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第7章 雷雨は恋の記憶と突然に

第54話

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「……ごめん……怖かったね。もう大丈夫だから」

触れられた体がビクンと跳ね上がると同時に、その少し高めの甘い声に涙が止まらなくなる。

「せ……かい……くん?」

「もう何回鍵かけてって言えばかけんの?危ないでしょうが」

世界が毛布から私の顔だけ出るようにすると私の両耳を会話できる程度に掌で覆った。世界のジャケットの袖は滴るほどに濡れている。私はそっと世界に手を伸ばした。

「世界くん……びしょ濡れ……風邪ひいちゃ……」

「あ、道混んでたからタクシーおりた。ごめん、冷たいね」

世界は濡れたジャケットを脱ぐとすぐにまた私の両耳にそっと触れながら体を寄せた。

「心奈とはちゃんと話付けてきた」

「え?」

「だから、何も心配いらない。俺は心奈と婚約もしないし都市開発も予定通りだから……あ、
雷少しずつ遠ざかってるね」

雷の音が徐々に小さくなって、目の前の世界の声とワイシャツから香る世界の匂いに心から安心する。

「梅子さん、雷怖いのに……遅くなってホントごめん」

「世界くん……どして……」

「それはどっちの意味?どうして俺がここに来たか?それとも?」

世界が暗闇の中でまだ僅かに見える雷光を背に唇を持ち上げた。

「……雷……苦手って……怖いこと……どうして知ってるの?」

私が雷が苦手なことは、桜子にすら言ってない。私が雷を嫌いなことを知っているのは──。

「いい加減思い出してよ」

世界が私にコツンと額を当てた。

「え?」

「梅子さん……小さい頃俺に言ったよね、舌打ちは幸せ逃げてくって……」

(小さい頃……?舌打ち……?)

窓の外から聞こえる強い雨と雷の音に混じって、あの日の記憶が引っ張られる。呼び寄せられた記憶の糸と糸が緩やかにつながっていく。

──あれはまだ私が社会人二年目、正勝が死んでから初めて迎える梅雨の時期だった。

たまたま上司の代わりに水道工事店へ一軒急ぎの見積もりを届けた帰り道に私は正勝の月命日だったこともあり、一人見知らぬ公園でブランコに乗っていた。

小さな頃、私はブランコが大好きでいつも将勝が背中を押してくれた正勝の手が私の背中に触れるたびに空に向かって空中歩行しているかのような浮遊感が、まるで自分が空を飛んでいるみたいで心地よかった。

『おい、アンタデカいんだから代われよ』

不意にかけられた言葉に振り向けば、ランドセルを背負った男の子がこちらを睨んでいる。

『えっと……』

たしかに私は大人だから乗りたがる子供がいれば代わってあげるつもりだったが、目の前で私を睨んでいる男の子も私に声をかけてまでブランコに乗りたがるほどの年でもない。

(……デカいって、あなたもべつにチビじゃないじゃない)

男の子は苛立ったように私のブランコの椅子を下から蹴った。

『トロいな、早くしろよ!』

私はブランコの椅子から腰を上げながら男の子を睨みつけた。

『何よっ、あなただって小さいっていうほど小さな子じゃないし、身体だってデカいほうじゃない!』

『うっさ……お説教とか懲り懲りなんすけど……チッ』

ワザと聞こえるようにされた舌打ちに私は大人気なく、男の子の耳を掴んで引っ張り上げた。

『痛ってー!』

『舌打ちすんなっ!ガキンチョめ!それに人様に舌打ちしといて、痛がってんじゃないわよっ!大体ね、舌打ちって一度すると一個幸せ逃げんのよ!分かった?ケツの青いガキンチョが!』

『は?がき……ん?』

切長の目を大きく見開きながら男の子が怪訝な顔をする。

『いい?そのクセやめなさい!幸せもったいないでしょ?分かった?』

腰に手を当てながら父、将勝の格言を披露した私は勝ち誇った笑みを浮かべてから男の子に背を向けた。

『チッ……』

(え?このガキンチョまた舌打ちした?)

振り返れば、男の子が連続でチッチッチッチッっと舌打ちしながら、ブランコを漕ぎ始める。

私はブランコの持ち手を掴むとすぐに男の子の首根っこを捕まえた。

『こらっ。だから舌打ちやめなさいっ!お父さんとお母さんに言いつけるわよ』

その言葉に男の子が私を思い切りに睨み上げた。

『ガキ扱いすんじゃねーよ!それに親いねーから!』

『え?』

『その顔めんど。1ヶ月ほど前に事故で死にました。だから誰も叱る人いないし、俺のことなんて誰も気にしてない。どうでもいいんすよ。ついでにその可哀想って顔に書くのやめてほしいんすけど?』

思ってもみない言葉に私は一瞬言葉に詰まった。それと同時にまだランドセルを背負っているような子供が、両親を亡くしてひとりぼっちで寂しい想いをしていることに、ただ胸が痛くなった。

『……そんな事思ってない……ただ……あなたのこと私はどうでもいいとは思わなかった。だから叱ったの……』

『なんだよ、それ』

『あなたと私は違う人間だから……抱えてるのは違う痛みだし気持ちがわかるなんて言わない。ただ、私も父を事故でなくしたばかりだから……ほんの少しだけだけど寄り添えるっていうか。それに……父は姿が見えなくても今でも私を見守ってくれてると思うし、幸せになって欲しいって心から願ってくれてると思うから。だから……きっとあなたのご両親も、あなたに幸せになってほしいと思うよ。それこそ、世界で一番の幸せ者になって欲しいってきっと……天国から見てるから』


男の子は驚いたような顔をしてから俯いた。そしてポタンと地面を湿らせた小さな丸いモノは男の子から溢れた涙だということに気づく。

呼応するようにすぐに空からも涙がポツポツと降ってくる。

『あ、雨……』

『……こっち』

男の子は私の手を引くと公園の端にある、てんとう虫型の滑り台の中にあるトンネルへと誘導した。こんな小さなトンネルに入るのは子供の頃以来だ。体を折り曲げて真ん中まで進みしゃがみこむ。ポツリポツリと降り出した雨はすぐに土砂降りになる。

『なぁ。さっきは……ありがと……』

三角座りをした男の子がふいにボソリとつぶやいた。

『えっと……全然っ、あ、あなたより大人だし年取ってる分、経験値と知識があるのよっ。また困ったらこの梅子さんがお悩み相談してあげるって……もう会わないね、ごめん』

『うめこ?』

『え?』

小学生の男の子に下の名前を呼ばれただけなのに、小さく鼓動が跳ねた。

『そうよ?梅の花に子供の子』

『なんか、お姫さまみたいな名前だな。覚えとく。ちなみに俺の名前は──』

あの時、あの男の子は何ていう名前だっけ?

『梅子さん……もし、もう一度会えたら──』

雷が止んで虹がかかった空を二人で眺めながら、あの男の子は何て言ってくれたんだっけ?


大事なところだけが聞こえなくて、思い出せなくて、それでも目の前が滲んでいく。私は目の前の世界に向かって両手を伸ばした。


「……思い出した?」

私にそう訊ねてくる世界の声にまた涙は転がって、私は世界の胸元に顔を埋めた。

雷の音が遠くなっていくのと同時に記憶の糸は手繰り寄せられてあの日と今がひとつになる。

どうして忘れていたんだろう。
どうして今まで気づかなかったんだろうか。
あの日のことを。
世界が約束してくれたあのことを。
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