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序章3
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帰宅し、怪我の手当を受けた。足を骨折していた。両親から柿の木に登ったのだから自業自得だと叱られてしまった。特に母からは耳にたこができるほど言われているおきまりのお説教を受けた。
「後先考えずに行動するから、こういうことになるのよ。衝動的に行動するのはいいかげん卒業なさい。もうすぐ十八になるんだから」
返す言葉もない。自分のだめなところを改めて自覚して、すっかり落ち込んでしまった。
翌日、父が渋柿をとってきてくれた。幸い手は骨折していなかったから、どうにか渋柿作りを終えられた。
神様は、軒先に吊された干し柿を不思議そうに眺めていた。
母が、「渋柿は干すと甘くなるんですよ。娘は神様に干し柿を食べてもらいたくて、木にのぼったのでしょう」と説明すると、静かに震えていた。泣いてはいないようだったけれど、変な震え方だった。
神様は、あれ以降、たまにお散歩するようになった。
でも、小さな子どもに怖がられたり、犬に吠えられたりすると、慌てて家に駆け戻ってきて、部屋の隅で震えながら数日は泣いている。とはいえ、外出ができるようにはなったのだ。よく頑張ってえらいと思った。神様相手に失礼な感想だけれど。
外に出るときは、常に私がお供した。出発前、玄関で突起物を伸ばしてこられるので、手をつなぐみたいに握ってさしあげてから、戸を開けて、外に出た。
大人たちは、神様を見ても、あまり反応を示さなくなった。
「ことしの神様のことはもう諦めるしかねえなあ」
「不幸を運ばないだけ感謝しないといけないのかもしれないね」
「もうすぐ冬が来るし、梅が咲いたら、お別れだからさ」
「喜びごとは、また来年だな」
村長は、梅雨のころからずっと原因究明に努めているそうだ。
「神産みの箱に問題があるのかもしれませんな」
しかし、 紅飛斗長としての超常の力で調査してみても、何も異常は見つからなかったらしい。
「異常なのではなくて、ことしは、きっと、そういう年なのでしょう」
毎年実をつける橙の木が、花すらつけない年がある。それでも枯れるわけじゃないのだから、来年にはきっと咲くさ。今年はそういう年なのだ。
村長も村人も、そう結論づけて、頷き合うのだった。
朝晩は冷える日がふえてきたので、火鉢を出した。
ある早朝のこと、私が火鉢で木くずを燃やし、その火の明かりで爪を切っていたら、神様が音を聞きつけてやってきた。
「爪を切っているのですね」
一目瞭然のことを尋ねてくる。最近、神様は特に用もないのに話しかけてくることがふえていた。それに私が家事をしていると手伝いたがるし、なんだか小さな子どもみたいで可愛いなと思う。
「はい、足の爪を切っています。たまに深爪してしまいます」
「深爪?」
「はい。爪をたくさん切りすぎて、痛くなるのです。あまりひどいと血が出ます」
「血が……」
神様はぶるりと身を震わせた。
「あの、神様はもしかして血がお嫌いですか」
「いいえ」
神様はさらに大きく震えた。
「いいえ、いいえ。だから、とてもおそろしいのです」
神様は自室である広間に引っ込んでしまった。心配になって見にいったら、きりきりと音を立てて泣いていた。
その夜、私は村長の家を訪ねた。
「村長さん、私、気になることがあるんです。どうしても教えていただきたいのです」
村長宅の大広間に通された私は、板の間に手を突いて、頭を下げた。
「まあ、そう畏まらなくてもよろしいですよ。それで、何を知りたいのですかね」
「血についてなんです。神産みの箱に血を捧げると、よくないことが起こりますか」
私は、自分が捧げた爪に血がついていたかもしれないと思い当たり、気が気ではなかった。私のせいで神様があの姿になってしまったのだとしたら……。申し訳なくて、どうおわびしたらいいかわからない。
「血ですか。神産みの箱に血を捧げる……」
村長はあごを撫でながら唸った。
「別に問題はないですよ」
「えっ、そうなんですか」
拍子抜けだ。血のせいでほとんど間違いないと思ったのに。
