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第3章 揺れる心と戸惑う想い

第11話

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(はぁ……頭いてぇ)

前髪を握りながら俺は見積課の扉をあとにすると、言われた通りエレベーターに乗り、最上階の10階のボタンを押した。ガラス張りのエレベーターはあっという間にテッペンへと辿り着き、扉が開けばすぐに俺は社長室へと真っすぐに向かっていく。

(大事な話ってなんだよ、さっさと切りやがって)

伯母であり社長である由紀恵と俺との関係はひどく曖昧だ。由紀恵は俺の母親、香奈恵かなえの実姉でTONTON株式会社創始者である俺のひい爺さんである陶山翔太郎とうやましょうたろうの孫娘だ。そして俺の祖父である陶山倫太郎とうやまりんたろうの娘にあたる。病弱だった倫太郎には跡継ぎとなるべく男子に恵まれず倫太郎の死後、創業時から同族経営を続けてきた陶山家は、由紀恵と香奈恵の二人のうち長女である由紀恵を社長に就任させ現在に至る。

俺は両親の死後、由紀恵の庇護のもと何不自由なく育てられたが、幼い時から会社の為ならどんな犠牲もいとわない由紀恵の経営のやり方が好きではない。

(あの完璧冷徹女に会うと思うと、ため息しかでねぇな)

ただ由紀恵は女でありながら、男顔負けの並外れた経営力で社長に就任して以来、革新的な商品開発と並行して同業他社の買収をすすめ、わが社の衛生陶器の販売実績は世界トップシェアを誇る。

(いつか……俺がこの会社を動かしてやる)

──コンコン

「どうぞ」

聞きなれた冷たい声が返ってきてから社長室の扉を開け、中へと入る。そして俺は社長の横に立っている人物を見つけると頬が引きつった。

「世界ーっ」

甘ったるい声と共に心奈の腕があっという間に右腕に絡みついてくる。俺は黙ったまま黒革の椅子に腰かけ、背筋をピンと伸ばしている伯母である由紀恵の前まで歩くと、軽くお辞儀をした。

「会うのは久しぶりね、世界」

「はい、ボスもおかわりないようで」

「ボスね……ところで一人暮らしはどう?あの屋敷がそんなに窮屈だったかしら?」

ゆるくパーマを当てた短い髪をかき上げながら由紀恵がタバコに火をつけた。

「タバコやめないんすか?」

俺はあからさまに眉を顰めると、由紀恵のを睨みつけた。

「なに?嫌そうね」

「当たり前ですよね。父さんと母さん……ボスの妹が……あんな事故で死んだのによくタバコ吸えますよね」

「えっ……」

隣の心奈が小さく声を漏らした。

「心奈さんはご存じないのね……。あれは本当に不運で許せない事故だったわ……運転しながらタバコを吸おうとよそ見をしたせいで対向車線をはみ出し香奈恵達の車と接触した。相手は生涯刑務所から出てこれないとはいえ、私だっていまだに辛いわ」

「……そうだったんですね……」

俺は左手をきつく握りしめた。俺の握りしめた拳を見ながら由紀恵は肺いっぱいにニコチンを吸い込むと、俺と一瞬だけ目を合わせてから横を向いて煙を吐き出した。

「世界、でももう十年よ。タバコくらい自由に吸わせてちょうだい。で、今日あなたを呼び出したのは正式に花田心奈さんと婚約の話が持ち上がってる。すでに心奈さんのお父様とは話がついているし、心奈さんもあなたを公私共に支えたいと言ってくださってるの。ね、心奈さん」

「はい。ふつつかものですが、精一杯世界さんを支えたいと思ってます。ってことで、世界宜しくね」

心奈はにっこり微笑むと俺の右腕に絡ませている両腕にさらに力を込めた。

「ちょ、何勝手に……」

「あら素敵なお嬢さんじゃない、何か不満でも?」

「あるに決まってんだろっ、勝手に決めんなよな!」

「もう、世界、恥ずかしがらないでよー」

心奈が甘ったるい声を俺に向ける。

「恥ずかしがってねぇよ!」

嫌悪感を露わにした俺を気にも留めずに、心奈がクスクスと笑うと由紀恵に向かって甘えた声をだした。

「陶山社長、パパとのあの話、世界にしてもらってもいいですか?」

(あの話……?)

