日以来、僕はその男性のことが頭から離れなかった。
 僕の、大事な人だったんじゃないか? 僕が見捨てた、大事な『相棒』だったんじゃないか?

「っわ……! シモナ、大丈夫かい!?」

 そんな考えの最中、シモナの転倒により現実に引き戻される。

「……大丈夫、ちょっとな」
「らしくないなシモナ、お前が転ぶなんて……」
「あはは……すまんな」
「気をつけてね……ここら辺結構障害物多いからさ」
「あぁ、分かっているさ」

 シモナの動きが鈍い。そう感じていた。
 いつもなら俊敏に動くシモナだが、この時は何処か考え事をしながら受けていたようだ。
 ここ最近、いつもそうだ。
 条約が結ばれた日の夜、カール元帥の推薦で戦場におもむくことになったシモナ。
 その日からずっとだ。ものにぶつかることも多いし(普段もだけど)、何処か辛そうな表情を浮かべる光景を目にすることが多発してきたのだ。

「……シモナ、訓練終わったら、話したいことがあるんだけど」
「お前が直々に来るなんて珍しいな……」
「ちょっとね」

 僕はそうとだけ言っておく。
「?」と頭にはてなが浮かぶような表情をしていたシモナは直ぐに元の真面目な顔に戻り、再び歩き出した。

『ツツリよ。シモナ応答願う。どうぞ』

 狩猟の時にも聞いていた、無線のしゃがれた声。
 こう見えて僕は耳がいい。だから、シモナの耳につけている無線の音も聞き取れる。
 下手すれば一キロ先の音だって聞こえる耳を持っているんだから、無線の音が聞こえてもおかしくは無いはずだ。

「はい、何か……。どうぞ」

 声の主はツツリだった。
 彼女もまたいい成績を収めていて、それでいてコルトアの恋人なのだ。
 そりゃあもう……ほんといい恋人だと思うよ、僕は……。

『ソ連が動き出したって、さっきカール元帥からの連絡があったの。そっちは何か異常は無い? どうぞ』

 異常……と言われても、特には無さそうだ。
 あちこちに硬い岩が突き出ていて、下は水。
 それに、今いる洞窟は縦幅が二メートルも無くて、僕は元の姿に戻ることが出来ない。
 環境は最悪と言っても過言ではないだろう。もしこんなところで襲撃されたら、僕らが危ない。

「……ツツリ、今はどこにいる? どうぞ」

『今は見つけた小さな小屋の中で待機中。どうぞ』

「了解。ツツリはそのまま待機。後で合流しよう。どうぞ」

『分かったわ』

 バツンッと無線が切れる音が聞こえた。
 そっか、小屋の中か……。
 ……そういえばここら辺って、僕らがよく狩猟に出ていた地域の一つだったような……。

「……シモナ、なんて?」
「敵兵(ソ連)に動きありだと。ツツリは見つけた小屋の中で待機しているように言っておいた」
「そうか……」
「……逢いたいのか?」
「馬鹿言え、訓練中だぞ? 流石にそんなこと出来ねぇって」
「お前が死んだらどうするんだよ?」

 直球すぎるシモナの質問に、慣れたようにコルトアは唾を吐き出し、口を開く。

「想像しただけでも反吐が出るね。俺は生き抜いてみせるさ。こんな残酷な世界は、俺たちで何とかしなきゃいけない。……シモナこそ、親がいるだろ? 会いたくないのか?」
「出る時に『忘れてくれても構わないから』なんて言ってきたからなぁ。合わせる顔がない」
「心配してるだろうな、シモナの親。帰ったら泣いて抱きしめてやれよ?」
「泣いた時に犬になっちまう。そんなのお断りだね」

 そんなシモナたちの会話を聞きながら、僕は細々とした洞窟の明かりを目で追う。
 さわさわ、と風が吹いている。その洞窟風は、もうすぐ出口という事を表していた。

「……ん?」

 ふと、コルトアがなにか見つけたようで、歩いていた道を後ろ歩きで戻り始めた。

「おい、見てみろよ」

 シモナと一緒に視線を送る。
 そこには、ほのかな洞窟の明かりで輝く水色の鉱石があった。

「……鉱石だ」
「綺麗ー!」
「流石の俺もこんな綺麗な鉱石見たことないぞ……!」

 と、地面に突き刺さりかけている小さな鉱石の一つを、コルトアは取ってマガジン入れに放り込む。

「……どうするつもりだ?」
「合流した時にツツリにあげるんだ。あいつ、水色好きだろ?」
「……なるほど」

 立ち上がり、また正面を向く。
 光が見えた。もう出口のようだ。
 道のりは大体一キロ程度。何百メートルと走ったりしている彼女たちに比べれば、一キロなど疲れる余地もない。