「昔は血を捧げることも結構あったようです。桜が咲いたら、私の血を飲ませてさしあげましょう、そんな古の歌も残っているぐらいですからね」
「そうなんですね……」
村長はにっこり笑った。
「次回の神産みでは、血を捧げるのもいいかもしれませんね。力は血肉に宿るものですから。血を捧げた年は、良い神様が産まれるという言い伝えもあります。ああ、ひょっとしたら神産みの箱は貧血なのかもしれませんなあ」
「貧血って、なんだか人間みたいですね」
「いや、これは冗談じゃなくて本気の話ですよ。だって、ここ数十年は血を捧げる村人なんかいませんでしたからね。髪や爪ばかりだし、神産みの箱は栄養不足になっているのかもしれませんな。あるいは……」
村長は急にまじめな顔になった。
「肉を食いたいのかもしれませんね、あの箱は」
もしかして。
胸騒ぎにも似た予感があった。
私は翌朝、神様のところに黒紀酒《くろきさけ》を持っていった。
神様はまだ壁に向かってきりきりと泣いていたが、お酒を差し出すと、ゆっくりと振り返った。
「神様、どうかこのお酒を飲んで元気を出してください」
盃にむかって突起物が伸びて、そっと取り上げると、小さな口に当てて、一気に飲んだ。
「ああ……」
妙に艶っぽい声だった。
「ああ……これは……これ、は、何ですか。私に、何を飲ませた、のですか」
神様は全身の突起を伸ばして、うごめかせた。
「血です、私の……。黒紀酒に混ぜました」
私は腕に残る一筋の傷跡を見せた。いまもまだ少し血がにじんでいる。
「ああ……」
悲痛な声。
「ああ、なんということを、ああ……」
頭のてっぺんから大量の水滴がこぼれ落ちる。
「神様、私思ったんです。きっと血が、あるいは肉が足りないから、神様はいままでの神様とちょっと違った見た目になってしまったんだって。力は血肉に宿るのだとか。ならば、血で力を補えばきっと……」
神様は体を曲げて震えている。私の言葉が聞こえているのかどうかもわからない。
「神様……?」
「それを一度口にしてしまったら、もう……。ずっと我慢していたのに、梅の花が咲くまでの辛抱だと思っていたのに……」
私はこの泣いてばかりの神様が、優しい心の神様が、少しでも幸せになってほしいと、そんな気持ちで。だから、それがどんな結末を引きおこすのかなんて、ちっとも考えてなくて。
神様は突起物を私に伸ばしてきた。縛るように両腕に絡みつき、引っ張られる。
「欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい……」
めりめりと木が裂けるような音とともに、私はぶよぶよに包まれた。
耳をつんざく轟音。まるで滝の中にいるかのよう。それは神様の絶叫だった。肉体の叫びではなく、心の中の叫びだ。
「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ……」
再び轟音がとどろく。
悲しみと欲望に引き裂かれそうになっている神様の気持ちが伝わってくる。私を喰らってしまいたいという欲望と、そんな欲望を抱くことへの悲しみが染みこんでくる。私を大事に思ってくれている心が、その想いの強さが、まっすぐに私に流れこんでくる。
どうして気持ちが伝わるのだろうかと考えて、いま私が神様に食べられている最中だからだと瞬時に理解した。二人の境目が消失しようとしているのだ。
神産みの箱が髪や爪を吸うように、神様は私の命を吸い込んでいく。その一方で、私のほうには神様の心が流れ込んでくる。一体化する。
私の全部が神様に食べられてしまったら、死ぬんじゃなくて神様の一部になるのかもしれない。それならきっと怖くはないのだろう。
私を食べて、力をつけたら、神様は自分の望む姿になれるのだろうか。なれたらいいな。神様の心の奥底まで覗くことができた今、本当にそう想う。
「欲しい欲しい、可愛いあの子が欲しくてたまらない」
「嫌だ嫌だ、可愛いあの子を失いたくない」
鳴いている。深く強く鳴いている。でも耳はもう聞こえないから、ちっともうるさくはない。
鳴き叫びながら神様は家を飛び出した。行く先はわかっている。村広場の神産みの箱。
箱に還るんですね、神様。
まだ梅は咲かないけれど。