心奈が上機嫌な時は特に話がややこしいことが多い。さらには今回は俺と心奈の結婚の話についてだ。今までは俺たちのことは心奈の父とボスの間で勝手に決めた許嫁ということで曖昧にしてきたが、正式に婚約となると重みがまるで違う。

(心奈と結婚なんてしてたまるか)

由紀恵は短くなったタバコの火を消すと、デスクから書類の束を取り出した。

「そうね、その話をすれば世界もきっと分かってくれるわね」

「おい、二人して何考えてんのかわかんないしどうでもいいけど、俺、真剣に付き合ってる人いるから」

「えっ!世界どうゆうことなのっ!誰なのっ!」

心奈が大きな瞳を見開くと俺を見上げながら、すぐにネイルの施された綺麗な手で俺の胸元をきつく握りしめた。

「痛ぇな。心奈、離せよっ」

睨む俺から心奈は視線を外さない。俺は無理やり心奈の腕を掴むと強引に引き離した。

「世界、お相手はどなたかしら?」

先ほどよりワントーン下がった声色で由紀恵が訊ねる。
俺は下唇を湿らせた。

「同じ会社で上司の……見積課の源梅子さんです。以前お会いしたことがありましたが偶然再会して、今、交際させていただいてます」

この場で梅子の名前を出すのがいいのか不安が迷ったが、いま相手の名前をちゃんと出さなければ、婚約が勝手にひとり歩きしそうで俺は正直に話した。
呆然と俺を見上げていた心奈が、大きな瞳をきゅっと細める。

「嘘っ!世界なんでよっ!その人、経理の先輩から聞いたけど、世界より随分年上じゃないっ!おばさんじゃないっ」

「俺は年なんて気にならない。だから梅子さんはおばさんじゃない。それに俺、まだ仕事一緒にさせてもらって間がないけど、梅子さんの仕事への取り組み方は見習うべきところがたくさんある。何よりこの会社の為にいつも一生懸命で、仕事に対してもいつだって真摯に向き合う姿勢を尊敬してる」

「何よそれっ!世界どうしちゃったの!今まで年上の女の人なんて見向きもしなかったくせにっ!」

「そうだよ。今まで恋愛対象はずっと年の近い子ばっかだったけど、今までの相手と梅子さんは違うから」

「世界いいかげんにしてっ」

もう一度俺の腕を掴みかけた心奈の手を俺は雑に振り払う。

「心奈には関係ないから」

冷たく言い放った俺の言葉に心奈の目じりにうっすらと涙が滲むのが分かった。由紀恵が俺に当てつけるようにため息を吐いた。

「……心奈さん、世界には私からあの件も踏まえて言い聞かせますので、二人きりにしてくださるかしら」

「陶山社長……私……」

「大丈夫よ、私に任せてくれるかしら?のちほど秘書から連絡させます」

心奈は小さく頷くと少し俯きながら社長室の扉をに向かう。心奈が部屋から出ていき、足音が小さくなるのを確認してから由紀恵が二本目のタバコを咥えた。

「……見積課の源梅子課長ね……」

由紀恵は、ひとりごとのように梅子の名前を呟くとタバコの灰を灰皿に落としながら、俺にデスクの引き出しから図面を差し出した。

「世界。今度、駅前の都市開発で大型商業施設の建設が決まったの。以前メールした件だと言えばわかるかしら」

「都市開発……」

確か見積課に配属された金曜日の夜だ。

梅子と電車に乗っていた時に、由紀恵から急遽商品開発の件でロスへの出張が決まった件と合わせて都市開発計画についての簡単な概要と企画書が送られてきたことを思い出す。

俺は黙って頷いた。

「それに伴って心奈さんのお父様の会社である花田不動産が駅から徒歩十分の好立地にタワーマンションを2棟建設することになっててうちの水回り品、すなわちトイレ、ユニットバス、化粧台、システムキッチンを全千戸に納品予定なの」