 ……でも僕はこの時点で嫌な予感がしたんだ。
 さっき、耳が聞こえる範囲が一キロ先でも聞こえるって言っていただろう?
 妙に潜めている息遣いが聞こえたんだ。
 それが仲間ならいいさ。
 だけど違う。フィンランドの民兵軍は皆、ネックウォーマーやマフラーを欠かさない。
 大体の場合、息遣いは『はぁ』と、篭ったような息を吐くんだ。

「……二人とも、この先には行かない方がいいと思う」
「?」
「どういうことだガルアット?」
「息の吐き方が違うんだ。だから──」

 話をしている最中、僕の視界がコンマ秒で下に傾いた。

「……ほえ?」
「シモナ、その足……!!」

 ものの数分前。
 シモナが転んだ時に足を撃たれていたのだ。
 ……いや、のだ。
 サイレンサーか何かで銃声を消していたんだ。
 ということは、だ。

「挟み撃ち……?」

 水を跳ね除け、駆け回る音が僕の耳に聞こえてきた。
 僕らの声量は比較的小さかった。普通であれば気づかないはず。

 

「どこだ……撃ってきたのは」
「行かない方がいいよコルトア、今はこの中のどこかに待機している方が……」

 って、話を聞いてよコルトア君!?
 言い終わる前にコルトアが先に行ってしまったのだ。
 もちろんシモナも、手を伸ばして止めようとしたさ。

「おい! ダメだ、行くな!」

 ───けどその手は空を切った。


 瞬間、コルトアの身体は左に揺らいだ。
 僕の予想通りだった。
 全てがスローモーションに見えた。
 彼が倒れるまでの、その瞬間的な出来事が。

「っ────!!!!」

 撃たれた。

 そう確信したのもつかの間、目を見開いて呆然としていたシモナがすぐに銃を構え、目の前に見えたソ連兵の頭目掛けて引き金を引く姿が見えた。
 その間、およそ一秒も無かっただろう。ソ連軍人はヘッドショットを間近で決められ、脳が弾け飛んだソ連兵は後ろに仰け反り倒れた。
 手に銃を握っていたお陰で殺されなくて済んだが、もし今の出来事が無ければ、僕ら二人の命はなかったのかも知れない。
 とても、幸運であった。

「コルトア……! コルトア!!」

 足を引きずりながらコルトアに近づき、彼を背負って片足で立ち上がる。

「敵は!」
「いないよ!」
「……戻るぞ、変化して」
「うん……!!」

 ここは戦場。
 敵がいないとはいえ、日本語で話していては怪しまれる。
 僕もシモナも、それは分かっていた。

「出来るだけ早く! 急げ!!」
「了解!」

 二人が背中に乗ったことを確認して、僕は足を進める。
 出来るだけ早く、できる限りの速度で走った。

「……ていけ」
「は!?」
「置いていけ……お荷物だ」
「出来るかそんなこと!!」
「いいから置いていけよ──」
「出来ないっつってんだろうが!!!」

 珍しくシモナが大声をあげる。
 白に染まった雪道に足を蹴りだし走りながら、僕はシモナたちの会話を聞いていた。

「お前だけは絶対に死なせない! ツツリが不安の中待機してるんだ!! 合流させて生かさなきゃ、俺はお前らの結婚式に足すら運べないんだよ!!!」
「シモナ……」

 拠点が見えた。早く運んで衛生兵に診てもらわなきゃ……!!
 こちらに気づいた衛生兵の一人が慌てて駆け寄ってくる。

「ガルアット兵長!! シモ兵長に、コルトア中尉まで……!!」
「搬送要請だ、コルトアを早く!!」
「了解しました!!」

 ツツリの安否が心配だ。
 シモナにここで待っているように言い、僕は再び走って雪の中を疾走した。

 小屋、とツツリは言っていた。
 見慣れた景色で、聞きなれた無線のしゃがれた音。

 ……なら、あそこに違いない。
 足を早める速度が上がっていっているのを、僕は無意識に感じていた。




 ─────こうして、冬戦争の開幕の合図はとてもわかりやすく、そして酷く最悪な光景となった。
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