ああ、そんなことしなくていいのに。私のために死ななくてもいいのに。幸せになってほしかっただけなのに。
神様はとぷん、と音を立てて、緑の箱に飛び込んだ。このまま二人一緒に消えるのだ。
そう覚悟を決めた。
しかし、私だけが突き飛ばされるような衝撃を受けて、広場の地面に倒れ込んだ。
箱を見上げたら、神様が箱の中でゆっくりと溶けていくのが見えた。箱からはみ出している突起物も、とろけるように収縮して、箱の中におさまろうとしている。
「神様!」
私は神産みの箱に手を突っ込もうとしたが、硬い表面は私を通さなかった。ただ、腕の傷跡から零れた血液だけが、箱にすっと吸い込まれていった。
箱は神様を全て食べ終えて、何事もなかったかのように静かに冬の日差しを反射していた。
その夜。
私は村長から 紅飛斗長命令として謹慎を言いつけられた。村のまとめ役としての村長命令より、村を夜魔から守り、祭事をとりしきる紅飛斗長命令のほうがずっと重く、深刻だ。
あの神様は死んでしまったとのことだった。
箱から産まれた神様は、箱に戻ることでみずから死んだのだ。私を食べて消化してしまう前に、自分を消したのだ。
やっぱり優しい神様だった。だからこそ、私はおのれの罪深さにおののく。なんてことをしてしまったのか。私のせいで神様の死期が早まってしまった。冬いっぱいは生きられたはずなのに。
紅飛斗の副長である父は、私を叱るのではなく、幼い子どもに言い聞かせるように語った。箱に血を飲ませるのならともかく、神様に血を飲ませるのは、しきたりで禁じられている。どんな凶事となるかわかったものではないからだ。ことしの神様は良き選択をしてくれたから助かったようなものだ。殺されていても文句は言えなかった。神様に感謝して、これからは絶対に神様には血も肉も捧げず、しきたりを学びなさい。おまえも将来は紅飛斗のお役目につくのだから。
はい、わかりましたと私は答えた。心から。ひとりよがりな考えで浅はかなことをしでかすなどもう二度としないと誓った。
謹慎が解けないまま梅が咲き、桜が咲いた。
ずっと自宅から出られなかったけれど、神産みの箱に体の一部を捧げることだけは許されたので、私はことしも爪を持っていった。
血はどうしようか迷った。捧げても良いとは言われているが、私に捧げる資格があるかどうかわからない。でも、少しでも償いになればと思い、私はその場で指先を噛んで、流れる血を捧げた。紅飛斗長は何も言わなかった。本当なら命を捧げて贖罪としたかったところだけれど、私を箱は拒んだ。やっぱり人間は生きたままでは入ることができない。
爪と血を箱に食わせたら、すぐに屋敷に連れ戻された。
春が終わり、梅雨となった。
そろそろ次の神様が産まれたことだろう。今度の神様が良い神様であれば、私の謹慎も解けるに違いない。でも、それで前の神様が帰ってくるわけじゃない。私は一生罪を抱えて生きていく。あの優しい神様を殺した罪を。心はずっと晴れないままだった。
梅の実が大きく膨らむ時期となった。しかし、謹慎解除の指示が出ない。
もしや、またもや変わった神様が産まれてしまったのだろうか。前の神様が箱に戻るという前代未聞の出来事があったから、その影響で悪いことがあったのかもしれない……。
ひとり部屋にこもって考えていたら、悪いことばかり想像してしまう。
だから、父がその青年を家に連れてかえってきたときは、きっと旅人か何かだろうと思ったのだ。
ただ、普通の旅人というには、立派な身なりで、たくましい体つきだった。何よりその顔立ちがあまりにも美しいのが気にかかった。この人は誰だろうか。
「あの、失礼ですが、どちらさまでしょうか」
青年はやわらかく微笑んだ。
「わかりませんか」
「は、はい、済みません……」
誰だろう。幼い頃に会ったことがある遠い親戚だろうか。私と同い年ぐらいに見えるけれど。
「箱に血を捧げていただいたから、今度はちゃんと産まれてくることができました。そのおかげで外見も随分と変わったようです。もちろん変わったのは見た目だけではありません。私は力を得て、強い神となりました。もう泣いたりしませんし、きっとあなたを守ってみせます」
驚いて固まる私に、青年は目を細めた。
