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最終章 契約終了ってことで

第68話

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ノックすればすぐに返事が帰ってきて、私はゆっくりとドアノブを開く。

ここに来るまでも最後の最後まで迷いは消えることはなかった。

「会うのが遅くなってごめんなさいね、打ち合わせで出ていたの」

由紀恵は足を組むと、ソファーの前を指先した。

「いえ……お時間とって頂きすみません」

私は軽く会釈すると由紀恵の真向かいに座った。座ればすぐに由紀恵が口を開いた。

「あなたがわざわざ時間を取って欲しいというくらいだから、世界のことよね?」

私はスカートの上で掌を握った。

「はい……御堂くんの……イタリア行の件でお話に参りました。

直ぐに由紀恵の瞳がわずかに大きくなった。

「あら、世界から聞いたわけじゃないわよね?」

「はい……たまたま御堂くんの鞄をひっくり返してしまって……その時にイタリア行の件を知りました。御堂くん本人からは……聞いておりませんし私には話さずにこの件をお断りするつもりだと思います。期限は今日まで……ですよね」

「当たりよ。すでに午前中世界に確認したら、この件は丁重においてお断りしてほしいとのことだったわ」

(やっぱり……)

私はトクトクと鳴りだした鼓動を押さえながら口を開く。

「あの、先方にお話は……」

「まだよ。はっきり聞くけど、あなたがこうして世界に内緒で私のところに来たということは、あなたの意志は世界とは違うと思っていいのかしら?」

私は奥歯を噛み締めてから静かに言葉を吐き出した。

「はい……私は御堂くんのいつか……陶器を使ったインテリアを開発しTONTONの新しい主力商品をにしたいという夢を実現してほしいと思っております……私との……交際のせいで夢を……諦めて欲しくありません。ですので……イタリア行の話を進めておいて頂けないでしょうか?……来週までに御堂くんと別れ……ますので」

「……世界にはなんていって別れるつもり?あなたと離れるのだけはどうしても嫌みたいだったわよ。すんなりあの子が別れるかしら?」

「……私は今の仕事を手放すことが出来ません。でも本当に好きな人であれば仕事を辞めてついていく選択肢もあると思うんです。だから……私は御堂くんが思ってくれているほど御堂くんのことを大切に思っているかと問われたら……」

「世界より仕事が大事と答えるつもり?」

「はい……」

「たかが三年よ」

「え?」

「世界が帰って来るまで三年待とうとは思わないの?」

三年待てるかと言われたら不安はあるが待ちたい気持ちが大きい。でも今年三十五歳の私を、三年待たせる側の世界からしたらきっとプレッシャーに感じる、そう思った。世界にはイタリアで私のことで後ろ髪惹かれることなく夢を実現するために、自分のことだけを考えていて欲しい。

由紀恵が瞼を伏せるとふうっと吐息を吐いた。

「……ほんと……真っすぐで心に濁りがなくていつも相手のことばかり優先して……正勝さんにそっくりね」

「えっ……」

その名前に私は思わず声が突いて出た。

(どうして……お父さんの名前……)

「そうよね……驚くわよね。私もあなたを新入社員で入ってきたのを知った時とても驚いたもの」

由紀恵が黙って立ち上がると本棚のガラス戸を開き、中から淡いうすピンクの釉薬のかかった湯飲みを取り出した。

──(えっ……)

「これ、知ってるでしょう?色違いだけれど……あなたが使ってるのとおそろいなのよ」

私は訳が分からず混乱する。

由紀恵が湯飲みの裏側の底を見せると私にそっと手渡した。

見れば、『由紀』と名前が入っている。間違いない、色味は違うが螺旋模様と釉薬の混ざり方が私が使っている正勝の湯呑みと酷似している。

「もう……随分前、私ね、源正勝さんとお付き合いさせて頂いてたの」

「えっ!社長とうちの父が、ですか?」

「えぇ、大学時代の先輩後輩の関係から、いつの間にかお付き合いさせていただくことになって……娘のあなたにこんなこというのはどうかと思うけど……真っすぐで誠実で優しくて、とても好きだったわ。あの人以外生涯好きになれる人なんて現れなかった。本当に溺れたわ……仕事なんてどうでもいいと思ってしまうほどに」

「そんな……こと」

正勝と恋仲だったことにも驚いたが、仕事一筋のイメージしかない由紀恵から仕事などどうでもいいという言葉にドキリとした。

「なに?仕事人間の私のイメージからしたら意外かしら?」

「あ……その……どちらかといえば……意外かなと……」

「正直ね。そう、私も若い時は恋愛至上主義だったのよ。いつからかしらね、TONTONのトップとして自分のすべてをこの会社に捧げるようになったのは」

私は先日病室で桜子から聞いた話を思い出す。桜子とお見合いする前に正勝には好きな人がいたと話していたが恐らくその好きな人が由紀恵だったということだ。

「あと……こう見えて、あなたと世界のこと密かに応援してたのよ」

「えっ?」

思いがけない由紀恵の言葉に私は目を丸くする。

「ふふ……なんだか私と正勝さんを見てるみたいでね……正勝さんもいつもTONTONの社長である私に引け目を感じていて、いつも自分よりも私の気持ちを優先してくれて……三つ年下の私は甘えてばかりだった……交際期間が長くてね、私は結婚するつもりったけれど、社長に就任する前、今の世界と同じで二年間、ロスへマーケティングを学びに留学する機会があって……正勝さんからは二年間も待てないって言われて、こっぴどく振られちゃったのよ」

由紀恵は寂しそうに笑うと私から湯飲みを受け取りタバコに火を点けた。

「今ならわかるわ……私が気兼ねなくロスで勉強できるようにという正勝さんの優しさだったって……でもその時は未熟でと大人になり切れてなくて気づかなかったの。後悔したわよ。だから……ここからは私の独り言だけれど……。ちゃんと世界と話しなさい。あの子は確かにまだ成熟しきってない子供よりの大人だけれど、あなたのことを想う気持ちはきっと誰より強いんじゃないかしら。それはあなただって同じだと思うしね。源課長、人生は一度きりよ。仕事も恋も選んでもバチなんてあたらないのよ、きっとね」
。」

「社長……」

由紀恵は湯飲みにそっと触れると瞼を伏せた。

「最後にこれも独り言」

「え?」

「娘のあなたに言うなんてどうかと思うけど……私がもし人生をやり直すなら、正勝さんには今度こそこう言うわ。私が帰ってくるまで必ず待ってて欲しいとね」

由紀恵はタバコの煙を大きく吸い込み灰皿に押し付けると、緩やかにほほ笑んだ。

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