「…………」

(めんどくせぇ言い方)

「ただし花田社長は一人娘の心奈さんを溺愛していてね。娘の願いはなんでも叶えてあげたいそうよ……ここまで言えば勘のいいあなたならわかるかと思うのだけど?」

俺は下唇を噛み締めた。

「まさかボスから……でかい仕事の為に好きでもない女と婚約してくれって言われるとは思いもよらなかったです」

由紀恵は大きな指輪がついた人差し指で俺を指した。

「そうはいうけど、あなたは高校生の時、心奈さんとお付き合いしてたじゃない。家柄も間違いないし、可愛らしい方よ。私は大賛成ね」

「勝手に決めんなよ。さっきも言いましたけど、今源課長とお付き合いさせていただいてるんで」

「適当なところで別れなさいね」

「は?」

「別に今、世界が源と付き合っていてもかまわない。ただいずれ関係を清算して心奈さんと婚約してもらいます。何度も言うけど、とても大きな都市開発事業で何十億、何百億っていうお金が動くのよ。父の遺言通りいずれこの会社をあなたに譲ってあげる。ただし私があなたの後見人である以上、結婚相手は見定めさせてもらうわ」

俺は図面にざっと目を通すと、由紀恵の前に放り投げた。

「俺の気持ちは変わらない。結婚相手は梅子さんしかいないと思ってる。それに今まで親代わりとして衣食住の面倒見てもらったのはありがたく思ってますけど、俺はアンタの私物じゃない。あと譲ってもらわなくても俺、実力で社長の座貰います」

「あら、どうやって?」

由紀恵が楽しげに色のついた唇を引き上げた。

「俺、この会社の筆頭株主なの知ってますよね?父さんと母さんが遺してくれた遺産で主力商品である衛生陶器と並ぶ商品を開発して、今のうちの売り上げの倍達成してみせます。それに伴いアンタの社長の任期満了に合わせて株主総会で不信任決議をだし、次の社長候補として上役に俺を立ててもらう。知ってると思うけど、なんだかんだ陶山の古い上役は、考え方も古いから陶山家直系の男子を今すぐにでも社長に据えたがってる。ボスも知ってんでしょ」

由紀恵が今度は俺に向かって煙を吐き出しながら、頬杖を突いた。

「少しほったらかしていた間に、随分しつけが必要になったのね」

「俺はアンタの飼い犬じゃないから」

「そんなにあの源にこだわるのはなぜ?」

「ボスには言う必要ない。ただ……俺は彼女が運命の人だと思ってる」

「運命ね……そんなもの信じてるなんてまだまだ子どもね」

由紀恵はタバコの火を消すと冷たい視線を俺に向ける。

「とりあえず、心奈さんのご機嫌取りしなさい。さもなければ源を課長から降格させるわ」

「なんだよっ、それ!」

「新入社員で直属の部下、さらには陶山の跡取りであるあなたに色目をつかうなど降格してしかるべき案件でしょう?いい?世界、これはビジネスよ。源と別れて。そして都市開発のプロジェクトが落ち着くまで一時的に心奈さんと婚約してもらう。いいわね?」

俺は奥歯を噛み締めた。一時的、とつけたのは由紀恵の最大限の俺への譲歩だ。ようはプロジェクトが落ち着くまで心奈のご機嫌をとり、ある程度で手を引いてもかまわないということ。

(でも俺は……一時的でも心奈と婚約などありえない。梅子さんと別れるなんて絶対に嫌だ)

「婚約については今すぐ返事はできない。ただ心奈の機嫌は取るから梅子さんには何もしないで欲しい」

「ふ……今日のところはそれでいいわ。私はプロジェクトが成功できればそれでいいから」

俺は一礼すると無言で社長室をあとにする。

(くそっ……いらいらすんな)

エレベーターのボタンを押しながら思わず舌打ちしそうになって俺はあわてて口元を覆う。

「……舌打ちは……幸せが逃げてくんだよな……梅子さん」

エレベーターをおり通路の窓から空を見上げれば、朝は晴れ渡っていた青空が曇天に変わっていた。

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