「ことしもお世話になります。そうそう、私の名前ですけれど、辰といいます。昨年は名乗っていませんでしたよね。あなたのお名前は……やっぱり昨年は教えてもらっていませんでしたね。今年こそ教えてくれますか、私の可愛い人」
「後先考えずに行動するから、こういうことになるのよ。衝動的に行動するのはいいかげん卒業なさい。もうすぐ十八になるんだから」
返す言葉もない。自分のだめなところを改めて自覚して、すっかり落ち込んでしまった。
翌日、父が渋柿をとってきてくれた。幸い手は骨折していなかったから、どうにか渋柿作りを終えられた。
神様は、軒先に吊された干し柿を不思議そうに眺めていた。
母が、「渋柿は干すと甘くなるんですよ。娘は神様に干し柿を食べてもらいたくて、木にのぼったのでしょう」と説明すると、静かに震えていた。泣いてはいないようだったけれど、変な震え方だった。
神様は、あれ以降、たまにお散歩するようになった。
でも、小さな子どもに怖がられたり、犬に吠えられたりすると、慌てて家に駆け戻ってきて、部屋の隅で震えながら数日は泣いている。とはいえ、外出ができるようにはなったのだ。よく頑張ってえらいと思った。神様相手に失礼な感想だけれど。
外に出るときは、常に私がお供した。出発前、玄関で突起物を伸ばしてこられるので、手をつなぐみたいに握ってさしあげてから、戸を開けて、外に出た。
大人たちは、神様を見ても、あまり反応を示さなくなった。
「ことしの神様のことはもう諦めるしかねえなあ」
「不幸を運ばないだけ感謝しないといけないのかもしれないね」
「もうすぐ冬が来るし、梅が咲いたら、お別れだからさ」
「喜びごとは、また来年だな」
村長は、梅雨のころからずっと原因究明に努めているそうだ。
「神産みの箱に問題があるのかもしれませんな」
しかし、 紅飛斗長としての超常の力で調査してみても、何も異常は見つからなかったらしい。
「異常なのではなくて、ことしは、きっと、そういう年なのでしょう」
毎年実をつける橙の木が、花すらつけない年がある。それでも枯れるわけじゃないのだから、来年にはきっと咲くさ。今年はそういう年なのだ。
村長も村人も、そう結論づけて、頷き合うのだった。
朝晩は冷える日がふえてきたので、火鉢を出した。
ある早朝のこと、私が火鉢で木くずを燃やし、その火の明かりで爪を切っていたら、神様が音を聞きつけてやってきた。
「爪を切っているのですね」
一目瞭然のことを尋ねてくる。最近、神様は特に用もないのに話しかけてくることがふえていた。それに私が家事をしていると手伝いたがるし、なんだか小さな子どもみたいで可愛いなと思う。
「はい、足の爪を切っています。たまに深爪してしまいます」
「深爪?」
「はい。爪をたくさん切りすぎて、痛くなるのです。あまりひどいと血が出ます」
「血が……」
神様はぶるりと身を震わせた。
「あの、神様はもしかして血がお嫌いですか」
「いいえ」
神様はさらに大きく震えた。
「いいえ、いいえ。だから、とてもおそろしいのです」
神様は自室である広間に引っ込んでしまった。心配になって見にいったら、きりきりと音を立てて泣いていた。
その夜、私は村長の家を訪ねた。
「村長さん、私、気になることがあるんです。どうしても教えていただきたいのです」
村長宅の大広間に通された私は、板の間に手を突いて、頭を下げた。
「まあ、そう畏まらなくてもよろしいですよ。それで、何を知りたいのですかね」
「血についてなんです。神産みの箱に血を捧げると、よくないことが起こりますか」
私は、自分が捧げた爪に血がついていたかもしれないと思い当たり、気が気ではなかった。私のせいで神様があの姿になってしまったのだとしたら……。申し訳なくて、どうおわびしたらいいかわからない。
「血ですか。神産みの箱に血を捧げる……」
村長はあごを撫でながら唸った。
「別に問題はないですよ」
「えっ、そうなんですか」
拍子抜けだ。血のせいでほとんど間違いないと思ったのに。
「昔は血を捧げることも結構あったようです。桜が咲いたら、私の血を飲ませてさしあげましょう、そんな古の歌も残っているぐらいですからね」
「そうなんですね……」
村長はにっこり笑った。
「次回の神産みでは、血を捧げるのもいいかもしれませんね。力は血肉に宿るものですから。血を捧げた年は、良い神様が産まれるという言い伝えもあります。ああ、ひょっとしたら神産みの箱は貧血なのかもしれませんなあ」
「貧血って、なんだか人間みたいですね」
「いや、これは冗談じゃなくて本気の話ですよ。だって、ここ数十年は血を捧げる村人なんかいませんでしたからね。髪や爪ばかりだし、神産みの箱は栄養不足になっているのかもしれませんな。あるいは……」
村長は急にまじめな顔になった。
「肉を食いたいのかもしれませんね、あの箱は」
もしかして。
胸騒ぎにも似た予感があった。
私は翌朝、神様のところに黒紀酒《くろきさけ》を持っていった。
神様はまだ壁に向かってきりきりと泣いていたが、お酒を差し出すと、ゆっくりと振り返った。
「神様、どうかこのお酒を飲んで元気を出してください」
盃にむかって突起物が伸びて、そっと取り上げると、小さな口に当てて、一気に飲んだ。
「ああ……」
妙に艶っぽい声だった。
「ああ……これは……これ、は、何ですか。私に、何を飲ませた、のですか」
神様は全身の突起を伸ばして、うごめかせた。
「血です、私の……。黒紀酒に混ぜました」
私は腕に残る一筋の傷跡を見せた。いまもまだ少し血がにじんでいる。
「ああ……」
悲痛な声。
「ああ、なんということを、ああ……」
頭のてっぺんから大量の水滴がこぼれ落ちる。
「神様、私思ったんです。きっと血が、あるいは肉が足りないから、神様はいままでの神様とちょっと違った見た目になってしまったんだって。力は血肉に宿るのだとか。ならば、血で力を補えばきっと……」
神様は体を曲げて震えている。私の言葉が聞こえているのかどうかもわからない。
「神様……?」
「それを一度口にしてしまったら、もう……。ずっと我慢していたのに、梅の花が咲くまでの辛抱だと思っていたのに……」
私はこの泣いてばかりの神様が、優しい心の神様が、少しでも幸せになってほしいと、そんな気持ちで。だから、それがどんな結末を引きおこすのかなんて、ちっとも考えてなくて。
神様は突起物を私に伸ばしてきた。縛るように両腕に絡みつき、引っ張られる。
「欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい……」
めりめりと木が裂けるような音とともに、私はぶよぶよに包まれた。
耳をつんざく轟音。まるで滝の中にいるかのよう。それは神様の絶叫だった。肉体の叫びではなく、心の中の叫びだ。
「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ……」
再び轟音がとどろく。
悲しみと欲望に引き裂かれそうになっている神様の気持ちが伝わってくる。私を喰らってしまいたいという欲望と、そんな欲望を抱くことへの悲しみが染みこんでくる。私を大事に思ってくれている心が、その想いの強さが、まっすぐに私に流れこんでくる。
どうして気持ちが伝わるのだろうかと考えて、いま私が神様に食べられている最中だからだと瞬時に理解した。二人の境目が消失しようとしているのだ。
神産みの箱が髪や爪を吸うように、神様は私の命を吸い込んでいく。その一方で、私のほうには神様の心が流れ込んでくる。一体化する。
私の全部が神様に食べられてしまったら、死ぬんじゃなくて神様の一部になるのかもしれない。それならきっと怖くはないのだろう。
私を食べて、力をつけたら、神様は自分の望む姿になれるのだろうか。なれたらいいな。神様の心の奥底まで覗くことができた今、本当にそう想う。
「欲しい欲しい、可愛いあの子が欲しくてたまらない」
「嫌だ嫌だ、可愛いあの子を失いたくない」
鳴いている。深く強く鳴いている。でも耳はもう聞こえないから、ちっともうるさくはない。
鳴き叫びながら神様は家を飛び出した。行く先はわかっている。村広場の神産みの箱。
箱に還るんですね、神様。
まだ梅は咲かないけれど。
ああ、そんなことしなくていいのに。私のために死ななくてもいいのに。幸せになってほしかっただけなのに。
神様はとぷん、と音を立てて、緑の箱に飛び込んだ。このまま二人一緒に消えるのだ。
そう覚悟を決めた。
しかし、私だけが突き飛ばされるような衝撃を受けて、広場の地面に倒れ込んだ。
箱を見上げたら、神様が箱の中でゆっくりと溶けていくのが見えた。箱からはみ出している突起物も、とろけるように収縮して、箱の中におさまろうとしている。
「神様!」
私は神産みの箱に手を突っ込もうとしたが、硬い表面は私を通さなかった。ただ、腕の傷跡から零れた血液だけが、箱にすっと吸い込まれていった。
箱は神様を全て食べ終えて、何事もなかったかのように静かに冬の日差しを反射していた。
その夜。
私は村長から 紅飛斗長命令として謹慎を言いつけられた。村のまとめ役としての村長命令より、村を夜魔から守り、祭事をとりしきる紅飛斗長命令のほうがずっと重く、深刻だ。
あの神様は死んでしまったとのことだった。
箱から産まれた神様は、箱に戻ることでみずから死んだのだ。私を食べて消化してしまう前に、自分を消したのだ。
やっぱり優しい神様だった。だからこそ、私はおのれの罪深さにおののく。なんてことをしてしまったのか。私のせいで神様の死期が早まってしまった。冬いっぱいは生きられたはずなのに。
紅飛斗の副長である父は、私を叱るのではなく、幼い子どもに言い聞かせるように語った。箱に血を飲ませるのならともかく、神様に血を飲ませるのは、しきたりで禁じられている。どんな凶事となるかわかったものではないからだ。ことしの神様は良き選択をしてくれたから助かったようなものだ。殺されていても文句は言えなかった。神様に感謝して、これからは絶対に神様には血も肉も捧げず、しきたりを学びなさい。おまえも将来は紅飛斗のお役目につくのだから。
はい、わかりましたと私は答えた。心から。ひとりよがりな考えで浅はかなことをしでかすなどもう二度としないと誓った。
謹慎が解けないまま梅が咲き、桜が咲いた。
ずっと自宅から出られなかったけれど、神産みの箱に体の一部を捧げることだけは許されたので、私はことしも爪を持っていった。
血はどうしようか迷った。捧げても良いとは言われているが、私に捧げる資格があるかどうかわからない。でも、少しでも償いになればと思い、私はその場で指先を噛んで、流れる血を捧げた。紅飛斗長は何も言わなかった。本当なら命を捧げて贖罪としたかったところだけれど、私を箱は拒んだ。やっぱり人間は生きたままでは入ることができない。
爪と血を箱に食わせたら、すぐに屋敷に連れ戻された。
春が終わり、梅雨となった。
そろそろ次の神様が産まれたことだろう。今度の神様が良い神様であれば、私の謹慎も解けるに違いない。でも、それで前の神様が帰ってくるわけじゃない。私は一生罪を抱えて生きていく。あの優しい神様を殺した罪を。心はずっと晴れないままだった。
梅の実が大きく膨らむ時期となった。しかし、謹慎解除の指示が出ない。
もしや、またもや変わった神様が産まれてしまったのだろうか。前の神様が箱に戻るという前代未聞の出来事があったから、その影響で悪いことがあったのかもしれない……。
ひとり部屋にこもって考えていたら、悪いことばかり想像してしまう。
だから、父がその青年を家に連れてかえってきたときは、きっと旅人か何かだろうと思ったのだ。
ただ、普通の旅人というには、立派な身なりで、たくましい体つきだった。何よりその顔立ちがあまりにも美しいのが気にかかった。この人は誰だろうか。
「あの、失礼ですが、どちらさまでしょうか」
青年はやわらかく微笑んだ。
「わかりませんか」
「は、はい、済みません……」
誰だろう。幼い頃に会ったことがある遠い親戚だろうか。私と同い年ぐらいに見えるけれど。
「箱に血を捧げていただいたから、今度はちゃんと産まれてくることができました。そのおかげで外見も随分と変わったようです。もちろん変わったのは見た目だけではありません。私は力を得て、強い神となりました。もう泣いたりしませんし、きっとあなたを守ってみせます」
驚いて固まる私に、青年は目を細めた。
「ことしもお世話になります。そうそう、私の名前ですけれど、辰といいます。昨年は名乗っていませんでしたよね。あなたのお名前は……やっぱり昨年は教えてもらっていませんでしたね。今年こそ教えてくれますか、私の可愛い人」
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